2017年7月21日金曜日

岡美穂子東京大学史料編纂所准教授の『ドン・ジョアン有馬晴信』書評

岡美穂子(註1)の研究ブログ「南蛮の華」2013年4月27日付記事「〈タイトル〉=長崎郷土史研究者との交流」

 長崎は郷土史が熱いところです。地元の郷土史家の間で刊行されている雑誌は貴重な史料の紹介や、地元ならではの興味深い研究の宝庫で、よくお世話になります。
 先年の長崎れきぶんぱくでの講演(註2)で知り合った宮本次人さんの『ドン・ジョアン有馬晴信』(海鳥社)を送っていただきました。地元ならではの有馬晴信への想いが随所に感じられる本です。
 その最終章で、晴信の遺品ともいわれる山梨県天目山栖雲寺の十字架を手にする虚空蔵菩薩像について言及されていました。有馬晴信の研究者の間では有名なようですが、私は恥ずかしながら今まで知りませんでした。
 この菩薩画は、長年有馬晴信が晩年に描かせた自画像とも言われてきたそうですが、2011年に京都大学の吉田豊教授(文献言語学)が、マニ教のイエス像であることを指摘したとのことです。それ以前に2006年には東北大学の泉武男教授が、景教のイエス像であるとの見解を示されています。いずれにしても、南宋~元代に寧波を中心に栄えた「寧波仏画」の流れをくむ可能性が高いと言われています。
 (※)偶像崇拝に敏感だった南蛮人宣教師から見れば、シンクレティズムの結晶である一菩薩像のイエス像は許容範囲を超えるものだったと思いますが、有馬晴信にとっては、これが彼の理解したイエス像にもっとも近かったのではと考えております。このあたり、現在執筆中の論文に組み込めればと思っています。キリシタン史ではこういう発想はご法度かもしれませんが。
 最近、某大学での講義中に、盛んに天草四郎の話をしている二人組がおります。島原・天草一揆にたどりつくのはずっと先なので、それまで頑張ってください。

 ※…この部分は追って次のように訂正された。「その後、研究交流メーリングリストで、非有馬晴信伝来説も説得力あるものが出てきたため、この部分改変しました。」

 ※1…岡美穂子:1974年、神戸市生まれ。京都大学大学院博士課程修了。博士(人間環境学)。東京大学史料編纂所准教授。専攻は中近世移行期対外関係史、キリシタン史。著書に『商人と宣教師―南蛮貿易の世界』(2010年、東京大学出版会)、『大航海時代の日本人奴隷―アジア・新大陸・ヨーロッパ―』(夫ルシオ・デ・ソウザ氏との共著、2017年・中公叢書)など。世界史の視点から日本のキリシタン史を解析する気鋭のママさん研究者として活躍中。
 ※2…2012年10月28日、長崎歴史文化博物館で開催された「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」世界遺産フォーラム。岡氏は「贖宥への祈り―マリア十五玄義とオラショの功力」と題して講演し、長崎・西彼地域のかくれキリシタンが、フランシスコ会とドミニコ会によって再改宗された信者たちであったことをはじめて明らかにした。

五野井隆史氏の「ドン・ジョアン有馬晴信」書評

 五野井隆史氏(註1)の『ドン・ジョアン有馬晴信』(宮本次人著・2013年海鳥社)書評―福田八郎氏宛て書簡

「拝復、ご無沙汰しておりますが、お元気でしょうか。
この度は宮本次人著『ドン・ジョアン有馬晴信』をほ恵与下さり、有難うございました。
 沸々たる有馬晴信に対する思いが十分に読みとれました。大へん良く勉強され、晴信の実像に迫ろうとし、その再評価の努力はすばらしいと感嘆いたしました。
 クラッセの教会史(註2)に強いこだわりがあるように見えましたが、今なおクラッセに拠って話の切り口を見出されていることに、一寸驚きました。しかし、かような見方・考え方があることを知り、参考になりました。勉強の機会を与えて頂き有難うございました。
 彼岸も近く、ようやく春を感じるようになりましたが、まだ寒さが戻るかと思います。どうぞご健康に留意なさってください。お礼に代えて。
     二〇一三年三月一〇日、五野井隆史
福田八郎先生」

※註1…五野井隆史(1941―)歴史学者、東京大学名誉教授。北海道えりも町生まれ。1971年上智大学大学院文学研究科博士課程単位取得退学。1987年「徳川初期キリシタン史研究」で九州大学文学博士。東京大学史料編纂所助教授、教授。2003年定年退官。英知大学教授、校名変更で聖トマス大学教授。2012年退職。キリシタン史が専門。
※註2…クラッセ著『日本教会史』。著者ジャン・クラッセ(Jean Crasset、1618-1692)は、フランスのディエプ(Dieppe)生まれのイエズス会宣教師。著書『日本教会史全2巻』はフランソワ・ソリエー(Francois Soier,1558-1628)が日本から送られた年報や書簡をもとに纏めていた原稿「日本教会史」(Historie ecclesiastique des iles etroyaume du Iapon)にクラッセが補筆し、1689年にパリで出版したもの。西洋で紹介された日本キリスト教の通史としては初めてのものであった。日本では明治時代になって駐仏公使鮫島尚信が同書第二版を入手し、これを太政官の依頼を受けたフランス人宣教師が翻訳し、『日本西教史』のタイトルで出版された。「史料価値は低い」とされる一方で、日本におけるキリシタン史の最初の通史として、研究者たちに愛読された。


2017年7月15日土曜日

転びキリシタン立上りの作法(2)―転び証文取り戻しの事例

―事例1―
 島原城の南方に位置する有家村(現・南島原市有家町)の住民207人が1628年(寛永5)、転び証文を取り返すため島原城(城主=松倉重政)まで出かけた事件が『肥前國古老物語』(註1)に出ている。
 
 寛永五辰年にては、有家村の人民二百七人、以前宗門のころび判仕り候こと後悔に存じ、各残らず打連れ、嶋原へ判形取返しに参り候。その内、権左衛門、作右衛門、休意夫婦、又右衛門、監物が娘、この七人はその張本にて候ゆゑ、竹鋸にて挽かれ候。跡は堪へかね、皆皆ころび申し候。然れども、吉兵衛一人は転ばず、終に首を挽き落され申し候。然れどもこの者ども頭人たる故、権左衛門、作左衛門は誅せられ候て、残る四人御助けなされ候。その後、有家村庄屋内蔵之丞を始として、以上六人、堀之内の田に埋め、竹鋸にて首を引落しなされ候。これは、外道宗門にては無之候へども、村中を猥りに仕り候ゆゑ、右のごとく御仕置なされ候。

 「以前、(キリシタン)宗門のころび判形(=証文)仕り候こと(を)後悔に存じ…」とあるから、この207人は元キリシタン信者であり、幕府の禁教令(1614年)により「転んだ」人々であったことがわかる。筆記者は、彼らは「外道宗門にては之なく候」と断っているものの、転び証文を書いたことを「後悔に存じ」、それを取り戻す行動を起こしたのは、彼らがなおも心中でキリシタン宗を信仰していた「転び(潜伏)キリシタン」であったことを裏付けるものである。文章には一部、不可解なところがあるが、事件の結末は、首謀者のみが「竹鋸(たけのこ)挽き」の拷問で処刑され、残りはふたたび「転んだ」ことであった。
 このときに殉教したキリシタンの墓碑が有家町に現存する。

―事例2―
 島原の乱(1637―38)が勃発した当初、島原半島北部の「佐野村」の大庄屋源左衛門とその一類30人が島原城に避難する途中、檀那寺に立ち寄り、立上りを宣言し、転びを取り消す意志を伝えた事例である。1637年11月のことであった。史料は『佐野弥七左右衛門覚書』。

 三會村の内、佐野村の大庄屋源左衛門、妻子召し連れ、一類三十人味方と申し城中へ参り候処、門徒坊主見付け候て、(岡本)新兵衛居り候処へ参り、「拙者(の)旦那数人寺へ参り『今日より吉利支丹に罷り成り候。先年ころび候事、取り戻し候』と申し候。其者共、則ち彼等にて御座候」と窃かに知らせ候…

 佐野村は、島原城北部の大野村と湯江村(いずれも現島原市有明町)の境、山手に位置する小村。島原の乱が南目の旧イエズス会所属のキリシタン住民を中心に動き出したとき、托鉢修道会ドミニコ会に所属替えしていた北部住民はほとんど動きを見せなかったが、島原・三會村に近い位置にある佐野村の転びキリシタンは、三會村住民がそうであったように、一部の転びキリシタンが立ち上がった。島原城に避難したのは、南目の旧イエズス会所属のキリシタンと十分に連絡がなかった状況での、ちぐはぐな行動であったと思われる。立上りキリシタンであることを隠して島原城に一時避難したことであったが、寺の僧侶によって彼らの正体が暴かれ、全員が城内で処断(死刑)された。

 なお、島原の乱事件(1637~38年)で「立上り」キリシタンが村々の寺社に放火し、また島原城に押しかけたことは、武装蜂起すなわち農民一揆であると解釈されてきた。しかし、矢文その他による彼らの説明は、幕府や領主松倉氏への「望み」など何もない、一切が「きりしたんの作法」であるとしている。よって寺院放火や島原城への強訴行動も「立上り」行為の一環としての「転び証文」を取り戻す行為、またはそれを処分する行為であったと見られる。

※註1…「肥前國有馬古老物語」。有馬・松倉氏領内におけるキリシタン史31年間を記録したもの。著者は北有馬村農夫とされている。
 
寛永5年(1628)の転び証文取り戻し事件で竹鋸刑によって殉教したキリシタンを祭る墓碑。墓碑前面(写真上)に竹鋸歯形の紋様が刻まれている。南島原市有家町久保。