2017年7月15日土曜日

転びキリシタン立上りの作法(2)―転び証文取り戻しの事例

―事例1―
 島原城の南方に位置する有家村(現・南島原市有家町)の住民207人が1628年(寛永5)、転び証文を取り返すため島原城(城主=松倉重政)まで出かけた事件が『肥前國古老物語』(註1)に出ている。
 
 寛永五辰年にては、有家村の人民二百七人、以前宗門のころび判仕り候こと後悔に存じ、各残らず打連れ、嶋原へ判形取返しに参り候。その内、権左衛門、作右衛門、休意夫婦、又右衛門、監物が娘、この七人はその張本にて候ゆゑ、竹鋸にて挽かれ候。跡は堪へかね、皆皆ころび申し候。然れども、吉兵衛一人は転ばず、終に首を挽き落され申し候。然れどもこの者ども頭人たる故、権左衛門、作左衛門は誅せられ候て、残る四人御助けなされ候。その後、有家村庄屋内蔵之丞を始として、以上六人、堀之内の田に埋め、竹鋸にて首を引落しなされ候。これは、外道宗門にては無之候へども、村中を猥りに仕り候ゆゑ、右のごとく御仕置なされ候。

 「以前、(キリシタン)宗門のころび判形(=証文)仕り候こと(を)後悔に存じ…」とあるから、この207人は元キリシタン信者であり、幕府の禁教令(1614年)により「転んだ」人々であったことがわかる。筆記者は、彼らは「外道宗門にては之なく候」と断っているものの、転び証文を書いたことを「後悔に存じ」、それを取り戻す行動を起こしたのは、彼らがなおも心中でキリシタン宗を信仰していた「転び(潜伏)キリシタン」であったことを裏付けるものである。文章には一部、不可解なところがあるが、事件の結末は、首謀者のみが「竹鋸(たけのこ)挽き」の拷問で処刑され、残りはふたたび「転んだ」ことであった。
 このときに殉教したキリシタンの墓碑が有家町に現存する。

―事例2―
 島原の乱(1637―38)が勃発した当初、島原半島北部の「佐野村」の大庄屋源左衛門とその一類30人が島原城に避難する途中、檀那寺に立ち寄り、立上りを宣言し、転びを取り消す意志を伝えた事例である。1637年11月のことであった。史料は『佐野弥七左右衛門覚書』。

 三會村の内、佐野村の大庄屋源左衛門、妻子召し連れ、一類三十人味方と申し城中へ参り候処、門徒坊主見付け候て、(岡本)新兵衛居り候処へ参り、「拙者(の)旦那数人寺へ参り『今日より吉利支丹に罷り成り候。先年ころび候事、取り戻し候』と申し候。其者共、則ち彼等にて御座候」と窃かに知らせ候…

 佐野村は、島原城北部の大野村と湯江村(いずれも現島原市有明町)の境、山手に位置する小村。島原の乱が南目の旧イエズス会所属のキリシタン住民を中心に動き出したとき、托鉢修道会ドミニコ会に所属替えしていた北部住民はほとんど動きを見せなかったが、島原・三會村に近い位置にある佐野村の転びキリシタンは、三會村住民がそうであったように、一部の転びキリシタンが立ち上がった。島原城に避難したのは、南目の旧イエズス会所属のキリシタンと十分に連絡がなかった状況での、ちぐはぐな行動であったと思われる。立上りキリシタンであることを隠して島原城に一時避難したことであったが、寺の僧侶によって彼らの正体が暴かれ、全員が城内で処断(死刑)された。

 なお、島原の乱事件(1637~38年)で「立上り」キリシタンが村々の寺社に放火し、また島原城に押しかけたことは、武装蜂起すなわち農民一揆であると解釈されてきた。しかし、矢文その他による彼らの説明は、幕府や領主松倉氏への「望み」など何もない、一切が「きりしたんの作法」であるとしている。よって寺院放火や島原城への強訴行動も「立上り」行為の一環としての「転び証文」を取り戻す行為、またはそれを処分する行為であったと見られる。

※註1…「肥前國有馬古老物語」。有馬・松倉氏領内におけるキリシタン史31年間を記録したもの。著者は北有馬村農夫とされている。
 
寛永5年(1628)の転び証文取り戻し事件で竹鋸刑によって殉教したキリシタンを祭る墓碑。墓碑前面(写真上)に竹鋸歯形の紋様が刻まれている。南島原市有家町久保。

 





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