2022年12月19日月曜日

カタリイナ永俊⑨

鹿児島キリシタン崩れ

 「かご嶋」「せんだい」二つの親組(おやくみ)からなる鹿児島のキリシタン組織は、少なくとも1632年(寛永9)夏まで機能した。それが、一連の崩壊事件を引き起こすきっかけとなったのは同年(1632)暮れ、「寛永9年極月7日」付けで江戸詰家老・伊勢貞昌から種子島左近太夫(忠清)宛てに発信された藩主・島津家久のカタリイナ永俊に対する遠島処分決定の通知であった(註1)

 処分は1年2ヶ月後の寛永11年(1634)2月に実施されたが、その間、鹿児島で「(きりしたん)宗門改(しゅうもんあらため)」があり、藩主の馬術指南・矢野主膳とその「内之者(家臣)」がキリシタンであることが発覚した(註2)。その宗門改め帳「日記」によると、主膳父子は「相はづれ」、「内之者(家臣)皆南蛮宗へ名を書き載せ」られていたため、伊勢貞昌が矢野に問うたところ、主膳は「先年長崎から帰参した時、彼の宗をころび申した」と言う。さらに問い詰めたところ、「鹿児島の町のしゆあん(上山)又左衛門尉」の所に「筆者仕り罷り居る小三郎と申す者」が「明石掃部の子」であること。上山「又左衛門も立野(カタリイナ永俊)の御内者」であることなどを「内意に」「いかにもおんみつ(隠密)に」告白した、というのだ(註3)

 これはキリシタン史で「訴人(そにん)」と呼ばれるもので、今様に言えば内部告発である。カタリイナの処分決定と、鹿児島での宗門改めで家臣のキリシタンであることが露見したことを受け、窮地に立たされた主膳の告発行為であったと思われる。当時、幕府はキリシタン摘発のため報償金をもって訴人を誘導していたので、主膳のそれも報償金目当てであったかもしれない(註4)

 これにより、江戸に上がっていた矢野も鹿児島に戻され、3年後、子息とともに処刑される。一方、明石掃部の子・小三郎は、幕府がかねてから捜索していたお尋ね者であり、捕らえられて京都所司代・板倉重宗に引き渡された。しゆあん(寿庵)上山又左衛門は入牢処分となったらしい(註5)。彼又左衛門は「かご嶋貴理志端衆中」の組親(くみおや)として、長年にわたり仲間の相互扶助や洗礼、諸集会、死者の葬礼など一切の世話をしてきた人物であり、そのような組頭を失うことが過酷な迫害下にあるキリシタンにとって致命的であるのは言うまでもないことである。

崩れ事件の背景

 鹿児島の崩れ事件が1632年(寛永9)に始まる(註6)その背景として考えられるのは、これらのキリシタン組織を支えていたイエズス会の日本に於ける布教活動が、1632年の時点で限界に達していたことが上げられるであろう。潜伏司祭(宣教師)がいなくなったか、もしくはその活動が停止状態に陥った、ということである(註7)

 鹿児島のキリシタン組織は、イエズス会の年度報告にあるように、高来(島原半島=旧有馬晴信の領内)から定期的に司祭またはその代理者が派遣され、司牧活動がおこなわれていた(註7)。高来に最後まで残った司祭はマテウス・デ・コウロス神父とジアコモ・アントニオ・ジアノネ神父であるが、高来の深江にいたコウロス師は1632年、高来の有家(ありえ)を経て天草に逃れ、さらに秘かに京都に辿り着いたが最期、伏見で亡くなった。一方のジアノネ神父は1633年、捕らえられて島原で処刑された(註8)。

 また、イエズス会が日本で布教活動を展開する上で、最も重要な役職にいたのがプロクラドールと呼ばれる会計係であった。その最後のプラクラドールはマノエル・ボルジェスであり、彼は九州で高来に次いで組織された他の一つのコングレガチオがある豊後国の南郡(なんぐん)に潜伏していたが、1633年、他の二人の修道士とともに捕縛され、長崎で殉教した(註9)。これらの神父と鹿児島・川内の上山又左衛門ら9人の組親たちは秘かに連絡を取り合っていたのであるが、なかでも1632年(寛永9)コウロス神父がいなくなったことは、組織崩壊・信仰崩壊の大きな要因となったに違いない。「1624年」(年報)の時点で島津氏役人の前で勇敢に信仰を告白したカタリイナ永俊が1632年(寛永9)、藩主から届けられた遠島処分をそのまま受け入れたのは、ある面、理解しがたいが、イエズス会の組織的潜伏活動が終焉を迎え、その後ろ盾を失ったとすれば、謎が解ける。

藩主家久もキリシタン事情を知っていた

 一方、藩主島津家久が「南蛮宗之御沙汰」として「立野の儀、種子島へ堪忍(かんにん)有るべく由、仰せられ(た)」のは、もちろんカタリイナの事情に通じていた娘マルタ妙身の夫――隠れキリシタンの家老職・喜入忠政と熟談の上でのことであった。それは、そこに至る何年も以前からの懸案事項であったし、いずれは処断しなければならない事案であった。他人からの告発や「訴人」があれば、一般のキリシタン同様、入獄・断罪となる問題であるのに、「薩州様(光久公)の御祖母様の儀に御座候間」、可能な限りの配慮をもって出されたのが「種子島へ堪忍」の処置であった。種子島へ護送される直前の「寛永11年(1634)2月11日」、伊勢貞昌ら4家老が連署して種子島左近大夫に宛てた書状には、「然れば其地に永春尼逼塞(ひっそく)なされ候」と表記されている。「逼塞」とは「①落ちぶれ、世間へ出られないこと。②江戸時代、武士や僧侶に科した刑の名。50日または30日間閉門して昼間の出入りを禁じたもの」(古語辞典)であり、また、弾圧に対処するため「潜伏」し「かくれ」たキリシタンたちが取った行為でもあった(註10。遠島・幽閉ではなく「堪忍・逼塞」という処断は、カタリナ永俊の信仰を配慮した藩主家久の最大の温情であり、宥恕(ゆうじょ)であった、とも言えるであろう。

 追って翌寛永12年(1633)2月、カタリイナの愛娘で喜入夫人となっていたマルタ妙身と、その娘・於満津(有馬直純の娘)、於津留も「宗門の事に坐し」、翌「寛永13年(1634)丙子4月、種子島に追放され」、「6月26日、石之峯に抵(いた)」り、後「井ノ上に移」された。慶安2年(1649)カタリイナ死去、75歳。万治3年(1660)マルタ妙身死去、67歳。元禄10年(1697)於津留死去、77歳。理由は分からないが「於満津は密かに連れ戻され、島津久茂の許に帰り、天寿を全うした」(註11)と言う。「喜入氏系図」は「於満津…宝永3丙戌3月7日没ス、年95、正建寺(鹿児島)に葬ル」と伝えている。 (おわり)

【写真】カタリイナ永俊と有馬・小西・島津諸氏関系図(宮本作成)

 

註1】…同書状について「島津家本旧記雑録後編八八」は、後年編者がカッコ付けで「寛永12年」としているが、これを直接受け取った種子島家の「種子島家譜」は「寛永9年極月7日、依南蛮宗之事伊勢貞昌之書翰記干左」と日付・説明書きを添えて記録している。茂野幽考著『薩摩切支丹史料集成』(1966年刊)189頁。

註2】…踏み絵による「宗門改め」は寛永6年から長崎で始まり、肥後・鹿児島・九州一円に及んだ(「唐通詞答書」)。寛永10年(1633)肥後天草高浜村に於ける記録(高浜村旧庄屋上田家文書「きりしたん転び申書物の事」)があり、この頃、鹿児島でも実施されたと考えられる。

註3】…この書状は「寛永10年9月19日」付けで江戸家老・伊勢貞昌が「(藩主)家久の命を奉じて窃かに国家老宛て書き贈った」ものであった(1985『鹿児島史料旧記雑録後編五』鹿児島県歴史資料センター黎明館、383~386頁)。

註4】…矢野主膳のキリシタン入信の説として、「宗門に成り候へば金子貰ひ候由に付、是非無く右宗門に成り候」というのがある(「薩藩叢書第三編・薩藩旧伝集『三暁庵主談話』)。

註5】…しゆあん上山又左衛門の最期は不明(史料筆者未見)である。

註6】…一般に、カタリイナ永俊の種子島遠島は寛永10年(1633)の矢野主膳の訴人を伝える江戸家老伊勢貞昌の国家老宛書状から説明されることが多いが、永俊の藩主家久による処分決定はそれ以前(寛永9年)のことである。【註1】参照。

註7】…たとえば、踏み絵を踏んで転んだキリシタンが立ち上がる再改宗のための「ゆるしの秘蹟」、信仰生命の維持に欠かせない「ご聖体の秘蹟」に与るには、司祭の介在が必要であった。

註8】…結城了悟「パードレ・ジアコモ・アントニオ・ジアノネS.J.」(1986『キリシタン研究第26輯』)。

註9】…レオン・パジェス『日本切支丹宗門史・下』247~248頁の(註)「この神父は12年刊に立派な仕事を成し就げた。彼は(豊後の)山間で匿われていた他の神父たちの会計係であった。」(261頁)。

註10】…ジアノネ神父が1621年、高来の折木(おりき)で組織した信心会「さんたまりやの御組」の掟(おきて=規則)に、「その務めに付て、ひっそく肝要たるべし」とある。「逼塞(ひっそく)」とは「世間から姿を消す」「忍び隠れる」の意味である。幕府の禁教令に対するため、イエズス会は「ひっそく」の方針を打ち出した(「1615ー16年度年報」)。拙稿「嶋原キリシタン史発掘㊵」(島原新聞2010年6月19日付記事)参照。

註11】…末永俊英氏稿「枕崎の殿様・喜入氏を探る」。

  

2022年12月15日木曜日

カタリイナ永俊⑧

 ■薩摩とイエズス会

 さて、ここまで見てくると、1609年(慶長14)、ドミニコ修道会が薩摩から追放された直後、カタリイナ永俊・島津忠清夫妻を鹿児島に呼び寄せ、その10年後(1620年)、カタリイナが薩摩国の「かご嶋」「せんたい」二つのコンフラリア信心会の「中心」となって、半ば潜伏しながら禁教時代におけるキリスト教布教を展開したイエズス会の意図が、ある程度洞察されるであろう。1614年(慶長19)禁教令が敷かれ、弾圧と国外追放を余儀なくされながら、それでも秘密の地下活動をコングレガチオ・コンフラリア組織を中心として(註1)模索しなければならなかった彼らにとって、薩摩はマカオとの連絡を取る上で欠かすことのできない中継地であり、宣教師を安全に送り出し、あるいは迎えて保護し匿うためのキリシタン組織を形成しなければならない土地であった(註2)

 1614年11月、長崎から二隻の船でキリシタン・宣教師らが国外追放された直後、1615年(元和1)に薩摩藩は矢野主膳なる人物を「南蛮船対策」の目的で長崎に送ったことがあった(註3)。彼がそこで何をしたのか、半ば謎に包まれているが、結果的に彼はそこでキリシタンとなり、その後、1624年(寛永1)頃、江戸に上がっている。寛永10年(1633)の証言によると、彼はカタリイナや、彼女が匿っている明石掃部の子・小三郎のことを承知していたのであり、薩摩キリシタンの一類であった。また、明石掃部子小三郎が「有馬から来た」(註4)とも証言しているので、「南蛮船対策」――実はその受け入れ対策であった――のみならず、国内にいるキリシタン浪人たちが薩摩に侵入するための便宜を図っていたのは事実である。

 これと関連することであるが、2010年、鹿児島鶴丸城跡発掘出土遺物の中に長崎の教会で使用された「花十字紋瓦」と同じものが含まれていたことが確認され、話題になったことがある。その鋳型は長崎出土の数種の花十字紋瓦の中の一つと同型であることから、鹿児島のカタリイナ永俊の関係者が、長崎に派遣されていた矢野主膳らと連絡して、長崎の教会の取り壊しによって廃棄された同瓦を移入したものであるにちがいない(註5)

【写真】同鋳型の鹿児島鶴丸城跡出土「花十字紋瓦」(左)と長崎サント・ドミンゴ教会跡出土「花十字紋瓦」(右)。

 また、喜入忠政とマルタ妙身との結婚について、筆者は「イエズス会の生き残りのための意図があった」と述べたが、喜入忠政本人は島津家の家老として鹿児島城内の屋敷に住みながら、彼の領地であった「鹿籠(かご=現枕崎市)」の田代氏ら家臣らと連絡を取り合い、宣教師らの密入国を〃安全に〃取り締まる任務をこなす必要があった。それはまた、薩摩半島の穎姪(えい)、河名部(川辺)、串木野、川内にある二つのコンフラリア組織とも連携してなされたことであり、その海の玄関にあたる重要地の領主としての喜入忠政にマルタ妙身が嫁いだというのは、母カタリイナとともにイエズス会の意図があってのことであろう。そして、喜入氏のそのような任務が重要であればあるほど、母カタリイナはキリシタンとして最も信頼のある実の娘――小西行長の遺児でもあるマルタを抜擢し、喜入氏に嫁がせたのであり、この母と娘の信仰的紐帯のもと、カタリイナを中心とする鹿児島の信心会「貴理志端(キリシタン)中」が運営された、ということである。

 そうであれば、喜入忠政かくれキリシタン説は――これを証明するのは困難であろうが――現実味を帯びて浮かび上がってくる。(つづく)

【写真】キリシタン時代の九州地図(部分)、日本の最南端・薩摩国はマカオ、マニラと連絡する最短位置にあり、弾圧時代、宣教師密入国の基地的役割を果たした。

註1】…一般の信心会コンフラリアが現地教区に所属するのに対し、コングレガチオはローマ本部に直属する精鋭会員の信心会であった。日本では1603年、有馬のセミナリヨに創設され、その後、豊後の「なんぐん(南郡)」にも組織された。H.チースリク著『キリシタンの心』(聖母の騎士社1996)436-437頁。筆者の「花久留守―キリシタン史研究ブログ」2018年6月22日付「欧文史料で読み解く豊後宇目のるいさ―付記②―」参照。

註2】…結城了悟氏は著書『鹿児島のキリシタン』「9港の冒険」で「1614年の追放後、…多数の宣教師が日本に戻ってくることができたが、…上陸しても日本にふみ留まっていた宣教師と連絡をとることは容易な業ではなかった。その為には生命を賭ける覚悟のある人々の協力が必要であった。…薩摩の諸港、ザビエルの経路という栄誉に輝くそれらの港においては、この英雄的な所業が再三にくり返された。」と述べている。

註3】…薩藩史料「元和6年閏12月29日付喜入忠政・伊勢貞昌連署状」に、「南蛮舟之儀ニ付北条土佐守殿・矢野主膳正殿長崎ヘ被相越…」とある。『鹿大史学12号』(1969)掲載「五味克夫・矢野主膳と永俊尼」。

註4】…「寛永10年9月19日付、江戸家老伊勢貞昌の国家老宛書状」に「然者主膳…内意ニ被申候…いかにもおんミつにて被申候、町ニ罷居候しゆあん又左衛門尉所へ筆者仕候而罷居候小三郎…あかし掃部子にて候よし…従大坂いつかたへ参、又御国へ参候様子共、此中御国へ罷居候つる儀細々御問付候て、早々此方へ可被成御申候、主膳被申候ハ、有馬より御国へハ参たる由…」とある(『鹿児島県資料旧記雑録後編・五』1985年鹿児島県歴史資料センター黎明館発行、383-386頁)。

註5】…鹿児島城に、長崎教会原案(もしくは由来)の花十字紋瓦を使用した建築物が存在するのは、長崎および高来(島原)との交流網を有していたカタリイナ永俊との関係以外では考えられない。その時期は、カタリイナが鹿児島に入った1609年以降、彼女が鹿児島においてキリシタン宗団の「中心」になる禁教令(1604年)以後のことであるので、長崎で廃棄された「花十字紋瓦」を移入したものであろう。

2022年12月13日火曜日

カタリイナ永俊⑦

 ■薩摩国キリシタン信心会の「中心」として

 1624年(寛永1)、鹿児島を訪れたイエズス会の一神父は、カタリイナ永俊が「薩摩でキリシタンの中心になっていた」と報告している(「1624年度年報」)。それは、彼女が薩摩国におけるキリシタン信者の組織・コンフラリア(信心会)の中心者であった、ということであろう(註1)。

 1617年(元和3)の「コウロス徴収文書」によると、当時、薩摩国には二つのキリシタンの組(くみ)が存在していた。一つは「かご嶋貴理志端衆中」、他の一つは「せんたい貴理志端中」である。前者は「鹿児嶋、穎姪(えい)、河名部村」の三地域を包含し、鹿児島に「上山又左衛門、山岡喜兵衛、平九兵衛」、穎姪郡に「大迫久兵衛、宮崎茂左衛門」、河名部村に「是枝善兵衛」の各「組親」がいた。一方、後者の「せんたい(川内)キリシタン中」は「串木野、せんたい(川内)」地域にあり、串木野は「村田勝左衛門」、川内は「石屋五左衛門、結方徳右衛門」が「組親」として名を連ねている。

 日本語で「組(くみ)」または「中(なか)」と称されたキリシタンの信心会(コンフラリア)は、50人前後で構成される「小組」を最小単位として、それが幾つか集合して「大組」をつくり、さらに地域ごと大組がいくつか集まってその地域名を付す組(中)を形成した(註2)。薩摩国で言うと、1617年コウロス文書に出てくる「かご嶋貴理志端衆中」と「せんたい貴理志端中」がそれである。組親として合計9人が名前を連ねているが、その筆頭者である「かご嶋貴理志端衆中」の「(寿庵)上山又左衛門」は、薩摩国を代表する組親の中の組親であったと思われる。それより5年前の「1612年度年報」によると、彼は鹿児島の町に住んでいる「信仰心のあついキリシタン」として記録され、「日曜や聖人の祝日」には家の祭壇に「聖杯(カリス)の形の香炉や蝋燭を置いて」集会をもち、「神に祈りを捧げて」いた(註3)

 こうして組織され運営されていた薩摩国の二つの地域名をもつ信心会は、このあとカタリイナ永俊を「中心」とする組織へと移行し(註4)、最後は1632年(寛永9年)から始まる一連の薩摩キリシタン崩れ事件に至ることとなる。

カタリイナ永俊とマルタ妙身―その信仰的紐帯

 1609年12月、夫島津忠清とともに一女一男を伴い鹿児島に入ったカタリイナ永俊が、鹿児島キリシタン信心会を束ねる中心に就いたのは、1619-20年の頃であったと思われる。根拠は二つある。ひとつは夫島津忠清が1620年に亡くなり、カタリイナがこの時期、二の丸から冷水町の屋敷に移ったこと。もう一つは、娘マルタ妙身(小西行長の遺児)が1619年頃、喜入忠政と結ばれ鹿児島に来たことである(註5)。とくに、娘マルタ妙身が忠政に嫁いで来鹿したことは、母カタリイナのみならず、鹿児島のキリシタンたちにとって意味あるものであった(後述)。

 述べたようにマルタは1611年、前夫・有馬直純が家康に屈して国姫(家康の曾孫女)を新夫人としたため離縁を余儀なくされ、「有馬から遠い長崎近く(千々石)」の山中に追放された。その上、周りからしつこく再縁を迫られたが、彼女は「(そうして)デウスを傷つけるよりは、日本から脱出して極度の貧困にも耐える決意でいた。そして、栄えある死の準備をしていた」」ほどの、篤い信仰の持ち主であった。そのようなマルタ妙身が喜入忠政と結ばれたのは、他ならぬ母カタリイナ永俊の紹介と勧めがあったからにちがいない。つまりは、母カタリイナが娘マルタを鹿児島に呼び寄せたのである。重ねて言うが、彼女は〃小西行長の遺児〃であった。

 時に1620年、元和のキリシタン迫害が過酷を極めた時代であり、カタリイナ永俊が鹿児島キリシタン組織コンフラリアの中心(柱)に上げられ、彼らの「庇護者」としての使命を果たす為にも――ひとつには、夫島津忠清との間に生まれた娘(桂安)が国主・島津家久の後室となり、2代目藩主光久を生んだ事が伏線としてあった。それに加え――家老喜入忠政をキリシタンの理解者、陰の支援者として取り込む必要があったと考えられる。それはまた、日本布教で窮地に立たされたイエズス会としての生き残り策でもあっただろうし、そうした意図の下でのマルタ妙身と喜入忠政の結婚であった。

 あの困難な時代に多くのキリシタン浪人を抱え、半ば隠れ、半ば顕れるかたちで鹿児島のキリシタン地下組織を維持した背景として、小西・有馬両キリシタン大名にかかる母娘――カタリイナ永俊とマルタ妙身母娘の信仰的紐帯があったことを記しておきたい。(つづく)

【写真】カタリイナ永俊(右)とマルタ妙身(左)の墓碑、種子島に母娘肩を並べて佇む

註1】…結城了悟氏は著書『鹿児島のキリシタン』で「Jap-Sin」版の1624年度年報を紹介し、カタリイナが「彼らの柱となり、庇護者となっていた」としている。

註2】…1617年ジェロニモ・ロドリゲスが創設した『御上天のさんたまりやの御組』の掟(おきて)にコンフラリアの組織が詳しく解説されている。キリシタン文化研究会編『キリシタン研究第二輯』(1944年発行)109~120頁。

註3】…「1613年1月12日付、長崎発信、ジョアン・ロドリーゲス・ジランのイエズス会総長宛、1612年度日本年報」(『16-7世紀イエズス会日本報告集ⅡーⅠ』287頁~88頁)。「マテウス・デ・コウロス、長崎1613年1月13日発信」Jap-Sin57,93v.

註4】…薩藩史料「旧記雑録」のうち「寛永10年9月19日付、江戸家老伊勢貞昌の国家老宛書状」に、「しゆあん(上山)又左衛門もたて野(永俊)の御内者にて候よし…」とある(『鹿児島県史料旧記雑録後編五』1985鹿児島県歴史資料センター黎明館発行、383-386頁)。これによって、カタリイナ永俊がコンフラリア組織「薩摩キリシタン中」の中心者になっていたことが理解される。

註5】…喜入忠政の最初の夫人(伊集院抱節の娘)が1619年、忠政49歳の時に亡くなった。また、忠政とマルタ妙身との間の娘・御鶴(津留)が元和7年(1621)に生まれている。以上により、忠政とマルタ妙身の結婚は1619-20年頃と想定される。

2022年12月3日土曜日

カタリイナ永俊⑥

  ここから後編として、薩摩国鹿児島藩時代のカタリイナ永俊について述べたい。

喜入忠政のこと

 島津家本「旧記雑録後編六四」によると、カタリイナ永俊が夫島津忠清(1571-1645)とともに一女(11歳=桂安)一男(7歳)を伴い薩州鹿児府に赴いたのは「慶長14年(1609)12月3日」のことであった。その半年以前(1609年春)、薩摩国川内京泊を拠点に布教を展開していた托鉢修道会の一派・ドミニコ修道会が薩摩国から追放され、長崎に避難しているので、両者には何らかの因果関係があると思われる。島津忠清・カタリイナ夫妻が長崎を経由して鹿児島に戻った直後(註1)、有馬晴信は長崎港沖で黒船マドレ・デ・デッサ・セニューラ・ダ・グラッサ号を撃沈した。それは晴信がイエズス会と謀り、鍋島領藤津郡―ドミニコ会が1606年、三つの教会を建て進出したところ―を奪回するための作戦でもあったが、このあと岡本大八への賄賂、さらには長崎奉行暗殺計画が暴露されるに至り、計画は挫折した。晴信は甲斐国初鹿野丸林で処刑され、その過程で息子・直純は正妻マルタ(妙身)と離縁し、家康から提示された孫娘・国姫と結婚した。述べたように、1612年度イエズス会日本年報はマルタ(妙身)が島原半島北西に位置する千々石(ちぢわ)の山中に追放され「藁小屋の中に置かれた」と伝えている。

 晴信処刑事件のあと1614年1月(慶長18年12月)、幕府はキリスト教禁止令を発布し、同年11月、キリシタン・宣教師らを国外に追放した。有馬氏もまた同年7月、長年住み慣れた故郷高来(島原半島)から追放され、日向国縣(あがた)に移った。有馬氏の旧領高来は、晴信がイエズス会とともに30年余りかけてキリスト教教化政策を推進し、全住民がキリシタンとなっていた。幕府がこの地に遺されたキリシタンの一掃作戦に着手したのは、大追放事件直後の1614年11月下旬である。「(幕吏)山口勘兵衞直友は長崎奉行長谷川左兵衛と謀り、肥前・薩摩の兵一万を徴して有馬に赴いた」(註2)。この時、薩摩から派遣されたのが、のちにマルタ妙身を後妻に迎えることになる喜入忠政である。「忠政は家臣・田代内記清友、田代三右衛門清方、酒匂源兵衛、松元平兵衛らを率いて長崎に赴き、山口直友の下に属してその命を聞き軍功を立てた。」とされるが、その際、不思議な行動を取った。「薩摩兵は海岸に沿って東に向かい、三会・島原の村村へ行き、キリシタンたちにしばらく山に退くように指示し」、長谷川左兵衛・山口直友には「この地にはキリシタンは一人もいない」、と偽って報告をしたというのだ(註3)

 喜入忠政という島津氏家老は如何なる人物であったのか、この一件である程度推察できるであろう。彼は役人として政治的に動くことはあったとしても、中身は求道者であり、徳を備えた人であった。その後、カタリイナ永俊の仲介があったかもしれない、連れ子のあるマルタ(妙身)を後妻に迎え、藩主島津家久の家老として誠実に奔走することになるが、義母カタリイナ永俊と彼女の庇護を得て集まった明石掃部子・小三郎、小三郎を雇い入れていた町の商人・しゅあん上山又左衛門、旧豊臣氏のキリシタン遺臣らを別の側面から擁護する中心的存在、影の理解者であったと思われる。連れ子の於満津(有馬直純の娘、のちに基太村元茂に嫁ぐ)、忠政とマルタ妙身との間に生まれた娘・於鶴も最後、種子島に遠島幽閉され、カタリイナのもとに送られたのは、同じく「きりしたん宗門ゆえ」であった。背景にマルタ妙身の夫喜入忠政の理解と擁護があったことは間違いない。幕府のキリシタン禁圧政策が厳しくなる中で、最終的には恭順の態度を取らざるをえなかったが、その狭間で生きた喜入忠政、そして彼を支えた家臣田代一族らの苦悩の日々があった。これは、カタリイナ永俊のキリシタン史を語る一方で、記憶されなければならない歴史である。

 鹿児島県枕崎市桜山本町の長善寺裏山に、喜入家累代墓地がある。五代季久からのもので、6代、9代を除いて19代まで並んでいる。7代忠政(忠続)の墓は最初の5代季久の次に建立されたが、その位置は5代墓地からさらに山奥に入った隠されたような場所にあり、しかも家老格に不相応な円塚(まるづか=土饅頭型)である。「キリシタンゆえ」に幕府から処刑されたカタリイナ永俊の養父・ジョアン有馬晴信(1561-1612)の墓も、山梨県甲州市初鹿野の山中に佇んでいるが、同じく「円塚」である(註4)。喜入忠政は隠れのキリシタンであったか、もしくは妻マルタ(妙身)のゆえに「きりしたん類族」として正式の墓碑が建立できなかったものと考えられる(註5)。(つづく)

写真】(左)喜入忠政の墓(枕崎市長善寺墓地)、(右)ジョアン有馬晴信の墓(甲州市初鹿野)=1944年、中村星湖のスケッチ。
【写真】喜入家累代墓地の墓碑に刻まれた花十字家紋


註1】…「種子島家譜五」に「然者其地へ永春(永俊)逼塞にて候、如御存知之彼御方之儀きりしたん宗之由候而…最前従長崎被参候時持参之道具共御座候つるを以御検者被焼捨…」とある。

註2】…『枕崎市史』(1969年発行)261頁。ドミニコ会史料『ファン・デ・ロス・アンヘレス・ルエダ神父伝記・書簡・調査書・報告書』(1994年・聖ドミニコ修道会発行)は、「(1614年)諸教会を打ち壊し、また神父たちを追放したので、左兵衛はキリシタンたちを叩きのめすのは簡単なことのように思われた。そして、それを実現するために、主だった者たちと大村・平戸・肥前・筑後の諸藩から多数の兵士たちを集めました。彼はここに集合させ、また多数の刀、火縄銃、槍や弓を準備して有馬に出立し、有馬の古い名である高来(たかき)郡全域に布告を発して、全員が棄教するように命じた。」と記している(同書94頁)。

註3】…レオン・パジェス『日本切支丹宗門史・上』362頁。『枕崎市史』(1969年発行)261~262頁。

註4】…カタリイナ永俊は有馬晴信の養女であった(「國乗遺聞」)。マルタ妙身は晴信の息・直純の元本妻であったので、晴信は義父にあたる。晴信の墓「有賀八幡」は1944年、晴信の謫居跡を現地調査した中村星湖らによって、初鹿野の山中に存在することが確認された。

註5】…喜入家8代忠高はカタリイナの種子島配流の翌年(寛永12年3月5日)29歳で自決し、その妻(島津久慶の妹)も一ヶ月後(寛永12年4月18日)自決した。妻の兄・島津久慶(日置島津家)は藩の家老であったが、死後、キリシタンであったとして死体を掘り上げて磔にされた(枕崎市観光協会ネット掲載「枕崎の殿様喜入氏を探る」)。また『枕崎市史』には「久慶は家久公の家老で、異国方・宗門方を仰せつかっていたが、法名・処安(ジョアン)忠省とあるように、切支丹信者であった。…あるいは忠高夫婦も切支丹として自決したかとの推察もありうる…」とある(同史277-278頁)。鹿籠長善寺・喜入氏累代墓地にある8代忠高の墓も、7代忠政と同じく「円塚」である。


2022年11月18日金曜日

カタリイナ永俊⑤

 ■小西行長・カタリイナ夫妻の娘・妙身「マルタ」

 カタリイナ永俊の基本史料とされる「薩藩旧記雑録後編」藩史局編者見解には、カタリイナの最初の夫が小西行長であり、娘(妙身)が一人いたこと。二番目の夫が島津忠清で、その娘・桂安が藩主島津家久の夫人であることが記されている。母カタリイナが生んだ娘二人―妙身と桂安は異父姉妹であった。このうち妹の桂安は鹿児島藩初代藩主島津家久に嫁ぎ、2代藩主となる光久を生んでその地位を確立したが、「異教徒であった」(註1)

 一方、姉の妙身は母カタリイナと同様、キリシタン信仰を貫き、苦難の道を辿った。二回結婚し、連れ子を伴った点でも似ている。母の連れ子は小西行長の娘、妙身の連れ子は有馬直純の娘であるから、ここにも有馬・小西両家の繋がりを見ることができる(註2)

 ところで、前掲史料にはカタリイナの娘・妙身の最初の夫が有馬直純であること、そして妙身の洗礼名が「マルタ」であることについては記していない。この事実は意外と周知されていないが、二つの史料によって割り出される。一つは薩藩史料のうちの喜入氏関係史料。他の一つはイエズス会史料である。「藤原姓島津氏族喜入氏系図」によると、喜入忠政に二人の「女子」があり、姉の「於満津」の「父は県(あがた)の士有馬式部大輔(直純)」とある(註3)。すなわち忠政の子ではなく夫人・妙身の連れ子であって、前夫有馬直純との間の子であった。これによって妙身の最初の夫が有馬直純であったことが分かる。

 他方、イエズス会史料は直純の結婚が三回あり、相手の洗礼名を記している。最初が1598年、行長の兄ベント如清の娘マルタであったが、これは婚約のみで実現しなかった。二回目が1604年、大村嘉前の娘メンシアと結ばれたものの、メンシアが一年も経たないうちに亡くなった。三番目が1607年頃、相手は「マルタ」であった。これについて結城了悟氏は史料をもとに調査し、著書『キリシタンになった大名』に詳しく述べている。ただし、氏は執筆当時、邦文史料の確認が十分ではなかったと思われる。次のような曖昧な表現をしている。

 「(直純の)三番目の奥方は家来の皆吉久兵衛絡純の娘で、マルタと呼ばれていた。その結婚によって一人の娘が生まれた。(註4)

 「皆吉久兵衛絡純」という人物を結城氏が如何なる史料によって上げたのか、出典を記していないので不明だが、有馬氏の史書『國乗遺聞・巻之二』には「皆吉久右衛門續能」を「皆吉久兵衛續能」とする表記がある。両者は同一人物であった。そうすると直純の三番目の奥方は、正しくは「皆吉久右衛門續能の娘(=カタリイナ)の娘」であり、彼女はイエズス会の史料によって「マルタ」の洗礼名をもつ女性であったことが判明する。

 直純とマルタ「妙身」は、有馬の日野江城もしくは有馬にあった教会で「婚礼の秘蹟」によって結ばれた。その頃、父・晴信はイエズス会とともに「祖先の領有した大部分(藤津郡=ドミニコ会が進出した地域)を手に入れようと」画策していた。それは徳川幕府との駆け引きでもあり、途次、家康が提示した「曾孫女(国姫)」を息子・直純の新しい夫人として受け入れざるをえなかった。1611年(慶長16)のことである。ここから有馬氏の転落とマルタおよびすべてのキリシタンたちの苦難が始まることになる。マルタは有馬家を追放され、「長崎近く(千々石)の或る山中に置かれた」(註5)

カタリイナ永俊の二度目の結婚と行長遺児・マルタ(妙身)

 マルタ(妙身)の母カタリイナ永俊はそれ以前、文禄の役失態の廉で小西行長領宇土に預けられていた薩州家島津清忠と1597-8年頃結婚し、関ヶ原戦(1600年)後は熊本藩加藤清正のもとにあった。1609年12月、島津氏関係者(義久、常久)の尽力で鹿児島に帰還することになるが、その間、カタリイナは忠清との間に一女(1599年生)一男(1602年生)を設けている。妙身マルタは父行長亡き後、あるいは皆吉家に戻っていたかもしれない註6)。父母から離れ、そして結婚した夫直純からも離縁させられた妙身マルタは、孤独な境涯に立たされたであろう。「まだ20歳で、いとも上品に育てられていたにもかかわらず、デウスを傷つけるよりは、日本から脱出して極度の貧困にも耐える決意をしていた」、と「1612年度年報」は伝えている(註5)

 このあと、いかなる機縁で喜入忠政と結ばれるのか、詳細は不明だが、『枕崎市史』はその出会いが1614年秋のことであったと述べている(註7)。(つづく)

【写真】有馬・宇土・鹿児島が近距離で描かれているキリシタン時代の西九州地図

註1】…1616年、マテウス・デ・コウロスによって書かれた年報書簡「長崎、1617年2月22日発信、Jap.Sin.58, 437-38.」。

註2】…行長と晴信のキリシタン信仰に基づく友情の機縁は1587年、秀吉の九州征討後、危うく自領を失いかけた晴信に対し、行長が温情の言葉をかけた出来事にあったようだ。「1588年度年報」で宣教師が記録している。拙著『ドン・ジョアン有馬晴信』32-38頁参照。

註3】…『枕崎市史』(1969年刊)264頁。

註4】…結城了悟著『キリシタンになった大名』(2020年聖母の騎士社刊)70-71頁。最初の婚約者と三番目に結婚した人が同じキリシタン名「マルタ」であるため、「しばしば歴史家が混乱している」(結城氏)。

註5】…「1613年1月12日付、1612年度日本年報」。『十六・七世紀イエズス会日本報告集・第Ⅱ期第1巻』(1990年同朋舎出版)340頁。

註6】…薩藩史料「旧記雑録後編」藩史局見解によると、カタリイナ永俊が島津忠清と結ばれたのは「行長滅ヒタル後」すなわち関ヶ原戦後のことである。ところが、永俊・忠清夫妻が鹿児島に帰還した1609年12月、「一男(7才)と一女(11才)を連れていた」という(『出水郷土史』250頁)。その「一女」がのちの家久夫人・桂安である。父忠清と母カタリイナのもとで生まれた桂安が1609年当時11歳であるから、両親の結婚は1597-8年頃、もしくはそれ以前となる。最初の夫小西行長が存命中のことであり、あるいは、行長の対島津政策の一環であったと思われる。

註7】…『枕崎市史』261頁~「喜入忠政の長崎出征」。



2022年11月14日月曜日

カタリイナ永俊④

 ■有馬家の娘カタリイナとしてー

 欧文史料に詳しいキリシタン史研究家・結城了悟氏(カトリック司祭)は、宣教師がカタリイナ永俊を記録した文書は二つしかないと著書『鹿児島のキリシタン』に書いている。筆者はその一つを『十六・七世紀イエズス会日本報告集第Ⅱ期第3巻』(1997年同朋舎出版)から引用して冒頭に紹介したが、結城氏はこれとは異なる文面の同年報を取り上げている。「Jap.Sin.文書」版のそれである(註1)

 「イエズス会の一神父が薩摩国のキリシタンを訪問して、彼らに告解や聖体の秘蹟を授け、これほど盲目的で頑迷な異教の中にあっては、さらによく信仰を守るように、と彼らを励まし慰めました。彼らの柱となり庇護者となっていたのは、カタリーナというその国の姑です。きわめて高貴な人で、両親や祖父母たちも信徒だったから熱心なキリシタンです。キリスト教を棄てるようにという彼女の女婿の挑戦に対抗する霊的力を、彼女はこの神父来訪によって特別に受けることができました。

 この中で宣教師は、カタリイナ永俊を「彼ら(薩摩国キリシタン)の柱」であり「庇護者となっていた」と、立場と役割を端的に表現し、その上で「きわめて高貴な人で、両親や祖父母も信徒だったから熱心なキリシタンです」と、系譜的な説明を加えている。見てきたように、カタリイナの出自は皆吉氏であり、肥前国高来の日野江城主・有馬氏に仕える「最高位の代官」の家柄であった。皆吉権左衛門は姓を「東」に替え、「東殿」の名前で呼ばれていた。ルイス・フロイスは著書『日本史』で「東殿」に言及し、「彼は仏僧たちと深い姻戚関係にあり…いく分、人並み外れた貪欲に支配されていた」と記している(註2)。カタリイナ永俊の兄弟権左衛門は役人的気質の持ち主であり、キリシタンではなかったようだ。それで「カタリイナの両親や祖父母も(キリシタン)信徒であったから、(カタリイナも)熱心なキリシタンである」と言うのは矛盾がある。もしかしたら、Jap.Sin.版年報が言うカタリイナの「両親・祖父母」は皆吉氏ではない、カタリイナの「養父母・養祖父母」―つまり有馬氏の「晴信・ジュスタ夫妻」とその親「義貞・マリイナ夫妻」を指しているのではないだろうか。〈養父〉晴信はその生涯をイエズス会に捧げたキリシタン大名であったし、また〈養祖父〉義貞は文人肌の誠実な武将として有馬家ではじめて受洗した人物であった(註3)。その情報を周知していたイエズス会宣教師たちは、カタリイナについても「有馬(晴信)家の娘」として認識していたのであろう。「きわめて高貴」との言葉が、それを裏付けている。

薩摩藩文書から有馬氏の事蹟が消された謎

 冒頭、筆者はカタリイナ永俊の出自・皆吉氏を「小西の士」であるとする薩藩文書の間違いを取り上げ、実は「有馬氏の家臣」であると証拠史料を上げて説明してきた。これと関連するもので、カタリイナの娘・妙身の前夫・有馬直純(晴信の息子・有馬家第14代)を「県(あがた=延岡)の士・有馬式部大輔(直純)」とする文書がある(註4)。これも誤りである。有馬直純と妙身の結婚は、日向国縣(あがた)に転封する以前の1610年(慶長15)以前、有馬に於いて執り行われ、娘・於満津も1612年、肥前国の千々石または長崎で生まれている。ゆえに妙身の前夫直純を説明する場合、正しくは「有馬の士」としなければならない。また、直純の官位も「左衛門佐」であるのに「式部大輔」と誤っている。喜入氏の文書(系図)が後世になって記述されたため、錯誤があると言えばそれまでだが、行長については「肥後国宇都の城主小西摂津守行長」と正しく表記されているので、有馬氏の事蹟が故意に歪められている、との感を否めない。

 同じキリシタン大名でありながら、有馬晴信との関係は忌避され、小西行長とのそれは採られた―その理由は何か。答えは、当時の封建社会的価値観に依拠するものであった、と言えよう。すなわち有馬晴信は賄賂と長崎奉行暗殺の陰謀が暴かれ、幕府によって処断された国家的罪人であったのに対し、小西行長は関ヶ原戦で敵将として死んだ侍(サムライ)であった。侍社会の論理が働いていたのだ。有馬氏と密な関係にあったカタリイナ永俊が、なかば謎に包まれてしまったのも頷けるであろう。(つづく)

【写真】カタリイナ永俊と有馬・小西・島津氏の関系図(宮本作図)

註1】…正式名称は「日本・シナ部Japonica-Sinica」。日本では上智大学キリシタン文庫にその大半が写真版本として保存されている。

註2】…松田毅一・川崎桃太編『フロイス日本史10・西九州篇Ⅱ』(1979・中央公論社発行)35頁。

註3】…フロイスは『日本史』で、有馬義貞について以下のように描写している。「彼は、日本の貴人たちのもとでは珍しく、大いに真理を愛好する君候であり、性格は温厚で正義の味方であり、所業は完全で、家臣の間ではきわめて好かれ、寛大、寛容なことで愛され、歌すなわち日本の詩歌に造詣が深く、優れた書道家であり、統治においては老練、慎重かつ賢明であった。」(前掲『フロイス日本史』32頁。義貞の生涯については、福田八郎著『信仰の耕作地・有馬キリシタン王国記』(2020年聖母の騎士社発行)が詳しい。同書100~109頁。

註4】…喜入氏関連の文書『喜入氏系図』―喜入忠政の「女子・御婦理又ハ於満津」(実は母妙身の連れ子、前夫有馬直純との間の娘)の項目に「父ハ県ノ士有馬式部大輔、母ハ肥後宇都ノ城主小西摂津守行長の娘ナリ」とある(『枕崎市史』(1969年刊)264頁)。


2022年11月10日木曜日

カタリイナ永俊③

 ■有馬氏の代官・皆吉氏「東殿」

 島原半島の有馬庄を本貫とする戦国大名有馬氏は、不受公・第十代晴純(仙巌)の時代に彼杵郡・藤津郡・杵島郡を領有し、さらに三根・佐賀・神崎郡をも支配下に入れて最大版図を獲得した。その後、佐賀の龍造寺氏が勢力を巻き返し、11代義貞、12代義純は戦に明け暮れた。そして13代晴信に至っては、味方の領主らの敵方への寝返りもあって、旧来の領地さえも蝕まれていた。窮地に陥った晴信は天正8年(1580)、受洗してイエズス会と連携し、さらに島津氏の支援を請うに至った。龍造寺との最終決戦となったのは天正12年(1584)、沖田畷の戦である。ほとんど勝算はなかったものの、海上から船で攻撃に加わったイエズス会提供の大砲が威力を発揮し、奇跡的勝利を収めた。それでも藤津郡など旧領地の回復が叶わなかったのは、沖田畷戦が島津対龍造寺の戦であって、有馬氏単独の勝利ではなかったこと。そして、島原半島北目が島津氏支配下に置かれたことに拠る。3年後の天正15年(1587)、秀吉の九州討征により島津氏の支配は解けたが、それでも祖父晴純が領有した佐賀の藤津郡の回復ができなかった。秀吉の同地に対する朱印状は、龍造寺本家の家督を継いだ政家の手にあり、晴信側にはまだ相応の力がなかったのだ。藤津郡奪回の試みはこのあとも継続された(註1)

 こうした戦国時代における有馬氏側の事情を見ていくとき、かつて「高来郡東郷と佐賀郡西泉の地頭職」にあった御墓野(のちの皆吉・東)氏が、有馬氏に帰属し、晴信時代には「有馬の最上位の代官」として重用された理由が頷けよう。外山幹夫氏(1932-2013)は著書『肥前有馬一族』(1997・新人物往来社発行)で、「有馬の地には東殿・西殿といわれる二人の代官がいて統治していた。…その地位はフロイスによれば〃身分の高い貴人〃であり、〃有馬の最上位の代官〃であった。」と記している(同書119頁)。二人の代官「東殿・西殿」のうち「東殿」が「皆吉氏」である。名前は「(東)権左衛門」。「皆吉久右衛門續能」の子であり、カタリイナ永俊の兄弟になる人物である。

■晴信の養女として行長に嫁いだカタリイナ

 有馬氏の「最高位の代官」皆吉氏一族の女性であるカタリイナが、キリシタン大名有馬晴信によってどのような扱いを受けたのだろうか。有馬氏の史書『國乗遺聞』には、皆吉續能の女(カタリイナ)が晴信の「養女」として記録されている(註2)。同書「巻之二、公子公室」の「晴信公」の項、「七公子」の記載のあとの次のくだりである。

 「御養女、御系譜記載セズ。/實皆吉久右衛門續能女。晴信公御養女トシテ小西摂津守行長。…

 「皆吉久右衛門續能の女」すなわちカタリイナが、小西行長の夫人であるというのは、「薩藩旧記雑録後編」所収の文書にも藩史局編者の見解として記されていた。有馬家の史料『國乗遺聞・巻之二』はそれが史実であることを証明してくれるものである。

 それだけではない。「皆吉久右衛門續能の女。晴信公の御養女として小西摂津守行長に嫁す」という一文は、カタリイナと小西行長との結婚が、キリシタン大名有馬晴信によってなされたことを意味するものである。つまりは、カタリイナはキリシタン大名小西行長と有馬晴信とを繋ぐ絆としての標(しるし)であったのだ。こうした背景が「1624年度年報」に見るような、弾圧の嵐の中にあって島津の藩主や家老たちの前でも怯(ひる)まない、信仰を敢然と表明する強い女性たらしめたのであろう。(つづく)

有馬氏最大勢力時代の領域図

註1】…晴信の藤津郡奪還の執念はこのあと、イエズス会の意図と重なって展開される。それは、薩摩国川内の京泊教会を経て1606年に佐賀・藤津郡に進出したドミニコ修道会を〈秘かに〉排斥するものであり、具体的には、①長崎港沖での黒船爆沈事件、②幕府の役人岡本大八を介する賄賂による藤津奪回の企て、③そして、大八の密告による晴信らの長崎奉行暗殺計画暴露事件へとつながり、最期、晴信の命取りとなった。拙著『ドン・ジョアン有馬晴信』第二章「一味同心・岡本大八事件」参照。

註2】…『國乗遺聞』は有馬氏研究の必須史料。近年、福井県文書館に「デジタルアーカイブ」としてその複写史料が保管・公開されるようになった。


2022年11月9日水曜日

カタリイナ永俊②

 ■カタリイナの出自―皆吉氏は有馬の家臣

 茂野幽考氏が著書『日南切支丹史』(1951年発行)でカタリイナ永俊を取り上げたのは、戦後間もない頃であった。すでに70年余が経っている。それでも彼女の出自である皆吉氏のこと、キリシタン大名・小西行長との関係など、いま一つ謎に包まれたままであるのは、述べたように宣教師の記録が少ないことに加え、彼女の足取りが薩摩藩のみならず肥後(熊本)、肥前高来(たかき=島原)、長崎など広域に跨がっているため、邦文史料の確認が容易でないことに依るものと思われる。

 筆者は20年ほど以前(西暦二千年前後)、鹿児島のキリシタン史で肥後国南部の小西領にいたキリシタン約1500人が、関ヶ原戦後の1600年暮れ、八代(やつしろ)から舟60隻で鹿児島領に避難した史実に接し、興味を抱いたことであったが、その後、地元島原(高来・有馬)のキリシタン史の調査に没頭した(註1)。今ふたたび、鹿児島のキリシタン史―とくに関ヶ原戦(1600年)で豊臣秀頼に与したキリシタン武将らが薩摩領に潜伏し、カタリイナ永俊と連絡を取り合っていた史実等に接し、改めて同地がキリシタン史に果たした役割の重要性を認識する一方、記述史料の一部に誤りがあることに気付いた。その一つは、カタリイナの出自―「皆吉氏」にかんするものである。その根拠となった史料は「薩藩旧記雑録後編」の中にあり、藩史局編者が2代藩主光久公の母・桂安とその母・カタリイナ永俊について述べた註記見解である。これまでカタリイナ永俊の基本史料とされてきた。(註2)

 「光久公御母堂桂安夫人島津備前守忠清ニテ、其御母肥後士皆吉久右衛門續能ニテ法名永春(永俊)ト云。始肥後宇都(=宇土)城主小西摂津守行長ニテ、女一人、行長滅ヒタル後、島津忠清小西御預ニテラレシニラレ、桂安夫人、慶長十四年鹿府、忠清死後堅野今郷田氏辺ラレ、堅野御祖母様トモ、又永俊尼トモ為申由也。行長メル女子喜入摂津守忠政トナレリ」。

 ここに「御母(カタリイナ)は肥後の士・皆吉久右衛門續能の女(である)」とあることから、カタリイナ研究者の多くが永俊は「肥後の士・皆吉氏」の出身であるとしてきた。ところが、筆者は有馬晴信の調査をしていたとき、有馬(高来)日野江城の城主・有馬氏の家臣として皆吉氏が登場する史料を目にしたことがある。有馬氏の史書『藤原有馬世譜』の「不受公」(有馬氏第10代晴純)の項である。

 「(不受)公生質温潤にして文武の御才あらせられ……御領地大に廣まれり。当国佐賀の城主御墓野出羽守長能も此頃より当家に附属す。御墓野が先祖は年久しく肥前国の住人にて、貞和観応の頃、又次郎重能高来東郷御墓野村、同国佐賀郡西泉の地頭職として古き文書等、其家に伝来す。長能が子・續能が時、皆吉と改め、其子・皆吉権左衛門、東氏を冒し、後、有馬氏を賜りて因幡守と称す。(註4)

 皆吉氏は元「御墓野」氏を称し、南北朝時代貞和・観応(1345~52)の頃、佐賀郡の地頭職であった。「出羽守長能」の頃、有馬氏第10代晴純が佐賀に進出し、有馬家に附属した。有馬家のもう一つの史書『國乗遺聞』には「晴純公麾下の士」8人の城主のうちの一人として「佐賀城主・御墓野出羽守(長能)」が記されている。ところが、その子「久右衛門續能」の時代、龍造寺氏が台頭して転機が訪れる。『國乗遺聞・巻之三』に次のようにある。

 「佐賀城主・御墓野出羽守長能、此(晴純の)御代、初て麾下に属し、士将の魁首に列す。子・皆吉久右衛門續能、幼穉(ようち)の時、当城を龍造寺隆信に抜かれ、後、大江に於て食邑を賜ふ…(註5)

 龍造寺隆信によって佐賀を追われた「續能」は、有馬氏の居城・日野江城の近くの大江に移ることになるが、その際、姓を「皆吉」に改めたらしい。このあと、有馬氏の「士将」として活躍するこの人物こそ、カタリイナ永俊の父「皆吉久右衛門續能」であった。(つづく)

【皆吉氏系図】


註1】…キリシタン大名・有馬晴信(1563ー1612)の没後400年、ルイス・デ・アルメイダ師の来島450年等を記念する取り組みであった。島原新聞に関連記事を連載し、2013年2月、海鳥社(福岡市)から著書『ドン・ジョアン有馬晴信』出版の運びとなった。

註2】…『鹿児島県史料旧記雑録後編・五』(1985年鹿児島県歴史資料センター黎明館発行)所載、883頁。江戸家老伊勢兵部少輔貞昌の「極月七日」付け「種子島左近大夫様人々宛」書簡。ただし同黎明館がこの書状の年号について「寛永十二年乙亥」と(仮定)したのは、『種子島氏底本』では「寛永九年」となっており、再考を要す。本稿で後述する。

註3】…茂野幽考著『日南切支丹史』(1951年刊)181-182頁。『種子島家譜』「寛永15年2月16日」の条。

註4】…林銑吉編『島原半島史・上巻』(1954年・長崎県南高来郡市教育会発行)457頁。

註5】…『國乗遺聞』は有馬家第21代譽純の時代、寛政9年(1797)に編纂に着手され、文化8年(1811)に完成した有馬氏家系継承の記録書10巻。

2022年11月7日月曜日

カタリイナ永俊①

 ■1624年度イエズス会日本年報

 慶長18年臘月23日(西暦1624年2月1日)徳川幕府が発布したキリスト教禁止令「排吉利支丹文」は、元和年間に入って徹底され、同5年(1619)京都の鴨川六条河原で52人が火炙り刑。同8年(1622)には長崎の西坂刑場で55人が火炙りと斬首刑に処せられ、翌元和9年(1623)には江戸品川の札の辻で50人が同じく火刑によって殺された。それは将軍秀忠の大名に対する暗黙の指令であり、これを受けて全国各地でキリシタンの捕縛・処刑が相次いだ。キリシタン信者が公然とその信仰を表白できない時代であった。

 ところが薩摩国鹿児島藩に、それでもキリシタン信仰を敢然と公言して憚らない女性がいた。カタリイナ永俊(1575-1649)である。彼女について多くを語っていないイエズス会文書が、「1624年度日本年報」で、珍しくその状況を詳しく伝えている。家老職であったカタリイナの娘婿(喜入忠政)が度々、使いの者を遣ってカタリイナの信仰を糺してきたので、煩わしく思ったカタリイナは自ら家老たちの前に出向き、「自分はキリシタンである。どんな理由があろうとキリストに対する信仰を決して棄てようとは思わない。」―そのように断言したというのだ。以下に原文を記す。

 「薩摩でキリシタンの中心になっていたのが、その国の君主(島津家久)の姑であるカタリイナという名の女性で、彼女は熱心に説いて回って聖なる信仰を弘めていた。彼女は挑発を受けたことが二度あった。一度目は仏僧たちからで、彼らは様々な迷信や祈祷の札を持ち出して、彼らの戒律に彼女を引き込もうとした。二度目は、江戸で迫害が起こっていた時期に、彼女がキリシタンであるかを知るために、彼女の娘婿によって遣わされた者たちによってである。最初の時は簡単にそれに打ち勝って、彼らを断固として追い返した。二度目には方々から多くの使者に押し掛けられるのが煩わしくて、彼女の娘婿がこの国の高い地位にある多くの者たちと一緒にいることを確かめると、彼を訪ねに出向いて、皆のいる前で臆することなく、自分はキリシタンであり、どのような理由があろうともキリストに対する信仰を決して棄てようとは思わないと言った。すると異教徒である娘婿もそこに居合わせた他のすべての者たちも、女性にそのような大きな勇気のあることに驚嘆し、それ以上彼女を煩わせることは止めてしまった。(註1)

 レオン・パジェスは『日本切支丹宗門史』の「1624年」の項で、「薩摩では、大名の義母カタリイナはあらゆる懇願に耳をかさなかった。聟(むこ=娘婿)は彼女の思うままに任せていた。」と、「日本年報」を要約して記している。ここに出てくる「聟」「娘婿」は、カタリイナの連れ子・妙身(実は前夫・小西行長との間の娘)の夫・喜入忠政(鹿籠の領主=島津藩大家老)である。カタリイナにはもう一人「娘婿」がいる。島津忠清との間に生まれた娘・桂安の夫・島津家久(鹿児島藩初代藩主)その人である。藩主家久から言えばカタリイナは夫人の母(姑)になる。宣教師がこの年報で言うカタリイナを挑発した「娘婿」は、文意から判断して家老職の喜入忠政であるが、彼にその旨を指示したのはもう一人の「娘婿」すなわち藩主・島津家久であったようだ。

 家老はもとより藩主もカタリイナのキリシタン信仰を「思うままに任せ」ざるをえなかったという、その女性(1624年当時46歳)は、たしかに普通の女性ではない。地位・立場からして大名に匹敵するような系譜的背景を持った人物であった、と見なければならない。(つづく)

【写真】崇伝によって起草された「排吉利支丹文」冒頭部分(毛利家文庫)

 【註1】…結城了悟氏は著書『鹿児島のキリシタン』(1975年初版、1987年改訂版)で、イエズス会が鹿児島のカタリイナについて記録したのはただ二つだけであるとして、「1616年、マテウス・デ・コウロスによって書かれた年報書簡」(長崎・1617年2月22日発信、Jap-Sin 58. 437-38)とともに「1624年の年報書簡」を紹介している。後者の「1624年の年報書簡」は、筆者が今回掲げた「1625年3月28日付、マカオ発信、ジョアン・R・ジランのイエズス会総長宛、1624年度日本年報」とは異なる別文「ジョアン・R・ジラム、マカオ・1625年3月18日発信、Jap-Sin 58. 437-38. 344-344v;460v.」である。要約文となっている。


2022年6月5日日曜日

きりしたん作法で解く島原の乱⑤

 ■最期の日「1638年4月11日」

 キリスト教禁止令が敷かれた徳川幕府政権下で、「転び」から「立上り」、キリスト教徒に戻った天草四郎らキリシタンたちがそのまま生き続けることはできない。それゆえ、彼らがすべての償いの行為をキリシタン作法によって成し終えたその日―すなわち1638年4月11日(復活祭)は、同時にこの世との決別の日・死ぬ日でもあった。

 司祭・四郎が「(和暦)2月朔日」付で通達した『四郎法度書』(と称される文書)の中で、「現世には一旦の事と申し候中に、此城内の人数(人々)は弥(いよいよ)みじかき様に存じ候…」と言ったのは、それから27日後に訪れる〃死の日〃を想定してのことであった。ーと言うより、「立上り」の行動をする当初から彼らは死を覚悟していた(註1)。

攻撃ではなく防衛―「ふせぎ申したる分に候」

 定められた「死の日=復活祭」以前の段階で、たとえば寛永14年12月10日、同12月20日、寛永15年1月1日に幕府軍から攻撃を仕掛けられたとき、彼らが激しく抵抗したのは何故か。それは、「立上り」のためのキリシタンの作法「ゆるしの秘蹟」を終えていなかったからに他ならない。その場合の抵抗は防衛であって攻撃ではない。矢文の言葉を借りて言えば、「島原天草両所の儀、(幕府軍が)御取懸り候に付、ふせぎ申したる分に候」、「一度として此方より仕掛け申したる儀、御座なく候。天草島原両所とも、御軍勢をもって御踏み殺し候の故、至極迷惑(し)防ぎ申したる分に候」であった。

 加えて彼らは「此宗旨に敵をなす輩は、身命を捨てふせぎ候はで叶わず」(=神のみ旨に敵対し攻撃してくる者に対しては、命を捨てて防衛しなければならない)とも言っている(註2)。「ふせぐ」というのは「守る」という行為である。キリスト教徒はその行為に「身命を捨てる」、つまり「命をかけて守る」。これはキリスト・イエスが「人がその友のために自分の命をすてること、これよりも大きな愛はない」(ヨハネによる福音書15章13節)と説く隣人愛に依拠するものであった(註3)。四郎が償いの行為として「おらしよ(祈り)、ぜじゅん(断食)、じしぴりいな(鞭打ち行)」に加え「敵をふせぐ手立」としての「武具の嗜(たしなみ)に念を入れること」を指示したのは、意外に思うかもしれないが、聖書の教えに基づくものであった。

 この点に関して、中世カトリック神学が殉教(マルチル)の三要素の一つに無抵抗であることを挙げたのは、いかなる聖書的根拠に基づくものなのか、究明されなければならない(註4)。なぜなら、原城に集った3万7千余人がキリスト教の宗教的行為によって餓死または幕府軍によって殺された―殉教者であった―にもかかわらず、カトリックが定めるマルチルの定義から外れるとして、これを殉教者として認めなかった経緯があるからである。

「こころよく」死すべし

 実際、彼らは「立上り」のキリシタン作法を成し終えた後、「原城の門を開け」て幕府軍を入れ、死の旅路に就いた(註5)。弱者である老人や子供、そして友のため死力を尽くしたことであり、そうして「死ぬ」ことはみこころであった。敢えて言えば、立ち帰ったキリシタンとして如何にキリシタンらしく死ぬかが問われたのであり、この点に関して司祭・四郎は「快く(こころよく)勝負を決すべし」と言っている(註6)。「こころよく」とは、「いやな顔をしないで、うれしく、楽しく」という意味である。

 信仰の程度は人により異なるので、このように〃喜んで〃死ぬことができたかどうか。幕府軍側の目撃者の一人・松平信綱が、「剰(あまつさ)へ童女に至るまで死を喜び斬罪を蒙る。是れ平生人心の致す所に非ず。彼の宗門浸々たる所以(ゆえん)なり」と記録したのは事実である(註7)。他にも「こころよく」死んだ状況を思わせる記録がある。

 ・「丸裸になり、持ち道具を捨て〃首を切られ候へ〃と申し候」(『佐野弥七左衛門覚書』)/「敵(キリシタン)草臥、大方働く事なし」(『嶋原一揆松倉記』)/「皆やみやみとぞ討たれける。…或はむざんに討たれて死するもあり。」(『島原記』)。「やみやみ」とは「わけなく、むざむざ、みすみす」の意味。「むざん」とは「無慙」、「僧が罪を犯しながら恥じるところのないこと」を指す(古語辞典)。

 もとより彼らは、償いの行(ぎょう)として断食をしていたし、最後には食糧も尽き、体力は限界状況に達していた。ほとんどが無抵抗のまま「やみやみと」「むざんに討たれ」殺されたのが事実であった。

幕府の責任回避、および「味方討ち」隠蔽のための一揆説

 それでは何故、徳川幕府はこれを一揆とし、幕府軍諸藩は戦いの構図でこれを記録したのだろうか。その答えは、そうしなければならない訳が幕府側にあったからである。理由は二つある。ひとつは、キリスト教禁止令を発布してキリスト教信教の自由を認めなかった幕府側のこの事件に対する責任を回避し、松倉氏に転嫁するためであった。すなわち、この事件が「転び」の「立上り(再改宗)」であるとするなら、根本の原因はキリシタンを強制改宗させて仏教徒にした幕府の禁教令にあったはずで、幕府はこの責任を負わなければならない立場にあった。そこで幕府がこれを回避・転嫁するため、事件直後に打ち出したのが松倉悪政による一揆説であった。それはまた、動員された諸藩側にとっても好都合であった。手柄功名の材料にすることができたからである。

 他の一つの理由は、味方討ち(同士討ち)による不名誉な犠牲を隠蔽するためである。これは手柄功名にならないばかりか軍令違反の失態であり、侍として恥ずべきこと、不名誉なこと、さらには処分・改易の材料ともなるべきものであったため、邦文史料から意図的に外された状況がある。ただ、第三者的立場にあった平戸オランダ商館長クーケバッケルがその事実をありのまま記録しているので、ここに紹介する。

 ・【寛永14年12月20日、寛永15年1月1日の幕府軍攻撃のとき】…我等が船を出す迄に合戦二度ありつるが、味方の士討死の数5708人なり。味方の同士討にて死人疵人数多(あまた)あり(註8)。/【寛永15年2月27-28日総攻撃のとき】…前方の鍋島公と細川公の前後の争いあり。…依て大いに混雑して味方の人々同士討にて死す(註9)。

 この事件に動員された諸藩の邦文史料の中にも、注意深く読んでいくと、かすかに同士討ち・仲間討ちの記事を見つけることが出来る。『水野家島原記』に「(正月朔日の城攻の時)諸勢塀下へかかり候時、後勢より鉄砲放ち候て、手負死人過半、味方討ちのよし」と。また、有馬藩の史書『國乗遺聞・巻之八』-「兵戦第十八」に、「(寛永15年2月27日惣乗のとき)彼の者(寺沢の使番)申しけるは…後口より鉄砲討かくべしと申さる」とあるが、これも希釈された表現の味方討ちの記録である。

おわりに

 繰り返すが最期の日、キリシタンたちのほとんどが戦いの道具を捨て、動くことなく「草臥」していた。中には焼け落ちた火の中に入り、死んでいく女たちもいた(註10)。彼らは「転び」の罪を悔い、神にわびて償いをなし、もとより「死」を覚悟して家を焼き、故郷を捨てて原城に出てきた人々であった。そこには女・老人・子供たちもいた。壮健なる侍たちが鉄砲で撃ち、刀で首を切り殺すような相手ではなかったのだ。戦いになる状況は何もなかった。あったのは幕府軍諸藩が武功を争う激戦だけであった。

 島原の乱一揆説は、根本的に見直されなければならない。この事件は一揆などではない。転びキリシタンたちが再改宗して元のキリシタンに戻る、「きりしたんの作法」に基づく純粋な信仰行為であり、宗教行為であった。(おわり)

【写真】…有明海海上から見る原城風景(昭和初期)

註1】…永積洋子著『平戸オランダ商館の日記・第四輯』(1970・岩波書店)「1637年12月17日」付の項に、「有馬領の住人、或いは農民の大部分が…叛乱を起こし、…『大勢が長い間かかって死ぬよりは、一度に死のう』と決議された。」とある(同書40頁)。

註2】…「…右の仕合せ、きりしたんの作法に候。御不審可思召候得共、此宗旨に敵をなす輩ハ、身命を捨ふせぎ候ハて不叶」(城中より御陣中への矢文)。古語「不叶(かなはず)」はこの場合、「~しなくてはならない」の意味である(古語辞典)。

註3】…「Greater love hath no man than this, that a man lay down his life for his friends.」 ST.JOHN15-13 

註4】…姉崎正治著『切支丹宗門の迫害と潜伏』(1925・同文社刊)掲載の『マルチリヨの心得』に、マルチル(殉教)の説明として、①死ぬこと、②成敗を辞退せず心能く(こころよく=快く)堪忍致して受くること、③死罪の題目がC(キリシタン)なりとて成敗されること、の三点を挙げている。

註5】…「…叶はじとや思ひけん、門を開き…」(『吉利支丹物語』)、「四郎大夫…〃一向に門を開き、突き出て勝負を快く決し候様に致すべし〃と申しける」(『寛永平塞録』)。

註6】…細川藩記録『寛永平塞録』に、「四郎大夫…籠城百日に及び候はば、城内の糧乏しき事眼前にあり。一向に門を開き、突き出て勝負を快く決し候様に致すべしと申しける。」とある。

註7】…松平忠綱筆『嶋原天草日記』「…賊徒の将四郎一類、悉く刀殺せらる。その外、生捕斬罪せしむ。剰へ童女の輩に至り死を喜び斬罪を蒙る。是、平生人心の致す所に非ず。彼の宗門駸駸たる所以なり」(日屋根安定編著『吉利支丹文庫第三輯・嶋原天草日記、他四編』1926年刊、53頁)。1998年10月18日、原城のある南有馬町(現・南島原市)で開催されたシンポジウム『原城発掘』で結城了悟氏(元長崎26聖人記念館館長)が最初にこれを取り上げ発表した。

註8】…これは、平戸オランダ商館長ニコラス・クーケバッケルの日記から19世紀はじめ、オランダ商館長ヘンドリック・ヅーフが島原の乱の関係記事を抽出編集して出島乙名・末次独笑(忠介)に与えた原文を、当時のオランダ通詞・吉雄如淵が翻訳した『天馬異聞』の記事である。この部分の原文は『平戸オランダ商館長日記』(東大史料編纂所・昭和52年)の〔1638年3月13日〕付記事にある。

註9】…同じく『天馬異聞』に依る。原文は『平戸オランダ商館長日記』の〔1638年6月〕付、〔平戸オランダ商館長ニコラス・クーケバッケル書翰〕(昭和41年吉川弘文館刊「長崎縣史史料編第三」の〔1638年11月19日付、平戸発バタビアのインド総督におくった手紙〕にある。

註10】…細川家熊本藩史料ー本丸にて細川勢が目撃したキリシタンたちの自害について「小袖を手にかけ、焼けている燠(おき)を上へ押し上げ、その中に入って自害し、また、ある者は子供をその中に押し込み、自分は上へ上がって死ぬる者も大勢いた。忠利は〃中々奇特なる下々の死、言語を絶し候〃と、かれらの壮絶な死に様に賞賛の声を上げている(山本博文著『江戸城の宮廷政治』(1993・読売新聞社)257-258頁)。史料名「三月朔日忠利披露状」。鍋島家佐賀藩史料『元茂公御年譜七』にも「女・童部(わらべ)は手に手を取り組み、悉く猛火の中へ飛入々々焦れ死す。其臭気四方に薫じて人皆鼻を掩ふばかり也」とある。

2022年5月16日月曜日

きりしたん作法で解く島原の乱④

 ■四郎、復活祭ミサ―聖体の秘蹟で幕…

 翌4月11日(和暦2月27日)は悲しみ節(四旬節)「あがり」の日曜日、復活祭である(註1)。四郎ら「立上り」キリシタンたちはこの日、復活祭ミサを催した。それは「転び」の罪の償いをしてきた四旬節に連続するものであり、また、すべてのカットリック教界における「掟(おきて)」の一つでもあった。当時、公会議または教皇によって定められた「まだめんと(掟)」があり、このうちとくに五ヶ条は全世界の信者に義務づけられていた。その第三項目に「ぱすくは(復活祭)にえうかりすちあのさからめんと(聖体の秘蹟)を授かり奉るべし」とある(註2)。一同にとっては、すでに「立上り」の務めを終え、晴れて元のキリシタンに戻った最初で最期の記念的ミサであった。

 幕府側の諸記録はこの日―西暦4月11日=和暦2月27日―、城内に異常な動きがあったことを伝えている。キリシタンたちが持ち場を離れていたことである(註3)。それは、彼らキリシタンたちが復活祭のミサにあずかるため、本丸と二の丸の間にある蓮池近くの広い窪地に集まったためであった。

 カトリックのミサは、水(葡萄酒)とパンをキリストの血と肉に変え、それを拝領する儀式であるが、ここで思い出されるのが四郎が所持していた「陣中旗」である。二人の天使が中央の聖杯(カリスCalix)に向かって手を合わせている図柄に、ポルトガル語で「いとも尊きご聖体の秘蹟は貴まれ給え」の文字が描かれているもので、聖杯の上には十字入りのパン(聖餅)がある。これが司祭の祈りによってキリストの体に変化するパン、すなわち「ご聖体」である。参加者はこれを拝領し、秘蹟の恵みにあずかるとされている。

 日本のキリシタン時代、聖体となるパンをいかなる材料で、どのようにして拵えたのか、詳細は分からない。おそらくは米や麦、粟を粉に挽き、水を加えて練り合わせたものを千切り、平たく円形に伸ばして調達したであろう。問題は、食糧がほぼ底をついていたことであり…、あるいは最期のこの日のミサのために残しておいた少量の麦または米を臼(うす)で搗き、用意したかもしれないが、それでも量として十分ではなかったと思われる。目の前に広がる有明海の磯に出て、海草を拾い、代用したとも考えられる。その証拠として、現場に臼があり、また海辺で海草を拾ったことが目撃され、幕府軍側の史料に記録されていることを上げておきたい(註4)。時は西暦1638年4月11日(日曜日)、午前から昼過ぎにかけてのことであった。 (つづく)

【写真=(左)嶋原陣絵図にある臼、(右)島原の乱「陣中旗」】

 【註1】…「あがり」は、悲しみ節の入りから46日目。長崎のかくれキリシタンたちはこの日、暗くなってから集まり、「御礼のオラショ」「クレドのオラショ」を上げ、翌日(復活祭)の夜明け前に帰る習わしがあった。片岡弥吉著『かくれキリシタン』(1997NHKブックス56)184頁。

 【註2】…『どちりいな・きりしたん』に、次の「五ヶ条」が示されている。「第一、どみんご・べあと日にみいさを拝み奉るべし。第二、せめて年中に一度、こんひさんを申べし。第三、ぱすくは(復活祭)にえうかりすちあのさからめんと(聖体の秘蹟)を授かり奉るべし。第四、さんた・ゑけれじやより授け給ふ時、ぜじゅんを致し、せすた・さばどに肉食すべからず。第五、ぢずもす(十分の一税)・ぴりみしあす(初穂)を捧ぐべし。」

 【註3】…「廿七日、午の刻、鍋島殿先手、何れも二の郭西枡形へ向い、竹束を附け寄せける…城内一円物音なく靜かなるゆえ、鍋島家の先手の組頭鍋島安芸、城近く進み寄りて狭間より伺いけるに一揆壱人も見えざる故…」(細川熊本藩史料『綿考輯録』、2003年福田八郎編版189頁)。

 【註4】…臼の描写は複数の絵図で確認される。写真は毛利家萩藩の使者が記録した絵図。海草採りについては、たとえば毛利家文庫史料『原権左衛門・寛永討録』に次のようにある。「廿七日の朝、…城内の者は…それより油断仕り、こやごやへ引き取り候由候。其の後、海手へ海草ども取りに罷り出で候者も有之候由候。」


2022年5月14日土曜日

きりしたん作法で解く島原の乱③

 ■ゆるしの秘蹟―その③さしちはさん(所作による償い)

 ゆるしの秘蹟は、犯した罪を悔い改め、それらを司祭に告白したあと、最後に「所作をもって科送りをすること」すなわち行為による償い(さしちはさん)が求められる。これについて司祭・天草四郎が原城に籠もったキリシタンたちに指示したことは、「おらしよ(祈り)、ぜじゅん(断食)、じしぴりいな(鞭打ち)」等の善行に加えて「城の普請」、そして「えれじよ(敵)を防ぐ手立て」としての「成程(なるほど=できるかぎりの)武具の嗜(たしなみ=練習・手入れ)に念を入れる事」であった(註1)

 これらのうち「おらしよ(祈り)・ぜじゅん(断食)・じしぴりいな(鞭打ち)」は、長崎の外海(そとめ)系キリシタンたちが毎年「悲しみ節(四旬節、Quaresma)」におこなうものであることから、原城のキリシタンたちは1638年(寛永15)の四旬節にあわせて「ゆるしの秘蹟」を進行していたことが判明するであろう。

 この悲しみ節(四旬節)の期間は40日―日曜日を含めると46日―あり、その間、肉食を絶ち、食事を省き、また「コンチリサン」の祈りを一定回数唱え、一週間ごと組親(帳方)の家に集まって初穂(供物)を上げ、「御礼のおらしよ」(アベ・マリア)をささげる」という一連の「御後悔(ごこうかい)」をするのが長崎のかくれキリシタンたちの習わしであった(註2)。天草四郎の達書『四郎法度書』の第三項目に、「昼夜おこたりなく前々よりの御後悔(ごこうかい)尤、日々の御礼のおらしよの御祈念専らに存ずべく候」(昼夜怠けることなく以前からの後悔の祈り・コンチリサンと、アベ・マリアの祈りを捧げるべし)とあるのは、これを裏付けるものである(註3)。

原城で四旬節を過ごしたキリシタンたち

 そうであるなら、ここで新たな事実が浮かび上がってくる。すなわち、彼らは寛永15年(1638)のキリシタン暦のうち「悲しみ節(四旬節)」に沿ってその務めをなし、最期に「復活祭(イースター)」の一日を迎える、という明確な目標に向かって行動していたことである。これもまた『四郎法度書』第5項目に「今程(いまほど)くわれすま(四旬節)の内」とあるので、彼らは実際、キリシタン暦の四旬節とゆるしの秘蹟の「さしちはさん」を重ね、その償いの日々を過ごしていことであった。

 これら島原の乱事件の動きを、キリシタンの作法である「ゆるしの秘蹟」およびキリシタン暦の「四旬節」とを重ねて表にしてみると、以下のようになる。


 1638年(寛永15)の四旬節は2月24日(寛永15年1月11日)に始まり、途中、中日の「お告げの祝日」を経て4月4日(和暦2月20日)の「枝の主日(「棕櫚の日曜日」とも言う)」に至る。そしてこの後、最後の週の「聖週間」に入る。枝の主日にはミサを執り行い、一同「デイウス」の大音声を上げて祈ったらしい。細川熊本藩の史料『寛永平塞録』の記事に「昨日(和暦2月21日)より城内一同に大音にデイウスと宗門の唱えをなすこと雷のごとし」とある(註4)。この頃、食糧はすでに尽き果て餓死者が続出していたが、同日、「夜討(やうち)」を決行した。それは「子供・老人」の食料を確保して食わせるためであり、「友のために命を捨てる」死力を尽くした隣人愛であった、と言うことができるであろう(註5)。
 こうして、真冬の原城を舞台にした彼ら「立上りキリシタン」の「さしちはさん」は、1638年の「くわれすま(悲しみ節)」46日間と併せて進行し、初春の4月10日(和暦2月26日)をもって満了した。当初、3万7千人いた人々は、途中1万人ほどが餓死し、2万7千人ほどになっていた。 (つづく)


 【註1】…『四郎法度書』第二項、「おらしよ・ぜじゅん・じしぴりいな等の善行のみに限申間敷候、城内そこそこの普請、扨又ゑれじよふせく手立、成程武具之嗜可被入御念事も皆御奉公に可成事」

 【註2】…片岡弥吉著『かくれキリシタン』(1997NHKブックス56)181頁。

 【註3】…「御礼のおらしよ」について、筆者は当初「さるべ・れじいな」を設定していた。祈りの文言に「御身に御礼をなし奉る」と二回あるからである(本ブログ2016年1月3日付、「四郎法度書」に見る「転び」の償い―島原の乱を解く⑥)。ところが片岡弥吉氏は前掲書で、それは「ガラサ(あべ・まりあ)」であるとしている(同書183頁、134頁)。これを裏付けるものとして五島・外海のかくれキリシタンのオラショに題目「御礼のおらしよ」で「がらさ(あべ・まりあ)」がある。「あべ・まりあ」の祈りは「がらさみちみちたまふまりあに御礼をなし奉る…」ではじまる(『どちりいな・きりしたん』)。以上により、「御礼のおらしよ」は「あべ・まりあ」であることが判明する。

 【註4】…『嶋原記』にも同様の記事がある。「二月廿一日夜討之事…左候て一両日前より城内に数千のもの共でいうすでいうすと同音に高く宗門のとなへ夜々申候」。

 【註5】…『寛永平塞録』によると夜討の記事が二回登場する。(二月)廿一日の軍議およびその実施、同二十六日の評議である。このうち二回目夜討評議のくだりに、「寄せ手の食物奪い取り、城内の老人子供へ今壱度食わせ、その上にて何れも相果つべく候。然れば明廿七日丑の中刻を一生の最期に致すべし、と申渡しける…」とある。夜討は、幕府軍の兵糧攻めに対し同朋の弱者「子供老人」を守るための措置―「友のために(戦い)死ぬ隣人愛」の行動であったと考えられる。


2022年5月7日土曜日

きりしたん作法で解く島原の乱②

 ■ゆるしの秘蹟―その②こんひさん(言葉による告白、懺悔)

 「転び」やその他のモルタル罪科は、司祭に罪を告白し、司祭から指示される償い、もしくは自発的な償いを行為によって果たすことで「ゆるし」に至るとされる。

 原城に籠もった人々は、寿庵の廻文にあったように「きりしたんに成り申」すことを決意した者たちであった。その「立上り」の決意、信仰の強弱は人によって差があり、籠城の過程で落ちた人たちもあったものの、仏教信者や神道信者などが混じっていたという指摘は当たらない。強制された者もいたにはいたが、それを本人が受け入れたという点では、「立上り」キリシタンであった。

 ところで、天草四郎が司祭として、原城に集った37千余人もの「こんひさん」をどのように聞き、請けたのだろうか。原則、密室で秘密裡に進行するこの秘蹟は、他人にもらすことがゆるされないため、四郎自身、本丸のどこか地下室にいて、この秘蹟を執り行なったと考えられる(註1)。これを裏付ける史料は少ないが、以下にいくつか参考となるものを上げてみる。いずれも城内からの落人の証言である。

 「(四郎は)本丸に罷り在り候。此の度、取り詰め候て以後、一度二度、二ノ丸まで出で申し候」(註2)

 「籠り候てより以後、四郎は罷り出でず候。名代島原に之れ有り候絵書右衛門作と、嶋原浪人忠右衛門と申す者両人(に)四郎(の)印持たせ廻り候」(註3)

 「四郎が親甚兵衛一人具足をつけ、馬に乗り…城中に下知申し付け候…四郎は本丸の内に寺(教会)を立て、天守に居り、すすめをなし申し候由…」(註4)

 四郎は城内のキリシタンたちの前にその姿を現すことは、ほとんどなかったらしい。本丸の内にこしらえられた「寺(教会)」にいて「すすめ」をなしていたという、その「すすめ」とは司祭としての「法儀のすすめ」、「信仰のすすめ」、または「ミサ(聖祭)」であった。『オランダ商館日記』(永積洋子訳)に「肥後生まれの16、7歳の若者が日に2回、ミサを行なっていた」とある。

 実際、37千人の「告白」を直接聞くことは物理的に困難であったし、各村ごと、または信人会(コンフラリア)の組ごと代表者をたて、何らかの手続きがおこなわれたものと思われる。その進行の様子は、寛永15年2月1日(西暦1638年3月16日)付けで司祭・天草四郎から出された達書(たっしがき)「四郎法度書」の条文により、ある程度確認することができる。 

「一、今度此の城内に御籠もり候各(おのおの)、誠に此の中、形の如く罪果数をつくし背き奉り候事に候へば、後生のたすかり不定の身に罷り成り候処に各別の御慈悲を以て此の城内の御人数に召し抱えられ候事、如何ほどの御恩と思し召し候哉」(一、ここ原城に集った者たちは、いつも常習的に罪科をくり返し、天主を背信して来たので、死後、ハライソに行く保証がなくなってしまった。ところが、神の慈しみによって〃ゆるしの秘蹟〃の場であるこの原城に導かれたのだ。これがどれほどの神の恩恵であることか、分かっているのだろうか)。

 「四郎法度書」の第一項に出てくる「形の如く罪科数をつくし(天主に)背き奉り候」というのは、「絵踏み」をくり返し、不信仰を重ねたキリシタンたちの「こんひさん(告白)」を聞き、それを踏まえた上でのくだりであると考えられる。

この後に続く条項には、司祭四郎による「ゆるしの秘蹟」の「さしちはさん」(行為による償い)に関する示達およびその指導が綴られている。(つづく)

【写真…「四郎法度書」第一項】

【註1】…原城本丸に「四郎の家」なるものが細川熊本藩の史料『綿考輯録』掲載の絵図に描かれている。これとは別に、本丸には地下室が存在したようで、大雨のたびに陥没したことがある。2021年にも大規模陥没があった。1963年豪雨時の陥没調査によると、「内部は段状になっており、深いところでは(高さ)4,3㍍あった」という。

【写真=原城本丸にあった四郎家(『綿考輯録』掲載)】

【註2】…鶴田倉蔵編『原史料で綴る天草島原の乱』(1994、本渡市)603頁「寛永14年12月25日付落人の証言」

【註3】…前掲史料608頁「寛永14年12月25日付、久留米藩が捕らえた落人の証言」

【註4】…前掲史料621頁「細川立允の家老志方半兵衛の12月29日付記録」

2022年4月19日火曜日

きりしたん作法で解く島原の乱①

序、蜂起・一揆ではなかった「立上り」

 歴史家の多くが島原の乱事件を農民一揆とした理由の一つに、「立上(たちあが)り」の言葉を読み誤ったことが上げられる。「矢文」をはじめとするキリシタンたちの文書には、棄教を意味する「転(ころ)ぶ」または「宗門を改める」の対語として「立上り」が登場するが、それは〃元のキリシタンに復帰する・再改宗〃を意味する言葉であった。たとえば、島原・三会(みえ)地方の転びキリシタンの証言に次のようなくだりがある。「先年、へるせきさん相始り候節、弱き色体にひかれ、ころび申すもの数限りなく候つれども、いづれも御出家衆には、はなれ申し、立あがり申すべき便りも御座なく、昼夜かなしみに沈み罷り在り候…」(註1)。現代文に直すと、〃幕府によるキリスト教迫害が始まったとき、信仰の弱さゆえ、肉体の命が惜しくて転び・棄教した者が数多くありましたが、いずれもパードレ(司祭)がいなくなったため、立上りの方途がなくなってしまい、昼夜悲しみに沈み込んでおりました〃である。その「立上り」は〃転びからの立上り〃であって、一揆または蜂起の意味がないことは明らかである。

 ■「立上り」のためのキリシタンの作法―ゆるしの秘蹟

 また、原城に籠もったキリシタンたちが、その行動の経緯や理由について説明した「矢文」の一節に、「右の仕合(しあ)わせ、きりしたんの作法に候」というのがある(註2)。〃このような行動に至ったのは、キリスト教の教義に基づく作法・仕方である〃といった意味である。それは、島原の乱の性格を端的に説明したものであると思われるが、多々ある乱関連の論考・書籍の中でこれに言及したものが見当たらない。

 もとキリシタンであった人々が幕府の禁教令に屈して転び証文に署名し、心なくも仏教寺院の檀信徒として過ごした「転び」の日々は、キリスト教の教義である「十戒」の第一条「我(デウス)以外、神とするなかれ」(註3)を犯す「モルタル罪(死に値する罪)」であった。この不信仰の罪を償い、元の状態に戻るための「きりしたん作法」は「ゆるしの秘蹟」に他ならない。キリシタン時代の教義書『どちりいな・きりしたん(Doctrina Christao)』に、ポルトガル語で「ぺにてんしやのさからめんと(Penitencia Sacramento)」とあるのがそれである。これは、①コンチリサン(心中の後悔)、②コンヒサン(言葉で懺悔すること)、③サシチハサン(行為をもって償うこと)の三つの過程を経て成就されるもので、司祭・神父の介在を要するものであった(註4)

 その他、付随的な「きりしたんの作法」として「転び証文」の取り戻しがあり(註5)、また、一同がキリシタンに立ち帰ったことの最終的な証明として、秘蹟中の秘蹟とされる「ご聖体拝領(Eucharistia)」の儀式(ミサ)があったと考えられる(註6)。

 以下、島原の乱事件を「キリシタン作法」による行動として見直し、検証してみたい。

■ゆるしの秘蹟―その①こんちりさん(心中の後悔)

 「ゆるしの秘蹟」について『どちりいな・きりしたん』は、「是即(これすなわち)、ばうちずもを授かりて以後、あにまの病となる科(とが)をなを(治)さるるすぴりつあるの良薬也」と説明している。洗礼を受けて(キリシタンとなって)以降、霊魂の病となる罪科を(犯したとき、それを)治すための良薬である、という意味である。述べたように、この作法は①こんちりさん(心中の後悔)、②こんひさん(言葉による懺悔)、③さしちはさん(行為による償い)の三過程で成就される。

 はじめに、その①「こんちりさん」について検証してみたい。

 『四郎法度書』の文面に「前々よりの御後悔、日々の御礼のおらしよ」とある、その「御後悔(のオラショ)」というのが「コンチリサンのオラショ」である(註7)。転びの罪科を償う最初の段階として、犯した罪科を心中から悔い改める「コンチリサン」が求められた。『どちりいな・きりしたん』では、「もるたる科(とが)を赦さるゝ道(死に値する罪が赦される方途)」について、次のように説かれている。「科はでうすに対し奉りての狼藉(ろうぜき)なるによて、それを悔ひ悲しび、以後二度(ふたたび)犯すまじきと思ひ定め、やがてこんひさん(コンヒサン=告白)を申すべき覚悟をもて科を悔ひ悲しむ事、是(これ)こんちりさん(コンチリサン)とて、科を赦さるゝ道也。」転びキリシタンが愛読した『こんち里さんのりやく』は、これに関する詳細な解説書であった(註8)。その教えに従って彼らは「前々より」「ご後悔のおらしよ」すなわち「コンチリサンの祈り」を唱えてきたし、また原城に集結したのちもこれを継続していた。

 ところで、このように「御後悔(コンチリサン)の祈り」を日夜捧げて過ごした島原・天草地方の転びキリシタンたちが、その間、この世に在って生きた心地がしない、死ぬような苦しみ・悲しみの中にあったと矢文やその他の証言文に綴っているのは、どうしたことであろうか(註9)。あるいは踏み絵を繰り返すなど、幾重にも同じ罪を重ねたため、コンチリサンによって「科を赦される」実感を伴わなかったと思われる。『こんち里さんのりやく』にあるように、その一方で「コンヒサンを申すべき仕合わせ」―すなわち「ゆるしの秘蹟」の第二課程である〃司祭に罪を懺悔告白する「こんひさん」〃の機会の到来を待ち望んでいたのは事実であろう。果たして、25年以前一人の伴天連(宣教師)が書き遺した一巻の書『末鑑』の予言通り(註10)彼らの前に現れたのが、「司祭」役としての天草四郎であり、「コンヒサンを申すべき仕合わせ」の到来であった。

■「司祭」役・天草四郎登場

 筆者は2015年、「司祭」の用語を有しなかった当時のキリシタンたちが、「司(つかさ)」の用語でそれを表していたことや、天草四郎が「司祭」として登場したことを突き止めたことがあった。たとえば、宣教師・コリャードが徴収した文書に「こんはにやの司(つかさ)」、「さんととミんこの司」の表記があり、また『どちりいなきりしたん』に「きりしたんの司」と記されている、その「司」はいずれも「司祭」(または司教)を意味するものである。そして、『山田右衛門作口上書』に「四郎を引き立て、此の宗門の司と仕る…」とあるのは、天草四郎が司祭役に就任したことを説明するものであった。加えて、『寿庵の廻文』で「天人あまくだり成らせられ候…天草四郎様と申すは天人にて御座候」(註11)と言い、また細川藩史料に「四郎は…人間にては無之」(註12)、「でいうすの再誕之様に申し候」(註13)などとあるのは、司祭としての天草四郎を別の言葉で表現したもの、と見ることができるであろう(註14)。

 『寿庵の廻文』をもって島原・天草地域のキリシタンたちに天人・天草四郎の出現が知らされたのは、「寛永14年10月15日」(註15)の満月の夜であった。それから、にわかに「立上り」、転び証文を取り消すための寺社破壊・焼却、それを取り戻すための島原城への直訴行動などを経たあと、「同年12月1日(西暦1638年1月15日)」から原城に入った。司祭・天草四郎が到着したのは「12月3日」(1638年1月17日)。最終的に島原半島・宇土半島・天草の島々から3万7千余の「立上り」「きりしたんに成り候」仲間たちが結集した。

 こうしていよいよ、司祭・天草四郎の直接指導のもと、「きりしたん作法」としての「ゆるしの秘蹟」が真冬の原城を舞台に展開されることになったのである。(つづく)

【写真=「右の仕合わせ、きりしたんの作法に候」とある矢文】

註1】…「元和年間、ドミニコ会士コリャード徴収文書」のうち「元和七年霜月十日付、平左衛門等十八名連署証言」。松田毅一著『近世初期日本関係南蛮史料の研究』(1967年刊)1167頁。

註2】…寛永15年「城中より、御陣中」宛て矢文。「…宗門に御かまひ御座なく候へば存分御座なく候。籠城の儀も頻りに御取り掛かり成られ候につき、此のごとくに御座候。右の仕合わせ、きりしたんの作法に候。…」

註3】…『どちりいな・きりしたん』に、「第七・でうすの御掟の十のまんだめんとの事…第一、御一体のでうすを敬ひ貴び奉るべし」。旧約聖書「出エジプト記」第20章3-5節に、「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。」とある。

註4】…『どちりいな・きりしたん』「第十一、さんたゑけれじやの七つのさからめんとの事」のうち、「第四ヶ条目のさからめんと」として「ぺにてんしやのさからめんと(ゆるるしの秘蹟)」があり、「是すなはち、ばうちずも(洗礼)を授りて以後、あにま(霊魂)の病となる科(とが)をなをさるる、すぴりつある(霊的)の良薬也。」とある。

註5】…本ブログ「花久留守―宮本次人キリシタン史研究ブログ」2016年1月13日付「転び証文を取り戻す寺社放火―島原の乱を解く⑦」参照。

註6】…『どちりいな・きりしたん』「第九、御母さんた・ゑけれじやの御掟の事」五ヶ条の中に、「第二、せめて年中に一度、こんひさん(罪の懺悔告白)を申すべし。第三、ぱすくは(復活祭)に、えうかりすちあのさからめんと(ご聖体の秘蹟)を授かり奉るべし。」とある。

註7】…本ブログ「花久留守―」2016年1月3日付「四郎法度書に見る転びの償い―島原の乱を解く⑥」参照。

註8】…外海・五島・長崎系のかくれキリシタン集団に伝承された「コンチリサン」に関する解説書。「別してこんびさん(コンヒサン=告白)聞かるべきばあてれ(パードレ=司祭)なき所は、科に落ちたるきりしたん、此書を読み明(あき)らめ、おしゑ(教え)のごとく務めば、其(その)科をゆるされ、でうす(デウス=神)のがらさ(ガラサ=恩寵)をかうむり奉り…」とあり、宣教師を失ったキリシタンに、暫定的な「ゆるしの秘蹟」を説くものであった。ただし、平戸・生月系キリシタンには、これの伝承がなかった。島原・天草地域のキリシタンは外海・五島・長崎系との連絡があったため、伝承があったと思われるが、確認されていない。

註9】…「ころび申す者、数限りなく候…いづれも御出家(=司祭)衆には離れ申し、立あがり可申便りも御座なく、昼夜悲しみに沈み罷居候」(コリャード徴収文書「元和7年霜月10日平左衛門等18名連署証言」)。「落涙湿袖(らくるいそでをぬらし)…片時も今生之暇(こんじょうのいとま)希計(ねがうばかり)ニ候」(意訳・いつもいつもこの世との別れ(死)を願うばかりでした)(寛永15年正月付、天草四郎より松平伊豆守様宛矢文)。

註10】…『嶋原物語』に、南蛮に追放された伴天連(宣教師)が天草地方の信徒に遺したという『末鑑』一巻の書物に、「二十五年後にひとりの善童が現れる」と記されている。また『山田右衛門作口上書(口書写)』には、「天草ノ内上津浦と申所に住所仕候伴天連、廿六年以前ニ公儀より御払、異国へ被遣候刻、伴天連書物以申置候ハ、当年より弐拾六年目にて必善人一人生れ出べし…」とある

註11】…「(寛永14年)丑10月15日」付「上総村寿庵の廻文」。

註12】…東京大学史料編纂所『大日本史料近世史料・細川家史料22』(2010年3月刊)所載・細川忠利の諸方宛書状のうち「(寛永15)2月6日、日根野吉空明宛書状」。

註13】…細川藩史料『綿考輯録・第五巻』所載「(寛永14)11月6日、天草にてきりしたんニ立帰申候村々覚」。

註14】…本ブログ「花久留守―」2015年12月19日付「司祭としての天草四郎―島原の乱を解く⑤」参照。

註15】…『島原記巻一』所載の「寿庵の廻文」の日付に「丑十月十五日」。『耶蘇天誅記』に同じく「十月十五日、上総村寿庵」。また『山田右衛門作口上覚書写』に「一、きりしたんのおこり候時分は丑十月十五日頃…一、丑十月十五日の夜に入り、俄にきりしたん立帰り…」とある。

2022年4月7日木曜日

神代貴茂夫人マリアの墓③

 ■2022年マリアの受洗記念日(4月4日)のこと

 神代城の支城・切通の砦に存在したという神代貴茂の夫人マリアとその息女の墓塔について、筆者は島原新聞社に記者として勤務していた2006年、神代在住の歴史研究家・坪田照子女史からある証言を聞いたことがある。「たしかに墓碑は切通の砦の場所に存在したが、町が同所の崖を切り崩して施設(研修センター、武道館)を作ったため行方不明になった」、というのだ。

 いくつかの証言によると、切通の砦は現・神代小学校の敷地に位置し、南側に隣接して小高い丘があり、その上に墓石が存在していた。昭和の年号が平成に変わる頃まであったというその丘が、重機によって崩されるとき、この歴史的遺物(史跡)に対しての然るべき法律または人道に基づく対処はなかったらしい。同小学校敷地の片隅に棄てられたように置かれた墓石の残欠を、当時の学校長・岩崎氏が一カ所に拾い集め、神代氏ゆかりの光明寺(堺光憲住職)に回向(えこう=供養)を依頼したことがあった。堺住職もまた、その時の状況を話してくださった。

 ところで、神代貴茂の夫人マリアとその息女らの墓石はその後、どうなったのだろうか。筆者は2021年9月、雲仙在住の歴史愛好家・中村泰尚氏から一枚の写真(本稿№①添付掲載)と新聞記事(註1)のコピーを頂戴した。写真には、破砕コンクリート片とともに側溝近くに置かれた神代マリア母子の五輪の塔の残欠が、廃棄された格好で写っていた。

 それから半年が過ぎた2022年4月4日、マリアが嶋原純茂の娘(姫)としてアルメイダ師から洗礼を受けた記念日に、筆者はにわか仕立ての標柱と花を抱えて現場を訪れた。歴史愛好者ら関係者14~5人が集う中、神代マリアについていくらか説明し、可能であれば五輪の塔を復元しようと雑草を採り、作業を開始したところ、「そのままにしてくれ。立て札と花は撤去してくれ」、との声があった。

 史跡としての神代貴茂夫人マリアの墓地を破壊し、墓石を廃棄した地元の行政の責任を言わず、これを哀れに思う在野の一研究家が訪れて、墓に花を供える行為を咎める理由はないはずだが、禁教令下、理不尽な世の中に生きたキリシタンを偲ぶには、むしろ相応しい状況であろう。2022年4月4日午後、わずかに5分間ほど「神代貴茂夫人マリアの墓」の標柱を立て、花を供えることができた記念として、ここに写真一枚を掲げ、霊界のマリア母子に捧げたい。(おわり)

写真=神代貴茂夫人マリアの五輪塔残欠に標柱と花を捧げる】
 ※註1…島原新聞2010年4月16日付、宮本記者連載記事「島原キリシタン史発掘」(全40回)のうち第34回記事「切通の砦に隠住したマリア―」。


2022年4月6日水曜日

神代貴茂夫人マリアの墓②

 

 ■神代貴茂夫人マリアのこと

 神代貴茂は、キリシタン大名ドン・ジョアン有馬晴信(15611612)と同時代に生きた有馬氏領の一領主であった。その夫人が嶋原純茂(?~1570?、領主有馬氏の従兄)の娘であったことは、日本側の記録にはないが、イエズス会の複数の記録史料で明らかになる。参考まで次に列挙する。

 ・№①「1563417日付、横瀬浦発イルマン・ジョアン・フェルナンデスより豊後のイルマン等に贈りし書簡」、/・№②「15631117日付、横瀬浦発インドに在るイルマン等に贈りし書簡」(※以上2点は嶋原純茂の娘の受洗のことを記している)。/・№③「1588220日付、有馬発信、ルイス・フロイスのイエズス会総長宛書簡―1587年度日本年報」、/・№④「フロイス『日本史』第70章」(※以上2点は神代城および同城下へのキリスト教布教について述べている)。/・№⑤「1589224日付、日本副管区長ガスパル・コレリュのイエズス会総長宛、1588年度日本年報」(※これには神代貴茂が有馬晴信に誅殺された経緯が記されている)。

 このうち、嶋原純茂が「娘マリアを神代の城主・神代貴茂に嫁がせたこと」を記しているのは、№④である。

 概略は、以下のようである。

島原純茂の娘は156344日(棕櫚の主日)、イエズス会修道士ルイス・デ・アルメイダによって洗礼を受けた。1563年(永禄6)はイエズス会が島原半島にはじめて上陸した年である。マリアは当時23歳(もしくは34歳)の幼女であったが、「高来においてデウスの教えを受け入れた最初の高貴の方」であった。

 父島原純茂は、教会および墓地の敷地を提供するなどキリスト教に理解を示したものの、周囲の仏教勢力の反対により退けられ(註1)、息子の嶋原純豊の時代になると神代氏、西郷氏、安富氏らとともに「キリシタンの敵」龍造寺氏に与した。

 3歳で受洗した島原マリアは、したがって「異教徒たちの間で成長」し、年頃になって神代城主・神代貴茂に嫁いだ。その時期は神代・島原両氏がともに龍造寺氏に降った天正56年のことと思われる。「再び信仰を取り戻した」のはイエズス会が神代城に入った1588年(天正16)。受洗からすでに25年が経過していたが、「祈祷を覚え、ミサ聖祭に与かり、告白する準備をして救いを得られる状態に立ち返った。」と、ルイス・フロイスは『日本史』第70章に記している。

 28歳にしてようやく信仰の春を迎えたマリアではあったが、運命は彼女に味方しなかったようだ。有馬晴信に反抗し続けた夫貴茂は15892月に殺害され、マリアは息女とともに神代城を出て「切通の砦」(神代城の枝城)に隠れ住んだ。江戸時代末期の1844年(天保15)、旧神代氏家臣・辻八郎右衛門が伝承を拾い集めて編纂した『神代古代史』によると、「(夫人は)終に尼となりて貴茂の跡を弔い、かすかに暮らして果てた」という。墓碑「五輪塔」は「切通ノ砦(きりどおしのとりで)」にあって、「苔むし、かつ散乱し…寂々たり」、と伝えている。(つづく)

【写真=文政5年の絵図に見られる神代城跡と神代マリアの墓地があった「切通ノ砦」】

註1】…15669月後半、祇園祭りに乗じて島原の仏教勢力がキリシタンおよび純茂を排斥し、純豊を起用したクーデター事件。逃亡を余儀なくされた島原のキリシタンたちは、口之津を経由して長崎に移住し、「嶋原町」を形成した。

2022年4月5日火曜日

神代貴茂夫人マリアの墓①

 

 ■代村のキリシタン史

 宣教師ルイス・フロイスが「高来の鍵」と著書『日本史』に記録した神代城は、戦国大名ドン・ジョアン有馬晴信の所領地・島原半島の北辺に位置する要害である。城主神代貴茂(こうじろたかしげ)はもと有馬氏の臣であったが、天正5年(1577)龍造寺隆信の勢力拡大にともない伊佐早(西郷)氏、嶋原氏らとともに龍造寺に降った。有馬晴信は「同城を必要としながらも決してそれを攻略することができなかった」。均衡が崩れるのは天正12年(1584)のことである。晴信は沖田畷の戦で薩摩の島津氏と結んで龍造寺を破り、神代城奪回の機を掴んだ。

 その後3年間ほど島原半島の北部一帯は島津氏の支配下に置かれたが、天正15年(1578)豊臣秀吉の九州侵攻により島津氏が降伏し、その支配から解かれた。翌天正16年(1588)、有馬晴信は北目地域に宣教師を派遣してキリスト教布教を展開し、支配権奪回を目指した。

 「…下地方の上長ベルショール・デ・モーラ師は、他の一司祭を伴って神代城に赴いたが、ここは昨年、武力によってドン・プロタジオ(のちのジョアン有馬晴信)の支配下に属したところである。城主(神代貴茂)とその家臣たちは説教を聞いた後、城主とその母堂、および一人の息子と娘、さらにその他の仏僧たち全員が受洗した。こうしてその機会に百五十人の重立った人たちが受洗し、司祭たちが二度目にその地に行った時には百人が受洗した。このようにその地での改宗事業は進展していき、すでに同所にはほとんど一人の異教徒もいなくなった。当1588年(天正16年)の7月までに当地域の各所において千六百八十八人が洗礼を受けた。」(フロイス『日本史・第70章』)

 この後、フロイスは神代貴茂の夫人―1563年春、ルイス・デ・アルメイダ師によって幼児洗礼を受け「マリア」の霊名を授かった嶋原純茂の娘―について述べている。彼女は受洗後、「異教徒だけの間で育ち」、自分が受洗したことさえ忘れる状況にあった」が、25年が経過したこの年(1588年)、再び「(教理を)聴聞して信仰を取り戻した。」。

 一方、夫貴茂は一旦受洗して晴信に降ったものの、内心「晴信の敵」であり続けた。そして、やがて貴茂の最期が訪れる。

 「…この人物(神代城主・貴茂)は今でこそキリシタンに成り代わっているものの、神代の城が奪われたのをみてとると、有馬に対していくつかの策謀をめぐらし始めた。…彼らの間で企てられていた策略が露見するやいなや、ドン・プロタジオ(有馬晴信)は伊佐早殿(西郷信尚)の同意を得て、…神代殿(貴茂)に不意討ちをかけるよう(家臣ら)に命じた。彼らはドン・プロタジオの召使いに刃向かったため、ただちに全員が殺された。…すでに日本人が正月―これはすなわち新年の最初の日―と呼ぶ時期にかかっていた。」(イエズス会「1588年度年報」―1589225日付)。

 神代貴茂が有馬晴信に殺された「正月」は日本の「旧正月」であり、「1588年度」年報が記録された「15892月中旬」に当たる。(つづく)

写真=2022年9月某氏から筆者が受け取った神代マリアの墓碑の写真】