2022年11月18日金曜日

カタリイナ永俊⑤

 ■小西行長・カタリイナ夫妻の娘・妙身「マルタ」

 カタリイナ永俊の基本史料とされる「薩藩旧記雑録後編」藩史局編者見解には、カタリイナの最初の夫が小西行長であり、娘(妙身)が一人いたこと。二番目の夫が島津忠清で、その娘・桂安が藩主島津家久の夫人であることが記されている。母カタリイナが生んだ娘二人―妙身と桂安は異父姉妹であった。このうち妹の桂安は鹿児島藩初代藩主島津家久に嫁ぎ、2代藩主となる光久を生んでその地位を確立したが、「異教徒であった」(註1)

 一方、姉の妙身は母カタリイナと同様、キリシタン信仰を貫き、苦難の道を辿った。二回結婚し、連れ子を伴った点でも似ている。母の連れ子は小西行長の娘、妙身の連れ子は有馬直純の娘であるから、ここにも有馬・小西両家の繋がりを見ることができる(註2)

 ところで、前掲史料にはカタリイナの娘・妙身の最初の夫が有馬直純であること、そして妙身の洗礼名が「マルタ」であることについては記していない。この事実は意外と周知されていないが、二つの史料によって割り出される。一つは薩藩史料のうちの喜入氏関係史料。他の一つはイエズス会史料である。「藤原姓島津氏族喜入氏系図」によると、喜入忠政に二人の「女子」があり、姉の「於満津」の「父は県(あがた)の士有馬式部大輔(直純)」とある(註3)。すなわち忠政の子ではなく夫人・妙身の連れ子であって、前夫有馬直純との間の子であった。これによって妙身の最初の夫が有馬直純であったことが分かる。

 他方、イエズス会史料は直純の結婚が三回あり、相手の洗礼名を記している。最初が1598年、行長の兄ベント如清の娘マルタであったが、これは婚約のみで実現しなかった。二回目が1604年、大村嘉前の娘メンシアと結ばれたものの、メンシアが一年も経たないうちに亡くなった。三番目が1607年頃、相手は「マルタ」であった。これについて結城了悟氏は史料をもとに調査し、著書『キリシタンになった大名』に詳しく述べている。ただし、氏は執筆当時、邦文史料の確認が十分ではなかったと思われる。次のような曖昧な表現をしている。

 「(直純の)三番目の奥方は家来の皆吉久兵衛絡純の娘で、マルタと呼ばれていた。その結婚によって一人の娘が生まれた。(註4)

 「皆吉久兵衛絡純」という人物を結城氏が如何なる史料によって上げたのか、出典を記していないので不明だが、有馬氏の史書『國乗遺聞・巻之二』には「皆吉久右衛門續能」を「皆吉久兵衛續能」とする表記がある。両者は同一人物であった。そうすると直純の三番目の奥方は、正しくは「皆吉久右衛門續能の娘(=カタリイナ)の娘」であり、彼女はイエズス会の史料によって「マルタ」の洗礼名をもつ女性であったことが判明する。

 直純とマルタ「妙身」は、有馬の日野江城もしくは有馬にあった教会で「婚礼の秘蹟」によって結ばれた。その頃、父・晴信はイエズス会とともに「祖先の領有した大部分(藤津郡=ドミニコ会が進出した地域)を手に入れようと」画策していた。それは徳川幕府との駆け引きでもあり、途次、家康が提示した「曾孫女(国姫)」を息子・直純の新しい夫人として受け入れざるをえなかった。1611年(慶長16)のことである。ここから有馬氏の転落とマルタおよびすべてのキリシタンたちの苦難が始まることになる。マルタは有馬家を追放され、「長崎近く(千々石)の或る山中に置かれた」(註5)

カタリイナ永俊の二度目の結婚と行長遺児・マルタ(妙身)

 マルタ(妙身)の母カタリイナ永俊はそれ以前、文禄の役失態の廉で小西行長領宇土に預けられていた薩州家島津清忠と1597-8年頃結婚し、関ヶ原戦(1600年)後は熊本藩加藤清正のもとにあった。1609年12月、島津氏関係者(義久、常久)の尽力で鹿児島に帰還することになるが、その間、カタリイナは忠清との間に一女(1599年生)一男(1602年生)を設けている。妙身マルタは父行長亡き後、あるいは皆吉家に戻っていたかもしれない註6)。父母から離れ、そして結婚した夫直純からも離縁させられた妙身マルタは、孤独な境涯に立たされたであろう。「まだ20歳で、いとも上品に育てられていたにもかかわらず、デウスを傷つけるよりは、日本から脱出して極度の貧困にも耐える決意をしていた」、と「1612年度年報」は伝えている(註5)

 このあと、いかなる機縁で喜入忠政と結ばれるのか、詳細は不明だが、『枕崎市史』はその出会いが1614年秋のことであったと述べている(註7)。(つづく)

【写真】有馬・宇土・鹿児島が近距離で描かれているキリシタン時代の西九州地図

註1】…1616年、マテウス・デ・コウロスによって書かれた年報書簡「長崎、1617年2月22日発信、Jap.Sin.58, 437-38.」。

註2】…行長と晴信のキリシタン信仰に基づく友情の機縁は1587年、秀吉の九州征討後、危うく自領を失いかけた晴信に対し、行長が温情の言葉をかけた出来事にあったようだ。「1588年度年報」で宣教師が記録している。拙著『ドン・ジョアン有馬晴信』32-38頁参照。

註3】…『枕崎市史』(1969年刊)264頁。

註4】…結城了悟著『キリシタンになった大名』(2020年聖母の騎士社刊)70-71頁。最初の婚約者と三番目に結婚した人が同じキリシタン名「マルタ」であるため、「しばしば歴史家が混乱している」(結城氏)。

註5】…「1613年1月12日付、1612年度日本年報」。『十六・七世紀イエズス会日本報告集・第Ⅱ期第1巻』(1990年同朋舎出版)340頁。

註6】…薩藩史料「旧記雑録後編」藩史局見解によると、カタリイナ永俊が島津忠清と結ばれたのは「行長滅ヒタル後」すなわち関ヶ原戦後のことである。ところが、永俊・忠清夫妻が鹿児島に帰還した1609年12月、「一男(7才)と一女(11才)を連れていた」という(『出水郷土史』250頁)。その「一女」がのちの家久夫人・桂安である。父忠清と母カタリイナのもとで生まれた桂安が1609年当時11歳であるから、両親の結婚は1597-8年頃、もしくはそれ以前となる。最初の夫小西行長が存命中のことであり、あるいは、行長の対島津政策の一環であったと思われる。

註7】…『枕崎市史』261頁~「喜入忠政の長崎出征」。



2022年11月14日月曜日

カタリイナ永俊④

 ■有馬家の娘カタリイナとしてー

 欧文史料に詳しいキリシタン史研究家・結城了悟氏(カトリック司祭)は、宣教師がカタリイナ永俊を記録した文書は二つしかないと著書『鹿児島のキリシタン』に書いている。筆者はその一つを『十六・七世紀イエズス会日本報告集第Ⅱ期第3巻』(1997年同朋舎出版)から引用して冒頭に紹介したが、結城氏はこれとは異なる文面の同年報を取り上げている。「Jap.Sin.文書」版のそれである(註1)

 「イエズス会の一神父が薩摩国のキリシタンを訪問して、彼らに告解や聖体の秘蹟を授け、これほど盲目的で頑迷な異教の中にあっては、さらによく信仰を守るように、と彼らを励まし慰めました。彼らの柱となり庇護者となっていたのは、カタリーナというその国の姑です。きわめて高貴な人で、両親や祖父母たちも信徒だったから熱心なキリシタンです。キリスト教を棄てるようにという彼女の女婿の挑戦に対抗する霊的力を、彼女はこの神父来訪によって特別に受けることができました。

 この中で宣教師は、カタリイナ永俊を「彼ら(薩摩国キリシタン)の柱」であり「庇護者となっていた」と、立場と役割を端的に表現し、その上で「きわめて高貴な人で、両親や祖父母も信徒だったから熱心なキリシタンです」と、系譜的な説明を加えている。見てきたように、カタリイナの出自は皆吉氏であり、肥前国高来の日野江城主・有馬氏に仕える「最高位の代官」の家柄であった。皆吉権左衛門は姓を「東」に替え、「東殿」の名前で呼ばれていた。ルイス・フロイスは著書『日本史』で「東殿」に言及し、「彼は仏僧たちと深い姻戚関係にあり…いく分、人並み外れた貪欲に支配されていた」と記している(註2)。カタリイナ永俊の兄弟権左衛門は役人的気質の持ち主であり、キリシタンではなかったようだ。それで「カタリイナの両親や祖父母も(キリシタン)信徒であったから、(カタリイナも)熱心なキリシタンである」と言うのは矛盾がある。もしかしたら、Jap.Sin.版年報が言うカタリイナの「両親・祖父母」は皆吉氏ではない、カタリイナの「養父母・養祖父母」―つまり有馬氏の「晴信・ジュスタ夫妻」とその親「義貞・マリイナ夫妻」を指しているのではないだろうか。〈養父〉晴信はその生涯をイエズス会に捧げたキリシタン大名であったし、また〈養祖父〉義貞は文人肌の誠実な武将として有馬家ではじめて受洗した人物であった(註3)。その情報を周知していたイエズス会宣教師たちは、カタリイナについても「有馬(晴信)家の娘」として認識していたのであろう。「きわめて高貴」との言葉が、それを裏付けている。

薩摩藩文書から有馬氏の事蹟が消された謎

 冒頭、筆者はカタリイナ永俊の出自・皆吉氏を「小西の士」であるとする薩藩文書の間違いを取り上げ、実は「有馬氏の家臣」であると証拠史料を上げて説明してきた。これと関連するもので、カタリイナの娘・妙身の前夫・有馬直純(晴信の息子・有馬家第14代)を「県(あがた=延岡)の士・有馬式部大輔(直純)」とする文書がある(註4)。これも誤りである。有馬直純と妙身の結婚は、日向国縣(あがた)に転封する以前の1610年(慶長15)以前、有馬に於いて執り行われ、娘・於満津も1612年、肥前国の千々石または長崎で生まれている。ゆえに妙身の前夫直純を説明する場合、正しくは「有馬の士」としなければならない。また、直純の官位も「左衛門佐」であるのに「式部大輔」と誤っている。喜入氏の文書(系図)が後世になって記述されたため、錯誤があると言えばそれまでだが、行長については「肥後国宇都の城主小西摂津守行長」と正しく表記されているので、有馬氏の事蹟が故意に歪められている、との感を否めない。

 同じキリシタン大名でありながら、有馬晴信との関係は忌避され、小西行長とのそれは採られた―その理由は何か。答えは、当時の封建社会的価値観に依拠するものであった、と言えよう。すなわち有馬晴信は賄賂と長崎奉行暗殺の陰謀が暴かれ、幕府によって処断された国家的罪人であったのに対し、小西行長は関ヶ原戦で敵将として死んだ侍(サムライ)であった。侍社会の論理が働いていたのだ。有馬氏と密な関係にあったカタリイナ永俊が、なかば謎に包まれてしまったのも頷けるであろう。(つづく)

【写真】カタリイナ永俊と有馬・小西・島津氏の関系図(宮本作図)

註1】…正式名称は「日本・シナ部Japonica-Sinica」。日本では上智大学キリシタン文庫にその大半が写真版本として保存されている。

註2】…松田毅一・川崎桃太編『フロイス日本史10・西九州篇Ⅱ』(1979・中央公論社発行)35頁。

註3】…フロイスは『日本史』で、有馬義貞について以下のように描写している。「彼は、日本の貴人たちのもとでは珍しく、大いに真理を愛好する君候であり、性格は温厚で正義の味方であり、所業は完全で、家臣の間ではきわめて好かれ、寛大、寛容なことで愛され、歌すなわち日本の詩歌に造詣が深く、優れた書道家であり、統治においては老練、慎重かつ賢明であった。」(前掲『フロイス日本史』32頁。義貞の生涯については、福田八郎著『信仰の耕作地・有馬キリシタン王国記』(2020年聖母の騎士社発行)が詳しい。同書100~109頁。

註4】…喜入氏関連の文書『喜入氏系図』―喜入忠政の「女子・御婦理又ハ於満津」(実は母妙身の連れ子、前夫有馬直純との間の娘)の項目に「父ハ県ノ士有馬式部大輔、母ハ肥後宇都ノ城主小西摂津守行長の娘ナリ」とある(『枕崎市史』(1969年刊)264頁)。


2022年11月10日木曜日

カタリイナ永俊③

 ■有馬氏の代官・皆吉氏「東殿」

 島原半島の有馬庄を本貫とする戦国大名有馬氏は、不受公・第十代晴純(仙巌)の時代に彼杵郡・藤津郡・杵島郡を領有し、さらに三根・佐賀・神崎郡をも支配下に入れて最大版図を獲得した。その後、佐賀の龍造寺氏が勢力を巻き返し、11代義貞、12代義純は戦に明け暮れた。そして13代晴信に至っては、味方の領主らの敵方への寝返りもあって、旧来の領地さえも蝕まれていた。窮地に陥った晴信は天正8年(1580)、受洗してイエズス会と連携し、さらに島津氏の支援を請うに至った。龍造寺との最終決戦となったのは天正12年(1584)、沖田畷の戦である。ほとんど勝算はなかったものの、海上から船で攻撃に加わったイエズス会提供の大砲が威力を発揮し、奇跡的勝利を収めた。それでも藤津郡など旧領地の回復が叶わなかったのは、沖田畷戦が島津対龍造寺の戦であって、有馬氏単独の勝利ではなかったこと。そして、島原半島北目が島津氏支配下に置かれたことに拠る。3年後の天正15年(1587)、秀吉の九州討征により島津氏の支配は解けたが、それでも祖父晴純が領有した佐賀の藤津郡の回復ができなかった。秀吉の同地に対する朱印状は、龍造寺本家の家督を継いだ政家の手にあり、晴信側にはまだ相応の力がなかったのだ。藤津郡奪回の試みはこのあとも継続された(註1)

 こうした戦国時代における有馬氏側の事情を見ていくとき、かつて「高来郡東郷と佐賀郡西泉の地頭職」にあった御墓野(のちの皆吉・東)氏が、有馬氏に帰属し、晴信時代には「有馬の最上位の代官」として重用された理由が頷けよう。外山幹夫氏(1932-2013)は著書『肥前有馬一族』(1997・新人物往来社発行)で、「有馬の地には東殿・西殿といわれる二人の代官がいて統治していた。…その地位はフロイスによれば〃身分の高い貴人〃であり、〃有馬の最上位の代官〃であった。」と記している(同書119頁)。二人の代官「東殿・西殿」のうち「東殿」が「皆吉氏」である。名前は「(東)権左衛門」。「皆吉久右衛門續能」の子であり、カタリイナ永俊の兄弟になる人物である。

■晴信の養女として行長に嫁いだカタリイナ

 有馬氏の「最高位の代官」皆吉氏一族の女性であるカタリイナが、キリシタン大名有馬晴信によってどのような扱いを受けたのだろうか。有馬氏の史書『國乗遺聞』には、皆吉續能の女(カタリイナ)が晴信の「養女」として記録されている(註2)。同書「巻之二、公子公室」の「晴信公」の項、「七公子」の記載のあとの次のくだりである。

 「御養女、御系譜記載セズ。/實皆吉久右衛門續能女。晴信公御養女トシテ小西摂津守行長。…

 「皆吉久右衛門續能の女」すなわちカタリイナが、小西行長の夫人であるというのは、「薩藩旧記雑録後編」所収の文書にも藩史局編者の見解として記されていた。有馬家の史料『國乗遺聞・巻之二』はそれが史実であることを証明してくれるものである。

 それだけではない。「皆吉久右衛門續能の女。晴信公の御養女として小西摂津守行長に嫁す」という一文は、カタリイナと小西行長との結婚が、キリシタン大名有馬晴信によってなされたことを意味するものである。つまりは、カタリイナはキリシタン大名小西行長と有馬晴信とを繋ぐ絆としての標(しるし)であったのだ。こうした背景が「1624年度年報」に見るような、弾圧の嵐の中にあって島津の藩主や家老たちの前でも怯(ひる)まない、信仰を敢然と表明する強い女性たらしめたのであろう。(つづく)

有馬氏最大勢力時代の領域図

註1】…晴信の藤津郡奪還の執念はこのあと、イエズス会の意図と重なって展開される。それは、薩摩国川内の京泊教会を経て1606年に佐賀・藤津郡に進出したドミニコ修道会を〈秘かに〉排斥するものであり、具体的には、①長崎港沖での黒船爆沈事件、②幕府の役人岡本大八を介する賄賂による藤津奪回の企て、③そして、大八の密告による晴信らの長崎奉行暗殺計画暴露事件へとつながり、最期、晴信の命取りとなった。拙著『ドン・ジョアン有馬晴信』第二章「一味同心・岡本大八事件」参照。

註2】…『國乗遺聞』は有馬氏研究の必須史料。近年、福井県文書館に「デジタルアーカイブ」としてその複写史料が保管・公開されるようになった。


2022年11月9日水曜日

カタリイナ永俊②

 ■カタリイナの出自―皆吉氏は有馬の家臣

 茂野幽考氏が著書『日南切支丹史』(1951年発行)でカタリイナ永俊を取り上げたのは、戦後間もない頃であった。すでに70年余が経っている。それでも彼女の出自である皆吉氏のこと、キリシタン大名・小西行長との関係など、いま一つ謎に包まれたままであるのは、述べたように宣教師の記録が少ないことに加え、彼女の足取りが薩摩藩のみならず肥後(熊本)、肥前高来(たかき=島原)、長崎など広域に跨がっているため、邦文史料の確認が容易でないことに依るものと思われる。

 筆者は20年ほど以前(西暦二千年前後)、鹿児島のキリシタン史で肥後国南部の小西領にいたキリシタン約1500人が、関ヶ原戦後の1600年暮れ、八代(やつしろ)から舟60隻で鹿児島領に避難した史実に接し、興味を抱いたことであったが、その後、地元島原(高来・有馬)のキリシタン史の調査に没頭した(註1)。今ふたたび、鹿児島のキリシタン史―とくに関ヶ原戦(1600年)で豊臣秀頼に与したキリシタン武将らが薩摩領に潜伏し、カタリイナ永俊と連絡を取り合っていた史実等に接し、改めて同地がキリシタン史に果たした役割の重要性を認識する一方、記述史料の一部に誤りがあることに気付いた。その一つは、カタリイナの出自―「皆吉氏」にかんするものである。その根拠となった史料は「薩藩旧記雑録後編」の中にあり、藩史局編者が2代藩主光久公の母・桂安とその母・カタリイナ永俊について述べた註記見解である。これまでカタリイナ永俊の基本史料とされてきた。(註2)

 「光久公御母堂桂安夫人島津備前守忠清ニテ、其御母肥後士皆吉久右衛門續能ニテ法名永春(永俊)ト云。始肥後宇都(=宇土)城主小西摂津守行長ニテ、女一人、行長滅ヒタル後、島津忠清小西御預ニテラレシニラレ、桂安夫人、慶長十四年鹿府、忠清死後堅野今郷田氏辺ラレ、堅野御祖母様トモ、又永俊尼トモ為申由也。行長メル女子喜入摂津守忠政トナレリ」。

 ここに「御母(カタリイナ)は肥後の士・皆吉久右衛門續能の女(である)」とあることから、カタリイナ研究者の多くが永俊は「肥後の士・皆吉氏」の出身であるとしてきた。ところが、筆者は有馬晴信の調査をしていたとき、有馬(高来)日野江城の城主・有馬氏の家臣として皆吉氏が登場する史料を目にしたことがある。有馬氏の史書『藤原有馬世譜』の「不受公」(有馬氏第10代晴純)の項である。

 「(不受)公生質温潤にして文武の御才あらせられ……御領地大に廣まれり。当国佐賀の城主御墓野出羽守長能も此頃より当家に附属す。御墓野が先祖は年久しく肥前国の住人にて、貞和観応の頃、又次郎重能高来東郷御墓野村、同国佐賀郡西泉の地頭職として古き文書等、其家に伝来す。長能が子・續能が時、皆吉と改め、其子・皆吉権左衛門、東氏を冒し、後、有馬氏を賜りて因幡守と称す。(註4)

 皆吉氏は元「御墓野」氏を称し、南北朝時代貞和・観応(1345~52)の頃、佐賀郡の地頭職であった。「出羽守長能」の頃、有馬氏第10代晴純が佐賀に進出し、有馬家に附属した。有馬家のもう一つの史書『國乗遺聞』には「晴純公麾下の士」8人の城主のうちの一人として「佐賀城主・御墓野出羽守(長能)」が記されている。ところが、その子「久右衛門續能」の時代、龍造寺氏が台頭して転機が訪れる。『國乗遺聞・巻之三』に次のようにある。

 「佐賀城主・御墓野出羽守長能、此(晴純の)御代、初て麾下に属し、士将の魁首に列す。子・皆吉久右衛門續能、幼穉(ようち)の時、当城を龍造寺隆信に抜かれ、後、大江に於て食邑を賜ふ…(註5)

 龍造寺隆信によって佐賀を追われた「續能」は、有馬氏の居城・日野江城の近くの大江に移ることになるが、その際、姓を「皆吉」に改めたらしい。このあと、有馬氏の「士将」として活躍するこの人物こそ、カタリイナ永俊の父「皆吉久右衛門續能」であった。(つづく)

【皆吉氏系図】


註1】…キリシタン大名・有馬晴信(1563ー1612)の没後400年、ルイス・デ・アルメイダ師の来島450年等を記念する取り組みであった。島原新聞に関連記事を連載し、2013年2月、海鳥社(福岡市)から著書『ドン・ジョアン有馬晴信』出版の運びとなった。

註2】…『鹿児島県史料旧記雑録後編・五』(1985年鹿児島県歴史資料センター黎明館発行)所載、883頁。江戸家老伊勢兵部少輔貞昌の「極月七日」付け「種子島左近大夫様人々宛」書簡。ただし同黎明館がこの書状の年号について「寛永十二年乙亥」と(仮定)したのは、『種子島氏底本』では「寛永九年」となっており、再考を要す。本稿で後述する。

註3】…茂野幽考著『日南切支丹史』(1951年刊)181-182頁。『種子島家譜』「寛永15年2月16日」の条。

註4】…林銑吉編『島原半島史・上巻』(1954年・長崎県南高来郡市教育会発行)457頁。

註5】…『國乗遺聞』は有馬家第21代譽純の時代、寛政9年(1797)に編纂に着手され、文化8年(1811)に完成した有馬氏家系継承の記録書10巻。

2022年11月7日月曜日

カタリイナ永俊①

 ■1624年度イエズス会日本年報

 慶長18年臘月23日(西暦1624年2月1日)徳川幕府が発布したキリスト教禁止令「排吉利支丹文」は、元和年間に入って徹底され、同5年(1619)京都の鴨川六条河原で52人が火炙り刑。同8年(1622)には長崎の西坂刑場で55人が火炙りと斬首刑に処せられ、翌元和9年(1623)には江戸品川の札の辻で50人が同じく火刑によって殺された。それは将軍秀忠の大名に対する暗黙の指令であり、これを受けて全国各地でキリシタンの捕縛・処刑が相次いだ。キリシタン信者が公然とその信仰を表白できない時代であった。

 ところが薩摩国鹿児島藩に、それでもキリシタン信仰を敢然と公言して憚らない女性がいた。カタリイナ永俊(1575-1649)である。彼女について多くを語っていないイエズス会文書が、「1624年度日本年報」で、珍しくその状況を詳しく伝えている。家老職であったカタリイナの娘婿(喜入忠政)が度々、使いの者を遣ってカタリイナの信仰を糺してきたので、煩わしく思ったカタリイナは自ら家老たちの前に出向き、「自分はキリシタンである。どんな理由があろうとキリストに対する信仰を決して棄てようとは思わない。」―そのように断言したというのだ。以下に原文を記す。

 「薩摩でキリシタンの中心になっていたのが、その国の君主(島津家久)の姑であるカタリイナという名の女性で、彼女は熱心に説いて回って聖なる信仰を弘めていた。彼女は挑発を受けたことが二度あった。一度目は仏僧たちからで、彼らは様々な迷信や祈祷の札を持ち出して、彼らの戒律に彼女を引き込もうとした。二度目は、江戸で迫害が起こっていた時期に、彼女がキリシタンであるかを知るために、彼女の娘婿によって遣わされた者たちによってである。最初の時は簡単にそれに打ち勝って、彼らを断固として追い返した。二度目には方々から多くの使者に押し掛けられるのが煩わしくて、彼女の娘婿がこの国の高い地位にある多くの者たちと一緒にいることを確かめると、彼を訪ねに出向いて、皆のいる前で臆することなく、自分はキリシタンであり、どのような理由があろうともキリストに対する信仰を決して棄てようとは思わないと言った。すると異教徒である娘婿もそこに居合わせた他のすべての者たちも、女性にそのような大きな勇気のあることに驚嘆し、それ以上彼女を煩わせることは止めてしまった。(註1)

 レオン・パジェスは『日本切支丹宗門史』の「1624年」の項で、「薩摩では、大名の義母カタリイナはあらゆる懇願に耳をかさなかった。聟(むこ=娘婿)は彼女の思うままに任せていた。」と、「日本年報」を要約して記している。ここに出てくる「聟」「娘婿」は、カタリイナの連れ子・妙身(実は前夫・小西行長との間の娘)の夫・喜入忠政(鹿籠の領主=島津藩大家老)である。カタリイナにはもう一人「娘婿」がいる。島津忠清との間に生まれた娘・桂安の夫・島津家久(鹿児島藩初代藩主)その人である。藩主家久から言えばカタリイナは夫人の母(姑)になる。宣教師がこの年報で言うカタリイナを挑発した「娘婿」は、文意から判断して家老職の喜入忠政であるが、彼にその旨を指示したのはもう一人の「娘婿」すなわち藩主・島津家久であったようだ。

 家老はもとより藩主もカタリイナのキリシタン信仰を「思うままに任せ」ざるをえなかったという、その女性(1624年当時46歳)は、たしかに普通の女性ではない。地位・立場からして大名に匹敵するような系譜的背景を持った人物であった、と見なければならない。(つづく)

【写真】崇伝によって起草された「排吉利支丹文」冒頭部分(毛利家文庫)

 【註1】…結城了悟氏は著書『鹿児島のキリシタン』(1975年初版、1987年改訂版)で、イエズス会が鹿児島のカタリイナについて記録したのはただ二つだけであるとして、「1616年、マテウス・デ・コウロスによって書かれた年報書簡」(長崎・1617年2月22日発信、Jap-Sin 58. 437-38)とともに「1624年の年報書簡」を紹介している。後者の「1624年の年報書簡」は、筆者が今回掲げた「1625年3月28日付、マカオ発信、ジョアン・R・ジランのイエズス会総長宛、1624年度日本年報」とは異なる別文「ジョアン・R・ジラム、マカオ・1625年3月18日発信、Jap-Sin 58. 437-38. 344-344v;460v.」である。要約文となっている。