2015年12月19日土曜日

司祭としての天草四郎―島原の乱を解く⑤

 島原の乱が、「転びキリシタン」の「立上り」であったとするなら、キリスト教の作法に従って、一定の手続きを踏まねばならないであろう。
 その一つに、「転び」の罪を精算する「ゆるしの秘蹟」がある。これは、「洗礼以後に犯した罪を、教会の司祭を通してゆるし、罪人を神と教会に和解させる秘蹟」(カトリック要理)であり、司祭の介在を必要とするものである。
 転び伴天連クリストヴァン・フェレイラ(日本名・澤野忠庵)が長崎の西勝寺に遺した「きりしたんころび書物之事」に、「真の立上(たちあげ)と申事、伴天連に逢不申(あいもうさず)候ては、不罷(まかりならず)候、ひそかに我と立上候事、生得(しょうとく)なき事にて候」――ほんとうの立上りというのは、司祭に会って犯した罪を告白しなければならないことである。秘かに自分一人で立上ることなど、元来あり得ないことである――と述べているのは、そのことを指している。

 このような立上り作法の原則からすると、島原の乱事件の「転びキリシタン」3万7千人の「立上げ」に対して、司祭の役割を果たす人物がいなければならないが、その人こそ天草四郎であったと考えられる。
 そのように推論し、これを裏付ける史料を久しく探してきた筆者は、あるとき、『山田右衛門作口上書』の中にそれを発見した。「宗門の司(つかさ)」がそれである(註)。キリシタン時代、「司祭」という言葉がなかったので、「司(つかさ)」と称していたのであった。
 追って筆者は、ドミニコ会修道士ディエゴ・コリャードが嶋原・三會(みえ)地方の信者たちの証言を徴収した文書の一つ「元和6年閏12月3日付、ひせんて平左衛門尉証言」に、「こんはんや(=イエズス会)の司」とあるのを見つけ、確信した。
 いずれもキリシタン本人の証言に登場する言葉である。「宗門の司」とは、キリシタンたちが当時、「司祭」―もしくは、それ以上の存在―を表すことばとして用いたものであるに相違ない。

 加えて、熊本藩細川家史料『綿考輯録(めんこうしゅうろく)』は、「(四郎は)人間にては無之(これなく)候と申候」、「四郎をば事外(ことのほか)敬(うやまい)候」と、「生捕之者」(生きて捕えられたキリシタン)の証言を記録している。普通の人間ではない、キリシタンたちから特別に敬われる存在であった、というのは、天草四郎=司祭説を補強するものである。
 『加津佐村寿庵の廻文』にある「天人」も、同様の意味をなすものと考えられる。

 ―天草四郎は、キリストの役事・ゆるしの秘蹟を行使する「司祭」の役割を果たした人物であった。ここにおいて「転びキリシタン」3万7千人の「真の立上げ」が可能となる。

 【註】…「其後、吉利支丹トモ打寄談合仕候ハ、兎角大矢野四郎ヲ引立、此宗門ノ司ト可仕由評議相極…」
天草四郎肖像画(旧島原芝田美術館所蔵・1991年普賢岳噴火災害で被災焼失)

2015年11月27日金曜日

迫害・難儀を受容するキリシタン―島原の乱を解く④

 キリスト教の信仰指導書のうち、古今の名著として親しまれている『こんてむつすむんじ』(「イミタチオ・クリスティ」、「基督に倣いて」)は、日本のキリシタン時代にも翻訳・出版され、愛読された。
 3万7千人の「立上り」キリシタンの指導者であり、司祭役でもあった天草四郎も、おそらくこの本を読んだものと思われる。同書第31「ちじょく(恥辱)となんぎ(難儀)にあふ時、へりくだるこころをもてかんにん(堪忍)すべき事」の章で、キリシタンの大切なこころとして示される「堪忍(かんにん)」と「謙(へりくだ)り」のことばが、「四郎法度書」で二度繰り返されるからである。

 四郎は籠城中、朝に夕にミサを執り行ない、キリシタンたちの信仰が人間的・肉体的弱さゆえに疎かになるのを戒め、「かんにん」と「へりくだり」をもって「でうす(神)へ祈念」し、「御慈悲(=神のゆるし)を蒙る」よう勧めた。その内容は「四郎法度書」によってうかがうことができる。
 『こんてむつすむんじ』によると、「かんにん」と「へりくだり」は「かんなん(艱難)」「なんぎ(難儀)」に対する大切な対処法であり、心がけであった。その理由について同書は、「うきよ(浮世)のさいなん(災難)は、なんじ(汝)がごしょうたすかり(後生扶かり=死後の救い)のため」になるからであり、それゆえに、できれば艱難・難儀の試練を「喜んで堪える」ことが好ましいが、それができないなら、せめて「かんにんをもって受け流すことだ」、と説いている。

 注目したいのは、「災難は汝が後生の扶かりのため(にある)」という言葉である。同書には他にも、同様の趣旨で記された件(くだり)がある。
 「我に仇(あだ)をなす者は…デウスの御手より与へ給ふ。こころよく受け奉り(なさい)」(同書巻第3第12)。「この世の苦しみを受くる事、我が身の誤ちによって与へ給ふ」(同書巻第3第19)、などである。

 通常、艱難・難儀が特定の人物によってもたらされる場合、それを強いる相手「敵」に対しては反抗を試み、長期化して恨みを絡んだ場合は復讐にも至るであろう。
 これに対し、キリスト教は逆の姿勢―「苦しみを受けるのは、我が身の誤ちによって神が与える」と、むしろアニマのたすかりのために必要なものとして受けとめ、自身の罪の償いに資することを教えているのだ。実際には、個々により信仰の差があり、人間的捉え方をする場合も多いが、これが『こんてむつすむんじ』が教える世界であり、キリスト教徒の取るべき基本的信仰姿勢であった。
  
 「苦しみを受けるのは、我が身の誤ちによって神が与える。」―「転び」のキリシタンにとって、この言葉は身にしみるものであった。彼らは、罪を犯したゆえに今の苦しみがある、ということを知っていた。だからこそ「立上り」、償いをしてあの世に逝こうと思ったのだ。

 この「きりしたんの作法」によって、島原の乱事件(1637―38)を再検証してみよう。
 歴史の教科書をはじめ研究家、史家、小説家を問わず、島原の乱を語る人のほとんどが「為政者の圧政に対する反乱である」と主張して憚らなかった。そのような見解がはたして正しいか否か、些かでもキリシタンの心に近づくなら、その誤りに気付かされるであろう。
 彼らは、ほとんど農民であったが、四郎の呼びかけ―かづさ村寿庵の廻文―に呼応して集った人々、すなわち「転び」から「立上った」キリシタンであった。そうであれば、「きりしたんの作法」に従ってこの事件を読み解かなければならない。すなわち為政者の過酷な税の取り立てや、自然の災いによってもたらされる「この世の苦しみ」は、「転び」という「我が身の過ち」が原因で「デウスによって与えられること」であるから、これを「こころよく受け奉り」、よく償いをして、キリストに帰り、「後生(あの世)の扶かり」に至るべきである、と―。これが、キリシタンの作法によって解読される島原の乱事件の解答である。恨みや反乱、一揆といった従来の解釈は、キリシタンのこころと作法を知らないがゆえの、一方的な誤解であった、と言わざるをえない。

1610年(慶長15年)キリシタン版として出版された「こんてむつすむんじ」

 
 
 
 
 
 

2015年11月25日水曜日

「転び」はアニマの救いを失う悲しみ―島原の乱を解く③

 権力者によるキリシタン弾圧を恐れ、表面的にでもキリシタンであることを否定した「転び(ころび)」は、多神崇拝の日本人からすれば、さほどの問題ではなかったかもしれない。転んでも、いずれ迫害がなくなったとき戻ればいいではないか、というような、自分の都合で環境に合わせて生きる人間中心の御利益信仰感である。
 ところが、一神教のキリスト教は「天のみこころ」を第一とし、それが「地になること」、「わが(人間の)思いではなく、(天の)みこころがなる」ことを願う、神中心思想のヘブライズムが根本となっている。
 ゆえに、キリシタンを「転ぶ」行為は、律法―とくに第一戒「我以外、神とするなかれ」―を犯す重大犯罪であり、死に値する罪であった。結果、「転び」キリシタンは、原則として救いの根本である「後生(死後)のたすかり」(霊魂の救い)から外れてしまうことになる。
 原城に籠もった「立上り」キリシタンの「矢文」や、ディエゴ・コリャード神父が徴収した転びキリシタンの証言文書に、その辺りの転びキリシタンの事情・心情が述べられている。

 「きりしたんの宗旨は…別宗に罷りなること成らぬ教えにて御座候。…誤りて無量の天守(デウスの神)に背き…悲嘆(ひたん)身に余り候…」(「寛永15年正月13日、原城々内より御上使衆御中」宛矢文)

 「呵責しばしば止む無し…」(「2月25日、原城々中より上使・御近習中」宛矢文)

 「ころび申す者、数限りなく候…いづれも御出家(=司祭)衆には離れ申し、立あがり可申(もうすべき)便りも御座なく、昼夜かなしみに沈み罷居(まかりおり)候」(コリャード徴収文書「元和7年霜月10日、平左衛門等18人名連署証言」)

 その意味するところを現代語に意訳すると、次のようになる。
 ―「転び」をはじめ数多くの罪を犯し、デウスの神とその教えに背いてきたことですから、キリシタンにとって最も大切な後生(死後)の扶(たすか)り、アニマ(霊魂)の救いを亡くしてしまいました。そのような心の呵責が不断、絶え間なくありましたが、司祭もいなくなり、立上ることもできず、昼夜、悲しみに沈み、仕方がなかったのです。―

 「転び」隠れのままでは、キリストによる人間の根元的救いから洩れてしまう。この危機感が齢を重ねるごとに募り、それが極度に達した寛永14年(1637)秋、神の霊に打たれたようにして、あのような「立上り」の行動を採ったのだった(註)。
 「悲嘆身に余る」というのは、この場合、耐えがたい権力者の圧政が原因なのではなく、矢文にあるように「誤ってデウスの神に背いた」みずからの「転び」の罪に由来するものであった。アニマ(霊魂)という永遠なる存在の救いを失った「悲嘆―悲しみ」がいかばかりのものか、これもまた、キリシタン信仰を知らない異邦人には理解しがたい世界であった。

 【註】…一部の研究者は、某矢文―「正月、天の四郎より松平伊豆守様」宛矢文―に一言書き出された「(松倉)長門守殿への恨み」を取り出して、あたかも「一揆・反乱」であるかのごとく解説を試みているが、それは「矢文」の主張する本意ではない。老若男女3万7千人の生身の人間のことであるから、人間的思いが混入しているのはあり得るであろう。ましてや、彼らがイエズス会所属の信者であれば、宣教師たちもしばしば報復的行動をとって見せたことがあり、許容範囲との認識を持っていたのかもしれない。
 ところが、「立上り」という本来のキリシタン信仰を取り戻す段階になると、両者は矛盾することとなる。「四郎法度書」を見ると、司牧者天草四郎がそのような籠城キリシタンの人間的思いを諫めているのを確認することができる。

 
 

2015年11月22日日曜日

誤解された島原の乱の「立上り」―島原の乱を解く②

 島原の乱事件(1637―38)は、一般には「圧政に対する反乱」と解釈されている。なかには当時の古文書記録に拠り、「立上り」を言う人もいるが、それでも何故か「反乱・蜂起」と誤解していることが多い。
 日本語の「立上り」は、それだけを取り出すとたしかに「反乱・蜂起」の意味がある。しかし、「島原の乱」事件(1637―38)における「立上り」は、その謂いではなかった。前提として「転び」すなわちキリシタン信仰を表面的・一時的に棄てる行為があり、それに対する「立上り」を言うのであって、元のキリシタン信仰の状態に戻ることを意味する言葉であった。別の言い方をすれば、「きりしたん作法」に基づく、信仰行為に他ならない。
 籠城キリシタンの矢文(「城中より御陣中」宛矢文」)に出てくる「右の仕合(しあわせ=事の次第)、きりしたんの作法に候」と言うのは、それを指している。
 
 同事件を誤解する言語上の問題として、他にも「召し出され候」、「召し抱えられ候」というのがある。いずれも「矢文」に記される言葉である(註)。彼らキリシタン信者からすると、これは「神による召命」を意味する。しかし、異邦人である日本人にとって、その意味を理解することは困難である。
 「神による召命」とは、人間の意志を超えた力、デウスの力によって動かされ、選び出されることである。このような神体験、聖霊体験をすると、往々にして心に火がついたような状態になることがある。原城の籠城キリシタンが射出した矢文に、「かねての思い立ち、少しも御座無く候。不思議の天慮(てんりょ=神の配慮)計り難く、総様この如く燃え立ち候」とあるのが、これに当たる(「正月19日、細川越中様、御陣中衆御中」宛て矢文)。
 「召し出され候」、「召し抱えられ候」転びキリシタンの「立上り」とは、神霊の役事、聖霊の役事を伴う神の御業(みわざ)、「不思議の天慮」なのであった。

 原城に籠城した「立上り」キリシタンは一貫してこのような趣旨を幕府軍に伝えようとしたが、一方、キリスト教の神も聖霊も知らない幕府軍が「きりしたん作法」としての「立上り」を理解することは困難であったと見られる。キリシタンたちは、いくら説明しても分かってくれない幕府に対して、「半理(=半分の理解)の様に承(うけたまわ)り候」(前掲史料)と言っている。
 島原の乱事件の本質を、キリシタンでない日本人が理解し得ないのは、今に始まったことではなかったようだ。

 【註】…史料『四郎法度書』に、「各別(格別)の御慈悲を以て、此の城内の人数に召し抱えられ候」。また『岡山藩聞書』所収の「加津佐寿庵廻文」に、「我等の儀、召し出され候者にて候」とある。
 
 
 
 


 
 
 
 
 

2015年11月6日金曜日

天草四郎の呼びかけ=寿庵の廻文―島原の乱を解く①

 昨日、風呂の中でふと、声が聞こえたのは誰であったか?便りの内容からして、それは天草四郎ではなかったか、と思う。
 「あの世」からの通信は、次の通りである。

 「いつまで隠れているのですか?
 転びのままでは、アニマ(霊魂)の扶(たすか)りがないでしょう?
 キリシタンを否定したから、隠れなければならなかったのです。
 迫害を恐れたから転んだのです。
 表面的にでもキリストを否定したのなら、イエスを裏切った弟子たちと同じでしょう?そのような行為は、キリシタンにとってモルタル罪―死に値する罪なのです。キリストを悲しませ、デウスを悲しませたのですから、罪になるのです。
 いつまで隠れているのですか?
 アニマ(霊魂)の救いを失ったまま、老いて、死んでいくのですか?
 早く出て来なさい!
 もう一度、キリシタンを表明しなさい!
 立ち上がりなさい!」

 ―これは、3万7千人の「転びキリシタン」を立ち上がらせた天草四郎の叫びのこころであった。
 文書記録で、四郎の筆になるものは確認されていないが、「丑(寛永14年)10月15日」(陰暦)付けの『かづさ村・寿庵の廻文』がそれに相当する。寿庵は「天人」すなわち天草四郎の「使者」であり、四郎に代わってこの「廻文」を書いた(『耶蘇天誅記』)。

 =寿庵の廻文
 「態(わざ)と申し遣わし候。天人(=天草四郎)あまくだり成られ候て、ぜんちょ(=異教徒)どもは、デウス様より火のスイチョ(=審判)成られ候間、何ものなりとも、吉利支丹に成り候はば、ここもとへ早く御越(おこし)有るべく候。……
丑10月15日、かづさ村・寿庵」

 【意訳】取り立てて申し上げます。伴天連の預言通り、「キリシタン宗門の司(つかさ=司祭)」として天草四郎様という御方がここにおられます。転びの者たち、異教徒たちはデウスの神が火の審判を成されますので、誰であってもよいから、キリシタンに立ち帰り、以前のように信仰を取り戻してアニマ(霊魂)の扶(たすか)りを得たいと思うなら、天人・天草四郎のもとに、早く来ていただきたい。…」

 「後生の救い」を喪失し、すでに「悲嘆身に余り候」(=矢文の一節)状況にあった「転びキリシタン」たちは、この知らせを受けて「立ち上がる」。世に言う「島原の乱」である。
 その行動は、「苛政に対する反乱」といった性格のものではなかった。彼ら自身のキリシタン信仰上の問題―「きりしたんの作法」―が動機となっていた。
 「寿庵の廻文」の日付けにある陰暦「10月15日」は、十五夜であった。明るい月夜であったか、それとも暗雲たちこめる闇夜であったか、わからない。
月蝕(2014年10月8日)



 

 

2015年9月17日木曜日

嶋原純茂夫人「またれいな」の墓


     嶋原純茂夫人「またれいな」の墓
      ――被葬者特定の経緯――   宮本次人
                         

 はじめに
 長崎県島原市の三会(みえ)地区山寺町、雲仙岳の東部に拡がる扇状台地の畑中に「またれいな」の文字が刻まれたキリシタン墓碑がある。1926年(大正15)に発見され、翌1927年(昭和2)には早くも長崎県史蹟に指定された。
 当時、島原半島では蒲鉾(かまぼこ)の形をしたキリシタン墓碑の発見が相次ぎ、キリシタン南蛮文化に対する関心が高まっていた。
 雑草が生い茂っていた墓地は太平洋戦争(第二次世界大戦)後、経済成長とともに次第に様変わりし、「近代化」された。その中で「またれいな」墓碑だけは以前同様、地べたに置かれ、保護のためのドーム状のコンクリート製の覆いが施されたものの、林立する周囲の近代化墓碑の谷間に隠れ、目立たない。
 ここに立つと、静かな内湾の有明海が一望できる。沿岸を走る国道251号まで、距離にして約1・5㎞。国道の入口の角(三会新港付近)に「またれいな墓碑」の案内表示板が立っている。
 
 「またれいな」は、洗礼名「マダレイナ」(Madalena)の平仮名表示である。こんにち、カトリックでは一般的に「マグダレナ(マグダラ)」とされるが、日本のキリシタン時代には「マダレイナ」と「マグダレナ」の二種類が用いられた。その理由は、宣教師がそれぞれ出身地(ポルトガル、スペインなど)での呼称をそのまま使用したため、と考えられる。

 「またれいな」墓碑の最大の特徴は、島原半島に分布するキリシタン墓碑のほとんどがポルトガル様式の伏碑(ふせひ)であるのに対し、和風立塔型式を踏む立碑(りっぴ)型であることだ。加工された前面部分に「干十字」と「またれいな」の銘が施され、背後部分は自然石のさまがそのまま残されている。
1928年頃の「またれいな墓碑」風景


 一、「またれいな」の墓―被葬者特定に至るまで―

 新聞記者時代、自宅から新聞社まで8㎞を毎日往復した。国道251号の三会(みえ)付近を通過するたび「またれいな墓碑」の標示板を目にしたが、過去、多くの著書、観光パンフ等で繰り返し紹介されたものであり、それらをうんざりするほど見ていた私にとって、敢えて訪ねて見るほどのものではなかった。

 その「またれいな墓碑」がにわかに気になり始めたのは、2012年のことだ。キリシタン大名ドン・プロタジオ/ジョアン有馬晴信の没後400年目にあたり、彼の晩年の最大の謎とされる長崎港でのマードレ・デ・デウス(グラッサ)号撃沈事件と、賄賂によって藤津郡(鍋島藩領)を詐取しようと企んだ岡本大八事件を解明したことがきっかけだった。
 イエズス会文書によると、ドン・プロタジオ/ジョアン有馬晴信には実母がなく、「マダレイナ」という洗礼名の「乳母」が登場する。

 「…有馬殿(晴信)は、マダレイナという教名の自分を育てた老女を母とみなしていた。」(「1582年10月31日付、ルイス・フロイスによる1582年度年報」)。「…有馬にはドン・プロタジオ(晴信)を育てたマグダレナという老女があり、彼は彼女を母とも乳母とも慕っていた。」(「フロイスの『日本史』第43章)。
 
 「乳母マダレイナ」とはいったい誰であるのか。調査を進めていくと、有馬氏一族で島原半島の東部一帯に勢力を伸ばしていた嶋原右衛門大夫純茂の未亡人―安徳直治(安徳城主)の娘―が浮かび上がった。解明に至る経緯は複雑であり、詳細をここに紹介する余裕はないが、概略は、次のようである。
 ――有馬晴信の父・義貞は、邦文史料によると嶋原純茂夫人の姉妹を正室とし、両夫人(義貞夫人と純茂夫人の姉妹)は深江城主安富氏の娘とされてきた。ところがイエズス会史料は、安富氏ではなく、安徳氏であると伝えている(「ルイス・デ・アルメイダ修道士の1563年11月17日付書簡に基づくフロイス『日本史』の叙述)。
 これら邦文と欧文の系譜的矛盾は、安富家(深江城主)の次男・純俊が跡継ぎのない安徳家に養子になっている史実をつかむことで解決に至るが、こうした系譜的相関関係から、有馬―安富―安徳―嶋原の4氏が同族的関係にあったことが理解されてくる。その上で、晴信の「乳母」を探していくと、父有馬義貞の最初の夫人(安徳家の娘)が病死か何かの理由で亡くなり、その後迎えた後室・波多壱岐守盛の娘(この人が晴信の実母であったと思われる)も或る事情でいなくなり、結果、先ほど述べた同族的4氏の中から相応しい婦人―嶋原純茂夫人―が「乳母」となっていた、ということである。

 問題は、その後にあった。
 イエズス会史料に登場する「乳母マダレイナ」が「島原殿」嶋原純茂の未亡人であることが判明したとき、島原市山寺町にある長崎県指定史蹟「またれいな墓碑」がそれではないか、との新たな課題が浮上したからだ。
 以後、この予感的仮説を確かめるべく、私は半ば疎かにしていた「またれいな墓碑」に足繁く通い、あわせてその関連事項・事蹟の精査を余儀なくされた。



 二、有馬晴信の「乳母マダレイナ」を探す

 先に、「晴信の乳母マダレイナ」が嶋原純茂夫人であることを、もう少し詳しく説明しよう。
 有馬・嶋原・安富・安徳四氏の系譜的相関関係を図示すると、次のようになる。

  同4氏は島原半島の東部・有明海沿岸に、嶋原城、安徳城、深江城(安富氏)、有家城(ジョアン徳円)、日野江城(有馬氏)と並列して位置し、嶋原純茂と安徳家の三女性、安富家の三人の息子(純治、純俊、徳円―いずれも城主)、有馬義貞(晴信の父)の計8人は―婚姻と養子入りによって―義理の兄弟姉妹の関係を形成していた。なかでも安徳家3女性と安富家3城主は、「兄弟(姉妹)」とさえ称されていた。
 このうち、有家城主ジョアン安富左兵衛徳円の存在は特記されねばならない。彼は元、京都の高僧とも交流があった高位の禅宗僧侶であり、「権威ある仏僧」の助言によって受洗に至った経歴の持ち主であった。加えて、元尼僧であった夫人ゼロニマとともに熱心なキリシタン信者となり、国主ドン・プロタジオ有馬晴信とイエズス会の改宗事業に全面的に協力した。その功績により有馬氏の「奉行(老臣)」となり、有家の城主に取り立てられた。
 
 2015年8月26日、島原城であった市民大学講座で「続・嶋原氏のキリシタン史」と題して講義したとき、私は「1582年度(イエズス会)年報」の史料をもとに、ジョアン安富徳円が領内の仏僧たちの改宗に大きな力を発揮したことを紹介し、あわせて有馬晴信の「乳母マダレイナ」が「嶋原純茂夫人」であることを、同史料の記述によって繙(ひもと)いた。
 同史料「1582年度年報」によると、有馬晴信の「乳母」にかんする記述―「有馬殿は、マダレイナという教名の自分を育てた老女を母と見なしていた。」のあとに、有家城主ジョアン安富徳円の説明として、次の一文が出てくる。

 「…有馬の主な奉行者で、殿(晴信)の母の兄弟であるジョアンと称する伯叔父(安富徳円)がいる。」

 ここで言う「殿(晴信)の母」とは、文章の前後関係からして「乳母」マダレイナを指すことは明らかである。その「殿の母」すなわち「乳母マダレイナ」とは、「ジョアン安富徳円」の「兄弟(姉妹)」であった!と証言しているのだ。―これが、晴信の「乳母マダレイナ」を特定する有力な証拠史料になる。
 ジョアン安富徳円の兄弟には(実の)姉妹がいないのに、「乳母マダレイナ」が安富徳円の「兄弟(姉妹)」であると言っているのは、再三説明したように、安富家の次男「純俊」が、跡継ぎのいない安徳家に養子となることで、安徳家と安富家が同家同然となり、両家の「兄弟」と「姉妹」―つまりは義理の兄弟姉妹―があたかも実の兄弟姉妹のごとき関係をなしていたからである。

 ◆「乳母マダレイナ」は嶋原純茂夫人であった
 ここまで来ると、「乳母マダレイナ」の正体が見えてくる。安富徳円の兄弟姉妹になる安徳家の3人の女のいずれかである。このうち有馬義貞に嫁いだ一人―すなわち晴信の父の最初の夫人は早くに亡くなっていた。安徳家に残った一人は、隣村深江村から安富純俊を養子に迎え、本家を嗣いでいる。残るは一人、嶋原純茂に嫁いだ女性しかいない。
 夫の嶋原純茂は嶋原にアルメイダ修道士を招き、キリシタンを入れた先駆者であったが、反対派仏教勢力によって排斥され、三会城に拠って1570年ごろに亡くなった。未亡人となり、嶋原にいることもできなかったため、姉妹が嫁いだ有馬家に拠り、晴信の「乳母」として日野江城の邸宅の家事「いっさいを司(つかさど)って」いた、と思われる。



  三、島原山寺の「またれいな墓碑」との関連

 有馬晴信の「乳母マダレイナ」は、「島原殿」嶋原純茂の未亡人(=安徳直治の女)であった。この事実が判明したとき、述べたように、島原のかの有名なキリシタン墓碑―「またれいな墓碑」との関連が想起された。あれは、嶋原純茂夫人すなわち晴信の「乳母マダレイナ」の墓碑ではないか、と―。
 「またれいな」は、洗礼名「マダレイナ」の日本語仮名表記である。古文では濁点が省略されるのが通例であるので、「マダレイナ」は「またれいな」となる。墓石の大きさ(高さ91㌢、幅66㌢、厚さ34㌢)や加工の程度からすると、被葬者は一般信者ではなく、上層クラスの女性であると考えられる。一見して、領主夫人のそれにふさわしいものであるが、果たして「またれいな墓碑」が嶋原純茂夫人の墓碑であるかどうか、「乳母マダレイナ」の死亡年と「またれいな墓碑」の建立年代、所在地「山寺」と嶋原氏との関連等、検証してみたい。
 
〈検証1〉「乳母マダレイナ」の死亡年と「またれいな墓碑」の造立年
 イエズス会文書(年報、書簡)によると、「1589年度年報」に「…乳母マダレイナは教会へ通い、キリシタンとしての生活に専念することによって、自ら模範となり、また少なからぬ支援をもたらしている。」とあり、これを最後に姿を消してしまう。1589年―90年ごろ死去したものと考えられる。1582年当時、「年の頃60歳」であったので、生年は1522年頃、68~69歳で亡くなったことになる。
 一方、「またれいな墓碑」の造立年代は、島原半島に「ポルトガル様式伏碑型キリシタン墓碑」が出現する1603年(慶長8)以前の、「立碑造形型キリシタン墓碑」時代と判断される(註)。一部の郷土史家はこれを禁教迫害期の「元和初期」としているが、前面に「干」十字を大きく彫り出した大胆な造形からして、迫害・弾圧期に比定することは不可能であろう。
 立碑造形型キリシタン墓碑で最古のものは、大坂出土の「天正9年(1581)」の「十字、礼幡」銘墓碑が知られている。
 島原市山寺町の「またれいな墓碑」は、1580年(天正8)以降の天正時代中・後期から1600年以前の慶長初期にかけてのものであり、1590年(天正18)頃死去した「乳母マダレイナ」嶋原純茂夫人の死亡年と時代が一致する。

 【註】…キリシタン墓碑は当初、「日本文化に順応」した「仏塔代用墓碑」からはじまり、次に十字や洗礼名等を刻む「立碑造形墓碑」、さらに仏塔立碑(日本文化)を否定する伏碑型の「ポルトガル様式墓碑」を経て、最期に禁教弾圧期の「かくれ墓碑」へと移行する(宮本試案)。



〈検証2〉「またれいな墓碑」の所在地「山寺」のこと
 「山寺」集落は嶋原町から三会城に至る途中、北西方向約3㎞の山手に位置する。
 「島原殿」嶋原右衛門大夫純茂は、居城・嶋原城(=のちに松倉重政が近世城郭島原城を築いた森岳に在った)を中心に、「嶋原町」および周辺の嶋原村を領有していたと思われるが、北部に隣接する「三会(みえ)村」も彼の支配下にあった。それは、純茂が1563年、ルイス・デ・アルメイダ修道士を招いてキリスト教を「嶋原町」に容れたあと、1566年9月、「祇園(ぎおん)祭り事件」を機に反対派仏教勢力によって排斥されたとき、「三会の城」に避難していた(『藤原有馬世譜』)ことからも推察される。
 「三会」と「山寺」が嶋原氏の支配下にあったことを裏付ける史料が、イエズス会文書の中にもある。イエズス会神父コウロスによって徴収された「1617年8月3日」付け「嶋原町・山寺・三會(みえ)村」信者の証言文書(スペイン国アルカラ・デ・エナーレス、イエズス会トレド管区文書館所蔵)である。
 この中に「嶋原町」の11人、「三會(みえ)町」の13人とともに「山寺」の8人が、それぞれ信者代表として署名している。「山寺」は、嶋原氏配下のキリシタン信者が集落をなしていた、ということであろう。

 見てきたように、「またれいな墓碑」は、領主クラスの夫人の墓碑にふさわしいものであり、嶋原純茂夫人「(晴信の)乳母マダレイナ」の死亡年と墓碑建立年代が一致すること。所在地「山寺」は嶋原純茂ゆかりのキリシタンが住居する集落であったことなど、同墓碑が嶋原純茂夫人のそれであることを矛盾なく説明することができる。



 四、それは嶋原純茂夫人の供養碑であった

 以上の検証により、次の結論を得ることが可能になる。すなわち、嶋原純茂夫人「マダレイナ」は、夫純茂が1570年ごろ三会城で死去したあと、有馬晴信の「乳母」として日野江城に迎えられ、晴信を養育しながら城の家事一切を司(つかさど)っていたが、1580年頃死去した。その亡骸は嶋原・山寺のキリシタン信者たちの手で夫純茂が眠る嶋原に戻され、反対派仏教勢力を避けて山手の集落「山寺」に葬られた、と―。
 「またれいなの墓」は、嶋原純茂夫人の供養碑であった、と結論づけることができよう。

 今、振り返って思うに、有馬晴信の「乳母マダレイナ」を探し出すことがなければ、「またれいな墓碑」の被葬者も明らかにすることができなかったにちがいない。筆者は『ドン・ジョアン有馬晴信』を書き終えたあと、「乳母まだれいな」探求に導かれ、その結果として嶋原純茂夫人に行き着いた。「不思議な天慮」であった思われる。
1985年頃の「またれいな墓碑」風景―ここに有馬晴信の「乳母マダレイナ」嶋原純茂夫人が眠る

 あとがき
 「またれいな墓碑」の被葬者について、筆者は2013年春、島原新聞に掲載した論考「続・嶋原キリシタン史発掘」ではじめて言及し、「嶋原純茂夫人」であることを明らかにした。それは、述べたように有馬晴信の「乳母まだれいな」の正体を突き止める途上、付随的に生じた課題であり、論理的にまとまったものではなかった。その後、1年ほどして「1582年度(イエズス会)年報」に同説を補足する有力史料があることに気づき、単一の論考『マダレイナの墓―嶋原純茂夫人「またれいな」墓碑に眠る―』としてまとめたが、これは未発表のままであった。2015年8月、島原城市民大学講座で「嶋原氏のキリシタン史(続編)」について講義する機会があり、その中で再び「まだれいな墓碑」の被葬者の証明を試みた。本稿はそれをもとに、できる限り簡略を心がけ、説明したものである。
             

2015年7月27日月曜日

桑姫御前は「マダレイナ清田」か⑦

 ◇「桑姫」または「天女」として―
 史料『志賀家事歴』には、「於西御前」の「塚」の傍らに「桑の一本」を植えたことのみが記され、一般に「桑姫」の由来とされる養蚕についてはふれていない。マダレイナ清田は1622年、宣教師を匿った廉で自宅監禁となり、1627年、生きながら火炙りの刑に処せられた。おそらく、養蚕に係われる状況ではなかった、と思われる。
 筆者は、塚の傍らに桑の木を植えた理由として、1605年に病死した大友宗麟の孫娘(宗麟次女テクラの娘)―修道女マセンシアとの関係を指摘したい。

 マセンシアは宗麟の後室ジュリアとともに長崎に逃れ、誓願を立てて修道生活を送る途次、18歳の若さで昇天した。その事蹟を伝える「フェルナン・ゲレイロ編イエズス会年報集―1605年日本の諸事」によると、キリストの花嫁として生涯を捧げたマセンシアの「世俗のすべての奢侈(しゃし)や虚飾を軽んじ」、「断食や鞭打ち」の苦行に打ち込んだ「峻烈」なまでの修道生活の様子が描かれているが、その中に祖母ジュリアに願い、「一日」だけ「絹(の服)を纏った」逸話が挿入されている。この世の楽しみなど何一つなかったマセンシアにとって、それは女性として味わったただ一つの慰めであり、喜びであったと思われる。
 マセンシアは宗麟の次女テクラの娘、一方、マダレイナ清田は宗麟の長女ジュスタの娘であった。マセンシアと二従姉妹になるマダレイナ清田が禁教下、ドミニコ修道会の信者として再改宗し、在俗修道女の道を選択したのは、18歳で逝ったマセンシアの修道女としての生き方が一つの契機となったにちがいない。
 マセンシアの遺志を、マダレイナ清田が継承し、そして、「寛永4年(1627)」殉教の栄冠を勝ち取った。それらの、大友家「姫君」たちのキリシタン信仰にまつわる奇特な生き方が、志賀家、薬師寺家ら大友遺臣たちの心に深く刻み込まれ、「天女」となったマダレイナを讃え、慰めるため桑の木を塚の傍らに植えたのは、考えられることである。
 殉教日が和暦の「七夕」の日(7月7日)であったことも、マダレイナと「棚機(七夕)姫」とを結びつける縁となったであろう。修道女として清貧に暮らし、天界に旅立った大友家の「姫」マセンシアが、一日だけ絹の着物を纏って聖母マリアに感謝し「慰安の涙にくれた」―そのような記憶がそのまま殉教者マダレイナ清田に重ねられ、絹糸を作る蚕の餌となる桑の木を塚の傍に植えた、ということだ。そのこころは、天界に逝ったマダレイナに、せめて命日の七夕(たなばた)の祭日一日だけでも絹の着物を着せて慰めてあげたい、というものではなかっただろうか。

 あからさまにキリシタン殉教者を実名をもって祀ることができなかった禁教令下の藩政時代、マダレイナ清田を「桑姫」と呼び、「天女」と称して御霊(みたま)を萬福寺境内に祀った関係者一同の、キリシタン信仰にまつわる秘史がここにある。

 萬福寺(現淵神社)は、「長崎名勝図絵」の挿絵で見ると、寺院でありがら鳥居が据えられている。そのうちのいずれかには多分、マダレイナの命日(殉教日)である七夕の日(7月7日または8月7日)が刻まれているはずである。



 ※付記…この論考は未完である。続編として「桑姫再考」№①~⑧(本ブログ2017年11月29日ー12月12日記)に、その理由と結論を記したので参照されたい。

2015年7月26日日曜日

桑姫御前は「マダレイナ清田」か⑥

 補遺として、殉教者マダレイナ清田の、いくつかの記念碑について概略を述べたい。
 言うまでもなく、キリスト教が「御法度」とされた徳川時代、キリシタンは大罪人であり、殉教者はもとより隠れの信者にいたるまで死者の墓碑を建てることは憚られた。それゆえ隠れの信者たちはこれを山中とかに隠蔽するか、何か別の名称をもって祀る以外方法はなかった。

 ◇大友家桑姫御前塚
 志賀家が伝える史料『志賀家事歴』によると、「於西御前」が「逝去遊ばされ候」後、竹の久保尾崎の志賀家「屋敷の内に葬り奉(まつ)り、一塚を築き候て、桑の一本を植え、桑姫御前と號(ごう)を贈り」、「参詣」した、という。
 「塚」とは墓石のことであるので、「大友家桑姫御前塚」と刻まれた、例の自然石の墓石のことであろう。これは竹の久保尾崎の志賀家屋敷にあり、明治33年(1900)志賀親朋氏によって「法入」に遷され、さらに昭和11年(1936)淵神社境内に移設された。こんにち「桑姫社」の名称で奉られた社殿の基壇部に据えられているそれである。
 一般にこの「塚」は、桑姫社の由来を記した石祠(明治33年建立)に「天保8年(1837)淵村の十世即吾祖父親善君が尾崎の旧塋(塋=境をめぐらした墓地)に卜(ぼく)し、石祠を築く」とあるので、それと混同して紹介されることが多い(筆者もその一人であった)。「祠(ほこら)」とは、仏像や神像等を納める家型の構造物であるから、それまで自然石の「塚」であった桑姫御前の墓石を、天保8年(1837)になって石祠をこしらえ、その中に納めて尾崎の志賀家屋敷から墓地に移した、という意味である。述べたように、これはその後、二転、三転して淵神社境内に現存する。

 ◇「御霊儀の地蔵尊」と「天女廟碑」 
 『志賀家事歴』にはつづいて、「其の後、当初氏寺真言宗寶珠山萬福寺本社の後ろに御霊儀の地蔵尊を一体、先祖ども建立仕り、今に怠りなく参詣礼拝仕り候」、とある。「御霊儀の地蔵尊」とは、「於西御前の御霊儀」を祭るものであるが、それが「萬福寺」すなわち今日の「淵神社」の後方に祭られていた、と言うのだ。
 中世、真言宗寺院であった萬福寺はキリシタン時代(天文年間)に破却され、寛永11年(1634)に再建された。同寺(淵神社)の由緒によると、再建された萬福寺の鎮守社として「弁財天」を祀った、とあるので、それと関連するものであろう。
 文政12年(1829)に大友家遺臣らが今の淵神社すなわち萬福寺の敷地に巨大な「天女廟碑」を建立した史実は、そこが「天女」すなわち「殉教者マダレイナ清田の御霊儀」を祀る神聖な場所であったことを裏付けるものである。
 ―そうであるなら「殉教者マダレイナ清田」は、大友家の姫としてその真実の名前こそ隠されたが、「弁財天」もしくは「天女」の名称でキリシタン禁教の時代、淵村萬福寺の一隅に祭られ、一族の崇敬を集めていたことになる。

 イエズス会宣教師マテウス・デ・コウロスの「報告書」に見える、1619年に幕府によって破壊された教会の名を上げた中に、「(長崎の)港の向かい側の稲佐といわれるところにあった教会」が出ている(註)。萬福寺(現淵神社)の境内はキリシタン時代、一つのキリスト教会が存在した場所であったとも考えられる。―であれば、そこは殉教者マダレイナ清田を祭るにふさわしい聖なる地であったに相違ない。(つづく)

 ※註…結城了悟著『九州キリシタン史研究』(1977、キリシタン文化研究会発行)147頁。
藩政時代、殉教者マダレイナ清田の「御霊儀の地蔵尊」が祀られた萬福寺(現淵神社)の風景(『長崎名勝図絵』)。キリシタン時代、ここに教会が存在したとも考えられる。

 
  
 

2015年7月13日月曜日

桑姫御前は「マダレイナ清田」か⑤

 見てきた通り、殉教者マダレイナ清田を大友宗麟の長女ジュスタの娘であると仮定して、彼女の生年(1570頃)から殉教死(1627)に至る事蹟と、それらを取り巻く客観事象が矛盾なく説明されることがわかった。それは同時に、「桑姫」を重ねての考察でもあった。

 最後に、志賀家の伝承において、史実と一致しない二点について述べたい。「宗麟の孫娘」であるマダレイナ清田を「義統の二女」としてきたことと、命日(殉教日)のこと、である。
 前者については、母ジュスタが大友義統の支配下にあった清田家に嫁いでいるので、清田家の主君であった宗麟の子・義統を取った、と考えられないであろうか。伝承における誤差の許容範囲とみたい。また、キリシタン色をできる限り払拭しなければならなかった江戸時代、キリシタン大名としてその名が知られた父宗麟よりも、政治的失策で失脚した子義統の娘とする方が都合がよい、とする心理も働いたものと思われる。
 
 ◇7と8が東西で交錯?
 後者の没年については、「西暦1627年8月17日」、和暦で「寛永4年7月7日」がマダレイナ清田の殉教日であった。これに対し、志賀家が記念するその日は「寛永4年8月7日」である。1627年(寛永4年)では一致しているものの、日付けが正確ではない。それは、たとえば七夕(たなばた)祭りが陰暦7月7日であるのに、実際は8月7日に実施する習慣があることと似ている、と言えないだろうか。これも、許容される誤差とみたい。
 ちなみに、マダレイナ清田が教皇ピオ9世によって列福されたのは「西暦1867年7月7日」である。和暦の殉教日「7月7日」と重なっているのは偶然であろうか。7と8とが東西で微妙に交錯しあっている。

 「桑姫御前」は、「寛永4年」に殉教した大友宗麟の孫娘「マダレイナ清田」とみて間違いなさそうだ。
天保8年(1837)、大友家遺臣らが長崎淵村尾崎竹の久保に建立した「大友家桑姫御前塚」(「長崎名勝絵図」)。明治33年に建てた記念の石碑に「奉納桑姫君。寛永四年ヨリ尾崎地(に)安座致し、春秋ニ御祭礼致す」とあるので、それ以前、マダレイナ清田(桑姫)を秘かに祭り、殉教の遺徳を偲ぶ行事を「寛永4年(1627)」から春秋、継続していたものと思われる。

 

2015年7月12日日曜日

桑姫御前は「マダレイナ清田」か④

 ところで、「大友宗麟の家系に属する子孫」とされるマダレイナ(マグダレナ)清田の系譜上の位置については、一次史料にも記録がない。そこで『16-7世紀イエズス会日本報告集』(第Ⅰ~Ⅲ期15巻・1987―94年・同朋社出版)によって、「マダレイナ清田」の系譜を探ってみたい。
 
 ◇清田一族と殉教者「マダレイナ清田」
 清田氏は、先祖が大友家につながる戸次(へつぎ)氏の分家筋にあたる。豊後国の「国衆(くにしゅう)」と呼ばれる「主要な殿の一人」であった。所領地は当時「清田」(現大分市判田一帯)と称され、臼杵にいた宗麟の隠居領ではなく、息・義統(よしむね)の配下の本領に属していた。
 宗麟と時代をともにしたのは1578年、カブラル師によって受洗した清田鎭忠である。宗麟の娘ジュスタ(元一条兼定室)と結婚し、ために「義統侯御姉婿」とも称された。
 夫妻には「男の子がなかったので、ドン・パウロ(志賀親次)の兄弟を養子にした」、と「1586年度年報」は伝えている。―そうであれば、清田鎮忠の跡を嗣いだ「ドン・ペドロ鎭乗(寿閑)」は志賀家の出身であったことになる。後日、長崎淵村庄屋志賀家と清田家が運命をともにする縁を、ここにも確認することができる。
 清田鎮忠は1585年当時、「盲目で重病を患っていた」(「1585年8月20日づけ、スイス・フロイスの書簡」)。
 1586年12月、豊後国が島津氏から攻められたとき、鎭忠は多くの大友氏配下の家臣・領主と同様、島津方に味方した。その廉により翌1587年、豊臣秀吉から所領を没収され、一時期「ある場所で貧しく暮らしていた」(「1588年度年報」)。このあと、間もなく長崎に避難・移住したと思われる。
 一方、鎭忠本家を嗣いだ養子ドン・ペドロ(志賀)鎭乗の一族は細川家に仕えた。細川忠興の後室に迎えられた「幾知(圓通院)」は、ドン・ペドロ鎭乗の娘である。
 
 清田鎭忠の娘については、宣教師の記録に2人登場する。ひとりは「2歳くらい」で病にかかり夭折した(「1578年10月16日付、ルイス・フロイスによる書簡」)。他のひとりの「長女」は1580年に受洗した(「1580年度年報」)。この「長女」こそが1627年8月17日に長崎で殉教した「マダレイナ清田」であろう。
 マダレイナ清田は、殉教した1627年当時、「58歳」であったから、1570年頃の生まれとなる。だとすれば、マダレイナの父親は清田鎮忠ではなく、母ジュスタの前夫・一条兼定であろう。つまりは母ジュスタ(宗麟の長女)の「連れ子」であった。1580年、10歳で受洗し、その後嫁いだものの「寡婦となり」、おそらく1600年前後、長崎に移住した実母ジュスタを頼ったであろう。

 キリシタン迫害が本格化した1614年以降、ほとんどの信者が「転び」、そしてドミニコ会、フランシスコ会など托鉢修道会所属の信者として「立ち上った」。マダレイナ清田もドミニコ会所属の信者として再改宗した一人である。1620年、親族のシモン清田卜斎(鎭忠の義兄弟)・マグダレナ夫妻が小倉で殉教したことが機縁となったであろうか、彼女は荘厳誓願を立て、修道女の道を選んだ。
 宗麟の血を引く一族には、数えきれないほどのキリシタンがいる。その中で殉教の栄に輝いたのは「マダレイナ清田」のみであろう。ちなみに殉教者・シモン清田卜斎とその妻マグダレナは、宗麟の血を引いていない。
 マダレイナ清田は、宗麟―長女ジュスタ―孫マダレイナ清田とつづく、宗麟直系の「孫娘」であった。それゆえ、大友一族にとっては「―姫」であり、殉教の栄冠を戴いた「天女」であり、後世幾百年も「奉(まつ)り」讃えられるにふさわしい、特別な存在であったと考えられる。(つづく)
長崎淵村庄屋志賀家とその一統・旧大友家遺臣が「桑姫君」すなわち「マダレイナ清田」の遺徳を偲び文政12年(1829)、宝珠山萬福寺(現淵神社)境内に建立した「天女廟碑」


 
 
 
 
  

2015年7月11日土曜日

桑姫御前は「マダレイナ清田」か③

 長崎に避難・移住したこれら大友一族の女性キリシタンたちのうち、「―姫」と呼ばれ、崇敬の対象となりうる人物とは、言うまでもなく大友氏直系の「子孫」であり、「殉教者」でもあるマダレイナ清田であろう。
 殉教者は、これを弾圧した幕府にとっては大罪人であるが、キリシタン信者にとっては信仰の勝利者として、崇め称えられる聖なる存在であった。殉教者の遺物が、遺骨はもとより焼き灰に至るまで信者たちがこれを掻き集め、聖遺物として大切にした話は、宣教師たちの書簡・報告書にたびたび登場する。そのようなキリシタン信仰上の意味からすると、殉教者であるか否かは、桑姫特定の重要な判断材料になることが理解されるであろう。
 前述したように、マダレイナ(マグダレナ)清田は「聖ドミニコ会第三会」の会員として殉教した。これに関して聖ドミニコ修道会の岡本哲男司祭は、著書『日本ドミニコ会殉教録―信仰の血証し人』(1988・聖母の騎士社刊)で次のように述べている。

 「荘厳誓願を立てた会員…マグダレナ清田(1627年殉教)、豊後の領主フランシスコ大友宗麟(1530―1587)の家系に属する子孫である。彼女の夫の死後、ドミンゴス・カステレット神父によって聖ドミニコ信徒会員として受け入れられた。宣教師たちを自分の家に泊めた理由で、1627年8月17日、長崎において生きながら火あぶりの刑に処せられた。1867年7月7日、ピオ9世によって列福された。」(前掲書267頁)

 「荘厳誓願を立てた会員」とは、「神に捧げられたいけにえとして自己を全面的に奉献し、それにより、その全存在は、愛における神への絶えざる崇敬となる」人、すなわち生涯を神に捧げて生きる修道女のことである。マダレイナ清田はおそらく、夫との死別後、在俗の修道女として誓願を立て、「信仰のため死ぬ覚悟をもって」生きていたであろう。

 ◇迫害に立ち向かったドミニコ修道会
 ドミニコ修道会は幕府が禁教令を発した直後から、その対策として迫害に備えるための信心会(コフラディア)を結成し、「転び」の「立ち上げ」(再改宗)に尽力した。そのため、一般の信心会である「尊きロザリオのコフラディア」、「イエズスの御名のコフラディア」などとは別に、「迫害に立ち向かうエリートの組」を組織する必要があった。「それは男の組と女の組に分けられ」、迫害の期間も「説教が全く欠けるということがないように」ある家に集まり、「そこで信仰書を読み、また断食・苦行および相互間の平和や愛の規則を定め、迫害に際してはお互いに励ましあい、最期には教えを棄てるというよりは神の御心に従って死ぬという定め(規則)」を作った。「率先して宣教師を匿う」というのも会員たちの任務であった。
 「自分の家に宣教師たちを泊めた」マダレイナ清田もまた、その使命に生き、殉じた一人であったと思われる。(つづく)
 

2015年7月9日木曜日

桑姫御前は「マダレイナ清田」か②

 「桑姫」と同時代に生きた長崎淵村庄屋元・志賀氏の「二君」―初祖・宗頓(親成)と初代庄屋・親勝が「桑姫を奉ること甚だ篤し」(『志賀親勝墓碑銘』)というのは、二つの理由があったと考えられる。ひとつは、主君大友宗麟との主従関係によるもの。もう一つはキリシタン信仰に基づく紐帯である。かのフランシスコ大友宗麟は熱心なキリシタン宗信奉者であり、イエズス会の最大の擁護者であった。
 したがって、志賀氏が篤く信奉する桑姫は、主君大友宗麟の遺児またはその血を引く女性にして、後世まで記念して伝承されるほどの、キリシタン信者としてのある特別の価値を有する女性でなければならないであろう。それは、志賀宗頓(親成)自身がかつての領国―志賀一族が支配した豊後国竹田―において、稀にみる熱心なキリシタンであり、竹田の領主志賀親次ドン・パウロを周囲の反対の中で受洗に導いたことからも窺える(註1)。

 ◇長崎に移住した大友一族のキリシタン女性たち
 ほとんど知られていないことだが、志賀宗頓(親成)の妻は、主君大友宗麟が後室として迎えたジュリア夫人(=宗麟の次男親家の妻の母)の連れ子(洗礼名=コインタ)であった(註2)。「寛永年間」、志賀宗頓(親成)が肥後国八代を経て長崎に移住したとき、妻コインタも―生きていたとしたら―同伴したにちがいない。
 長崎には、コインタの実母である宗麟の未亡人ジュリアがいた。彼女は、宗麟の娘テクラ(正室・奈多鑑元女の子)の娘マセンシアとともに1600年頃、長崎に避難して来ていた。在俗修道女の道を選択したマセンシアが修道の途次1605年、病に倒れたあと、ジュリアはどうしていたのか。実の娘コインタが夫志賀宗頓らとともに来崎したとき、両者は互いに助け合って禁教下の困難な時代を生き抜いたに相違ない。
 そこに、もう一人「大友宗麟の子孫(孫女)たる」マダレイナ清田が存在したことは、彼女が1627年8月17日(寛永4年7月7日)、長崎で殉教した史実によって知ることができる。
 レオン・パジェスの『日本切支丹宗門史』によると、マダレイナ清田は「30歳で寡婦となり、長崎に(1600年前後頃)追われて来た。デ・トルレス神父は彼女の家でミサを立てた。これにより彼女は自宅に監禁され、1622年から1627年まで4年間をすごした。殉教したとき、58歳であった」。(つづく)

 ※註1、註2…「1582年2月15日付、長崎発信、ガスパル・コエリュのイエズス会総長宛、1581年度日本年報」。「1584年1月2日付、ルイス・フロイスのイエズス会総長宛、1583年度日本年報」。
桑姫社の花生けに彫刻された大友家家紋「抱き杏葉」

 
 
 
 
 

2015年7月8日水曜日

桑姫御前は「マダレイナ清田」か①

 桑姫をマセンシア(大友宗麟の娘テクラの娘)とする片岡氏の仮説に異議を唱える理由は、他にもある。「―御前」(一般には貴人または夫人を意味する)と称された桑姫を、独身のキリシタン修道女とすることに些かの違和感があること。「桑姫」の名の由来とされている養蚕との係わりの伝承が、十代の若い修道女で、かつ病に倒れるほど修道に打ち込んだ少女マセンシアにそぐわないこと。没年「寛永4年」が、明治に至るまで命日の「8月7日」とともに明記して伝承されたこと、などである。
 とくに没年にかんしては明治33年(1900)、淵神社境内の桑姫社の旁らに建立された由来を記した石祠に「寛永四年八月七日没」とあるなど、年月日に固執した様子さえ窺われる。逆に言えば、そこまで明確に記録して後世に伝えられた「桑姫の没年月日」こそが、彼女を特定する有力な証拠資料になる可能性があるのだ。
 回りくどい説明は省略することとしよう。
 筆者が突き止めた桑姫の真の正体は、じつに彼女の「没年月日」が決め手になった。それは、「1627年8月17日(=寛永4年7月7日)」、長崎は西坂の刑場で火炙りにより殉教した「豊後のドン・フランシスコ大友宗麟の子孫たる日本人寡婦マダレイナ清田」(註)である。(つづく)
 
 ※註=同日殺された殉教者は、フランシスコ会とドミニコ会の司祭・修道士、一般信者あわせて18人。「ある者は残忍な猛火で、ある者は鋭い刀で殺された」。マグダレナ清田はドミニコ修道会第三会所属の信者であった。史料『日本の聖ドミニコ―ロザリオの聖母管区の歴史―』(1990/ロザリオ聖母管区本部)によると、ドミニコ会信者の殉教者は、ほかにカヨ治左衛門(高麗人)、筑後のフランシスコ九郎兵衛、レオン(日本名不明)、高麗人寡婦フランシスカ・ピンゾケレの息子アントニオ・メンコソらがいた。なお洗礼名「マダレイナ」は「マグダレナ」と表記されることもある。前掲史料の註に「マダレナ清田」とあることから、筆者はこれを採った。

2015年7月7日火曜日

桑姫御前の謎②

 桑姫御前とは一体、誰のことであろうか。一般には、キリシタン大名フランシスコ大友宗麟の血筋を引く「マセンシア」を指すとされている。系図によると、マセンシアは宗麟の娘テクラとその夫・久家三休(公家)の娘である。(毛利秀包の妻となった宗麟の娘マセンシアは別人である)
 宗麟の娘の娘であるから、「(宗麟の)孫娘」になるが、桑姫にかんする各種解説書には、「宗麟の娘」、「義統(宗麟の子)の娘」など情報が錯綜している。
 桑姫をマセンシアとする説はこんにち、ほぼ確定されているかのように取り扱われているため、筆者も当初、疑いのない事実と思い込んでいた。ところが、証拠資料をもとに確認作業を進めていくと、その根拠が薄らいでいくので、途中から調査を余儀なくされた。つまりは仮説に過ぎないのだ。

 ◇桑姫=マセンシア説に矛盾あり
 同説を最初に唱えたのは、著名なキリシタン研究家であった長崎人・片岡弥吉であろう。昭和12年(1937)刊行の『長崎談叢第19号』に掲載された論文「浦上草創の頃の二、三の事蹟」で、次のように述べている。

 「切支丹流謫人の中に大友義統の姪(=妹テクラの娘)御西御前(=桑姫)がある。淵神社境内に建つ天女碑はこの貴女の碑であるが、碑文に義統が二女とする。然し思ふにこれは日本西教史第十三章に載するマゼンスがことではないか。さすれば、義統の姪で、年齢僅か七、八歳にしてここに遷(うつ)り、十余歳にして没した。……桑姫とマゼンスが同一人物だとすれば、彼女がキリシタンたりし事は迫害禁教の長日月の間に忘れられ、其の遺徳のみを相伝へて遂に桑姫神社として祀り崇めるに至ったものではなからうか。」

 片岡氏はこの仮説をジャン・クラッセ著『日本西教史』(太政官訳)およびレオン・パジェス著『日本基督教史』(『日本切支丹宗門史』か―)をもとに割り出したようだ。
 フランス人著者になる同二個の史料は、原文書をもとにフランス語で二次的に編纂されたものである。こんにちでは一次史料の原文書を日本語訳したものが出版されているので、片岡氏が言う「マセンシア」についても原文で確認できる。それ―「1605年の日本の諸事、フェルナン・ゲレイロ編イエズス会年報集」によると、マセンシアは「フランシスコ(大友宗麟)の一人の孫娘」であり、1605年当時、「長崎に祖母と他の親戚たちとともに追放されて」住んでいた。ここで言う「祖母」は、「血縁から言えば祖母ではなかったが、娘に対するように彼女に抱いているその愛においては祖母であった。」とあるので、大友宗麟の後室「ジュリア」(次男・親家の妻の母)のことである。
 彼女らは、「つねにデウスを信仰し懼(おそ)れて育った」熱心なキリシタンであった。なかでもマセンシアは「10歳の頃から貞潔と純潔のうちにデウスに仕え」たいとの願いを抱き、密かに誓願を立てた。そして、献身と修行の日々を送っていたが、「ついには純粋な贖罪行為と肉体の虐待のために消耗し衰弱してしまい…80日病床にあって」1605年、18歳で肉体の生涯を閉じた。

 片岡氏が「桑姫」を「マセンシア」としたのは、志賀家とマセンシアが共に大友氏と縁故関係にあること。マセンシアが貞節の誓願を立て、キリストに生涯を捧げるほどの、すなわちキリシタン信仰において称賛に値する人物であったからであろうが、しかし、この仮説には明らかに矛盾がある。志賀家が長崎に移住した時期は「寛永年間」であるのに、マセンシアはそれ以前の慶長10年(1605)にすでに死去していることである。
 『志賀家事歴』によると、桑姫は「(志賀)宗頓を御尋ね、茅屋へ御入家につき、(志賀氏が)御介抱申し上げ罷り在り候」とある。それは後世、志賀家の始祖宗頓と初代庄屋親勝の墓碑に「二君の桑姫を奉ること甚だ篤し」と刻まれたことからしても、事実であるにちがいない。
 片岡氏はそこまでの考察をしていない。ただ、志賀氏が桑姫の死去年を「寛永4年(1627)」とした「碑文(「天女廟碑)」は、「誤りであろう」と一蹴しているのみである。(つづく)
志賀家墓地(悟真寺内)の初祖宗頓(中央)、初代親勝(右)、二代親貞(左)の各墓碑

 
 
 
 
 
 
 
 

桑姫御前の謎①

 前稿「キリシタン志賀一族ほか長崎に至り②」でふれた「於西御前」は後世、「天女」または「桑姫」と称され、その事蹟を刻んだ記念碑が現在、長崎市内の淵神社境内にある。一つは文政12年(1829)に志賀親善、薬師寺種成、同種文、吉岡親平、蘆茢純房らが建てた「天女廟碑」(橘元一撰文)。他の一つは天保8年(1837)、庄屋志賀親善が当初、竹之久保尾崎に建立し、のち法入、さらに淵神社境内に昭和11年(1936)に移設された「桑姫御前塚」(現桑姫社)である(註)。
 このうち「天女廟碑」については、史料「志賀家事歴」に「其の後、当初の氏寺真言宗宝珠山萬福寺本社の後に(桑姫御前の)御霊儀の地蔵尊を一体、先祖ども建立仕る」と記載される事歴に係わるもの。また「桑姫御前塚」は、「塚」が墓石を意味するので、死者を葬った墓碑であったと思われる。
 これら二つの石碑建立が当人の逝去から200年余り遅れたのは、当時「御法度」とされたキリシタンであったからに他ならないが、6~7代を経てなお、志賀家ら旧大友家家臣がその事蹟を詳細に伝え、巨大な「廟碑」を建てたのはそれなりの理由があったものと思われる。

 筆者は、隠された訳を探すべく現地に取材した。そして、庄屋志賀家墓地の始祖「志賀親成(宗頓)」および初代庄屋「志賀親勝」の墓碑に、「二君(始祖・宗頓と初代庄屋・親勝)嘗て桑姫を奉ること甚だ篤し」、とあるのを見つけ、桑姫御前が志賀家にとって特別の存在であったことを再確認した。(つづく)

 ※註…この時点で筆者は「塚」と「石祠」を混同していた。「塚」は志賀家屋敷内に当初から祀られ、天保8年(1837)になってその石祠が製作された。詳しくは後述する。
 
「桑姫御前塚」を祀る淵神社境内の桑姫社

2015年6月11日木曜日

キリシタン志賀一族ほか、長崎に至り…②

 寛永年間、長崎浦上淵村に居着いた志賀宗頓「林ゴンサロ」・コインタ夫妻のもとに、ある日、大友家の姫「於西御前」(※1)が訪ねて来た。その頃、豊後府内城主から長崎奉行に抜擢されていた竹中采女正がこれを聞き付け、服や酒肴、白米などを姫に贈り届けている。こうした往来もあって志賀宗頓は竹中と懇意になり、やがて淵村の庄屋役を仰せ付けられることになった。同村庄屋初代は、『志賀家事歴』によると宗頓の「嫡子・内蔵丞親勝」となっている。
 なお、志賀宗頓は別名、親成(ちかしげ)、またの名を林与左衛門と称した。

 ◇肥後の名族・菊池氏の末裔もキリシタン史に係わる
 ここでもう一つ、大友家旧家臣が長崎に移住して浦上山里村庄屋に取り立てられた話を紹介したい。
 浦上山里村は、浦上川を挟んで淵村の対岸(東側)に位置する。里郷、中野郷、家野郷、本原郷、馬込郷、寺野郷で構成され、かくれキリシタンが250年余、信仰を維持して「復活」した奇蹟の村として知られている。
 庄屋高谷家の屋敷は、同村のほぼ中央、こんにち浦上天主堂が建っている場所にあった。「高谷」姓は移住後に改めたものであり、もとの姓は「菊池」。初代庄屋の名は「菊池蒲三郎正重」と言い、肥後の菊池氏が大友宗麟に討たれたあと(1554年)、「大友氏の家臣となったその末孫」とされている(『高谷家由緒書』)。
 ちなみに、隣村淵村にも菊池氏とゆかりのある大友氏の家臣・薬師寺氏がいる。大友氏の菊池家乗っ取りの過程で同家24代武包の養子となった大友重治(大友宗麟の父・義鑑の弟)―菊池義武と改名―に仕え、浪人となって志賀宗頓とともに淵村に移住した薬師寺種広の子孫である。

 筆者は最近(2015年春)、大分県竹田市を訪ね、菊池氏の末裔で大友氏に仕え、藩政時代を通じて千石庄屋をつとめた菊池武宗―のち改名して大津鎭宗と名乗る―の家系が同市植木に現存することを確認した。初祖は、同家に伝わる『菊池家譜』によると、菊池武包の「男子・上野亮」となっている。幕府のキリスト教禁制下、「豊後国志賀」(現竹田市)の布教を担当していた「フランシスコ・ボルドリーノ師」に「宿を与え」、世話したキリシタン「ジョアン・ディエゴ」と称する「村の庄屋」であり、今に隠れの洞窟や代々のキリシタン墓碑等々、イエズス会文書「1618年度日本年報」、「1620年度日本年報」等の記述を証明する遺物・遺跡が伝えられている。
大津家裏山の崖にある宣教師隠れの洞窟礼拝堂内部、ほかにトイレ付きの洞窟もある

 
 竹田市は、「西の右近」と称されたドン・パウロ志賀親次の所領であった。同地に濃厚にキリシタン信仰の足跡をのこした大友氏の旧家臣・志賀氏、菊池氏の一族が長崎に移住し、浦上川を挟んだ淵村と山里村の両村で庄屋職を世襲した史実は、偶然とは考えにくい。

 ◇ドン・パウロ志賀親次の子・親勝が淵村庄屋に
 書き忘れたが、前述した淵村の庄屋役初代「親勝」は、宗頓(親成)の「嫡子」ではなく、実は志賀本家を継いだ実弟ドン・パウロ志賀親次の子であった(「志賀家系図」)。つまり、ドン・パウロ志賀親次は自らの嫡子・親勝を、長崎淵村に移住した実兄・宗頓のもとに送り、養子としたのであった。


 ※1…『長崎名勝図絵』(1820年頃、饒田喩義編纂)には「阿西御前」とある。読みは「おにしごぜん」。「於西御前」の表記は『志賀家事歴』による。
 2018/01/18付記…「於西御前(阿西御前)」は清田鎮忠夫人「ジュスタ」(大友宗麟の長女)を指す。本ブログ「桑姫=大友宗麟の娘ジュスタ」参照。
 

2015年6月10日水曜日

キリシタン志賀一族ほか、長崎に至り…①

 志賀親孝(親度・道易)と宗頓、親次は同家系図によると実の兄弟であるが、親次が長兄親孝(本家北志賀家)に養子となったため、イエズス会史料には宗頓(林ゴンサロ殿)は「(親次の)伯叔父」として登場する。親次、宗頓ともに熱心なキリシタンであった。
 
 ◇親次の消息
 1593年、国主大友義統の改易にともなって親次も所領を失った。それでも、島津征討(1587年)での際立った功績等により、秀吉の親次に対する信頼は大なるものがあったらしい。「文禄5年(1596)3月11日」付で「日田郡大井庄内」に千石の扶助を秀吉から給された(「志賀文書」)。
 日田はこの頃、秀吉のかつての仲間であった森勘八(のちの毛利高政、若い頃、大坂で受洗)が領有していたので、森氏の日田藩に預けられたとも考えられる。ルイス・フロイスの「1596年度日本年報」には、領主森勘八がしばしばドン・パウロ志賀親次を呼び寄せ、「家臣たちに(デウスの)教理を聴かせ、教会建設のことなど話した」ことが記されている。
 1600年、関ヶ原戦の後、徳川家康の天下となり、日本の領主・領国地図は大きく塗り変えられた。福島正則が安芸・備後の二カ国の国主となると、彼は「豊後の古くからのキリシタンの貴人である入江左近と、(志賀)ドン・パウロ(親次)を己が家臣」として迎え入れた(「1600年度日本年報」)。福島が親次に与えた知行地は、「ぬか郡しほはら村、とよた郡上北かた村、ぬか郡こくし村」などあわせて千石余(「志賀文書」)。しかし、ここでの生活はわずかに一年余り。「慶長7年(1602)9月3日」には小早川秀秋(秀詮)に抱えられ、「美作国の北条郡福田村内および山手村内、豊前国の赤坂郡東中村内と和気郡三石村内」に同じく千石を賜った(前掲史料)。小早川秀秋はその直後、慶長7年10月に逝去しているので、定住したとは考えられない。
 このあと親次はいかなる人生を送ったのだろうか。一説に、細川藩に移ったとの情報もあるが、記録史料が手許にないので断定しえない。

 ◇志賀宗頓の消息
 一方、「林ゴンサロ殿」志賀宗頓については、『志賀家事歴』に詳しく述べられている。
 大友家改易後、家臣のうちキリシタン浪人の多くは一族戸次(べっき)氏が養子となった筑後柳川の立花氏を頼ったようだ。宣教師ルイス・フロイスは、1595年頃「その城(柳川城)には約100人のキリシタンがおり、いずれも身分の高い人たちで、豊後の国の出身である」、と『日本史』(12)に記している。
 志賀宗頓もその中にいた。「柳川立花家を相頼り候て、罷り越し候」、と『志賀家事歴』にある。
 「それより肥後八代へ罷り越し」た。「細川三斎、八代の城へ御座成られ候」とあるので、寛永9年(1632年)前後のことであろう。居候であり、留まる理由も別になかったと思われる。「寛永の頃」長崎に向かい、「浦上村の内、竹之久保尾崎屋敷に閑居」した(前掲史料)。

2015年6月9日火曜日

西の高山右近―ドン・パウロ志賀親次③

 ドン・パウロ志賀親次がキリスト教信仰にふれた最初は、国主大友家から追放されて志賀家に仕えていたイサベルという教名をもつ娘であった。彼女はもと、大友宗麟の娘に仕えていたが、何らかの不都合があったものと思われる。「国主の娘によって追い出された」、とイエズス会「1583年度日本年報」は伝えている。当時、志賀親次は「12,3歳」。娘が唱えるキリシタンのオラショと敬虔な信仰態度に惹かれ、祈りの言葉を書き取り、暗記するようになっていた。
 この頃、父は親次を「国主(宗麟)の姪」(田北鎭周の娘)と結婚させた。その(姪の)乳母がキリシタンであったため、乳母もまた親次に「デウスのことを知る限り教えた。」(ルイス・フロイスによる「1583年度日本年報」)。
 加えて、父方の「伯叔父」に、当時豊後国で「善良なキリシタン」として知られた「林ゴンサロ殿」がいたことも幸いした。「林ゴンサロ殿」は『志賀家系図』(長崎歴史文化博物館蔵)によると、親次の父―実は長兄・親孝―の舎弟・宗頓(むねはや)であり、「宗麟の義理の娘」すなわち宗麟新夫人ジュスタの連れ子(教名・コインタ)を妻としていた。志賀家から「ほぼ1里のところ」―久住・下地村に居宅があったらしい。この林ゴンサロ(宗頓)・コインタ夫妻が親次の受洗はもとより、親次がその後、「右近」的存在として活躍する影の立役者であったと思われる。

 一方、「熱心な偶像崇拝者」であった祖父・親守と、親次の父母―すなわち親次の長兄・親孝とその妻(大友宗麟の正室イザベルの娘=イサベルと前夫の間の娘)は、つねにキリシタンの敵として親次の行動を妨害した。しかし、島津氏の豊後侵攻と国主宗麟の死去に伴う国内の混乱、危機的状況における武将親次の対島津戦での活躍と秀吉の信任等により、次第に彼らの反キリシタンの姿勢も崩壊し霧散していったようだ。

 なお、イエズス会史料と邦文史料(『志賀文書』、『志賀家系図』、『志賀家事歴』など)とで、幾分か食い違う志賀親次を取り巻く系譜的相関関係は、次のように整理することができる。

 ◇志賀安房守親守(道輝)は、親次の「祖父」ではなく実父であった。
 ◇親守(道輝)の子に、親孝(民部大輔親度)、宗頓(掃部介親成、林ゴンザロ殿)、親次(小左衛門親善)らがいる。このうち親次は長兄親孝の養子となり、本家の家督を継いだ。
 ◇したがって、イエズス会史料に親次の「伯叔父」として登場する「林ゴンサロ殿」すなわち志賀宗頓は、同家系図で言うと親次の「実兄」になる。



 

2015年6月8日月曜日

西の高山右近―ドン・パウロ志賀親次②

 フランシスコ大友宗麟の嫡子・コンスタンチイノ義統(よしむね)がキリシタンになったのは、「自らの意志によると言うよりは、黒田シメオン官兵衛殿の執拗な勧めによるものであった。」(「イエズス会1588年度年報」)。
 父宗麟が1587年6月に亡くなり、翌7月に秀吉が伴天連追放令を発布してキリシタン攻撃に着手すると、案の定、彼は信仰を棄て、田原親賢(宗麟の正室奈多鑑元女の兄弟)らとともにキリシタン迫害に転じた。これに対し、ドン・パウロ志賀殿は、妻マダレイナ、伯叔父にあたる林ゴンサロ殿とその妻コインタらとともに「巌のように」揺るぎない信仰を堅持し、殉教覚悟で宣教師たちを領内に匿った。

 秀吉が伴天連追放令を出したあと、ジュスト高山右近に棄教を迫り、これに対し右近が潔く領国と財産を放棄してキリシタン信仰を貫いた話はあまりにも有名である。ドン・パウロ志賀親次もその決意において右近に引けを取らないものを持っていた。それは、彼とその妻マダレイナが「自分たちは高山右近殿の行為に負けぬ」とモレイラ師、フランシスコ・パシオ師らに語っていた(前掲史料)ことからも理解されるであろう。西の右近と称された所以である。
 
 ところで、彼が日本キリシタン史の一柱石的存在としてイエズス会史料に綴られるのは、受洗した1585年から1593年までの、わずか8年間であった。国主大友義統とともに文禄の役で失態を演じたことから、秀吉の怒りを買って国主は改易処分、ドン・パウロ志賀殿も「所領を失った」。「日田に近い地」で2000俵の禄を受け、その後、安芸の福島正則に抱えられたとイエズス会史料は記録している(「ルイス・フロイスの1596年度年報」)が、最期、何処でどのように生涯を閉じたのか、わからない。
 

西の高山右近―ドン・パウロ志賀親次①

 豊後のキリシタン史を『16-7世紀イエズス会日本報告集』によって辿っていくと、そこには国主大友宗麟を支えた信仰的英雄が複数、登場する。野津のリアン、高田のルカス、ドン・パンタレアン大友親盛、清田鎭忠、柴田礼能リイノ、パンタレアン奴留湯殿、ドン・パウロ志賀親次とその伯叔父林ゴンサロ殿等々である。このうちドン・パウロ志賀親次(しがちかよし)は、若年者ながら武勇において、またキリシタン信仰において傑出している。
 洗礼を志願しながら周囲の反対によって7年間延期され、ようやく1585年、極秘裡に臼杵のコレジオで受洗した彼は、なおも反対する祖父志賀道輝(親守)の前に、「私が名を賜ったサン・パウロは、その信仰の告白のために死んだが、私もそのために死にたいと明言する。必用な場合には、わずか一人の従僕を伴い、首にロザリオを掛けてこの国から出、追放される準備ができている。」と述べた(「1585年8月20日付、ルイス・フロイスの書簡」)。

 彼の武勇は翌1586年、島津氏の日向・豊後国進攻戦で証明され、周知されることになる。大方の大友軍家臣団が大敗を喫して島津方に降伏するなか、ドン・パウロ志賀親次はひとり最後まで抵抗し、関白秀吉の島津討伐軍につないで領国竹田(岡城)を失わなかったのだ。
 この戦で敵兵が一万田城を包囲したとき、ドン・パウロ志賀親次はキリシタン武将として、ある特異な行動を執った。敵兵の中にドン・ジョアンと称する天草のキリシタン領主がいることがわかり、信仰の友として彼の助命を試みたことである。双方のやり取りがあり最後、降伏を条件に天草殿ドン・ジョアンら天草五人衆全員の命を許し、無事に肥後の安全な場所まで連れて行ったが、五人衆のひとり大矢野殿はドン・パウロ志賀親次に恩を感じ、家臣らとともにキリシタンになった。日本戦国史における武士道キリシタンの美談として、異彩を放つものであろう。

 こうして武勇とキリシタン信仰の両面で名声を高めるに至った彼は、次第に宣教師の間でも注目され、ルイス・フロイスは彼について、「我らの主が国主フランシスコ(大友宗麟)を御許に召し給うとき、豊後の国においてはドン・パウロが一つの強力な円柱となろう。」と述べている。
 その預言はすぐに的中した。国主フランシスコ大友宗麟が同戦の最中(同年6月11日)に亡くなり、次いで秀吉が7月24日、突如「伴天連追放令」を発布して国外退去を命じたため、国中の宣教師たちが避難を余儀なくされたとき、彼は危険を犯して領内に宣教師を匿ったのだ。
 有馬の国主ドン・プロタジオ/ジョアン有馬晴信が死を覚悟して宣教師と神学生、避難してきた多くのキリシタンを領内(島原半島)に受け入れたことは知られている。ドン・パウロ志賀親次も同様の行動をとった。
 「イエズス会1588年度年報」に、志賀親次が「大きな危険を招来するものであろうが、拙者は伴天連がたをわが領内に匿う」と主張したことが記されている。主張するだけでなく実際、彼は宣教師たちを匿ったことは、巡察使ヴァリニャーノ師が1592年に執筆した『日本諸事要録補遺』に、「司祭たちは関白殿(秀吉)が(文禄の役で)来ていたこととも関連して、たびたびこの下(しも=肥前地方)に戻って来ていたが、ほとんど常にドン・パウロの領国(豊後国竹田)にいたのである。」とあるのを見ても、明らかであろう。
 
 

2015年6月1日月曜日

カブラル師も認めた大友宗麟のキリシタン信仰

 日本人嫌いで知られたキリシタン時代のイエズス会宣教師フランシスコ・カブラル師は、こと大友宗麟にかんしては例外であったらしい。「1581年9月15日付、フランシスコ・カブラルのイエズス会総長宛書簡」には、政治家であり超一流の文化人であった宗麟が度重なる試練―島津氏による攻撃、国内混乱等―のなかデウスに一言の不平をも漏らさず、むしろ「すべての騒乱を自らの罪に帰す」彼のキリシタンとしての「善良」性、「実直」性を認め、まるで旧約聖書に出て来る「ヨブ」を見るようだ、と評している。
 宗麟は受洗(1587年8月28日)の直前、「生きた信仰とは何か、死んだ信仰とは何か」、「悪魔がデウスの教えに背かせようとして人間を誘惑する際には、如何なる計略によるか―」とルイス・フロイスに質問したことがあった。
 戦う武士として「敵を知る」ことは兵法であったことからすると、彼にとってキリスト教は目に見えぬ「敵(悪魔)」の戦略を教えてくれる兵法であり、この世とあの世を繋ぐ「道」であったと思われる。
 受洗後二ヶ月にして遭遇した国を失うほどの大試練―耳川の戦で大敗を喫し、多くの家臣が謀叛して国内が混乱したときも、彼はその責任をデウスに転嫁するすることなく、かえって「すべての騒乱を自らの罪に帰」してその罪を「告白」し、「修行」を求め、キリシタン信仰を強固にした。
 松田毅一氏とともに『フロイス日本史』を完訳された川崎桃太氏は、著書『フロイスの見た戦国日本』(2003・中央公論社)で、宗麟の信仰を次のように紹介している。

 「合戦での敗北、敵の侵入と領土の破壊、家臣の謀叛と離反、それらはみな宗麟がキリシタンに改宗してから起きている。南蛮人との交流が単なる貿易目当てのものであったならば、彼らとの関係はとっくの昔に終わっていなければならない。領土の不幸は領主が神仏を捨てた罰だ、といわれながら宗麟の宗門への帰依はますます深まっているからだ。宗麟が求めたものは貿易を越えた何かであった。……現世を人生の最終目的としないデウスの教えのなかに、選ぶべき価値の基準が示されている。それによると、人生に生じる失敗、敗北、苦しみはデウスを存在の目標に置く魂にとって、試練であっても、不幸ではない。灼熱の火に磨かれる黄金のように、試練を通して信仰は鍛えられ、完成される。…宗麟はすでにその心境に達していた、との証言がある。彼と4年間宇津見(津久見?)で過ごした伴天連ラグーナである。…」(同書111頁)。

 ラグーナ師のみならず、日本人を差別して憚らなかったカブラル師をして低頭せしめた宗麟のキリシタン信仰は、ホンモノであったと言えるだろう。
 
  
 
 
 

2015年4月2日木曜日

摩耗した花十字紋瓦片が物語る島原の乱

 花十字紋瓦は、ほかに、鹿児島市の鶴丸城跡二の丸の池の中から見つかった事例が報告されている以外、ほとんど確認されていない。ただし長崎県内で、大村純忠の居城・三城の城下(同市乾馬場)から一個、南島原市の有馬晴信の枝城・原城本丸から三点が見つかっているが、それは手に握れるほどの分割片であったり、外周を意図的に欠いて中央の花十字のみを取り出していたり、断面が摩耗するなど、信仰の聖具として人の手に触れられ、使用された形跡があり、信者が他所―破壊された長崎の教会跡など―から拾い、持ち込んだものと考えられている。

 たとえば、原城本丸大手門で出土した3個の花十字瓦断片は、原城が文禄・慶長の役後1600年前後に再整備され、1605年の台風で壊滅的被害を受けて使用されなくなった経緯からすると、そこに何らかのキリスト教関係の施設があった遺物と言うより、1637―38年の事件・島原の乱で多数の「立上り」キリシタンが籠城した際、彼らが信仰の聖具として身につけ、持ち込んだものであった可能性が高いであろう。

 1612年、キリシタンの「擁護者」プロタジオ/ジョアン有馬晴信を失った同地のキリシタンは「逼塞(ひっそく)」を余儀なくされ、4半世紀(25年)を耐え凌いだ。1637年、「最期」の決心をして原城に結集したとき、彼らの多くは手に持つ聖具もなく、鉛の鉄砲玉を現地で鋳直して稚拙な逆さ十字架をつくり、それを一つの頼りとして三ヶ月、真冬の凍えるような風雪にさらされながら「悲しみ節」の償いをした。彼らは、そのように貧しく、たくましく、素朴であった。
 摩耗痕のある花十字瓦の断片は、それらを物語る小さな証拠物である。立派な金属製の十字架より、むしろ島原・天草の農民キリシタンにふさわしい聖具であったように思われる。
                
原城本丸大手門で見つかった「摩耗した」花十字紋瓦
                    
 

2015年3月31日火曜日

長崎勝山町サント・ドミンゴ教会の花十字紋瓦

軒丸瓦の「花十字」意匠

 正四角形の十字架を花形にあしらう「花十字」の紋章は、日本独自のものであろうか。意匠の意図は、西洋ゴシック建築に見られるステンドグラスの「バラ窓」と似ているように思えるが、日本のそれは単純化された美しさがある。代表事例は、長崎県島原半島に集中分布する伏碑型ポルトガル様式キリシタン墓碑のそれであろう。
 他にひとつ、キリシタン時代の教会およびその関連施設の屋根に使用された軒丸瓦の意匠がある。これは、一般に「花十字紋瓦」と称され、1990年代から実施された長崎市内の発掘調査で見つかった。これまで万才町(旧島原町)、興善町、勝山町など16世紀後半から17世紀初頭にかけてキリシタンの町が形成された内町(うちまち)および外町(そとまち)の範囲で確認されているが、圧巻は勝山町のサント・ドミンゴ教会跡で見つかった、おびただしい数の「花十字紋瓦」である。
 
 サント・ドミンゴ教会は、スペイン国を布教保護国として西廻り航路でフィリピン・マニラを経由して来日した托鉢修道会ドミニコ修道会の教会だ。1602年、甑島(鹿児島県)に上陸し、その後、川内市(京泊)を経て1609年、長崎の勝山町に教会を建てた。代官村山等安(元イエズス会信者)とその息子アンドレス村山徳安がこれを熱烈に支持し、豊かな免償(インズルゼンシア)を有する同修道会の信心会「貴きロザリオの組」がにわかに浸透した。商取引や政治活動に一切関与しない清貧の修道生活と、貴賤(きせん)、貧福(ひんぷく)、老若男女、身分の高下に関係なく手を差し伸べる慈愛が、当時の、とくに社会の底辺で生きる人々に好感をもって受け入れられたようだ。「転(ころ)び」キリシタンの「立ち上げ(=再改宗)」に熱心に取り組んだのも、彼ら托鉢修道会の宣教師たちであった。
 内町を拠点とするイエズス会が、その対処に苦慮したのは言うまでもない。
 同じ長崎町出土の「花十字紋瓦」ではあるが、イエズス会の慈善施設(ミゼルコルディア)があった内町万才(島原)町のそれと、勝山町サント・ドミンゴ教会跡のそれとは、遺物につながる歴史・物語の背景が違う。(写真=長崎市勝山町、サント・ドミンゴ教会跡資料館展示の花十字紋瓦)
         

 1614年「禁教令」以降、長崎キリシタン史はそれまでのイエズス会中心からフランシスコ会、ドミニコ会、アウグスチノ会等の托鉢修道会信仰に移行するという事実がある。それがいかに「瞠目すべき」ことがらであるか、イエズス会の記録がこれを無視したことにより今もって日本のキリシタン研究はその認識に至っていない。ただ一人、東京大学史料編纂室の岡美穂子助教を除いて―。 
 




 

2015年3月30日月曜日

日本人キリシタンと桜の花

 
オラショに「桜花が散るやな~♪」


 キリシタン大名有馬晴信が晩年、黒船グラッサ号撃沈と、それに続く賄賂に絡む岡本大八事件、長崎奉行長谷川左兵衛暗殺計画などに係わり、甲州山梨県の初鹿野(はじかの)で死を遂げた謎は、長年、キリシタン研究家の課題であった。それまでの模範的とも言える前半生の信仰生活に比べ、キリシタンらしからぬ最後の行動との、あまりに激しい落差が理解し難いためである。
 筆者は2011年暮れから翌年1月にかけ、日本人のこころ―武士道精神を重ねることでこの史的問題を解釈し、あわせて島原半島のキリシタンが「花十字」を好んで墓碑に彫刻した心理を、逆説的に読み解いたことがあった。つまり、日本人キリシタンは死に対して「桜の花が散る」イメージを合わせ持っていた、ということである。

 それ以前、「花と散る」死を美化する日本人の生き方は、ごく近い時代の、戦前・戦中に形成されたものであろうとの、漠然とした認識があったので意外であったが、戦国・織豊時代から近世初期にかけて生きた日本人キリシタンの多くが理想的生き方として「桜の花」をイメージしていた事例も、また意外に多くあった。
 細川ガラシャの歌「散りぬべき時知りてこそ世の中の 花は花なれ 人は人なれ」しかり。生月島のかくれキリシタンが殉教者サン・ジュワンを讃えて、「この春は この春はなあ 桜花かや 散るじるやなあ また来る春はな つぼむ(蕾)開くる花であるぞやなあ」と歌オラショに唱えたこと、しかり。原城に結集した島原・天草の「立上り」キリシタンもまた、死ぬ時を「地主の桜の盛りの頃」(矢文)と決めていた。彼らが「花」と散った落城の日は寛永15年2月27~28日、西暦で1638年4月11~12日、桜の花が咲き、散る季節であった。

 きょう(2015年3月30日)、島原は桜の花が満開だ。

 

 

2015年3月29日日曜日

花クルスと桜の花と

東西のこころが融合したキリシタン墓碑の花十字

 島原半島に集中的に分布するポルトガル様式伏碑)型キリシタン墓碑に、「花十字」の装飾をよく見掛ける。その形は、整った正方形または正円形をして美しい。キリシタン研究家はそれらを写真もしくは拓本にとり、ときには集計して系統的分析などして紹介しているが、意味について説明することは少ないようだ。キリスト教と言えば十字架、敢えて言うまでもない、といった暗黙の了解があってのことと思われる。たとえ説明があったにしても、それはキリスト教図像学からの引用―すなわち西欧で解釈されるそれに留まっている。

 日本人のキリシタンが戦国時代・武家社会の中に発芽し育成されたのであれば、日本人の心を土台として、その上に接ぎ木されたキリシタン信仰であったにちがいない。武士が戦場で死ぬことを「散る」と言う。花に掛けた言葉である。クリスチャンたちは、悪が支配するこの世にあって「戦士」(または騎士)に喩えられる。日本のキリシタンも同様である。彼らの死もまた「花が散る」ことであった。日本人の生き方として価値づけられるものであった。
 筆者はそのような目でキリシタン墓碑に刻まれている「花クルス」を眺めることがある。
 
 …そうであれば、キリシタン墓碑に刻まれた「花十字」にも、二つの意味が重ねられていることになる。一つは、西欧キリスト教由来の「死に対する勝利者キリストの象徴、贖罪の象徴」(『新カトリック事典第三巻』)としての「十字架」。他のひとつは「散る花を愛でる」日本人のこころ、武士道のこころを象徴する「花十字」である。… 
 ―拙著『ドン・ジョアン有馬晴信』(2013・海鳥社)に記した一節である。

【写真=島原半島のキリシタン墓碑花十字(拓本)】

2015年3月28日土曜日

花久留守(はなクルス)―25年目の符合

殉教者・林田マダレイナと島原の乱と

 …寛永15年2月28日(西暦1638年4月12日)「(原城)本丸でキリシタンが自害したことは、私の配下の者共(細川藩の兵士たち)が多数見たことでございます。小袖を手に掛けて、焼け申しておりました。燠(おき)を手で上に押し上げて、その内に入った者も多くありました。また、子どもたちを燠の中に押し込み、その上に上がって死んだ婦人も多くございました。」…

 島原の乱における「立上り」キリシタンの最期の姿を目撃した肥後細川藩士の記録『綿考輯録(めんこうしゅうろく)巻48』に出てくる叙述である。その筆者は、続けて「下々の卑しい者たちではありますが、なかなか奇特(きどく=類い稀な、殊勝)な死に方であり、言語に言いあらわすことができないほどでございました。」(口語訳・宮本)と記している(註)。

 彼等はそれより25年以前(1613年10月7日)、有馬川の川原で林田リアン助右衛門ら3家族13人が、生きながらに焼き殺され殉教した事件の光景―中でも「灼熱の燠(おき)を両手で持ち上げ、それを自分の頭の上に掲げ、そして、右手の上に頭をもたせかけ」ながら死んだ林田助右衛門の娘(20歳)マダレイナの姿を目撃した人々であった。
 長崎の著名なキリシタン史研究家某氏は、「島原の乱はキリスト教信仰とは無関係だ」と言い張って憚らないが、両者が一本の線で結ばれていることは明らかだ。25年という歳月は、島原半島のキリシタンにとって、「在りし日」の自身のことであった。
 
 封建社会の武士たちが島原の乱における女・子どもらの行動を「奇特」であると評した、そのような人々を、自由主義社会のこんにち云々するキリシタン研究もまた、彼等に向き合う心の姿勢が問われてくるように思えた。
 筆者が加津佐の浜辺、松林の中にあるキリシタン墓碑に1987年から21年間、通い詣でた記憶は、つい昨日のこととして覚えている。写真は2014年11月、同墓碑を訪ねた際、持参したノートから紙一枚を破り取り、墓碑に押し当て、付近の草葉で写した花久留守(クルス)である。                        
                    

※【】(原文)…本丸ニ而きりしたん自害之体、此方之者多勢見申候、小袖を手ニかけやけ申候、おき(燠)を上へおしあけ内へはいり候者多く御座候、又子とも以下を中へおしこミ上へあかり死候ものも多く見え申候、中々きとく成下々の死、絶言語申候事。
 …猶々、城中の家やけ候時、扨々つよき男女之死様にて御座候、やけ候火を手にておしあけ中へはいり申候もの多御座候、…
(『綿考輯録・巻四十七』、「三月朔日、今度有馬城乗の始末を(細川)三斎君ニ被仰上、松平出羽殿へも被仰越候御書」)
 

2015年3月27日金曜日

長崎大波止の「鉄玉」―陳九官の記憶

中国商人陳九官の記憶―長崎大波止の「鉄玉」


 アマゾンに注文していた飯嶋和一著『出星前夜』が届いた。先般、東京から来たクリスチャンが話題にしていたので取り寄せたものだが、小説にしては資料の引用が詳細で、読み応えがある。
 転びキリシタンの立ち上がり(再改宗)事件「島原の乱」(1637~38年)を鎮めるため、唐人・頴川(えがわ)官兵衛(中国名・陳九官)が長崎奉行に進言して中国兵法の武器「木鉄炮」(別名「木石火矢」)を長崎で拵え、中国船で原城に運んで来たのは、同書で「(寛永15年=1638年)陰暦2月15日」となっている。
 
 同兵器「木鉄炮(きでっぽう)」、「木石火矢(きいしびや)」については細川藩、鍋島藩などの諸史料に部分的に記述されている。全体像が掴みにくいものの、それらを総合していくと、たしかに「巨大な丸太をくり抜いた木製大筒」(同書)のような兵器像が浮かび上がる。「その見たこともない木製の大筒は、砲口の直径は3尺もあり、砲尻までの長さが5間(約9㍍)に及ぶものだった。木製の破裂を防ぐため竹の箍(たが)で3尺おきにくくられていた。25人がかりで運ばれてきたその大きさに誰もが仰天した。中に込める砲弾は径3尺もの鉄製で、それを一度に2発使用する。それに人の頭部ほどの鉄製弾丸を25発込める。火薬はなんと一度に3千斤(約1・8トン)用いるのだという。」(同書)

 著者飯嶋氏がこの兵器の名称を「―大筒」としたのは、一般の大砲と同じように弾丸を発射させるしくみの兵器と理解したためであろう。「夜間…鍋島家の仕寄せまで運び、砲口を本丸石垣に向けて、筒尻はななめに掘り下げた地面に埋める。火縄を長く延ばし、それに点火して爆発させ、本丸跡の石垣ごと根こそぎ海の方へ吹っ飛ばすという。」(同書)と記している。
 筆者が確認したのは、それとはやや異なる。「城(原城)のかたの土居(崖)に穴を(30間ほど)堀り込み」、「その中に」これを「仕掛け」、「筒尻を地底にあて、火縄を長く仕り、火の渡り候加減に仕り候」もの、すなわち本丸の崖に横穴を30間ほど堀り、その地下に仕掛けて爆破させると「城の本丸、二の丸にかけて海へはね申し…石垣以下ちり申すべき」兵器、つまりは木製の筒ごと爆破させる「巨大ダイナマイト」的な兵器であった。
 『出星前夜』の著者飯嶋氏が、砲弾の大きさを「径3尺」(約1㍍)としたのは、何かの間違いであろう。それは木製大筒の口径であって、これに直径3尺の砲弾を込めるのは不可能である。鍋島家の史料に「この(兵器の)鉄玉、いま長崎江戸町(の)波止場に残りて有り」とあるので、現在も長崎市に存在する「大波戸の鉄玉」(径約52㌢)がその現物である。
 先般、この件に関し長崎新聞2015年3月25日付に寄稿した。

 島原の乱にかんする書籍は数え切れないほどあるが、中国兵法の兵器「木鉄炮」について触れたものは飯嶋氏の作品以外、見たことがない。誰かご存知の方があれば、御教示いただきたい.
長崎市大波止の鉄玉
「木鉄炮」想定図




天草四郎の首ではない

島原の乱異聞―美輪明宏さんの証言

 天草四郎時貞が美輪明宏さんに霊媒者を通して現れたとき、彼があの世から語った島原の乱に関する実話が美輪さんの某著書(註)に載っている。「あの世」の存在を頭から信用しない「この世」の歴史家たちをよそに、東京から島原半島のキリシタン史を訪ねて来たクリスチャンC氏、S氏に原城本丸でそのさわりを語ってみた。

四郎の首は人違い
 天草四郎時貞の首は、諸記録史料によると、細川藩藩士・陣野佐左衛門が焼け落ちる「四郎が家」に飛び込み、討ち取ったことになっている。ところが、あの世の四郎は「ちがう。あれは儂(わし)の首ではない。儂を育ててくれた養育係で、南有馬の磯野三左衛門という者がいた。その倅(せがれ)の磯野運之丞と申す者の首じゃ」、と証言する。
 いきさつは以下のようである。すなわち、四郎の父が多忙で方々に出かけることが多く、そのため、磯野三左衛門が四郎を養育していた。島原の乱事件当時、磯野氏は「陣野佐左衛門」と変名し、キリシタン諜者(スパイ)となって熊本藩主細川氏に仕えていた。
 一方、彼の倅・磯野運之丞は、天草四郎とともに原城に入り、キリシタンとして運命をともにした。最期は自害したらしい。
 美輪明宏氏によると、「落城の際、父磯野三左衛門(=陣野佐左衛門)は原城に戻り、もういよいよ最期だというときに、自害した自分の息子の首を切り落とし、これを〈天草四郎の首〉だと嘘をついて細川方へ持参した」、というのだ。


四郎の最期
 美輪明宏さんの証言によると、天草四郎が霊媒者を通して現れたとき「苦しそうな」状態であったたため、美輪さんが「どうなさったのですか?」と訊くと、「儂(わし)は火の中で死んだ。死後の醜い姿を見せとうなかった」という。
 キリシタンが「火の中で死んだ」という記録は、細川藩の史料「綿考輯録・巻四八」にもある。「(原城)本丸にてきりしたん自害の躰、此の方の者(=細川藩の兵士たち)多勢見申し候。小袖を手に掛け、焼け申し候。おき(燠)を上へ押し上げ(その)内へ入り候者、多く御座候。また子ども以下を(火の)中へ押し込み、(その)上へ上がり死に候ものも多く見え申し候。なかなか奇特なる下々の死、言語に絶へ申し候事」、と―。寛永15年2月28日、本丸「四郎が家」での出来事だ。

 四郎は、秘密の地下室を通じて逃亡したなどの説もあるが、彼等の行動―「立上り(再改宗)」の目的は、聖地原城でキリストとともに「悲しみ節」を過ごし、罪の償いをしたあと、ハライソを目指して「死ぬ」ことにあったので、逃亡説は意味をなさない。美輪氏の証言通り、「火の中で(焼け)死んだ」というのが真実であったにちがいない。ただし、史学では細川藩の記録史料は用いても、美輪氏の啓示的証言は史料として取り扱わない。

※註…美輪明宏著『霊ナァンテコワクナイヨー』(2004、(株)パルコ出版)194~195頁
天草四郎肖像画