2017年11月30日木曜日

「桑姫」再考―その②―

 これまで、桑姫社はキリシタンを祀る神社として、その特異性が強調されてきた。ところが、『志賀家事歴』や『長崎名勝図絵』が伝えるところの長崎奉行竹中采女正重興と「大友家姫君於西御前」との密な係わりは、「大友家に御由緒なられる」という当時の封建的武家社会における価値観に依拠するものであった。
 『志賀家事歴』はまた、長崎に移住した志賀宗頓親成(別名「ゴンサロ林与左衛門」)が、長崎奉行に抜擢された豊後国府内城主・竹中采女正によって淵村庄屋職に指名されたこと。長崎において竹中采女正と懇意になっている志賀宗頓が「大友家の御姫於西御前」を「御介抱申し上げ」たこと、などが記されているが、これらも同じく「大友家の由緒」に基づく行為であった。
 詰まるところ、竹中と桑姫、桑姫と志賀、志賀と竹中の、いずれの関係も〃大友家由緒〃によるものであることが判明する。
 
 ■大友家由緒とは何か?
 それでは「大友家由緒」とは何であるのか。具体的に言えばそれは、かつて九州6カ国の守護大名であり、禅宗とキリスト教の深い精神修養による独自の宗教哲学をもって戦国時代を生き抜いた豊後国国主・大友義鎮宗麟(1530―1587)との「由緒」であるに相違ない。彼は島津との戦(いくさ)の途次、志なかばにして逝ったが、その徳政と時代に果たした功績は歴史の中に浸透し、遺った。
 竹中采女正重興の父・重利が豊後国国東郡高田に1万3千石で大名に取り立てられたのは、宗麟の息子義統が秀吉によって排斥された直後の文禄3年(1594)である。関ヶ原戦では東軍に舵取りした黒田官兵衛如水に附いて所領を安堵され、続いて豊後府内城主(3万5千石)になった。重利・重興父子は、あるいは黒田官兵衛如水を介して大友宗麟の遺徳に預かったことと思われる。―そうでなければ、寛永年間、長崎奉行となった竹中采女正が「大友家の御由緒なられる」として「大友家の御姫於西御前君」の孤寂な晩年を聞こし召され、わざわざ「時服、御酒、御肴、白米30俵」を進上されることなどなかったはずである。

 以上、「大友家由緒」の視点から考察される「桑姫」は、大友宗麟亡き後の主家大友家を代表し、代理するような立場にあった女性でなければならないであろう。(つづく)
「竹中氏、大友家に御由緒なられ(て)御座候由」とある『志賀家事歴』(部分)



2017年11月29日水曜日

「桑姫」再考―その①―

 キリシタン神社として知られる長崎の桑姫社は従来、その被葬者(祀られている人物)を18歳で病死した在俗修道女マセンシアとして紹介されてきた。この説をはじめて唱えたのは片岡弥吉である。昭和12年(1937)、『長崎談叢・第19輯』に投稿した論考「浦上草創期の頃の二、三の事蹟」で言及した。その際、桑姫の没年「寛永4年(1627)」とマセンシアの死亡年「1605年」とに22年の誤差があるにもかかわらず、片岡氏は検証もしないまま「(桑姫)碑文の誤であろう」と一蹴した。
 6年後の昭和18年(1943)、浦川和三郎は著書『浦上切支丹史』に同説をそのまま掲載した。以来、この仮説はあたかも真実かのようにみなされ、戦後の桑姫社にかんする諸著述に繰り返し紹介されてきた、というのが一連の経緯である。

 筆者は2015年、マセンシア説に異を唱え、代案として、桑姫の死亡年をヒントに「1627年(寛永4)8月17日」長崎西坂で殉教したマグダレナ(マダレイナ)清田をそれとする小論を書いた。
 あれから2年余、種々の史料を検討するなかで、片岡―マセンシア説が誤りであると考えられる他の一つの理由を得た。それは、寛永年間に長崎奉行となった竹中采女正が、同じく「大友家に御由緒」あるとして淵村庄屋に取り立てた豊後出身の志賀宗頓(親成)から、「於西(阿西)御前(=のちの桑姫)のことを聞き、使者をして「時服、御酒、御肴、白米三十俵」を進上した、という記録である(註)。
 徳川幕府の長崎における行政権を代行する奉行竹中采女正が、それほど丁重な進物をする人物とは、竹中にとって相応の恩義がある人でなければならない。マセンシアは大友宗麟の孫娘(次女テクラの娘)であるとはいえ、彼女が長崎で修道女として生活した時代と、采女正が府内城主から長崎奉行に抜擢される時代とには20年余の誤差があり、面識もなかったであろう。そのようなマセンシアに竹中が恩義を感じて進物をしたとは考えられないのだ。
 この考察は、同時にマグダレナ清田(筆者は大友宗麟の長女ジュスタの娘と推定した)を桑姫とした自説の再考をも余儀なくされた。恩義の云々はもとよりだが、殉教者ともなったマグダレナ清田はキリシタン信仰において優れた人物ではあっても、これを徹底的に弾圧した為政者竹中采女正との接点が見いだせないからだ。
 桑姫は、まだどこかに隠れている!再度、諸史料、諸遺物を精査してこの課題を究明してみたい。(つづく)

 ※註…文政年間、淵村庄屋第8世志賀茂左衛門親籌が書き留めた『志賀家事歴』(長崎歴史博物館所蔵)、同じく文政年間(1820年頃)、饒田喩義(にぎたゆぎ)が編纂した『長崎名勝図絵』に記されている。
長崎奉行竹中采女正が「御姫於西御前(桑姫)に丁重な進物をした旨が記されている『志賀家事歴』(部分)




 
 

2017年11月26日日曜日

清田鎮忠・ジュスタ夫妻の男児の有無に関する考察

                ドン・フランシスコ大友宗麟とその家臣について、イエズス会の報告書は多くの頁を割いて紹介している。なかでも長女ジュスタが嫁した清田鎮忠と同一族に関する記述は顕著である。
一方、清田家の子孫が伝える同家先祖についての史料もある。
両者は基本的に一致するが、異なる記述もある。最大の齟齬は、イエズス会が「彼ら(鎮忠とジュスタ夫妻)には男の子がなかった」(註1)とするのに対し、日本側の史料は鎮忠には嫡男・鎮隅、次男・五郎大夫がいた、としていることであろう。
筆者は2017年10月、清田五郎大夫家のご子孫清田泰興氏からその問題の指摘を受け、双方の史料を比較考察しながら数回にわたって意見を交わした。
本小論は、表題の課題に対する試論である。

結論を先に言うと、これは、鎮忠には実際、男の子供があった、としなければならないと考える。ただし、嫡男「鎮隅」と次男「五郎大夫」については、清田鎮忠が後室として迎えた大友宗麟娘ジュスタとの間の子供ではなく、前室・一色殿娘の子であること。そして、「鎮乗」はやはりイエズス会が指摘するように、「彼ら」すなわち鎮忠とジュスタの間「には男の子がなかった」ため「養子に迎えたドン・パウロ(志賀親次)の兄弟」であった、と思われる。

嫡男鎮隅、次男五郎大夫のこと
『太宰管内志』、『清田家旧記』などに出てくる「鎮忠の嫡子・鎮隅」なる人物は、天正15年(1587)豊前長野一揆に出陣し、そこで命を落としている。これから判断して、同年(1587年)当時、彼はすでに大人であったことは確かである。すなわち、ジュスタ(宗麟娘)と鎮忠が結ばれるのは1575年頃であるから、翌年(1576年)長男・鎮隅が生まれたとしても(ジュスタの子であるなら)「11歳」にしかすぎない。ゆえに鎮忠の男子、長男「鎮隅」、次男「五郎大夫」は前妻の子供であったと見るのが妥当である。これについては両者の母が「大友宗麟の娘」と明記されないことからも裏付けられる。

イエズス会記述の問題
次に、イエズス会が鎮忠とジュスタ夫妻と接したのは、あくまでもキリスト教布教という接点においてであるから、イエズス会は鎮忠の前歴を把握していなかった。と言うより、イエズス会が鎮忠に聞き取り調査をしたとき、鎮忠自身もイエズス会にその件を言う必要がなかったし、実際、言わなかったであろう。
清田鎮忠が主家である大友家から夫人を迎えたとき、清田家より主家大友家の家系を優先するのは、武家社会における主家と家臣の主従関係からしても当然のことであった。
しかし、ジュスタとの間に生まれたのは「女子」のみであった(註2)。そこで取られる措置は、ジュスタの娘―または連れ子―に養子を迎えることである。それが「1586年度イエズス会年報」に見られる記事―「彼らには男の子がなかったので、ドン・パウロ(志賀親次)の兄弟を養子とした」―ことであった、と考えられる。

「鎮乗」の母は大友宗麟娘
この「ドン・パウロ志賀親次の兄弟」なる養子は「鎮乗」であり、志賀(林)家系図から判断される「志賀浄閑(寿閑)」であった。イエズス会の「1588年10月2日付、臼杵発信、ペロ・ゴーメスのアレシャンドロ・ヴァリニャーノ宛書簡」は、「同人(迎えた志賀家からの養子)に洗礼を受けさせ、その名をドン・ペドロとした。」と伝えている。
ドン・ペドロ鎮乗は鎮忠・ジュスタの「養子」であるが、「娘婿」であった。これが清田家の記録で、「寿閑(鎮乗)」についてのみ「母は大友宗麟娘」と記し、それ以外の嫡男鎮隅、次男五郎大夫については、その記述がないことの理由であろう。

キリシタン禁制時代における清田家系図
以上がキリシタン時代における清田鎮忠家の実際ではなかっただろうか。
ところが、徳川時代に移るとキリシタン宗が「御法度(禁制)」となり、状況が一転する。すなわち家系にキリシタンが存在した場合、「切支丹類族」として七代にわたって監視下に置かれことになり、これを消去または隠蔽する必要があった。
清田家の場合、キリシタンであった「鎮忠・ジュスタ」、「その娘」については「血筋」が「キリシタン類族」として仕分けられ、管理される。これを証明するものとして、細川藩の「(切支丹)類族帳」に、「私(細川家)家来清田石見母転切支丹凉泉院系」というのがある。この中に出ている「凉泉院」は清田石見の母、すなわち大友宗麟の長女ジュスタの娘であろう。志賀家から養子として入った夫「清田(志賀)鎮乗、后寿閑」と「凉泉院」の子孫が「転切支丹」として監視されていることが判明する。
こうして本来、鎮忠・ジュスタの娘とその夫(志賀鎮乗)によって継続されるべきであった清田鎮忠宗家は、藩政時代に入ると傍系に転じ、その一方で、キリシタンでなかった(と思われる)鎮忠の前妻の子供「鎮隅」、「五郎太夫」の家系が、同家の正統の位置を確保することになる。


※註1…「1588年10月2日付、臼杵発信、ペロ・ゴーメスのアレシャンドロ・ヴァリニャーノ宛書簡」
※註2…「1578年10月16日付、臼杵発信、ルイス・フロイスのポルトガル・イエズス会司祭・修道士宛書簡」―「彼ら(清田鎮忠・ジュスタ)には二歳くらいの娘一人のみあって…」
「1580年10月20日付、豊後発信、ロレンソ・メシヤのイエズス会総長宛1580年度日本年報」―「嗣子となる幼い娘」
熊本細川藩の切支丹類族帳に見る「清田石見母転切支丹涼泉院系」(部分)





2017年11月8日水曜日

『16・7世紀イエズス会日本報告集』による清田一族にかんする記録(史料)

                           ―――2017/11/08宮本作成

■1578年(天正6)
 【1578年10月16日付、臼杵発信、ルイス・フロイスのポルトガル・イエズス会司祭・修道士宛書簡
 …老国主(大友宗麟)は一女を清田殿と称する同国の主要なる殿の一人で、この臼杵より四、五里の所に屋敷と所領を有する人に嫁がせていた。彼らには二歳くらいの娘一人のみあって、非常に愛していたが、その娘が重い病にかかったので、諸々の偶像に供物を捧げ祈祷するため直ちに仏僧や妖術師、占者、その他同様の卑しき者多数が呼び寄せられた。…およそ十五日間に彼らは、生命を保証する右の法華宗徒らに一千クルザード近くを寄進した。幼女の両親は、彼らの神々の恵みと慈悲がどこまで通ずるかを見るため、供物と祈祷に力の及ぶ限り尽くすが、このように懇願した後、「生命を救うことができぬ場合は、神々の力がいかに小さいかを明確に知るであろう」と言った。(大友宗麟の)奥方イザベルは娘(清田殿夫人)の決心を知り、毎日彼女のもとに伝言を発し、「一度キリシタンになる意志を抱けば、それのみでも十分に幼女を死に至らしめるのであるから、神・仏に祈ることを止めぬよう」勧め、彼女もまた「神・仏に祈祷と寄進をして援助するであろう」と伝えたが、我らの主なるデウスは彼らがすることが少しも効果なく、幼女が死ぬことを許し給うた。父親(大友宗麟)はただちに妖術師の幾人かを殺させ、嫡子(義統)は当地から行った他の妖術師らを殺させた。清田殿は当地に来て、出立しようとしていた国主に別れを告げた際、(キリスト教の)説教を聴く許しを求め、当地と彼の家において数回説教を行ったが、彼は自領に帰ると、彼とその夫人、ならびに親戚の身分の高い人数人がキリシタンになるため、修道士のもとに迎えの馬と人を遣わした。修道士がかの地に滞在した間、(宗麟の)奥方イザベルより娘(宗麟の長女・清田殿夫人)宛の伝言が毎日届き、決してキリシタンになるべきでなく、夫がキリシタンになることにも同意してはならない、と伝えてきた。それから二、三日後、フランシスコ・カブラル師がかの地に赴き、彼(清田殿)と高貴な人数名に洗礼を授けたが、この時(清田殿の)夫人は母(イザベル)に譲渡したため、キリシタンになるという、いとも深きデウスの御恵みを蒙ることができなかった。

■1580年(天正8)
1580年10月20日付、豊後発信、ロレンソ・メシヤのイエズス会総長宛1580年度日本年報
 国主フランシスコ(大友宗麟)が改宗したことにより、この豊後に最初の(改宗に対する)熱気が生じたとき、国主は自分の娘一人(長女ジュスタ)と、同国の重立った大身の一人である娘婿(清田殿)に力を注いで(改宗させんとした)ので、二人は洗礼を受ける決心をしたが、これは彼らの救いに対する希望と決心によるというよりは、国主が頻りに勧めたためであったので、彼らはわずか数人の家臣を伴うのみで、嗣子になる幼い娘や、清田殿と称する右の大身の母、その他貴人および家臣、使用人の一同、さらに二、三人の兄弟は(洗礼を受けず異教徒に)留め置いた。
 …清田殿の一兄弟が突如、悪魔に苦しめられるよう計らい給うた。諸人が明らかにそれと分かったのは、十人や十二人がありでも彼を抑えることができず、その顔は突き出して犬のような容貌となり、誰にも解らぬ別の言葉を喋って人々を身の毛もよだつほどの恐怖に陥れたからである。この噂に多数の人が集まったが、その中に右の清田殿の義兄弟にあたるキリシタンの貴人がいた。かれはロマンと称し、キリシタンになって二年に過ぎないが、信仰と徳においては清田殿と大いに異なり、迫害のもと絶えずその徳によって優れた模範を示した。この人は、清田殿の兄弟の身に起こったことを見ると深い信心と熱情に動かされ、身につけていた聖遺物入れ(キリシタン信心の聖具)を取ると、件の悪魔に憑かれた男の頸に懸けた。これによって男は大いに束縛され…、ただ大きな叫び声を上げるばかりで、聖遺物入れを取りさるよう求めた。ロマンが「彼は何者であり、なぜその男を苦しめるのか」と問うと、彼は「己は悪魔であり、その男がキリシタンにならず、キリシタンに敵対する故に苦しめるのだ」と答えた。ロマンは種々の質問をし、立ち去るよう強要すると…たちまち悪魔が去り、青年は自ら立てぬほど苦しめられ衰弱していたが、健康を回復し、間もなくしてキリシタンになる決心を固めた。
 …清田殿自身、過去を深く悔い、真のキリシタンになる希望を持ち始め、このことを母と妻に書状により伝えた。青年は非常に衰弱し、病身のまま清田に戻り、事の次第を母に語ると、彼女もまたキリシタンになることを決心し、さっそく彼らは説教を聴き始め、二人とも我らの主(なるデウス)より大いに助けられたので、真のキリシタンになることに決した。青年は…病と衰弱がひどくなったので、真のキリシタンとして遺言をし、…周囲の人たちに感化となるべき事柄を多く語り、それから数時間を経て死去した。…巡察使(ヴァリニャーノ師)がいとも荘厳に執り行わせた葬儀を見て、(死んだ息子の)母はたいそう心を動かされ、来世において息子と再会することを望んだので、息子の死は彼女の(キリシタン)帰依をいっそう促すこととなった。
…右のことにより清田に生じた動揺がきわめて大きかったので、巡察使は自ら人々に洗礼を授ける決心をし、同老女と清田殿の長女、清田殿の他の兄弟、亡くなった兄弟の夫人のほか、清田殿の親戚や多数の重立った貴人の男女らに洗礼を授けた。このほか諸人が説教を聴く決心をし、清田殿とその夫人も大いに心を動かされたので、既述のように彼らの娘に洗礼を授けさせたのみならず、義兄弟のロマンに命じて、彼自ら領内を巡って偶像をことごとく破壊し焼却させ、巡察使や、その他同地を訪ねた全ての司祭と修道士を非常に歓待した。…彼らは教会を開くため、はなはだ大きな僧院を(イエズス会に)与え、全領民を帰依させるため、同所に司祭一名と説教師一名を置くことを巡察使に懇願した。

 宮本付記…この年(1580)「洗礼を受けた〃清田殿の長女〃」とあるのは、後世、熊本細川藩が家来として抱えた「清田石見」の母「涼泉院」であろうか。彼女「涼泉院」は熊本藩のキリシタン類族として記録されている(上妻博之編著『肥後切支丹史・下巻』409頁)。涼泉院が宗麟の長女ジュスタの娘であったか、それとも清田鎮忠の前妻の娘であったかは判然としない。


1581年(天正9)
 【1581年9月15日付、日本発信、フランシスコ・カブラルの総長宛書簡
 …臼杵から四里のところに野津の司祭館があり、…この司祭館の周囲三里には約一万五千名がいて、その内三千人はすでにキリシタンであり、立派な教会が一つある。この教会はある貴人のキリシタンが他の人達の助力を得て建立したもので、…。この地は国主(大友宗麟)の婿清田(鎮忠)殿の所領となっている彼(清田鎮忠)の夫人(ジュスタ)が洗礼を受けたのは三年前のことで、彼(鎮忠)は一年半になろう。彼らは(臼杵から)遠くにいて、教化にあずかることができずにいたため、二、三ヶ月前までは幾分冷淡になっていたところ、司祭が当(臼杵)修道院および府内の学院(コレジオ)からたびたび彼らのもとへ足を運んで説教をおこない、特別に世話をしたので、ふたたび熱意を取り戻した。また両人は彼らの数多い家臣をことごとくキリシタンにすることを決意し、実際に多くの者がすでにキリシタンとなっている。

■1582年(天正10)
 【1582年10月31日付、口之津発信、ルイス・フロイスのイエズス会総長宛、1582年度年報
 ジュスタという名の国主(大友宗麟)の娘は清田(鎮忠)の夫人であるが、その夫とともに彼女はデウスの教えを理解し、これを好むことを所作により徐々に示している。新たな教会を建立して諸聖儀にたびたび列席し、同教会を司祭や修道士が訪れると盛大にもてなし、デウスについて新たに聴聞することを常に望むのである。彼らの家人もほとんど全員がすでに洗礼を済ませているが、豊後においてなされつつあることのすべてはデウスの直接の恩寵に次ぐ同国の善良なる国主フランシスコ(大友宗麟)の熱情と才覚によるものである。

1584年(天正12)
 【1584年9月3日付、長崎発信、ルイス・フロイスのイエズス会総長宛、1584年度日本年報
 府内から二里のところにあり、キリシタンである国主の一女(ジュスタ)が嫁している清田では5月に130人が受洗し、その内数人は身分ある領袖(であった)。

■1585年(天正13)
 【1585年8月20日付、長崎発信、ルイス・フロイスのイエズス会総長宛書簡
 …ペロ・ゴーメス師が清田に立ち寄った時、国主フランシスコの娘ジュスタは彼女が建てた新しい教会に司祭一人を住まわせ、告白を聴き、キリシタンを助けるよう熱心に頼んだ。しかし豊後の多数のキリシタンに対し、司祭が少ないために派遣するのが不可能であった。しかし都へ出発する便船を待っていたフランシスコ・パシオ師を、何日かそこに留めることにした。司祭はジュスタとその夫(清田鎮忠)の告白を聴き、彼女がデウスの前で、大いにほめられ、家臣の模範になるべき人であると考えた。彼女は夫(清田鎮忠)と公に婚姻の秘蹟を受けることを望んでいた。その夫(清田鎮忠)は盲目で重病を患っていたが、司祭は、その望み通りにした。また彼女は、教会の近くに小さな家を一軒建てさせ、司祭や修道士がそこに行ってミサを行ない、告白を聴く時に宿泊できるよう、必要なすべてのものを備えさせた。
 その後…1300人近くがキリシタンになった。…これにより、清田の地の者は、すべてすでにキリシタンとなった

1586年(天正14)
 【1586年10月2日付、臼杵発信、ペロ・ゴーメスのアレシャンドロ・ヴァリニャーノ宛書簡
 清田は、御寮人(ジュスタ)とその夫清田(鎮忠)殿がキリシタンで、その領地をすべてキリシタンにしたので、今日全員がキリシタンである。彼らには(男の)子がなかったので、ドン・パウロ(志賀親次)の兄弟を養子にしドン・パウロが邪魔の入らない内に同人に洗礼を受けさせ、その名をドン・ペドロとした。そこで我らはドン・パウロとドン・ペドロの二人の兄弟の豊後の国衆を持っている・

■1587年(天正15)
 【1588年2月20日付、有馬発信、ルイス・フロイスのイエズス会総長宛書簡―1587年度年報
 …薩摩の兵は、豊後の国の破壊を中断することなく、(島津)中務は進入して来た道の確保を終えた後、ドン・パウロ(志賀親次)を除いた南郡(なんぐん)のすべての殿を味方にし、嫡子(大友義統)と仙石のいた府内に向かって兵と共に進軍した…。ついに最後の時が来、仙石と嫡子(大友義統)は、短い期間で敗北し、生命からがら、ごくわずかの兵を連れて逃げ、府内の中も安全ではないと考え、そこから三里の小城に退いた。が、そこも安全ではなく、豊前に逃れた。この敗北により、すぐ清田も降伏したが、これは府内の近くの別の城で、嫡子の義兄弟(清田鎮忠)のものである。それから敵は進んで、突然府内に入り、すべてのものを焼き破壊したので、そこの住民になされた破壊、敵が背後にあって焼かれた家々から逃げる男女、子供たちを見るのは悲惨な思いであった。

 …小寺(黒田官兵衛)がその兵と共に豊後に入って行くと、薩摩の兵も退き始めた。最初豊後に背いた人たちも時勢の変化を見、転向して嫡子(大友義統)の側につき、薩摩の敵だと公言した。薩摩の軍は官兵衛が来る前に退却しようと急いだが、初め味方についた豊後のその同じ殿たちから少なからず損害を被った。しかしこうして何の役にも立たず、嫡子は彼らに相応しい罰を与え、領地、城を没収し、これらの者を殺すようにと命じた。こうして、老中、国衆の朽網(宗歴)殿とその息子たちを殺し、他の国衆たちは助けを求めたが、すべて国外に追放された義兄弟の清田(鎮忠)殿からもその所領を没収したが、生命は許した

 (※…1587年6月28日、老国主フランシスコ大友宗麟は津久見で逝去した。)

■1588年(天正16)
1589年2月24日付、日本副管区長ガスパル・コエリユのイエズス会総長宛、1588年度日本年報
 …国主(大友義統)は都に赴いたが…まったく恐怖にうちひしがれ卑屈になり、…配下の殿たちに関白(秀吉)殿が既述の朱印で命じていること(=バテレン追放令)を即刻実行に移させるようにとの書状をしたため、実際にそうした。…(これに抵抗したのは)国主フランシスコの妻のジュリアとその家族。レジイナ(宗麟の娘)とその一族。…ドン・パウロ(志賀親次)の伯叔父・林ゴンサロ殿と、ジュリアの娘であるコインタ、および志賀ドン・パウロ殿とその妻マダレイナ、さらにはキリシタンである彼らの家来たちである。彼らの数はすでにしたためたように8千人を超えた。同じように既述の不当な命令を承諾することを望まなかったのは、同じ国主(義統)のもう一人の姉妹である御寮人(ジュスタ)とその夫ドン・清田殿であった。今、この両人は既述の御寮人(ジュスタ)に属するある場所で貧弱に暮らしている。清田殿がかつて有していた諸領をほかならぬ国主(義統)に召しあげられたためである。国主はこれについて清田殿にこう語った。「貴殿は過ぐる戦さにおいて薩摩の側に肩入れした。やがて貴殿はおのが運命の尽きたことを認めて薩摩の連中とともに降伏の余儀なきにいたった。が、それは、薩摩の国主が打破され敗走するのを見届けたあとだったではないか」、と。

 宮本付記清田鎮忠とその夫人ジュスタが豊後国を追放され、「ある場所で貧弱に暮らした」ところについて、イエズス会は「御寮人(ジュスタ)に属する(場所)」としている。これに関連する記事として、「1578年10月16日付、臼杵発信、ルイス・フロイスのポルトガル、イエズス会司祭・修道士宛書簡」に、「キリシタン貴人二人」すなわち清田鎮忠とその夫人ジュスタの依頼により、フランシスコ・カブラル師とルイス・フロイス師、日本人修道士の三人が豊後国から「9~10里のところ、肥後国」に赴いて同地で「66人に洗礼を授けた」ことがあった。また「1582年10月31日付、口之津発信、ルイス・フロイスのイエズス会総長宛・1582年度年報」には、アントニオ師が「(肥後国)高瀬に赴き、国主の娘ジュスタの家臣60人に洗礼を授けた。その後も他に200人が(教理を)聴聞し、洗礼を目指して」いる旨、記されている。肥後国の高瀬およびその周辺に、ジュスタの所領地があったのは確かである。よって、豊後国を追われた清田鎮忠・ジュスタ夫妻が「貧弱に暮らした」場所は、肥後国の高瀬もしくはその周辺地と考えられるが、定かではない。

…松田毅一監訳、同朋舎出版の『十六・七世紀イエズス会日本報告集』。第Ⅰ期5巻、第Ⅱ期3巻、第Ⅲ期7巻、計15巻からなる。