2016年5月31日火曜日

日野江城「仏塔石階段」―それはコンチリサンの遺構であった

 ■イエズス会日本布教方針の矛盾
 イエズス会による日本国へのキリスト教布教の過程で、ヴァリニャーノ巡察使が打ち出した日本文化順応方針(註1)は、一時的には効果があったものの、結果的には自己破綻をきたす要因となった。その最大の理由は、日本文化の根底にある「異邦の神々」と、キリスト教の「唯一神」信仰は元来、異次元のものであり、和合する性格のものではなかったことである。
 「われ以外に何者をも神としてはならない」とある十のマダメント(Mandamento、十戒)第一戒は、旧約ユダヤ教の伝統を引き継ぐ新約キリスト教の根本教理であった。ヴァリニャーノ師が日本文化順応方針を打ち出したとき、一部の宣教師はその矛盾性に気付いていた節がある。
 しかし、ローマ教皇を頂点とする厳格階級制のカトリックにおいて、イタリア人法学博士にして「東洋巡察使」なるヴァリニャーノ師の決定に、たとえ異議を唱えることができたにしても、方針変更は困難であったに違いない。
 ところが1603年、ヴァリニャーノ師が最後(第三回)の日本巡回を終えて離日したとき、それまで燻(くすぶ)っていた布教方針是正論がにわかに台頭した。その具体事例を、ポルトガル様式キリシタン墓碑の導入に見ることができる。

ポルトガル様式キリシタン墓碑出現の理由
 それまで約半世紀にわたる日本キリシタン史のキリシタン墓碑は、日本文化順応方針に従って仏教様式の立碑(りっぴ)で代用されていた。その間、豊臣秀吉による伴天連追放令発布(1587年)があり、イエズス会は全国の教会、セミナリヨ、ノビシャド(修練院)、コレジオを閉鎖し、唯一「イエズス会の擁護に命をかけた」キリシタン大名ドン・ジョアン有馬晴信の領地・島原半島とその周辺地域に逼塞を余儀なくされた。そうした布教困難の状況を招いた原因として、異邦神に連結された日本文化への順応方針がキリスト教の戒律違反であるとの指摘が、イエズス会内部にあったものと思われる。当時、有馬晴信の領内にいたイエズス会指導陣は、ヴァリニャーノ師の離日(1603年)と相前後して仏教様式墓碑のキリシタン墓碑代用を改め、ポルトガル様式キリシタン墓碑の導入を開始した(註2)。
 島原半島に集中分布する伏碑型ポルトガル様式キリシタン墓碑が慶長年間後期―1604年以降―に出現する謎は、いまだ誰も解明していないが、その理由はおおよそ、以上述べた経緯から説明されるであろう。

 ■異邦神にかかわった罪の償いとその遺構「仏塔石階段」
 ところで、問題はその処理にあった。一般的には、単にキリシタン墓碑を変更するだけで済むことだろうが、キリスト教が「異邦神」と関わったこの問題は、ユダヤ教・キリスト教の伝統作法として、相応の償いを必要とするものであったのだ。
 償いの程度は、犯した罪の種類にもよるが、第一戒を犯したそれは「モルタル科(とが)」すなわち「死に値する犯罪」として、より厳格な償いが要求された。熱心なキリシタンであり、イエズス会の擁護者でもあった領主ドン・ジョアン有馬晴信はこのとき、自らの居城である日野江城の二の丸に、それまで代用した仏教墓石で「償い」のための階段を構築し、晴信自身とその家族、家臣全員がある一定期間―おそらくは四旬節の期間―毎日これを足で踏み、異邦神の墓石を使用した罪を悔い、二度とこのような罪を犯さない決意をもって神父に告白し、ゆるしの秘蹟にあずかったと考えられる。この仮説を物語る資料が1998年、日野江城二の丸の発掘調査で出土した「仏塔石階段遺構」である。
ドン・ジョアン有馬晴信の居城「日野江城」二の丸から出土した「仏塔石階段」遺構

 墓石を階段状に敷き詰めたこの謎の遺構をめぐっては、さまざま論議と解釈が飛び交っているが、大方はキリスト教による仏教弾圧のみせしめとする意見に集約される。しかし、そうであるなら一般市民が入ることもない領主の城郭に拵えるより、市井の目にふれる町中につくる方が効果的であろう。また、これが登城の実用に耐えない、一季の梅雨でも流出するほど稚拙なものであることは、素人の目にも明らかである。キリシタンたちが、何らかの宗教儀式のために、一時的に使用したものであると見るのが妥当であろう。
 筆者は、当時のイエズス会を取り巻く諸事情、キリシタン墓碑が慶長期半ばに突如変換される謎、キリシタンの信仰作法など総合的に考慮して、上記の解答を割り出した。
 「仏塔石階段遺構」は、日本のキリシタンが如何に厳格なかたちで罪の償いをしたかを証明する遺物であり、このあと、かくれキリシタンがその信仰を維持するのに重要な役割を果たすことになるコンチリサン(真の痛悔のいのり)(註3)を、目に見えるかたちで伝える希有なキリシタン資料である、と言うことができよう。

 ■惜しまれる日野江城の世界遺産(構成資産)除外 
 世界遺産登録を目指す「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の構成資産の一つにあげられていたキリシタン大名ドン・ジョアン有馬晴信の居城「日野江城跡」が、2016年5月、除外される事件があった。それは、ここにある「仏塔石階段」遺構の真の意味を誰も解明できなかったこと、そして、当地島原半島の全住民をキリシタンに導き、国家権力によるキリシタン迫害からイエズス会とキリシタンを擁護するため命を賭けた日野江城主・有馬晴信のキリシタン信仰とその功績を、正当に評価できなかったことが要因であった、と思われる。(2016年5月31日、宮本次人記)

註1…ヴァリニャーノ師は、『日本諸事要録補遺』(1592年筆)で「日本の習慣や生活方法に順応する」、と表現している。
註2…有馬のセミナリヨ(神学校)で、「日本の宗派(仏教)の虚偽性を容易に論破する方法が教授され」、神学生らがこの問題を研究したことが、「1601、1602年日本の諸事―フェルナン・ゲレイロ編イエズス会年報集」に記されている。仏教墓石を代用するキリシタン墓碑の問題も討議されたものと思われる。
註3…コンチリサン(Contricao)は、カトリックの「ゆるしの秘蹟」において求められる「心の底からの後悔」である。キリシタン時代、すでに1591年に出版された日本語版『ドチリイナーキリシタン』(キリシタンの教理)の中で、「ぺにてんしや(告解・ゆるし)のさからめんと」における三要素―痛悔・告白・償い―の一つとして説明されている。その重要性を指摘し、詳細に解説したのは『こんちりさんのりやく』であったが、その著述・発刊の年月「慶長8年(1603年)4月下旬」が、ヴァリニャーノ師の離日「1603年1月15日」の直後であるのは、留意すべきであろう。
「千六百三歳」(1603年)に著述された「こんちりさんのりやく」冒頭部分

2016年2月10日水曜日

禁教期潜伏キリシタンを支えた托鉢修道会の信仰

 こんにちに至る2000年の世界史は、詰まるところキリスト教の歴史であった。日本は、明治以降、世界史・キリスト教の潮流に合流したが、じつはそれより300年ほど以前、「キリシタン時代」と呼ばれる、世界史に組み込まれた時代が存在した。江戸時代、徳川幕府がこれを禁止し、弾圧したことにより、日本におけるこれら二つの世界史時代は隔離された。

 このたびの「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の世界遺産登録推進運動は、これら二つの時代を秘かに連結した「禁教期かくれ・潜伏キリシタンの時代」を、世界史潮流に照らして人類の普遍的価値として見いだし、評価しようとするものである。従って、これは従来の日本史を世界史の観点から「読み直す」ことであり、引いては日本そのものを再評価するための試みである、と言うことができよう。イコモスが「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」に関して、「禁教期の潜伏(かくれ)期に焦点を当てよ」と言うのは、その謂いであるに違いない。
 
 250年の徳川幕府による厳しい禁教・弾圧政策下で、彼ら潜伏キリシタンは如何にして信仰を維持したのであろうか。その理由こそ徹底して究明がなされるべきであろうが、残念ながら日本におけるこの分野の研究は遅れている。
 今ここに紹介するのは、田舎の貧乏書生が、「わが先祖史」として30年余取り組んだ「かくれキリシタン信仰の維持と復活の理由」の要旨である。

 大きくは2点ある。
 ■1つは、かくれ(潜伏)期のキリシタンは、イエズス会から托鉢修道会―おもにフランシスコ会、ドミニコ会―に再改宗していたことである。(実のところ、日本キリシタン史研究はこの事実さえ認識していない)。
 両者の違いは複数あるが、この場合、インズルゼンシア(贖宥)の有無を挙げねばならない。イエズス会とそのコンフラリア(信心会)にはこれが無く、托鉢修道会とそのコフラディアは、これを「豊かに」有していた。
 インズルゼンシアは、「ローマのパパさま」(教皇)から下賜された「贖宥」(償いの免除=ゆるし)であり、日本人信者にとっては「御恩」とみなされた。これを受けることにより、「ローマのパパさま」とのつながり・絆を育み、その一方で、日本人特有の精神文化「ご奉公」に連結された潜伏キリシタン特有の信仰を育んだ。
 ■2つ目は、「かくれ信仰」を維持する工夫として、コフラディア(信心会)をもち、集団で信仰を維持しつつ、その中で転びの罪を償う為の祈り「コンチリサンのオラショ」を欠かさなかったことである。「マタイによる福音書」18章20節に 「ふたりまたは3人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである。」とあるように、ここに神が生きてはたらき、聖霊の役事を可能にするものであった、と考えられる。
 キリスト教信者が生きた信仰を維持するのに、コンチリサン(悔悛の祈り)が果たした役割がいかに大きいか、2000年のキリスト教の歴史を見ると理解できる。平戸・生月系のかくれ信仰が長い「かくれ」を経て土俗信仰に変容し、長崎(浦上)・外海系かくれキリシタンのような「復活」を為し得なかったのは、「コンチリサンのオラショ」を伝承しなかったことが大きな要因であった。
 「コンチリサンのオラショ」を教える文書『こんち里さんのりやく』によると、原則として罪を司祭(コンヘソーロ)に告白すべきことが記されている。幕末に来日した宣教師司祭との邂逅を果たし、奇蹟の「復活」をなし得たのは、一に「コンチリサン」を守り通したことであり、そこに神の生きたはたらき、「聖霊の役事」がなされたことに因る、と言えるであろう。
 
 托鉢修道会が禁教期潜伏キリシタンの信仰維持に大きく関与した史実は、これまでほとんど語られることはなかったが、近年、東京大学史料編纂所の岡美穂子助教によって、長崎外海に伝承された絵画資料をもとに明らかにされつつある(註)。
 筆者も、いくつかの証拠をつかんだ。たとえば、『こんち里さんのりやく』にかんして、一般にはイエズス会司祭の手になるものとされているが、「後悔(悔い改め)」の程度をイエズス会史料『サカラメンタ提要』と比較してみると、明らかに異なる記述が見られる。故に、これは「達したる(徹底した)後悔」を旨とする托鉢修道会の手によって編集されたものである、と考えられるのだ。
 また、ドミニコ会の信仰が長崎、大村、島原(三會)地域に及んだ状況は、ドミニコ修道会のディエゴ・コリャード神父が同地域の信者から徴収した文書によって知ることができる。
 それらの拠点となったのは、言うまでもなく長崎のサント・ドミンゴ教会、サン・フランシスコ教会である。長崎市勝山町のサント・ドミンゴ教会跡は、幸いにも遺跡が保存されているが、上記世界遺産登録推進審議の過程で除外された。禁教期潜伏キリシタンを物語る上で欠かせない遺構であっただけに、惜しまれる。
サント・ドミンゴ教会の回廊跡遺構(長崎勝山町)
 ※註…岡美穂子助教の代表的論文に、「外海地方のキリシタン絵画にみる托鉢修道会の痕跡と「贖宥」」(『長崎県内の多様な集落が形成する文化的景観保存調査報告書 論考編』、長崎県文化財調査報告書第210集、2013年)。「長崎外海のカクレキリシタン信仰に見る托鉢修道会の布教活動」(『キリスト教文明とナショナリズム―人類学的比較研究―』(2014年、風響社)などがある。 
 

2016年2月7日日曜日

「教会群」よりも「かくれ」信仰の解明を!

 教会群とキリシタン史遺産の世界遺産登録推進に取り組んでいる長崎県であるなら、公共図書館にキリシタン史専門の関連図書が必ず備えてあるはず―、そう思いつつ県立図書館をはじめ各市の図書館をネットで検索しても見つからず、半ば諦めかけていた書籍を今月4日、福岡市内で偶然、探し当てた!同市総合図書館で『文学第13巻第5号』(2012年9-10月号、岩波書店発行)、同県立図書館で『キリスト教文明とナショナリズム―人類学的比較研究―』(2014年3月、風響社発行)、この2冊だ。前者に「贖宥の祈り―マリア十五玄義図とオラショの功力」が、後者に「長崎外海のカクレキリシタン信仰に見る托鉢修道会の布教活動」が掲載されている。いずれも岡美穂子東京大学史料編纂所助教の論文だ。

 不思議なことに同日夜、宿泊先のホテルで、ユネスコ諮問機関の国際記念物遺跡会議(イコモス)が日本政府に対し「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の世界遺産登録申請の推薦を取り下げ、推薦書を作り直すよう要請している旨のニュースを知った。驚きと同時に、内心「やはりそうか」と思った。考えられる理由はひとつ、普遍的価値のあぶり出しが不十分であったこと。―でなければ政治的理由として、シリア難民の世界拡散によるイスラム教との関連性もあり得る。
 翌5日午前、福岡市総合図書館を訪れ、新聞コーナーに急いだ。イコモスが日本政府に改訂を求めているのは、「(教会群中心に記述された)現状の推薦書を書き直し、禁教期に焦点を当てるよう勧めている」(読売新聞)ことだ、と判明した(註)。
 「禁教期に焦点を当てよ」と言うのは、具体的には「かくれ」時代のキリシタン信仰―禁教下で250年にわたり信仰を伝承し、幕末、再び司祭に出会って「復活」したことを指す。
 長崎県が当初、この案件による世界遺産登録に取り組んだのは、そのような精神遺産ではなく、和洋折衷の独特の建築様式をもつ教会群であり、「かくれ」信仰は推進運動の過程で追加されたものであった。その成り行きからして「かくれ」信仰の究明に関しては、十分な研究と審議、対策が講じられたとは言えないであろう。

 結論として私見を申し上げるなら、「かくれ」時代の日本キリシタン史の問題は、イエズス会とその関連史料を中心に取り組んできた従来の日本キリシタン史研究だけでは解明が困難である。長崎地方の「かくれ」の信仰は、イエズス会ではなく、1614年幕府の禁教令発布を前後して「転び」キリシタンの「立上げ」(再改宗)で精力的に尽力した托鉢修道会―とくにフランシスコ会、ドミニコ会の信仰とそのコフラディア(信心会)が色濃く反映されていたからだ。
 現時点において、かくれキリシタンと托鉢修道会との関連を指摘し、解説した研究者・論文は、残念ながら少ない。出色なのは、冒頭で触れた岡美穂子先生である。私が固執して探してきた岡助教の論文は、その代表的なものであるから、長崎県はその関連図書を県内の図書館に配架すべきであろうに、お粗末すぎた。
 今回のイコモスによる推薦書取り下げ・改訂勧告が、本県関係者の意識を覚醒させてくれるだろうか。「焼き直し」で済む、と考えるなら、この先も難航が予想される。

…長崎新聞(2月5日付)は次のように報道している。「(長崎)県によると、1月下旬に文化庁から『イコモスから届いた中間報告で、キリスト教の禁教と潜伏の時代に重点を置いて説明すべきと厳しく指摘されている』と連絡があった。現状ではイコモスが5月ごろに出す勧告の内容が『登録延期』になる見通しと説明を受けたという。」
福岡県立図書館で「キリスト教とナショナリズム」を閲覧した際の同館「所蔵レシート」

 
 
 
 

2016年1月13日水曜日

「転び証文」を取り戻す寺社放火―島原の乱を解く⑦

 ゆるしの秘蹟における罪の償いは、一般的にはオラショ(祈り)やゼジュン(断食)、ジシピリイナ(鞭打ち苦業)、奉仕等が課せられる。ところが、日本のキリシタン時代にはこれに加え、「転び」の過程で「転び証文」に署名し、異邦神を祭る寺社を建立し、転びを隠すため寺社に参拝するなど、戒律違反の行為があったため、その精算が求められた。具体的には、転び証文を取り戻し、寺社を処分することなどである。
 天草の転びキリシタンの「寛永10年(1633)6月25日」付け「きりしたんころび申書物之事」(註1)に、次のようにある。

 「私儀数年きりしたんにて御座候へども、先年御改(おんあらため=幕府によるキリシタンの強制改宗)に付、ころび申、一向宗に罷成(まかりなり)、書物に差上申候……内証にてばて連(宣教師)のゆるし御座候共、此書物取戻し不申(もうさず)候ては、きりしたんに立帰り申事、不成(ならぬ)教(おしえ)にて御座候…」

 「書物」とは、「転び証文」のこと。「ばて連(司祭・宣教師)」の「ゆるしの秘蹟」にあずかったとしても、「転び証文」を取り戻さなければ「立上り」ができないことを彼らは承知していたのだ。

 島原の乱事件の一連の行動のなかで、「立上り」、原城に集結するまでの間に神社・仏閣を焼き払い、僧侶・神官・役人らに改宗を迫り、または殺害した行動がある。それらは、あたかも「過酷な年貢徴収に憤った農民が、信仰に結束して蜂起した」かのように見えるため、史家たちはこぞって「農民一揆」と〈誤解〉したわけだが、彼らは「キリシタンに立ち帰れ!」とのみ主張したのであって、「年貢を減免せよ」との一揆的要求など、一切しなかった。一揆ではなかったのだ。―とすれば、その意図するものは何だったのか?
 じつは、これこそがデウスの戒律―とくに第一戒「われ以外神とするなかれ」―を犯した罪、すなわち寺社建立や寺社参拝の罪を精算し、「転び証文」を取り戻す、彼らの「きりしたんの作法」に基づく「立上り」の信仰所作、つまりは償いの一環としての行動なのであった。

 「転び証文」は、村々の旦那寺に所在したであろうし、寺社に放火することは、すなわちそれを取り戻すことでもあった。
 島原城に攻め寄せたことも、同様である。そこにあった主要な仏寺を焼き払い、領主松倉氏に対してキリシタンに立ち帰ったことを表明する、「転び」たちの「言い戻し」(註2)であったと解することができよう。


 ※註1…肥後国天草郡高浜村旧庄屋上田家の記録「高浜村御門徒衆人数付之帳」
 ※註2…ドミニコ会神父ディエゴ・コリャードが1632年、ローマで刊行した『コリャド・懺悔録』に、「表面(うわむき)ばかりでもころぶ者が、いひもどさいでならぬ…」、「その奉行のせられた事共の日記(転び証文)はどこにあるぞ?すなはち、それを以て上(のぼ)られたらば、その奉行へ文(ふみ)なりとも、使を遣(や)つてなりとも、いひもどさいでは。」とある。「言ひ戻す」は、「転びを取り消す」意味である。
ドミニコ修道会のディエゴ・コリャード神父が1632年、ローマで発刊した「懺悔録」。転びキリシタンの告白証言、それに対する司祭の助言が収録されている。

 
 
 
 
 
 

2016年1月3日日曜日

「四郎法度書」に見る「転び」の償い―島原の乱を解く⑥

 原城に集結した島原・天草の「立上り」キリシタン約3万7千人が、幕府軍12万によって責め落とされる寛永15年2月28日(1638年4月12日)までの約3ヶ月間、彼らは如何に過ごしたのだろうか。一般には、戦いに備えたと解されているが、そうではなかったようだ。「朝夕、昼夜2,3度宛て、大将(天草)四郎が…法儀のすすめ(ミサ説教)」を執りおこない(『嶋原記』)、キリシタンたちも種々の信仰所作に勤しんでいた。
 司祭役・天草(益田)四郎が彼らに訓示した「四郎法度書(しろうはっとしょ)」(細川家史料)によると、「おらしよ・ぜじゆん・じしひりいな」(祈り・断食・鞭打ち)等の信仰所作の他に、「城内の普請(ふしん=造営・修理)」、「ゑれじよ(敵)ふせぐ手立、成程(なるほど=できるかぎり)武具の嗜(たしなみ)御念を入れらるべき事」などが記されている。
 城内の普請も、また武具の嗜みも、それは幕府軍と戦うためではなく、「ゑれじよ(幕府軍)」の攻撃によって信仰の諸所作が妨害されるのを「防ぐ手立て」としてであり、それらは、デウスの神の「格別の御慈悲」に対するキリシタンの「御奉公」―この場合、「キリシタン信仰者としての善のおこない」を意味する―であると言っていることに注目したい。
 このうち「おらしよ」については、とくに「前々よりの御後悔」と、「日々の御礼おらしよ」が示されている。「御後悔」とは「御後悔のおらしよ」すなわち転びキリシタンがもっとも重要視して唱えた「コンチリサンのオラショ(痛悔の祈り)」であり、「御礼のおらしよ」とは「さるべれじいな」(註1)であった。

 これらの信仰所作は、同史料にある「今程(いまほど)くわれすまの内」―いまはカレスマ(Quaresma、四旬節)の時である―の言葉から分かるように、転びの罪を償う行為であったと判断される(註2)。
 ―つまりは、「転び」が「立上る」ための「きりしたんの作法」であった。
 ちなみに、「ゆるしの秘蹟」は司祭に罪を告白(Confessio)するだけでは成立しない。痛悔(Contritio)と、償いの行為(Satisfactio)と、最後に司祭のゆるしの宣言(Absoltio)をもって完結する。

 彼らが真冬の原城に籠もり、「寒天の雪霜を凌ぎ」(矢文)ながら過ごした3ヶ月は、キリストの十字架死を記念する四旬節・聖週間にあわせ、転びの償いをするためであったことが理解されよう。同年(1638年)の「悲しみ節の上がり」・復活節(イースター)は4月11日(和暦2月27日)。この日、城門が開かれ、翌4月12日「和暦2月28日」に落城、全員の「首が切られた」。

 ※1…「さるべれじいな」の祈りに、「御礼をなし奉る」の言葉が2回登場する。よって、キリシタンたちが「日々の御礼のおらしよ」と称した祈りは、「さるべれじいな」を指すものと思われる。
 ※2…Cuaresma(四旬節)は、キリスト教暦で灰の水曜日から復活祭の8日前の土曜日までを言う。この間の日曜日を省いた週日は40日となる。日本のキリシタンはこれを「悲しみ節」と言った。キリストの死去前の苦難を想起して、祈り、断食、苦業によって罪を悔い改め、償いに励みながらキリストの復活祭を待ち望む期間とされている。
「四郎法度書」末尾部分。「益田四郎/ふらんしすこ」とある。