2015年11月27日金曜日

迫害・難儀を受容するキリシタン―島原の乱を解く④

 キリスト教の信仰指導書のうち、古今の名著として親しまれている『こんてむつすむんじ』(「イミタチオ・クリスティ」、「基督に倣いて」)は、日本のキリシタン時代にも翻訳・出版され、愛読された。
 3万7千人の「立上り」キリシタンの指導者であり、司祭役でもあった天草四郎も、おそらくこの本を読んだものと思われる。同書第31「ちじょく(恥辱)となんぎ(難儀)にあふ時、へりくだるこころをもてかんにん(堪忍)すべき事」の章で、キリシタンの大切なこころとして示される「堪忍(かんにん)」と「謙(へりくだ)り」のことばが、「四郎法度書」で二度繰り返されるからである。

 四郎は籠城中、朝に夕にミサを執り行ない、キリシタンたちの信仰が人間的・肉体的弱さゆえに疎かになるのを戒め、「かんにん」と「へりくだり」をもって「でうす(神)へ祈念」し、「御慈悲(=神のゆるし)を蒙る」よう勧めた。その内容は「四郎法度書」によってうかがうことができる。
 『こんてむつすむんじ』によると、「かんにん」と「へりくだり」は「かんなん(艱難)」「なんぎ(難儀)」に対する大切な対処法であり、心がけであった。その理由について同書は、「うきよ(浮世)のさいなん(災難)は、なんじ(汝)がごしょうたすかり(後生扶かり=死後の救い)のため」になるからであり、それゆえに、できれば艱難・難儀の試練を「喜んで堪える」ことが好ましいが、それができないなら、せめて「かんにんをもって受け流すことだ」、と説いている。

 注目したいのは、「災難は汝が後生の扶かりのため(にある)」という言葉である。同書には他にも、同様の趣旨で記された件(くだり)がある。
 「我に仇(あだ)をなす者は…デウスの御手より与へ給ふ。こころよく受け奉り(なさい)」(同書巻第3第12)。「この世の苦しみを受くる事、我が身の誤ちによって与へ給ふ」(同書巻第3第19)、などである。

 通常、艱難・難儀が特定の人物によってもたらされる場合、それを強いる相手「敵」に対しては反抗を試み、長期化して恨みを絡んだ場合は復讐にも至るであろう。
 これに対し、キリスト教は逆の姿勢―「苦しみを受けるのは、我が身の誤ちによって神が与える」と、むしろアニマのたすかりのために必要なものとして受けとめ、自身の罪の償いに資することを教えているのだ。実際には、個々により信仰の差があり、人間的捉え方をする場合も多いが、これが『こんてむつすむんじ』が教える世界であり、キリスト教徒の取るべき基本的信仰姿勢であった。
  
 「苦しみを受けるのは、我が身の誤ちによって神が与える。」―「転び」のキリシタンにとって、この言葉は身にしみるものであった。彼らは、罪を犯したゆえに今の苦しみがある、ということを知っていた。だからこそ「立上り」、償いをしてあの世に逝こうと思ったのだ。

 この「きりしたんの作法」によって、島原の乱事件(1637―38)を再検証してみよう。
 歴史の教科書をはじめ研究家、史家、小説家を問わず、島原の乱を語る人のほとんどが「為政者の圧政に対する反乱である」と主張して憚らなかった。そのような見解がはたして正しいか否か、些かでもキリシタンの心に近づくなら、その誤りに気付かされるであろう。
 彼らは、ほとんど農民であったが、四郎の呼びかけ―かづさ村寿庵の廻文―に呼応して集った人々、すなわち「転び」から「立上った」キリシタンであった。そうであれば、「きりしたんの作法」に従ってこの事件を読み解かなければならない。すなわち為政者の過酷な税の取り立てや、自然の災いによってもたらされる「この世の苦しみ」は、「転び」という「我が身の過ち」が原因で「デウスによって与えられること」であるから、これを「こころよく受け奉り」、よく償いをして、キリストに帰り、「後生(あの世)の扶かり」に至るべきである、と―。これが、キリシタンの作法によって解読される島原の乱事件の解答である。恨みや反乱、一揆といった従来の解釈は、キリシタンのこころと作法を知らないがゆえの、一方的な誤解であった、と言わざるをえない。

1610年(慶長15年)キリシタン版として出版された「こんてむつすむんじ」

 
 
 
 
 
 

2015年11月25日水曜日

「転び」はアニマの救いを失う悲しみ―島原の乱を解く③

 権力者によるキリシタン弾圧を恐れ、表面的にでもキリシタンであることを否定した「転び(ころび)」は、多神崇拝の日本人からすれば、さほどの問題ではなかったかもしれない。転んでも、いずれ迫害がなくなったとき戻ればいいではないか、というような、自分の都合で環境に合わせて生きる人間中心の御利益信仰感である。
 ところが、一神教のキリスト教は「天のみこころ」を第一とし、それが「地になること」、「わが(人間の)思いではなく、(天の)みこころがなる」ことを願う、神中心思想のヘブライズムが根本となっている。
 ゆえに、キリシタンを「転ぶ」行為は、律法―とくに第一戒「我以外、神とするなかれ」―を犯す重大犯罪であり、死に値する罪であった。結果、「転び」キリシタンは、原則として救いの根本である「後生(死後)のたすかり」(霊魂の救い)から外れてしまうことになる。
 原城に籠もった「立上り」キリシタンの「矢文」や、ディエゴ・コリャード神父が徴収した転びキリシタンの証言文書に、その辺りの転びキリシタンの事情・心情が述べられている。

 「きりしたんの宗旨は…別宗に罷りなること成らぬ教えにて御座候。…誤りて無量の天守(デウスの神)に背き…悲嘆(ひたん)身に余り候…」(「寛永15年正月13日、原城々内より御上使衆御中」宛矢文)

 「呵責しばしば止む無し…」(「2月25日、原城々中より上使・御近習中」宛矢文)

 「ころび申す者、数限りなく候…いづれも御出家(=司祭)衆には離れ申し、立あがり可申(もうすべき)便りも御座なく、昼夜かなしみに沈み罷居(まかりおり)候」(コリャード徴収文書「元和7年霜月10日、平左衛門等18人名連署証言」)

 その意味するところを現代語に意訳すると、次のようになる。
 ―「転び」をはじめ数多くの罪を犯し、デウスの神とその教えに背いてきたことですから、キリシタンにとって最も大切な後生(死後)の扶(たすか)り、アニマ(霊魂)の救いを亡くしてしまいました。そのような心の呵責が不断、絶え間なくありましたが、司祭もいなくなり、立上ることもできず、昼夜、悲しみに沈み、仕方がなかったのです。―

 「転び」隠れのままでは、キリストによる人間の根元的救いから洩れてしまう。この危機感が齢を重ねるごとに募り、それが極度に達した寛永14年(1637)秋、神の霊に打たれたようにして、あのような「立上り」の行動を採ったのだった(註)。
 「悲嘆身に余る」というのは、この場合、耐えがたい権力者の圧政が原因なのではなく、矢文にあるように「誤ってデウスの神に背いた」みずからの「転び」の罪に由来するものであった。アニマ(霊魂)という永遠なる存在の救いを失った「悲嘆―悲しみ」がいかばかりのものか、これもまた、キリシタン信仰を知らない異邦人には理解しがたい世界であった。

 【註】…一部の研究者は、某矢文―「正月、天の四郎より松平伊豆守様」宛矢文―に一言書き出された「(松倉)長門守殿への恨み」を取り出して、あたかも「一揆・反乱」であるかのごとく解説を試みているが、それは「矢文」の主張する本意ではない。老若男女3万7千人の生身の人間のことであるから、人間的思いが混入しているのはあり得るであろう。ましてや、彼らがイエズス会所属の信者であれば、宣教師たちもしばしば報復的行動をとって見せたことがあり、許容範囲との認識を持っていたのかもしれない。
 ところが、「立上り」という本来のキリシタン信仰を取り戻す段階になると、両者は矛盾することとなる。「四郎法度書」を見ると、司牧者天草四郎がそのような籠城キリシタンの人間的思いを諫めているのを確認することができる。

 
 

2015年11月22日日曜日

誤解された島原の乱の「立上り」―島原の乱を解く②

 島原の乱事件(1637―38)は、一般には「圧政に対する反乱」と解釈されている。なかには当時の古文書記録に拠り、「立上り」を言う人もいるが、それでも何故か「反乱・蜂起」と誤解していることが多い。
 日本語の「立上り」は、それだけを取り出すとたしかに「反乱・蜂起」の意味がある。しかし、「島原の乱」事件(1637―38)における「立上り」は、その謂いではなかった。前提として「転び」すなわちキリシタン信仰を表面的・一時的に棄てる行為があり、それに対する「立上り」を言うのであって、元のキリシタン信仰の状態に戻ることを意味する言葉であった。別の言い方をすれば、「きりしたん作法」に基づく、信仰行為に他ならない。
 籠城キリシタンの矢文(「城中より御陣中」宛矢文」)に出てくる「右の仕合(しあわせ=事の次第)、きりしたんの作法に候」と言うのは、それを指している。
 
 同事件を誤解する言語上の問題として、他にも「召し出され候」、「召し抱えられ候」というのがある。いずれも「矢文」に記される言葉である(註)。彼らキリシタン信者からすると、これは「神による召命」を意味する。しかし、異邦人である日本人にとって、その意味を理解することは困難である。
 「神による召命」とは、人間の意志を超えた力、デウスの力によって動かされ、選び出されることである。このような神体験、聖霊体験をすると、往々にして心に火がついたような状態になることがある。原城の籠城キリシタンが射出した矢文に、「かねての思い立ち、少しも御座無く候。不思議の天慮(てんりょ=神の配慮)計り難く、総様この如く燃え立ち候」とあるのが、これに当たる(「正月19日、細川越中様、御陣中衆御中」宛て矢文)。
 「召し出され候」、「召し抱えられ候」転びキリシタンの「立上り」とは、神霊の役事、聖霊の役事を伴う神の御業(みわざ)、「不思議の天慮」なのであった。

 原城に籠城した「立上り」キリシタンは一貫してこのような趣旨を幕府軍に伝えようとしたが、一方、キリスト教の神も聖霊も知らない幕府軍が「きりしたん作法」としての「立上り」を理解することは困難であったと見られる。キリシタンたちは、いくら説明しても分かってくれない幕府に対して、「半理(=半分の理解)の様に承(うけたまわ)り候」(前掲史料)と言っている。
 島原の乱事件の本質を、キリシタンでない日本人が理解し得ないのは、今に始まったことではなかったようだ。

 【註】…史料『四郎法度書』に、「各別(格別)の御慈悲を以て、此の城内の人数に召し抱えられ候」。また『岡山藩聞書』所収の「加津佐寿庵廻文」に、「我等の儀、召し出され候者にて候」とある。
 
 
 
 


 
 
 
 
 

2015年11月6日金曜日

天草四郎の呼びかけ=寿庵の廻文―島原の乱を解く①

 昨日、風呂の中でふと、声が聞こえたのは誰であったか?便りの内容からして、それは天草四郎ではなかったか、と思う。
 「あの世」からの通信は、次の通りである。

 「いつまで隠れているのですか?
 転びのままでは、アニマ(霊魂)の扶(たすか)りがないでしょう?
 キリシタンを否定したから、隠れなければならなかったのです。
 迫害を恐れたから転んだのです。
 表面的にでもキリストを否定したのなら、イエスを裏切った弟子たちと同じでしょう?そのような行為は、キリシタンにとってモルタル罪―死に値する罪なのです。キリストを悲しませ、デウスを悲しませたのですから、罪になるのです。
 いつまで隠れているのですか?
 アニマ(霊魂)の救いを失ったまま、老いて、死んでいくのですか?
 早く出て来なさい!
 もう一度、キリシタンを表明しなさい!
 立ち上がりなさい!」

 ―これは、3万7千人の「転びキリシタン」を立ち上がらせた天草四郎の叫びのこころであった。
 文書記録で、四郎の筆になるものは確認されていないが、「丑(寛永14年)10月15日」(陰暦)付けの『かづさ村・寿庵の廻文』がそれに相当する。寿庵は「天人」すなわち天草四郎の「使者」であり、四郎に代わってこの「廻文」を書いた(『耶蘇天誅記』)。

 =寿庵の廻文
 「態(わざ)と申し遣わし候。天人(=天草四郎)あまくだり成られ候て、ぜんちょ(=異教徒)どもは、デウス様より火のスイチョ(=審判)成られ候間、何ものなりとも、吉利支丹に成り候はば、ここもとへ早く御越(おこし)有るべく候。……
丑10月15日、かづさ村・寿庵」

 【意訳】取り立てて申し上げます。伴天連の預言通り、「キリシタン宗門の司(つかさ=司祭)」として天草四郎様という御方がここにおられます。転びの者たち、異教徒たちはデウスの神が火の審判を成されますので、誰であってもよいから、キリシタンに立ち帰り、以前のように信仰を取り戻してアニマ(霊魂)の扶(たすか)りを得たいと思うなら、天人・天草四郎のもとに、早く来ていただきたい。…」

 「後生の救い」を喪失し、すでに「悲嘆身に余り候」(=矢文の一節)状況にあった「転びキリシタン」たちは、この知らせを受けて「立ち上がる」。世に言う「島原の乱」である。
 その行動は、「苛政に対する反乱」といった性格のものではなかった。彼ら自身のキリシタン信仰上の問題―「きりしたんの作法」―が動機となっていた。
 「寿庵の廻文」の日付けにある陰暦「10月15日」は、十五夜であった。明るい月夜であったか、それとも暗雲たちこめる闇夜であったか、わからない。
月蝕(2014年10月8日)