2020年10月31日土曜日

嶋原三會(みえ)村のロザリオ信心―③―

 難解な「ゐんづるぜんしやす」/理解し「ロザリオ信心」拡がる

ドミニコ会ルエダ神父にょる「立上げ」そのⅡ

 「貴きろさりよのこんふらちや」と称されるドミニコ会の同「コフラヂア(信心会)」は、基本的には「高下(こうげ)の差別なく万民を慈愛(じあい)し給(たま)ふピルゼン(童貞)サンタ・マリアへ対し奉りての興行(こうぎよう)」である。「一七日(ひとなぬか=一週間)の間に、ロザリオ(の祈り)百五十遍を勤むる」ことで、ローマ教皇認可の「免償(めんしよう)」に与(あずか)ることができ、そのため「組の帳に(名前を)記さるべき事」が求められた。ほかに、「御守護(おんしゆご)にて在(ましま)す聖母マリアを奉(たてまつ)る」こと、毎月の最初の日曜日、「ロザリオの御祝日」などの祝日に「御法事(ほうじ)を執(と)り行(おこな)ひ奉(たてまつ)る」ことなどが義務づけられている。(ルエダ神父著『ロザリオ記録』)

 これらの規則「御定め」を見る限り、キリシタン信者としてそれを行うことは難しいことではないし、イエズス会、フランシスコ会等ほかの信心会の諸規則に比べ、むしろ簡易であるように思われる。そのため、ドミニコ会がイエズス会に遅れること半世紀、1602年(慶長17)に初来日して1606年(慶長11)以降、佐賀鍋島領藤津郡に拠点を移して本格的布教を展開してもなお、その真意が日本人に理解されなかったらしい。

 ところが1616年(元和2)、ロザリオ信心が奇蹟的に拡がる、ある出来事があった。


 「1616年、今年の4月にロザリオの聖母とその信心について、人々の間に非常に珍しいことが起こりました。…教会のあった時代から長崎には(ロザリオの)信心会がありましたが、しかし余り完全にはその働きをしていませんでした。しかしこの時機になって、ロザリオの免償(めんしよう)(インズルゼンシア)について誤った考えや噂(うわさ)が伝わっていた為に、私たちは真実を説明する必要に迫られました。それでロザリオの信心会とその免償に関する教皇の教書を日本語に翻訳しました。日本人がその真実を知り、信心会に与えられている豊かな免償を見たとき、あらゆる人々の間に不思議な信心が表れ始めました。…」(『福者ハシント・オルファネールOPの書簡・報告』)


 導火線となったのは、「ロザリオの信心会とその免償に関するローマ教皇の教書」。きっかけは、それが日本語に翻訳され、小冊子にして日本人信徒の前に提示されたことだった。

 「免償(めんしよう)」という言葉は、それ以前「贖宥(しよくゆう)」と翻訳されたこともあったが、広辞苑を引いても出てこない。日本語にない、造語である。原語は「Indulgencias(インズルゼンシアス)」。三會村信徒らは「ゐんつるせんしやす」と、そのまま原語で表記している。その意味するところは、「償(つぐな)いを免(めん)じる」こと、である。

 「償い」とは、一般的には道徳上もしくは法律上してはならない行為を犯したこと・犯罪に対する清算行為(刑罰)を言う。宗教の世界でも、とくにキリスト教などでは償いの行為を重視する。キリシタン時代、罪の償いとしての悔い改めは「こんちりさん(心中の後悔)」、「こんひさん(言葉で懺悔すること)」、「さしちはさん(所作をもって償うこと)」として秘蹟の一つに定められ、四旬節(悲しみ節)には「ぜじゅん(断食)」や鞭打ちを重視した。

 迫害・拷問に対し、肉体の痛みに耐えきれず「ころぶ」行為は、たとえ「表面(うわむき)」であっても「罪」である。彼ら「ころび」が、もとの状態に戻る―すなわち「立あがる」ためには、当然のこととして罪を清算する行為「償い」が要求されることになるが、その場合、「教皇の教書によるインズルゼンシアス」が授遺(じゆい)されると、償いの行為が免除される―その謂(いい)である。(罪をゆるすことではなく、罰・償いを免除することであるので、「免罪」と言えば誤りになる)

 ロザリオの組の「御定め(規則)」「第一」条には、「…代々のパッパ、貴き(ロザリオの)コフラヂアへ授け給ふインズルゼンシア、莫太(ばくたい)の功徳(くどく)の賜(たまもの)を遍(あまね)くキリシタンに施こさんが為、勧め催すものなり」とある。「イエズス会の信心会には免償がない」のに、ロザリオの組には「免償」がある。これが三會村信徒が言う「ろさりよのこんふらちや」の「別而(べつして)貴(たつと)き」理由であり、「ろさりよの組の高上(こうじよう)なる」理由であった!


 1616年(元和2)春、長崎の町で起こったこのロザリオ信心の「驚嘆すべき」ムーブメントはその後、「長崎市内のみならず、市から村へ遠方の諸国へと拡まっていった」(オルファネール『日本キリシタン教会史』第三十五章)。

 高来(たかき)地方(島原半島)にもルエダ神父によって、当初「嶋原町」「三會町」を中心にもたらされた。周辺の村「三會村」に拡がったのは「1619年(元和5)」のことらしい。ルエダ神父が「嶋原町(もしくは「三會町」)」にいたとき、「三會の地の某村で、迫害の恐怖から棄教した大勢の人がいるとの知らせ」が届き、自身多忙を極めていた(実は病の身にあった)ため、「日本人の同伴者ダミアンを派遣」した。ダミアンが「ロザリオの信心、ロザリオの組の設立の目的」、ロザリオの祈りに賦与された「慈悲の御心」、それにルエダ神父から聴いたロザリオ信心による「奇蹟談」を伝えると、「最初の説教で70人がかかる聖なる信心に打たれて教会に復帰したい(=「立ち上がり」たい)と語った」。その後、ルエダ神父自身が赴き、「多数の人々を復帰させ、告解を聴いて、聖なるロザリオの組に加入させた。」(フランシスコ・カレーロ著『キリシタン時代の聖なるロザリオの心』)(つづく)

写真=ロザリオの祈りに用いられたキリシタン時代のロザリオ(数珠)。1923年大阪府茨木市下音羽の大神家から発見された。「ロザリオの祈り」は「パーテルノステル(主の祈り)」1回、「アヴェマリア(天使祝詞)」10回を繰り返し、キリストの生涯を黙想する。〕

2020年10月30日金曜日

嶋原三會(みえ)村のロザリオ信心―②―

 「貴(たつと)きろさりよ、別而(べつして)御恩深重(ごおんしんちよう)」/悲しみの「転(ころ)びきりしたん」息を吹き返す

=ドミニコ会ルエダ神父による「立あげ」そのⅠ=

 ドミニコ修道会のディエゴ・コリャード神父が「嶋原・三會」地方の信徒から証言文書を徴収したのは「元和6年(1620)」から同「7年(1621)」にかけてのことであった。当時、嶋原では有馬氏失脚のあと元和2年(1616)に入部した新領主松倉重政が本拠地を有馬からここに移し、同4年(1618)に着工した島原城の建設工事が進められていた。

 それより以前、この「町」にドミニコ会修道士ジュアン・デ・ルエダ神父がはじめて入ったのは、徳川幕府のキリスト教禁止令発布後、宣教師らが国外追放された事件(1614年11月)直後の1615年(元和元)はじめ、領主有馬直純が日向国縣(あがた)に去り、旧有馬氏領・島原半島の北目を大村氏、南目を鍋島氏が預かっていた時のことだ。

 コリャード神父徴収文書『元和7年霜月10日付』には、その頃の「嶋原・三會ならびに其の村々」のキリシタン住民らの様子が、次のように描かれている。


先年へるせきさん(=迫害)相始(あいはじ)まり候節(せつ)、弱き色躰(しきたい)にひかれ、ころび(=棄教)申すもの数限りなく候つれども、いづれも御出家(=司祭・神父)衆には離れ申し、立ちあがり申すべき便り(=頼みの綱)も御座なく、昼夜かなしみに沈み罷(まか)り居(お)り候。」そこに「さんととみんごのはてれ(=ドミニコ会パードレ)ふらいしゆあん(=フライ・ジュアン・デ・ルエダ神父)此の表へ御越し成られ、嶋原・三會ならびに其の村々のきりしたんを大かた残らず御立(おんた)ちあげ成られ候。

 ルエダ神父自身も報告書「1621年9月4日付」で、この時のできごとを筆記している。

有馬の国において…(迫害・拷問により)幾人かのキリシタンが、棄教するのを望まなかったため殉教しました。」でも、「その場所(嶋原・三會地方)では…少なくとも外面的に棄教した人の数は何千人でありました。私はたびたび…棄教者たちを立ち上がらせました。…弱り果て、自分の救いの希望をなくしていたこの地のキリシタンが息を吹き返したのです。


 「転び(きりしたん)」というのは、その多くは「外面的に棄教した人」―内面的には信仰を維持している人―のことだが、彼らが「立ち上がる(=本来の信仰者の姿に戻る)」ためには、迫害に屈した不信仰の(罪の)償いをしなければならない。信仰上、その手続きを踏まなければ「立ち上がり」として認められない。この場合「こんひさんさからめんと(告解・ゆるしの秘蹟)」がそれに相当する。『元和7年霜月10日付―証言』文書には、「同門(ドミニコ会)の御出家衆(=司祭・神父)折々見廻り成られ、こんひさんさからめんと(コンピサンの秘蹟)等を執(と)り行われ…」、とある。

 それだけではない。「其ほか殊勝千万(しゆしようせんばん)なる行跡(こうぜき)(=品行、行状)の御かがみ(=お手本)、御教化等を以(もつ)て我等を御導き成られ候」、というのだ。ドミニコ会神父の模範的清貧の生活・おこないがあり、それに接することのできた喜びと感謝の気持ちまでが書き添えられている。

 

 そもそも嶋原・三會のキリシタンはイエズス会の宣教師によって司牧され、イエズス会流の信仰を育んできた半世紀近くの歴史があった。ここに至って幕府による弾圧迫害に遭遇し、「転び申し」「かなしみに沈み罷り居り候」ことであったが、そんな彼らがドミニコ会宣教師ルエダ神父と出会うことで、何故「立あがり」を決意したのだろうか?

 ここで言う「立あがり」とは、「行動に出る」とか「蜂起(ほうき)する」とかの言語的な意味ではない。キリシタン信仰上の「立あがり」であり、ひとたび棄教者名簿(帳面)に名前を記して「転んだ」者たちが、それを廃棄し、再びキリシタン信者であることを宣言・公表することである。当然、その時代であれば、迫害や拷問への覚悟を伴うものであった。

 キリシタン宗でない他の一般宗教からすれば、死を覚悟してまで「立あがる」彼らの心理は理解し難いものがあるが、少なくともこの文書を読み進めていくと、ここに日本キリシタン史上稀に見る信仰の昂揚がある!と見ることができる。

 いったい何が彼らをそうしたのだろうか?コリャード神父徴収文書は、その理由を次のように説明し、「証言」する。

此等の御恩深重(ごおんしんちよう)の中に、別而(べつして)(=とりわけ、特に)(たつと)きろさりよのこんふらちや(貴きロザリオのコフラヂア=ロザリオの組)を御興行(こうぎよう)成られ候に付き、其のみちを以て行儀(ぎようぎ=おこない)を改め、善道に立ち入り候」と―。

 「別而御恩深重」であったという「貴きろさりよのこんふらちや(貴きロザリオのコフラヂア)」とは、如何なるものなのか?嶋原・三會のキリシタン信仰史を読み解くためには、イエズス会にはなかったドミニコ会のキリシタン用語を理解しなければならないようだ。(つづく)

写真=ロザリオ信心により嶋原・三會の「転び」を立ち上げたドミニコ会士、「ロザリオ神父」とも称されたジュアン・デ・ルエダ神父の肖像画。「マニラに保存されている彼と同時代の17世紀に描かれた人物画から想像して復元された」。同神父の『―伝記・書簡・調査書・報告書』(平成6年、聖ドミニコ修道会ロザリオの聖母管区日本地区発行)掲載。〕

2020年10月29日木曜日

嶋原三會(みえ)村のロザリオ信心―①―

 

 元和3年に「三會(みえ)町」が存在?/「嶋原(しまばら)三會(みえ)信徒証言文書」が物語る


 17世紀初頭、托鉢修道会の一派ドミニコ修道会が肥前地方に進出した際、各所でイエズス会との間に門派対立が発生した。それは実際には、イエズス会による托鉢修道会排斥であった。本稿ではその実態について「三會村」を事例に取り上げることとする。

証言の舞台「三會村」その地理的背景

 「三會村」は嶋原村(いずれも現・島原市に含まれる)の北部に隣接する村である。のちに分離した杉谷村、三之澤(みつのさわ)村を含めてそう呼ばれていた時代があり、村名の「三會」とは、三つの入江ではなく、元和2年(1616)の大村藩記録に出てくる「北道、南道、三之澤」の三小村が「會」する意味らしい。

 島原の乱(1637―38)以前の島原・三會のキリシタン史をひもとくとき、「三會村」と「三會町」については後のそれと異なるため、注意を要する。たとえば「1621年1月30日」付けでドミニコ会修道士ディエゴ・コリャード神父がイスパニア語で書いた証言文に―

私は…三會地方の大手原(おおてばる)に於いて、右の記録の証言となったヴィセンテ(下田)平左衛門、ミゲル弥蔵および他の数名を召還した。…島原と三會の二つの町に於いては、人々がロザリオの組を棄てて…ロザリオの組の親も組も残っていない。

―とある。

 「1621年」は「元和7年」。松倉重政が島原城築城に着工(1618年)して4年目である。その際、重政は城の東側に城下町(町屋)を設計し、三會村の住民に呼びかけ移住を促し、さらには有馬氏時代の拠点であった日野江城の城下・有馬の町からも移住があり、それぞれ「三會町」「有馬町」を形成した、とされている。のちの上ノ町、中町、片町、宮ノ丁である。「三會町」の由来については従来、そのように解釈し、語り伝えてきた。

 ところで、ここに『元和年中島原切支丹証言文書』と称される手書きのキリシタン文書がある。昭和40年頃、キリシタン研究で著名な松田毅一氏がイタリアのローマ、スペインのカサナテンセ図書館等で発見した文書資料で、それが島原・三會のキリシタン信徒の証言文書であったため、地元の研究者―当時島原史学会(史談会)を主宰していた宮﨑康平氏のもとの送られてきたものである。

 4通(実際は10通ほどあるが、送られて来たのはその中の4通)あり、2通はイエズス会のマテウス・デ・コウロス神父が「元和3年(1617)」に徴収したもの。2通はその後(1619年以降)同地を訪れたドミニコ会士ディエゴ・コリャード神父が徴収した「元和6年(1620)」と「同7年(1621)」の文書であった。

 その中の一つ「元和3年8月日」付けコウロス神父徴収文書を見ると、「嶋原町」、「三會町」、「山寺」の区分けで信徒33人の役職名、洗礼名、本人名が記されている。不可解なのは「三會町」である。先ほどの解釈によると、島原城が築城される以前―『有馬古老物語』に見える築城開始の年「午年」(元和4年=1618年)以前には「三會町」は存在しなかったことになるのだが、まだ築城工事に取り掛かってもいない1617年(元和3)に「三會町」とあるのは、どうしたことか?仮に着工を元和4年ではなく元和3年(1617)としても、城下町が形成される段階にはなかった。

 加えて「三會町別当はうろ姉川茂左衛門/三會町別当ちいにす姉川伊兵衛/同おとな(乙名)ひせんて同玖右衛門…」と、例の「三會町別当」姉川氏の署名もあるので、「三會町」とあわせ、その実在を疑うことができない。

 宮﨑康平氏はこの文書を松田博士から受け取ったあと、西川源一氏の協力を得て解読し、解説文を添えて『嶋原半島の切支丹』(昭和52年8月発行)に発表した。しかし、「三會町」の謎については一言も触れられていない。

 一方、「嶋原町」については、島原氏の時代から「嶋原村」とともに存在した「町」として知られてきた。その範囲は、一般的にはこんにちの大手川以南にあったとされているが、一つの疑問が残る。大手川以北には住居がなかったのだろうか?往時の絵図で見ると島原湾の最奥部、舟の港としては最良の位置にあり、湾の入り口部(嶋原町)より集落を形成しやすい環境にある。ここに「嶋原町」と並んで「三會町」が、松倉氏による島原城築城以前から存在したと、そう仮定してもいいのではないだろうか。

 「元和6年」「同7年」のコリャード神父徴収文書には、しばしば「嶋原」と「三會」の「二つの町」が並列して登場する。「三會町」と「有馬町」が同時に形成されたとするなら、「有馬町」も同時同様に登場しなければならないが、ドミニコ会徴収の証言文書十数枚の中に「有馬町」の記述は皆無である。

 その他、「嶋原町、三會町ならびにその村々」を舞台にイエズス会とドミニコ会が展開した門派対立の経緯、双方の住民の位置関係等をドミニコ会関連文書によって総合的に勘案・比定していくと、「嶋原町」と「嶋原村(小村を含む)」、「三會町」と「三會村(小村を含む)」があり、それら四町村が森嶽(もりたけ)で一つに連なり、区分されていた状況が見えてくる。

 「元和3年8月3日」付けコウロス神父徴収文書は、「嶋原町」とともに「三會町」が島原城築城以前から存在したことを証言する文書でもあった。(つづく)

【写真】「嶋原町」「山寺」「三會村」の記載が見えるコウロス徴収文書の署名部分


 (付記)「しまばら」、「みえ」の表記について…現在では一般に「島原」、「三会」と記されるが、元和年間証言文書に「嶋原」、「三會」とある。本稿でもこれを歴史的表記として使用する。