2023年8月9日水曜日

薩摩に咲いた花十字―喜入氏家紋―

  九州の南端に位置する鹿児島県薩摩半島に「花十字」の家紋を有する墓地がある。鹿児島藩主島津氏の家紋「丸に十字」の四隅に花弁があしらわれたもので、それは島津家に絡み付いたキリシタン史を見るようで興味深い。場所は枕崎市桜山本町の旧長善寺跡の裏山にある喜入(きいれ)氏累代墓地。枕崎は藩政時代、「鹿籠(かご)」と称され、島津家につながる喜入氏の領地であった。

写真=左が古い時代(江戸初期)の花十字、右は近年のもの。いずれも喜入家墓地】

 ■喜入氏とキリシタン

 喜入氏がキリシタンと関係を持ったのは第7代忠政(1571-1645)の頃である。彼は幼少の頃、仏門に入り、のち還俗して武将となった経歴の持ち主で、文化人でもあった。藩主・島津義久、義弘、家久(忠恒)、光久の4代に仕え、家久の時代には家老職にあった。忠政の後妻となる妙身は「マルタ」の洗礼名を持つキリシタンであり、肥前国高来(たかき=島原半島)のキリシタン大名・有馬晴信の息・ミゲル直純と婚姻の秘蹟を受けたが、有馬家の政略的事情によって破棄され、長崎近辺に隠れ住んでいた。また、直純との間に生まれた幼子・於満津を連れていた。

 マルタ妙身の母・カタリイナ永俊は有馬家の家臣・皆吉家の出身で、有馬晴信の「養女」としてキリシタン大名・小西行長の側室となり、その後、薩州家島津氏一族の島津清忠に嫁した。マルタ妙身は小西行長との間に生まれた娘であった。肥後国にいた同夫妻が島津本家の要請で鹿児島に移ったのは慶長14年(1609)のことである。

 数年後、カタリイナ永俊は長崎に隠棲していた娘・妙身マルタを鹿児島に呼んだ。元和5年(1619)の頃、母カタリイナ永俊が娘・妙身マルタを喜入忠政に後妻として紹介し、二人は夫婦となった。

 一方、カタリイナ永俊と島津忠清との間に生まれた娘・桂安は、藩主島津家久の側室となり、鹿児島藩第2代藩主となる光久を生んだ。喜入忠政は、カタリイナ永俊を介して藩主家久と義兄弟の間柄となり、時に藩主の代理役を務めるなど活躍した。

 ■鹿児島城の花十字瓦とカタリイナ永俊

 カタリイナ永俊は夫忠清とともに、はじめ鶴丸(鹿児島)城に居住した。近年、鶴丸城跡から長崎の教会で使用されたものと同じ「花十字紋瓦」が出土して話題になったが、これはカタリイナ永俊が鹿児島鶴丸城に住んでいた時、長崎から取り寄せたものであった。長崎の教会に葺かれていた数種の花十字紋瓦(軒丸瓦)のうちの一つが、鹿児島城で出土したものと同一の鋳型で製造されたものであることから確認される。

写真=左が長崎のサント・ドミンゴ教会跡で出土した花十字紋瓦の一つ。右は鹿児島城跡出土のそれ。】

 カタリイナ永俊は夫忠清が亡くなった元和6年(1620)以降、「堅野(たての)の今郷田氏辺」に移り住み、鹿児島に潜入したキリシタン武将らを匿い、保護した。徳川幕府の禁教令施策が厳しくなる中、藩主・家久にとって彼女の存在は悩みの種であった。それでも、10年ほど忍耐したが、終に家久は寛永9年(1632)、カタリイナ永俊の種子島配流を決定した。追って、カタリイナの娘で喜入忠政の夫人となっていた妙身マルタ、および彼女の二人の娘(津留、於満津)も種子島に送られた。

 ■「かくれ」喜入忠政のこと

 ところで、藩主・家久の家老であった喜入忠政がマルタ妙身を後妻に迎えたのは、尋常なことではなかった。何故なら、彼女とその背景にあるキリシタン色があまりにも濃かったからである。彼女はアゴスチイノ小西行長の娘であって、そして、ジョアン有馬晴信の息子・直純ミゲルの元正妻であった。両者の結婚は述べたようにカタリイナ永俊から持ち出されたものであるが、彼女を受け入れたことは、喜入忠政が当時国禁とされたキリスト教を暗に是認したことを意味するものでもあった。彼は表向き、キリシタンではなかったとされる。しかしながら、キリシタン信者と多方面で深く係わっていた。カタリイナ永俊が種子島に配流されたその翌年(寛永12年)、幕府から「鹿籠家中のキリシタン20名を捕え、島送りにせよ」との厳命が薩摩藩に届いたことがあった(註1)。「鹿籠家中のキリシタン」とは、「喜入忠政の家臣」のことであるから、忠政は実際、キリシタンの家臣20余人を抱えていたのであった。

 死後、彼の墓は父・喜入季久の墓地からさらに奥まった場所に、あたかも隠されたように設置され、しかも土盛りしただけの円塚であった。これらのキリシタン的状況を歴史学として如何に説明するのか、ふさわしい言葉は見当たらないが、「かくれのキリシタン武将であった」という以外にないと思われる。ここに紹介する喜入氏墓地の花十字家紋も、それを裏付けるものである。

写真=7代目忠政以降の喜入氏累代墓地(枕崎市)】

註1…枕崎市教育委員会(元)文化課課長・末永俊英氏稿「枕崎の殿様・喜入氏を探る」。

2023年4月6日木曜日

カタリイナ永俊〈補遺〉―皆吉氏系図考㊦

島原の乱を前後して

  ところで1634年(寛永11)春、カタリイナ永俊が種子島に遠島処分となった後、娘のマルタ妙身と孫娘(満津と津留)も同じくキリシタン宗門の廉で配流が決定され、1年3ヶ月ほど喜入氏の領地である鹿籠(かご=現枕崎市)の田代家で待機した後、1636年(寛永13)、種子島に流された。

 その翌年(1637、寛永14)、高来(島原)と天草地方の転びキリシタン3万7千人が「もとの宗門に立ち帰る」島原の乱事件が起きた(註1)。その舞台となったのは、島原半島の南東部、有明海に突き出た小高い丘「原城」と称される所であったが、そこは、かつて皆吉氏が領有した「大江」の一部であった。

南有馬村大江名のうちにある原城(藩政時代初期絵図)

 日向国に転封した有馬直純と行動を共にしなかった有馬氏の家臣、および住民ら「転びキリシタン」の多くが「立上り」に参加した。皆吉氏も、直純に従臣した次男・大膳亮純政一統以外は地元に居残り、この事件に関与したと思われる。

永俊に仕えていた皆吉長右衛門家族 

 島原の乱が終結したのは1638年(寛永15)の春、陰暦の2月28日(西暦4月12日)である。その一ヶ月後、カタリイナ永俊らを預かっている種子島の領主・種子島左近大夫忠清の許に衝撃的な連絡が入った。島原の乱に「与(くみ)した」某の息子・皆吉長右衛門がカタリイナの身内の者として種子島にいるので、彼とその妻子5人を捕らえ、送り届けよ、との命令である。『種子島家譜(五)』は、寛永15年4月3日付けで次のように記している。

 「渋谷恕兵衛および足軽三人、鹿府より来たり。永俊内・皆吉長右衛門および妻子五人を捕え、帰る。…是、長右衛門の父、島原一揆に與(与=くみ)するを以て也。

 この史料は『鹿児島県史料旧記雑録拾遺家わけ4・種子島家譜』に掲載されているが、茂野幽考氏は著書『日南切支丹史』で、同じ内容ながら異なる文面の史料を上げている。

 「永俊内・皆吉長右衛門は天下の囚人と為る。是に依り、渋谷恕兵衛四月三日下島、足軽三人を従え来る。是、長右衛門・親が今度、島原籠城の処、虜と為り、白状して曰く、長右衛門永俊に仕ゆと。是に由り長右衛門妻子五人搦(から)め、鹿陽に帰る。此の時、山崎新右衛門・羽生伊左衛門、警固の為、之に従う。

 史料名が「種子島家正統系図」とあるので、「種子島家譜」とは別のものである。仮に前者を〔〕、後者を〔〕とする。
 〔〕の史料で皆吉長右衛門は「島原一揆に与(くみ)した」とあるので、筆者は当初、直接参加したのではなく、間接的に係わった、と解した。何故なら、直接籠城した人々は山田右衛門作以外、全員が殺されたからである。ところが〔〕の史料を見ると「島原籠城之処、虜(とりこ)となり、白状し…」とある。間接的な係わりではなく、直接籠城し、そして捕虜となった人物であった。はたして「息子・皆吉長右衛門が永俊に仕えている」と白状した「父親」とは誰であるのか。息子の名前からすると「皆吉」家の者と思われるが、どういう訳か二つの史料は「父」「親」と記すのみで、実名を挙げていない。この問題を解く前に、先にこれと関連する他の一つの史料――「長右衛門の弟」が薩摩藩に潜入していたことを示す史料を取り上げたい。

長右衛門の「弟」も薩摩藩に―
 日付けは「寛永15年卯月13日」とあるので、(皆吉)長右衛門発覚事件から10日後のことである。

 「一筆申し入れ候。然者、最前申し入れ候皆吉長右衛門弟芦塚権右衛門と申すもの、歳比廿四五に成り申すものゝよし、薩摩殿御舎弟北郷式部殿に居り申す由、嶋原より只今到来候。穿鑿(せんさく)致され、御とらへ、小倉迄御越し有るべく候。…
 寛永十五年卯月十三日、     戸田左門氏鉄/松平伊豆守信綱
 山田民部殿/北郷佐渡殿(註2) 

 差出人は島原の乱で幕府軍総大将を務めた松平伊豆守信綱である。「小倉迄御越し有るべく候」というのは、乱後の「(陰暦)4月4日」、小倉に幕府軍参加の各藩代表を集め、処罰の上意を伝える会議があったので、松平信綱はそこで待機していたのであった(註3)
 従来、この文書は五味克夫氏(鹿児島県史料編纂委員・鹿児島大学教授)の論考「矢野主膳と永俊尼」(『鹿大史学第17号』掲載)により紹介されていたが、筆者が『鹿児島県史料旧記雑録後編五』で確認したところ、五味氏は「弟」を「方」と読み替えていて、正確ではないと分かった。「皆吉長右衛門」と「芦塚権右衛門」が兄と「弟」であるというのは理解し難いが、史料の記述通り、事実であると見なければならない(註4)。つまりは、カタリイナに仕えていた皆吉長右衛門と、北郷式部のもとにいた芦塚権右衛門は実の兄弟であり、島津藩に潜んでいたのであった。
 
 ■長右衛門・権右衛門兄弟の「父」は山田右衛門作か
 先に述べたように、籠城して生き残り、幕府軍の捕虜となって島原の乱の詳細を白状した人物は、公式的には山田右衛門作のみである(註5)。そうであるのに、ここにもう一人、生き残りの捕虜が存在したかのごとく島津藩文書は証言している。しかも、その文書の発信者は、小倉に山田右衛門作とともにいる幕府軍総奉行・松平伊豆守信綱であるから、事実を誰よりも承知していたはずである。信綱の念頭にある「籠城者の捕虜で、白状した」人物は山田右衛門作以外にあり得ないのだ。矛盾するかに見えるこの事の真相を読み解くには、両者を同一人物としなければならないであろう。すなわち「皆吉長右衛門の父」とは山田右衛門作その人であったということである。この仮説のもとで検証してみると、不思議にもいくつかの点で合点されることがある。以下に述べる。

 ◇その①、名前の「右衛門」が共通する。…父は山田右衛門作(佐)、息子の兄は皆吉長右衛門、「弟」が芦塚権右衛門である。
 ◇その②、皆吉家と山田家とのつながりは、皆吉本家(大膳亮純政家系)に於いて存在した。…山田氏の有馬氏家臣としての出自は、有馬氏の分家になる古賀城主・山田氏である(註6)。この家系の直純時代の家臣は有馬長兵衛純親であるが、その息子・大膳純忠は皆吉本家を相続した大膳亮純政の家に養子となっている(本稿註1参照)。つまり皆吉氏と山田氏は一族的な関係にあったので、皆吉家の長男権左衛門の家系にも山田氏が係わっていたことは、あり得ることである。山田右衛門作は島原の乱当時、口之津村の庄屋であったとされるが、有馬氏の家臣であったのは間違いない。
 ◇その③、父の実名を伏せるに理由があった。…島原の乱にかんするすべての情報を受けていた幕府軍総奉行・松平信綱は、長右衛門・権左衛門兄弟の「父親」が誰であるか承知していたはずである。ところが、島津藩に宛てた文面で、それを敢えて伏せた様子が見られるのは、それなりの理由があったからではないか。山田右衛門作に対する幕府のその後の待遇は、「松平伊豆守に召され、江戸へ参り候」(註7)であった。幕府はこの人物が、その後の幕政上―とくにキリシタン政策上、必要であると見ていたのだ。しかし、ここで実名を明かしたなら、息子たちが処罰されたその父親を幕府が抱えることになるから、控えなければならい、―そのような配慮があって敢えて名を伏せた、と見ることができよう。

山田家から皆吉家、芦塚家に養子
 意外な展開となったが、皆吉氏の系譜を探る上では、新たな事実が確認されたことになる。カタリイナ永俊に仕えていた皆吉長右衛門は、皆吉家の人物ではなく、実は山田家からの養子であったということだ。藩主光久の舎弟北郷式部殿のところに潜入していた「弟・権右衛門」もまた、皆吉家出自ではなく、山田家から芦塚家に養子となり、「芦塚権右衛門」を称していたのであった。有馬晴信や小西行長のもと、かつてキリシタンの名族として活躍した皆吉氏、山田氏、芦塚氏などがこのように連携して、あの困難な弾圧時代を生き抜こうとした日本キリシタン史の、複雑な一端が窺える事例であろう。

 なお、皆吉長右衛門家族がカタリイナ永俊に仕えたのは、永俊の意向に依るものと思われる。その期間は、わずかに4年間ほどであった(註8)。1634年に種子島大長野に配流された永俊と、その2年後の1636年に配流された娘マルタ妙身および孫娘二人は、皆吉長右衛門家族逮捕事件から一年後の1639年(寛永16)6月、ともに赤尾木石之峯に拠り、その後「井ノ上」に移った。その際、処分された皆吉長右衛門家族に代わり、新たに「仕える人数」として「女七人、男三人、合わせて拾人を召し置かれた」という(註9)

 以上の考察のもと、皆吉氏の系図をまとめると、以下のようになる。(おわり)
皆吉氏系図(宮本作成)

註1…島原の乱は、従来の見解では農民一揆とされるが、本質は「転びキリシタンの立上り」事件である。薩摩藩のキリシタン事情に通じた家老・喜入忠政、島津弾正大弼久慶らは「今度、有馬へきりしたん宗誇(=起こり)候儀、…それより前ころびたる者共も皆々もとのやうに宗を直したる由に候」(『鹿児島県史料旧記雑録後編五』692頁、№1115史料)と、ほぼ正確に事の真意を捉えている。

註2…『鹿児島県史料旧記雑録後編五』799頁、№1296史料。

註3…島原の乱後、寛永15年(1638)4月4日、幕府の特使・太田備中守が小倉に下り、乱に関与した各藩の代表らに対し同事件に関する処罰の上意が伝えられた。

註4…芦塚忠右衛門は元、小西行長の家臣で、その子(同じく忠右衛門)とともに1615年、大坂陣で真田信繁の隊に加わった。真田信繁はのち、薩摩に逃れ、「芦塚」姓を名乗った(伝説)。芦塚忠右衛門は1637年、島原の乱でキリシタン軍の天草四郎のもと、軍奉行(参謀)を務めたとされる。舎弟に忠大夫、嫡子に左内がいた。

註5…捕えられた山田右衛門作が島原の乱の経緯について詳細を述べた記録が「山田右衛門作口上書」として知られている。

註6…山田氏は有馬経純の末男・嶋原純尚越前守につながる家系である。山田主計頭(有馬貴純・純鑑時代の老職)―山田兵部少輔(有馬晴純時代の古賀城主)―…有馬長兵衛純親(直純時代の公族大夫)と続いた(『国乗遺聞巻三』)。

註7…『別当杢左衛門覚書』(『島原半島史・中巻』91頁)。

註8…江戸詰家老・伊勢兵部貞昌が在国家老に宛てた「寛永10年9月19日」付け書状に、「(北郷)式部殿御側に、わかき男罷居候て、御ぐしなと結申候、いつかたより参たる人にて候哉、たて野の御引付にて御座候…」とある。ここにある「わかき男」は、すなわち(皆吉)長右衛門の弟・(芦塚)権右衛門である。彼は「たて野(カタリイナ永俊)の御引き付け」により、北郷式部殿の御側に仕えていたのであった。なお、捕縛された長右衛門と権右衛門二人の処罰が如何に行われたかは不明である。このうち長右衛門について茂野幽考氏は著書『薩藩史料集成』で、「鹿児島から長崎に送られ、処刑された」(205頁)と記しているが、根拠が示されていない。

註9…『枕崎市史』掲載「喜入氏系図」中、忠政の女子・津留の項に「寛永13年丙子4月母及ビ姉(満津)ニ随ッテ種子島ニ放タレ6月26日石之峯ニ拠ル、後井ノ上ニ移ル」。『鹿児島県史料旧記雑録家わけ4・種子島家譜』84頁に、「寛永16年6月28日、喜入摂津守忠政室(永俊娘)及女子二人(姉は島津中務久茂室・忠政非実子、妹者忠政之実子也)坐永俊之事被放、中江主水入道護送来、皆與永俊共居(自大長野移居赤尾木石之峯時也)…」。同史料85頁掲載「寛永16年6月22日付川上久国外三名種子島左近大夫宛連署状」に、「一書申候、然者立野・摂州内儀・基太村越中守殿内儀・摂州息女四人、相中ニ可被召仕人数女七人男三人、合拾人被召置…」とある。


2023年4月1日土曜日

カタリイナ永俊〈補遺〉ー皆吉氏系図考㊤

 カタリイナ永俊の出自である皆吉氏は小西行長の臣ではなく、有馬氏の家臣であった。筆者は稿「カタリイナ永俊」で史料『藤原有馬世譜』をもとにこれを明らかにし、概略の系図(下図)を紹介した。

 すなわち、皆吉氏の祖・又次郎重能は鎌倉時代、高来郡東郷御墓野村および佐賀郡西泉の地頭職にあり、「御墓野」姓を称していた。出羽守長能の頃、佐賀城城主となり、同地に進出した有馬氏第10代晴純に帰属した。その子・久右衛門續能(つぐよし)の時代、主君有馬氏から高来(たかき=島原半島)の内「大江」を宛行(あてが)われ、その頃、姓を「皆吉」に改めたらしい。同史料には、佐賀から大江に移った理由は記されていないが、台頭した龍造寺氏に城を「抜かれた」ためである(『国乗遺聞』後述)。續能の子が権左衛門、そしてカタリイナ永俊であった。権左衛門は、一時期「東」氏を称し、後「有馬」氏を賜ったという。

 ところで、キリシタンとして活躍した永俊が寛永11年(1634)、種子島に配流されたとき、「皆吉長右衛門」なる人物が家族とともにカタリイナに仕えた、という記録が島津藩の記録(後述)にある。それは、皆吉一族が依然としてキリシタン宗と係わりながら生き延びたことを証言するものであるが、上記皆吉氏系図上での「長右衛門」の位置は不明である。本稿では、散見される皆吉氏関連史料を拾い集め、皆吉氏系図――とくに、禁教令を前後してキリシタン宗と密に係わった同一族の系譜――の解明を試みたい。

『国乗遺聞』が伝える皆吉氏

 皆吉氏または東氏についての記事は、有馬氏の他の一つの史書である『国乗遺聞』にもいくつか見られる。たとえば第10代有馬晴純公時代の「国老」の一人「佐賀城主御墓野出羽守長能」について、次のようにある。

 「佐賀城主・御墓野出羽守長能。此の御代、初て(有馬晴純)麾下に属し、士将の魁首に列す。子・皆吉久右衛門續能、幼穉(ようち)の時、当城を龍造寺隆信に抜かれ、後、大江に於て食邑を賜ふ。…其の子・有馬大膳亮純政、士将に大夫を兼ね、子孫代々此の職を領す。」

 この中に、皆吉續能の子で「有馬大膳亮純政」とあるのは、『藤原有馬世譜』が「(續能の子)権左衛門」としているのと異なっている。これを解釈するに参考となるのが、次の記事である。

 「東左馬大夫・民部少輔。…実は皆吉久右衛門の二男。東家の養子となり、後、実家を相続して有馬大膳亮と称す。…

 これは、キリシタン大名として知られる有馬氏第13代晴信公時代の国老「東左馬大夫・民部少輔」についての記述であるが、この中に出てくる「有馬大膳亮」が前項に登場した皆吉續能子「有馬大膳亮純政」である。彼は「実は皆吉久右衛門の二男」であって、一旦「東家の養子」となったが、後(ある事情により)「実家」すなわち「皆吉」本家を相続した。その際、「有馬大膳亮と称した」というのである。

 これによって『藤原有馬世譜』にあった、續能の子「権左衛門」皆吉氏が「東姓を冒し、後、有馬姓を賜った」という記述の事情が判明するであろう。と同時に、「権左衛門」と「大膳亮純政」の二人が、いづれも皆吉久右衛門續能の息子であり、兄弟であったことも判明する。問題となるのは、皆吉本家を相続したはずの長男・権左衛門が有馬晴信時代に「二男・大膳亮純政」に取って代わられた家督相続の謎である。

 この謎は、キリシタン宗門を巡る徳川幕府と有馬氏との対立、そして、有馬氏が辿った幕府恭順の道、それを機として家臣団が二分した有馬家の事情を検証することで、解けてくるであろう。

 ■有馬藩のキリシタン事情ー奨励から禁圧へ

 有馬氏は、第13代晴信(1661―1612)が1580年(天正10)に受洗してキリシタンとなったあと、30年余りにわってイエズス会と連携し、領国の支配体制を確立した。その途次、新たに来日した托鉢修道会との確執をめぐるイエズス会の陰謀に巻き込まれ、有馬晴信は1612年5月、甲斐国で生涯を閉じた。危うく改易になるところ、晴信の嗣子直純が幕府に恭順することで領国は維持されたものの、それは同時にキリスト教を遺棄することであり、正妻のマルタ(妙身)を離縁し、代わりに家康の孫娘国姫を妻として迎え入れた。直純は幕府の意向であるキリスト教迫害に着手したが、徹底することができず、幕府に転封を願い出た。こうして有馬氏は1614年7月、日向国縣(あがた=現延岡市)に移った。

 この直純の幕府恭順を巡って、そのほとんどがキリシタンであった家臣団の選択は二分した。棄教して直純に従う者と、信仰を維持して地元に留まる者とにである。

 ■皆吉権左衛門、有馬氏を離れる

 有馬家の史書は後世、再編纂されたものであるから、家臣団はこの時点で直純に従った者を中心として記録され、キリシタンとして有馬家を離れた者は、徳川時代のキリシタン禁圧政策とも絡んで故意に隠され、もしくは切り捨てられた。―これが、皆吉家の長男・権左衛門の家系が姿を消し、次男の大膳亮純政が本家を継いで記録に遺された理由である。次男であるから当初、本家を出て「東」家に養子となったとあり、その「後、実家(皆吉家)相続して有馬大膳亮と称」した、というのは、長男・権左衛門が有馬氏の家臣「国老」の立場を離れたためであった。

 なお、有馬氏家臣としての皆吉家を相続した二男・大膳亮純政の系譜は、その後、大膳純景、そして大膳純忠(養子、実は古賀城主・山田兵部少輔の家系になる有馬長兵衛純親の息子)と続いた(註1)。(つづく)

皆吉氏系図(宮本作図)


 ※註1…『国乗遺聞』巻三の記載で、「直純公・六公子」の一人に「女子・与志子(母皆吉氏)」とあり、彼女は有馬氏の臣(山田家)有馬長兵衛純親に下嫁して、吉兵衛純右、大膳純忠(有馬/皆吉大膳純景養子)および三女子を生み、その一女子が「有馬大膳純景に嫁す」とある。ここに「大膳純忠」と「大膳純景」の二人が登場するが、両者の関係は「純景の養子」が「純忠」であるので、「純景―純忠(養子)」と並べることができる。同じ官途名「大膳」を冠していることから、皆吉家の本家を相続した次男「大膳亮純政」の家系につながるものと考えられる。また、これら三者が同じ「純」の共通字を持っているのは、主君・有馬直純に仕える家臣であり、その偏諱を受けたものであろう。

 養子・大膳純忠が古賀城主・山田氏の家系になる者であることは、彼の母が「与志子」であり、その夫が「有馬長兵衛生純親」であること。そして同じく『国乗遺聞・巻三』の記事に「有馬長兵衛純親」は「古賀城主・山田兵部少輔(の)…三代孫・有馬長兵衛純親」とある。つまり、(古賀城主)山田兵部少輔―…有馬長兵衛純親―大膳純忠、とつながる山田氏系譜の人物であった。なお、山田氏は有馬家から分家した有馬一族である。

2022年12月19日月曜日

カタリイナ永俊⑨

鹿児島キリシタン崩れ

 「かご嶋」「せんだい」二つの親組(おやくみ)からなる鹿児島のキリシタン組織は、少なくとも1632年(寛永9)夏まで機能した。それが、一連の崩壊事件を引き起こすきっかけとなったのは同年(1632)暮れ、「寛永9年極月7日」付けで江戸詰家老・伊勢貞昌から種子島左近太夫(忠清)宛てに発信された藩主・島津家久のカタリイナ永俊に対する遠島処分決定の通知であった(註1)

 処分は1年2ヶ月後の寛永11年(1634)2月に実施されたが、その間、鹿児島で「(きりしたん)宗門改(しゅうもんあらため)」があり、藩主の馬術指南・矢野主膳とその「内之者(家臣)」がキリシタンであることが発覚した(註2)。その宗門改め帳「日記」によると、主膳父子は「相はづれ」、「内之者(家臣)皆南蛮宗へ名を書き載せ」られていたため、伊勢貞昌が矢野に問うたところ、主膳は「先年長崎から帰参した時、彼の宗をころび申した」と言う。さらに問い詰めたところ、「鹿児島の町のしゆあん(上山)又左衛門尉」の所に「筆者仕り罷り居る小三郎と申す者」が「明石掃部の子」であること。上山「又左衛門も立野(カタリイナ永俊)の御内者」であることなどを「内意に」「いかにもおんみつ(隠密)に」告白した、というのだ(註3)

 これはキリシタン史で「訴人(そにん)」と呼ばれるもので、今様に言えば内部告発である。カタリイナの処分決定と、鹿児島での宗門改めで家臣のキリシタンであることが露見したことを受け、窮地に立たされた主膳の告発行為であったと思われる。当時、幕府はキリシタン摘発のため報償金をもって訴人を誘導していたので、主膳のそれも報償金目当てであったかもしれない(註4)

 これにより、江戸に上がっていた矢野も鹿児島に戻され、3年後、子息とともに処刑される。一方、明石掃部の子・小三郎は、幕府がかねてから捜索していたお尋ね者であり、捕らえられて京都所司代・板倉重宗に引き渡された。しゆあん(寿庵)上山又左衛門は入牢処分となったらしい(註5)。彼又左衛門は「かご嶋貴理志端衆中」の組親(くみおや)として、長年にわたり仲間の相互扶助や洗礼、諸集会、死者の葬礼など一切の世話をしてきた人物であり、そのような組頭を失うことが過酷な迫害下にあるキリシタンにとって致命的であるのは言うまでもないことである。

崩れ事件の背景

 鹿児島の崩れ事件が1632年(寛永9)に始まる(註6)その背景として考えられるのは、これらのキリシタン組織を支えていたイエズス会の日本に於ける布教活動が、1632年の時点で限界に達していたことが上げられるであろう。潜伏司祭(宣教師)がいなくなったか、もしくはその活動が停止状態に陥った、ということである(註7)

 鹿児島のキリシタン組織は、イエズス会の年度報告にあるように、高来(島原半島=旧有馬晴信の領内)から定期的に司祭またはその代理者が派遣され、司牧活動がおこなわれていた(註7)。高来に最後まで残った司祭はマテウス・デ・コウロス神父とジアコモ・アントニオ・ジアノネ神父であるが、高来の深江にいたコウロス師は1632年、高来の有家(ありえ)を経て天草に逃れ、さらに秘かに京都に辿り着いたが最期、伏見で亡くなった。一方のジアノネ神父は1633年、捕らえられて島原で処刑された(註8)。

 また、イエズス会が日本で布教活動を展開する上で、最も重要な役職にいたのがプロクラドールと呼ばれる会計係であった。その最後のプラクラドールはマノエル・ボルジェスであり、彼は九州で高来に次いで組織された他の一つのコングレガチオがある豊後国の南郡(なんぐん)に潜伏していたが、1633年、他の二人の修道士とともに捕縛され、長崎で殉教した(註9)。これらの神父と鹿児島・川内の上山又左衛門ら9人の組親たちは秘かに連絡を取り合っていたのであるが、なかでも1632年(寛永9)コウロス神父がいなくなったことは、組織崩壊・信仰崩壊の大きな要因となったに違いない。「1624年」(年報)の時点で島津氏役人の前で勇敢に信仰を告白したカタリイナ永俊が1632年(寛永9)、藩主から届けられた遠島処分をそのまま受け入れたのは、ある面、理解しがたいが、イエズス会の組織的潜伏活動が終焉を迎え、その後ろ盾を失ったとすれば、謎が解ける。

藩主家久もキリシタン事情を知っていた

 一方、藩主島津家久が「南蛮宗之御沙汰」として「立野の儀、種子島へ堪忍(かんにん)有るべく由、仰せられ(た)」のは、もちろんカタリイナの事情に通じていた娘マルタ妙身の夫――隠れキリシタンの家老職・喜入忠政と熟談の上でのことであった。それは、そこに至る何年も以前からの懸案事項であったし、いずれは処断しなければならない事案であった。他人からの告発や「訴人」があれば、一般のキリシタン同様、入獄・断罪となる問題であるのに、「薩州様(光久公)の御祖母様の儀に御座候間」、可能な限りの配慮をもって出されたのが「種子島へ堪忍」の処置であった。種子島へ護送される直前の「寛永11年(1634)2月11日」、伊勢貞昌ら4家老が連署して種子島左近大夫に宛てた書状には、「然れば其地に永春尼逼塞(ひっそく)なされ候」と表記されている。「逼塞」とは「①落ちぶれ、世間へ出られないこと。②江戸時代、武士や僧侶に科した刑の名。50日または30日間閉門して昼間の出入りを禁じたもの」(古語辞典)であり、また、弾圧に対処するため「潜伏」し「かくれ」たキリシタンたちが取った行為でもあった(註10。遠島・幽閉ではなく「堪忍・逼塞」という処断は、カタリナ永俊の信仰を配慮した藩主家久の最大の温情であり、宥恕(ゆうじょ)であった、とも言えるであろう。

 追って翌寛永12年(1633)2月、カタリイナの愛娘で喜入夫人となっていたマルタ妙身と、その娘・於満津(有馬直純の娘)、於津留も「宗門の事に坐し」、翌「寛永13年(1634)丙子4月、種子島に追放され」、「6月26日、石之峯に抵(いた)」り、後「井ノ上に移」された。慶安2年(1649)カタリイナ死去、75歳。万治3年(1660)マルタ妙身死去、67歳。元禄10年(1697)於津留死去、77歳。理由は分からないが「於満津は密かに連れ戻され、島津久茂の許に帰り、天寿を全うした」(註11)と言う。「喜入氏系図」は「於満津…宝永3丙戌3月7日没ス、年95、正建寺(鹿児島)に葬ル」と伝えている。 (おわり)

【写真】カタリイナ永俊と有馬・小西・島津諸氏関系図(宮本作成)

 

註1】…同書状について「島津家本旧記雑録後編八八」は、後年編者がカッコ付けで「寛永12年」としているが、これを直接受け取った種子島家の「種子島家譜」は「寛永9年極月7日、依南蛮宗之事伊勢貞昌之書翰記干左」と日付・説明書きを添えて記録している。茂野幽考著『薩摩切支丹史料集成』(1966年刊)189頁。

註2】…踏み絵による「宗門改め」は寛永6年から長崎で始まり、肥後・鹿児島・九州一円に及んだ(「唐通詞答書」)。寛永10年(1633)肥後天草高浜村に於ける記録(高浜村旧庄屋上田家文書「きりしたん転び申書物の事」)があり、この頃、鹿児島でも実施されたと考えられる。

註3】…この書状は「寛永10年9月19日」付けで江戸家老・伊勢貞昌が「(藩主)家久の命を奉じて窃かに国家老宛て書き贈った」ものであった(1985『鹿児島史料旧記雑録後編五』鹿児島県歴史資料センター黎明館、383~386頁)。

註4】…矢野主膳のキリシタン入信の説として、「宗門に成り候へば金子貰ひ候由に付、是非無く右宗門に成り候」というのがある(「薩藩叢書第三編・薩藩旧伝集『三暁庵主談話』)。

註5】…しゆあん上山又左衛門の最期は不明(史料筆者未見)である。

註6】…一般に、カタリイナ永俊の種子島遠島は寛永10年(1633)の矢野主膳の訴人を伝える江戸家老伊勢貞昌の国家老宛書状から説明されることが多いが、永俊の藩主家久による処分決定はそれ以前(寛永9年)のことである。【註1】参照。

註7】…たとえば、踏み絵を踏んで転んだキリシタンが立ち上がる再改宗のための「ゆるしの秘蹟」、信仰生命の維持に欠かせない「ご聖体の秘蹟」に与るには、司祭の介在が必要であった。

註8】…結城了悟「パードレ・ジアコモ・アントニオ・ジアノネS.J.」(1986『キリシタン研究第26輯』)。

註9】…レオン・パジェス『日本切支丹宗門史・下』247~248頁の(註)「この神父は12年刊に立派な仕事を成し就げた。彼は(豊後の)山間で匿われていた他の神父たちの会計係であった。」(261頁)。

註10】…ジアノネ神父が1621年、高来の折木(おりき)で組織した信心会「さんたまりやの御組」の掟(おきて=規則)に、「その務めに付て、ひっそく肝要たるべし」とある。「逼塞(ひっそく)」とは「世間から姿を消す」「忍び隠れる」の意味である。幕府の禁教令に対するため、イエズス会は「ひっそく」の方針を打ち出した(「1615ー16年度年報」)。拙稿「嶋原キリシタン史発掘㊵」(島原新聞2010年6月19日付記事)参照。

註11】…末永俊英氏稿「枕崎の殿様・喜入氏を探る」。

  

2022年12月15日木曜日

カタリイナ永俊⑧

 ■薩摩とイエズス会

 さて、ここまで見てくると、1609年(慶長14)、ドミニコ修道会が薩摩から追放された直後、カタリイナ永俊・島津忠清夫妻を鹿児島に呼び寄せ、その10年後(1620年)、カタリイナが薩摩国の「かご嶋」「せんたい」二つのコンフラリア信心会の「中心」となって、半ば潜伏しながら禁教時代におけるキリスト教布教を展開したイエズス会の意図が、ある程度洞察されるであろう。1614年(慶長19)禁教令が敷かれ、弾圧と国外追放を余儀なくされながら、それでも秘密の地下活動をコングレガチオ・コンフラリア組織を中心として(註1)模索しなければならなかった彼らにとって、薩摩はマカオとの連絡を取る上で欠かすことのできない中継地であり、宣教師を安全に送り出し、あるいは迎えて保護し匿うためのキリシタン組織を形成しなければならない土地であった(註2)

 1614年11月、長崎から二隻の船でキリシタン・宣教師らが国外追放された直後、1615年(元和1)に薩摩藩は矢野主膳なる人物を「南蛮船対策」の目的で長崎に送ったことがあった(註3)。彼がそこで何をしたのか、半ば謎に包まれているが、結果的に彼はそこでキリシタンとなり、その後、1624年(寛永1)頃、江戸に上がっている。寛永10年(1633)の証言によると、彼はカタリイナや、彼女が匿っている明石掃部の子・小三郎のことを承知していたのであり、薩摩キリシタンの一類であった。また、明石掃部子小三郎が「有馬から来た」(註4)とも証言しているので、「南蛮船対策」――実はその受け入れ対策であった――のみならず、国内にいるキリシタン浪人たちが薩摩に侵入するための便宜を図っていたのは事実である。

 これと関連することであるが、2010年、鹿児島鶴丸城跡発掘出土遺物の中に長崎の教会で使用された「花十字紋瓦」と同じものが含まれていたことが確認され、話題になったことがある。その鋳型は長崎出土の数種の花十字紋瓦の中の一つと同型であることから、鹿児島のカタリイナ永俊の関係者が、長崎に派遣されていた矢野主膳らと連絡して、長崎の教会の取り壊しによって廃棄された同瓦を移入したものであるにちがいない(註5)

【写真】同鋳型の鹿児島鶴丸城跡出土「花十字紋瓦」(左)と長崎サント・ドミンゴ教会跡出土「花十字紋瓦」(右)。

 また、喜入忠政とマルタ妙身との結婚について、筆者は「イエズス会の生き残りのための意図があった」と述べたが、喜入忠政本人は島津家の家老として鹿児島城内の屋敷に住みながら、彼の領地であった「鹿籠(かご=現枕崎市)」の田代氏ら家臣らと連絡を取り合い、宣教師らの密入国を〃安全に〃取り締まる任務をこなす必要があった。それはまた、薩摩半島の穎姪(えい)、河名部(川辺)、串木野、川内にある二つのコンフラリア組織とも連携してなされたことであり、その海の玄関にあたる重要地の領主としての喜入忠政にマルタ妙身が嫁いだというのは、母カタリイナとともにイエズス会の意図があってのことであろう。そして、喜入氏のそのような任務が重要であればあるほど、母カタリイナはキリシタンとして最も信頼のある実の娘――小西行長の遺児でもあるマルタを抜擢し、喜入氏に嫁がせたのであり、この母と娘の信仰的紐帯のもと、カタリイナを中心とする鹿児島の信心会「貴理志端(キリシタン)中」が運営された、ということである。

 そうであれば、喜入忠政かくれキリシタン説は――これを証明するのは困難であろうが――現実味を帯びて浮かび上がってくる。(つづく)

【写真】キリシタン時代の九州地図(部分)、日本の最南端・薩摩国はマカオ、マニラと連絡する最短位置にあり、弾圧時代、宣教師密入国の基地的役割を果たした。

註1】…一般の信心会コンフラリアが現地教区に所属するのに対し、コングレガチオはローマ本部に直属する精鋭会員の信心会であった。日本では1603年、有馬のセミナリヨに創設され、その後、豊後の「なんぐん(南郡)」にも組織された。H.チースリク著『キリシタンの心』(聖母の騎士社1996)436-437頁。筆者の「花久留守―キリシタン史研究ブログ」2018年6月22日付「欧文史料で読み解く豊後宇目のるいさ―付記②―」参照。

註2】…結城了悟氏は著書『鹿児島のキリシタン』「9港の冒険」で「1614年の追放後、…多数の宣教師が日本に戻ってくることができたが、…上陸しても日本にふみ留まっていた宣教師と連絡をとることは容易な業ではなかった。その為には生命を賭ける覚悟のある人々の協力が必要であった。…薩摩の諸港、ザビエルの経路という栄誉に輝くそれらの港においては、この英雄的な所業が再三にくり返された。」と述べている。

註3】…薩藩史料「元和6年閏12月29日付喜入忠政・伊勢貞昌連署状」に、「南蛮舟之儀ニ付北条土佐守殿・矢野主膳正殿長崎ヘ被相越…」とある。『鹿大史学12号』(1969)掲載「五味克夫・矢野主膳と永俊尼」。

註4】…「寛永10年9月19日付、江戸家老伊勢貞昌の国家老宛書状」に「然者主膳…内意ニ被申候…いかにもおんミつにて被申候、町ニ罷居候しゆあん又左衛門尉所へ筆者仕候而罷居候小三郎…あかし掃部子にて候よし…従大坂いつかたへ参、又御国へ参候様子共、此中御国へ罷居候つる儀細々御問付候て、早々此方へ可被成御申候、主膳被申候ハ、有馬より御国へハ参たる由…」とある(『鹿児島県資料旧記雑録後編・五』1985年鹿児島県歴史資料センター黎明館発行、383-386頁)。

註5】…鹿児島城に、長崎教会原案(もしくは由来)の花十字紋瓦を使用した建築物が存在するのは、長崎および高来(島原)との交流網を有していたカタリイナ永俊との関係以外では考えられない。その時期は、カタリイナが鹿児島に入った1609年以降、彼女が鹿児島においてキリシタン宗団の「中心」になる禁教令(1604年)以後のことであるので、長崎で廃棄された「花十字紋瓦」を移入したものであろう。

2022年12月13日火曜日

カタリイナ永俊⑦

 ■薩摩国キリシタン信心会の「中心」として

 1624年(寛永1)、鹿児島を訪れたイエズス会の一神父は、カタリイナ永俊が「薩摩でキリシタンの中心になっていた」と報告している(「1624年度年報」)。それは、彼女が薩摩国におけるキリシタン信者の組織・コンフラリア(信心会)の中心者であった、ということであろう(註1)。

 1617年(元和3)の「コウロス徴収文書」によると、当時、薩摩国には二つのキリシタンの組(くみ)が存在していた。一つは「かご嶋貴理志端衆中」、他の一つは「せんたい貴理志端中」である。前者は「鹿児嶋、穎姪(えい)、河名部村」の三地域を包含し、鹿児島に「上山又左衛門、山岡喜兵衛、平九兵衛」、穎姪郡に「大迫久兵衛、宮崎茂左衛門」、河名部村に「是枝善兵衛」の各「組親」がいた。一方、後者の「せんたい(川内)キリシタン中」は「串木野、せんたい(川内)」地域にあり、串木野は「村田勝左衛門」、川内は「石屋五左衛門、結方徳右衛門」が「組親」として名を連ねている。

 日本語で「組(くみ)」または「中(なか)」と称されたキリシタンの信心会(コンフラリア)は、50人前後で構成される「小組」を最小単位として、それが幾つか集合して「大組」をつくり、さらに地域ごと大組がいくつか集まってその地域名を付す組(中)を形成した(註2)。薩摩国で言うと、1617年コウロス文書に出てくる「かご嶋貴理志端衆中」と「せんたい貴理志端中」がそれである。組親として合計9人が名前を連ねているが、その筆頭者である「かご嶋貴理志端衆中」の「(寿庵)上山又左衛門」は、薩摩国を代表する組親の中の組親であったと思われる。それより5年前の「1612年度年報」によると、彼は鹿児島の町に住んでいる「信仰心のあついキリシタン」として記録され、「日曜や聖人の祝日」には家の祭壇に「聖杯(カリス)の形の香炉や蝋燭を置いて」集会をもち、「神に祈りを捧げて」いた(註3)

 こうして組織され運営されていた薩摩国の二つの地域名をもつ信心会は、このあとカタリイナ永俊を「中心」とする組織へと移行し(註4)、最後は1632年(寛永9年)から始まる一連の薩摩キリシタン崩れ事件に至ることとなる。

カタリイナ永俊とマルタ妙身―その信仰的紐帯

 1609年12月、夫島津忠清とともに一女一男を伴い鹿児島に入ったカタリイナ永俊が、鹿児島キリシタン信心会を束ねる中心に就いたのは、1619-20年の頃であったと思われる。根拠は二つある。ひとつは夫島津忠清が1620年に亡くなり、カタリイナがこの時期、二の丸から冷水町の屋敷に移ったこと。もう一つは、娘マルタ妙身(小西行長の遺児)が1619年頃、喜入忠政と結ばれ鹿児島に来たことである(註5)。とくに、娘マルタ妙身が忠政に嫁いで来鹿したことは、母カタリイナのみならず、鹿児島のキリシタンたちにとって意味あるものであった(後述)。

 述べたようにマルタは1611年、前夫・有馬直純が家康に屈して国姫(家康の曾孫女)を新夫人としたため離縁を余儀なくされ、「有馬から遠い長崎近く(千々石)」の山中に追放された。その上、周りからしつこく再縁を迫られたが、彼女は「(そうして)デウスを傷つけるよりは、日本から脱出して極度の貧困にも耐える決意でいた。そして、栄えある死の準備をしていた」」ほどの、篤い信仰の持ち主であった。そのようなマルタ妙身が喜入忠政と結ばれたのは、他ならぬ母カタリイナ永俊の紹介と勧めがあったからにちがいない。つまりは、母カタリイナが娘マルタを鹿児島に呼び寄せたのである。重ねて言うが、彼女は〃小西行長の遺児〃であった。

 時に1620年、元和のキリシタン迫害が過酷を極めた時代であり、カタリイナ永俊が鹿児島キリシタン組織コンフラリアの中心(柱)に上げられ、彼らの「庇護者」としての使命を果たす為にも――ひとつには、夫島津忠清との間に生まれた娘(桂安)が国主・島津家久の後室となり、2代目藩主光久を生んだ事が伏線としてあった。それに加え――家老喜入忠政をキリシタンの理解者、陰の支援者として取り込む必要があったと考えられる。それはまた、日本布教で窮地に立たされたイエズス会としての生き残り策でもあっただろうし、そうした意図の下でのマルタ妙身と喜入忠政の結婚であった。

 あの困難な時代に多くのキリシタン浪人を抱え、半ば隠れ、半ば顕れるかたちで鹿児島のキリシタン地下組織を維持した背景として、小西・有馬両キリシタン大名にかかる母娘――カタリイナ永俊とマルタ妙身母娘の信仰的紐帯があったことを記しておきたい。(つづく)

【写真】カタリイナ永俊(右)とマルタ妙身(左)の墓碑、種子島に母娘肩を並べて佇む

註1】…結城了悟氏は著書『鹿児島のキリシタン』で「Jap-Sin」版の1624年度年報を紹介し、カタリイナが「彼らの柱となり、庇護者となっていた」としている。

註2】…1617年ジェロニモ・ロドリゲスが創設した『御上天のさんたまりやの御組』の掟(おきて)にコンフラリアの組織が詳しく解説されている。キリシタン文化研究会編『キリシタン研究第二輯』(1944年発行)109~120頁。

註3】…「1613年1月12日付、長崎発信、ジョアン・ロドリーゲス・ジランのイエズス会総長宛、1612年度日本年報」(『16-7世紀イエズス会日本報告集ⅡーⅠ』287頁~88頁)。「マテウス・デ・コウロス、長崎1613年1月13日発信」Jap-Sin57,93v.

註4】…薩藩史料「旧記雑録」のうち「寛永10年9月19日付、江戸家老伊勢貞昌の国家老宛書状」に、「しゆあん(上山)又左衛門もたて野(永俊)の御内者にて候よし…」とある(『鹿児島県史料旧記雑録後編五』1985鹿児島県歴史資料センター黎明館発行、383-386頁)。これによって、カタリイナ永俊がコンフラリア組織「薩摩キリシタン中」の中心者になっていたことが理解される。

註5】…喜入忠政の最初の夫人(伊集院抱節の娘)が1619年、忠政49歳の時に亡くなった。また、忠政とマルタ妙身との間の娘・御鶴(津留)が元和7年(1621)に生まれている。以上により、忠政とマルタ妙身の結婚は1619-20年頃と想定される。

2022年12月3日土曜日

カタリイナ永俊⑥

  ここから後編として、薩摩国鹿児島藩時代のカタリイナ永俊について述べたい。

喜入忠政のこと

 島津家本「旧記雑録後編六四」によると、カタリイナ永俊が夫島津忠清(1571-1645)とともに一女(11歳=桂安)一男(7歳)を伴い薩州鹿児府に赴いたのは「慶長14年(1609)12月3日」のことであった。その半年以前(1609年春)、薩摩国川内京泊を拠点に布教を展開していた托鉢修道会の一派・ドミニコ修道会が薩摩国から追放され、長崎に避難しているので、両者には何らかの因果関係があると思われる。島津忠清・カタリイナ夫妻が長崎を経由して鹿児島に戻った直後(註1)、有馬晴信は長崎港沖で黒船マドレ・デ・デッサ・セニューラ・ダ・グラッサ号を撃沈した。それは晴信がイエズス会と謀り、鍋島領藤津郡―ドミニコ会が1606年、三つの教会を建て進出したところ―を奪回するための作戦でもあったが、このあと岡本大八への賄賂、さらには長崎奉行暗殺計画が暴露されるに至り、計画は挫折した。晴信は甲斐国初鹿野丸林で処刑され、その過程で息子・直純は正妻マルタ(妙身)と離縁し、家康から提示された孫娘・国姫と結婚した。述べたように、1612年度イエズス会日本年報はマルタ(妙身)が島原半島北西に位置する千々石(ちぢわ)の山中に追放され「藁小屋の中に置かれた」と伝えている。

 晴信処刑事件のあと1614年1月(慶長18年12月)、幕府はキリスト教禁止令を発布し、同年11月、キリシタン・宣教師らを国外に追放した。有馬氏もまた同年7月、長年住み慣れた故郷高来(島原半島)から追放され、日向国縣(あがた)に移った。有馬氏の旧領高来は、晴信がイエズス会とともに30年余りかけてキリスト教教化政策を推進し、全住民がキリシタンとなっていた。幕府がこの地に遺されたキリシタンの一掃作戦に着手したのは、大追放事件直後の1614年11月下旬である。「(幕吏)山口勘兵衞直友は長崎奉行長谷川左兵衛と謀り、肥前・薩摩の兵一万を徴して有馬に赴いた」(註2)。この時、薩摩から派遣されたのが、のちにマルタ妙身を後妻に迎えることになる喜入忠政である。「忠政は家臣・田代内記清友、田代三右衛門清方、酒匂源兵衛、松元平兵衛らを率いて長崎に赴き、山口直友の下に属してその命を聞き軍功を立てた。」とされるが、その際、不思議な行動を取った。「薩摩兵は海岸に沿って東に向かい、三会・島原の村村へ行き、キリシタンたちにしばらく山に退くように指示し」、長谷川左兵衛・山口直友には「この地にはキリシタンは一人もいない」、と偽って報告をしたというのだ(註3)

 喜入忠政という島津氏家老は如何なる人物であったのか、この一件である程度推察できるであろう。彼は役人として政治的に動くことはあったとしても、中身は求道者であり、徳を備えた人であった。その後、カタリイナ永俊の仲介があったかもしれない、連れ子のあるマルタ(妙身)を後妻に迎え、藩主島津家久の家老として誠実に奔走することになるが、義母カタリイナ永俊と彼女の庇護を得て集まった明石掃部子・小三郎、小三郎を雇い入れていた町の商人・しゅあん上山又左衛門、旧豊臣氏のキリシタン遺臣らを別の側面から擁護する中心的存在、影の理解者であったと思われる。連れ子の於満津(有馬直純の娘、のちに基太村元茂に嫁ぐ)、忠政とマルタ妙身との間に生まれた娘・於鶴も最後、種子島に遠島幽閉され、カタリイナのもとに送られたのは、同じく「きりしたん宗門ゆえ」であった。背景にマルタ妙身の夫喜入忠政の理解と擁護があったことは間違いない。幕府のキリシタン禁圧政策が厳しくなる中で、最終的には恭順の態度を取らざるをえなかったが、その狭間で生きた喜入忠政、そして彼を支えた家臣田代一族らの苦悩の日々があった。これは、カタリイナ永俊のキリシタン史を語る一方で、記憶されなければならない歴史である。

 鹿児島県枕崎市桜山本町の長善寺裏山に、喜入家累代墓地がある。五代季久からのもので、6代、9代を除いて19代まで並んでいる。7代忠政(忠続)の墓は最初の5代季久の次に建立されたが、その位置は5代墓地からさらに山奥に入った隠されたような場所にあり、しかも家老格に不相応な円塚(まるづか=土饅頭型)である。「キリシタンゆえ」に幕府から処刑されたカタリイナ永俊の養父・ジョアン有馬晴信(1561-1612)の墓も、山梨県甲州市初鹿野の山中に佇んでいるが、同じく「円塚」である(註4)。喜入忠政は隠れのキリシタンであったか、もしくは妻マルタ(妙身)のゆえに「きりしたん類族」として正式の墓碑が建立できなかったものと考えられる(註5)。(つづく)

写真】(左)喜入忠政の墓(枕崎市長善寺墓地)、(右)ジョアン有馬晴信の墓(甲州市初鹿野)=1944年、中村星湖のスケッチ。
【写真】喜入家累代墓地の墓碑に刻まれた花十字家紋


註1】…「種子島家譜五」に「然者其地へ永春(永俊)逼塞にて候、如御存知之彼御方之儀きりしたん宗之由候而…最前従長崎被参候時持参之道具共御座候つるを以御検者被焼捨…」とある。

註2】…『枕崎市史』(1969年発行)261頁。ドミニコ会史料『ファン・デ・ロス・アンヘレス・ルエダ神父伝記・書簡・調査書・報告書』(1994年・聖ドミニコ修道会発行)は、「(1614年)諸教会を打ち壊し、また神父たちを追放したので、左兵衛はキリシタンたちを叩きのめすのは簡単なことのように思われた。そして、それを実現するために、主だった者たちと大村・平戸・肥前・筑後の諸藩から多数の兵士たちを集めました。彼はここに集合させ、また多数の刀、火縄銃、槍や弓を準備して有馬に出立し、有馬の古い名である高来(たかき)郡全域に布告を発して、全員が棄教するように命じた。」と記している(同書94頁)。

註3】…レオン・パジェス『日本切支丹宗門史・上』362頁。『枕崎市史』(1969年発行)261~262頁。

註4】…カタリイナ永俊は有馬晴信の養女であった(「國乗遺聞」)。マルタ妙身は晴信の息・直純の元本妻であったので、晴信は義父にあたる。晴信の墓「有賀八幡」は1944年、晴信の謫居跡を現地調査した中村星湖らによって、初鹿野の山中に存在することが確認された。

註5】…喜入家8代忠高はカタリイナの種子島配流の翌年(寛永12年3月5日)29歳で自決し、その妻(島津久慶の妹)も一ヶ月後(寛永12年4月18日)自決した。妻の兄・島津久慶(日置島津家)は藩の家老であったが、死後、キリシタンであったとして死体を掘り上げて磔にされた(枕崎市観光協会ネット掲載「枕崎の殿様喜入氏を探る」)。また『枕崎市史』には「久慶は家久公の家老で、異国方・宗門方を仰せつかっていたが、法名・処安(ジョアン)忠省とあるように、切支丹信者であった。…あるいは忠高夫婦も切支丹として自決したかとの推察もありうる…」とある(同史277-278頁)。鹿籠長善寺・喜入氏累代墓地にある8代忠高の墓も、7代忠政と同じく「円塚」である。