2015年7月27日月曜日

桑姫御前は「マダレイナ清田」か⑦

 ◇「桑姫」または「天女」として―
 史料『志賀家事歴』には、「於西御前」の「塚」の傍らに「桑の一本」を植えたことのみが記され、一般に「桑姫」の由来とされる養蚕についてはふれていない。マダレイナ清田は1622年、宣教師を匿った廉で自宅監禁となり、1627年、生きながら火炙りの刑に処せられた。おそらく、養蚕に係われる状況ではなかった、と思われる。
 筆者は、塚の傍らに桑の木を植えた理由として、1605年に病死した大友宗麟の孫娘(宗麟次女テクラの娘)―修道女マセンシアとの関係を指摘したい。

 マセンシアは宗麟の後室ジュリアとともに長崎に逃れ、誓願を立てて修道生活を送る途次、18歳の若さで昇天した。その事蹟を伝える「フェルナン・ゲレイロ編イエズス会年報集―1605年日本の諸事」によると、キリストの花嫁として生涯を捧げたマセンシアの「世俗のすべての奢侈(しゃし)や虚飾を軽んじ」、「断食や鞭打ち」の苦行に打ち込んだ「峻烈」なまでの修道生活の様子が描かれているが、その中に祖母ジュリアに願い、「一日」だけ「絹(の服)を纏った」逸話が挿入されている。この世の楽しみなど何一つなかったマセンシアにとって、それは女性として味わったただ一つの慰めであり、喜びであったと思われる。
 マセンシアは宗麟の次女テクラの娘、一方、マダレイナ清田は宗麟の長女ジュスタの娘であった。マセンシアと二従姉妹になるマダレイナ清田が禁教下、ドミニコ修道会の信者として再改宗し、在俗修道女の道を選択したのは、18歳で逝ったマセンシアの修道女としての生き方が一つの契機となったにちがいない。
 マセンシアの遺志を、マダレイナ清田が継承し、そして、「寛永4年(1627)」殉教の栄冠を勝ち取った。それらの、大友家「姫君」たちのキリシタン信仰にまつわる奇特な生き方が、志賀家、薬師寺家ら大友遺臣たちの心に深く刻み込まれ、「天女」となったマダレイナを讃え、慰めるため桑の木を塚の傍らに植えたのは、考えられることである。
 殉教日が和暦の「七夕」の日(7月7日)であったことも、マダレイナと「棚機(七夕)姫」とを結びつける縁となったであろう。修道女として清貧に暮らし、天界に旅立った大友家の「姫」マセンシアが、一日だけ絹の着物を纏って聖母マリアに感謝し「慰安の涙にくれた」―そのような記憶がそのまま殉教者マダレイナ清田に重ねられ、絹糸を作る蚕の餌となる桑の木を塚の傍に植えた、ということだ。そのこころは、天界に逝ったマダレイナに、せめて命日の七夕(たなばた)の祭日一日だけでも絹の着物を着せて慰めてあげたい、というものではなかっただろうか。

 あからさまにキリシタン殉教者を実名をもって祀ることができなかった禁教令下の藩政時代、マダレイナ清田を「桑姫」と呼び、「天女」と称して御霊(みたま)を萬福寺境内に祀った関係者一同の、キリシタン信仰にまつわる秘史がここにある。

 萬福寺(現淵神社)は、「長崎名勝図絵」の挿絵で見ると、寺院でありがら鳥居が据えられている。そのうちのいずれかには多分、マダレイナの命日(殉教日)である七夕の日(7月7日または8月7日)が刻まれているはずである。



 

2015年7月26日日曜日

桑姫御前は「マダレイナ清田」か⑥

 補遺として、殉教者マダレイナ清田の、いくつかの記念碑について概略を述べたい。
 言うまでもなく、キリスト教が「御法度」とされた徳川時代、キリシタンは大罪人であり、殉教者はもとより隠れの信者にいたるまで死者の墓碑を建てることは憚られた。それゆえ隠れの信者たちはこれを山中とかに隠蔽するか、何か別の名称をもって祀る以外方法はなかった。

 ◇大友家桑姫御前塚
 志賀家が伝える史料『志賀家事歴』によると、「於西御前」が「逝去遊ばされ候」後、竹の久保尾崎の志賀家「屋敷の内に葬り奉(まつ)り、一塚を築き候て、桑の一本を植え、桑姫御前と號(ごう)を贈り」、「参詣」した、という。
 「塚」とは墓石のことであるので、「大友家桑姫御前塚」と刻まれた、例の自然石の墓石のことであろう。これは竹の久保尾崎の志賀家屋敷にあり、明治33年(1900)志賀親朋氏によって「法入」に遷され、さらに昭和11年(1936)淵神社境内に移設された。こんにち「桑姫社」の名称で奉られた社殿の基壇部に据えられているそれである。
 一般にこの「塚」は、桑姫社の由来を記した石祠(明治33年建立)に「天保8年(1837)淵村の十世即吾祖父親善君が尾崎の旧塋(塋=境をめぐらした墓地)に卜(ぼく)し、石祠を築く」とあるので、それと混同して紹介されることが多い(筆者もその一人であった)。「祠(ほこら)」とは、仏像や神像等を納める家型の構造物であるから、それまで自然石の「塚」であった桑姫御前の墓石を、天保8年(1837)になって石祠をこしらえ、その中に納めて尾崎の志賀家屋敷から墓地に移した、という意味である。述べたように、これはその後、二転、三転して淵神社境内に現存する。

 ◇「御霊儀の地蔵尊」と「天女廟碑」 
 『志賀家事歴』にはつづいて、「其の後、当初氏寺真言宗寶珠山萬福寺本社の後ろに御霊儀の地蔵尊を一体、先祖ども建立仕り、今に怠りなく参詣礼拝仕り候」、とある。「御霊儀の地蔵尊」とは、「於西御前の御霊儀」を祭るものであるが、それが「萬福寺」すなわち今日の「淵神社」の後方に祭られていた、と言うのだ。
 中世、真言宗寺院であった萬福寺はキリシタン時代(天文年間)に破却され、寛永11年(1634)に再建された。同寺(淵神社)の由緒によると、再建された萬福寺の鎮守社として「弁財天」を祀った、とあるので、それと関連するものであろう。
 文政12年(1829)に大友家遺臣らが今の淵神社すなわち萬福寺の敷地に巨大な「天女廟碑」を建立した史実は、そこが「天女」すなわち「殉教者マダレイナ清田の御霊儀」を祀る神聖な場所であったことを裏付けるものである。
 ―そうであるなら「殉教者マダレイナ清田」は、大友家の姫としてその真実の名前こそ隠されたが、「弁財天」もしくは「天女」の名称でキリシタン禁教の時代、淵村萬福寺の一隅に祭られ、一族の崇敬を集めていたことになる。

 イエズス会宣教師マテウス・デ・コウロスの「報告書」に見える、1619年に幕府によって破壊された教会の名を上げた中に、「(長崎の)港の向かい側の稲佐といわれるところにあった教会」が出ている(註)。萬福寺(現淵神社)の境内はキリシタン時代、一つのキリスト教会が存在した場所であったとも考えられる。―であれば、そこは殉教者マダレイナ清田を祭るにふさわしい聖なる地であったに相違ない。(つづく)

 ※註…結城了悟著『九州キリシタン史研究』(1977、キリシタン文化研究会発行)147頁。
藩政時代、殉教者マダレイナ清田の「御霊儀の地蔵尊」が祀られた萬福寺(現淵神社)の風景(『長崎名勝図絵』)。キリシタン時代、ここに教会が存在したとも考えられる。

 
  
 

2015年7月13日月曜日

桑姫御前は「マダレイナ清田」か⑤

 見てきた通り、殉教者マダレイナ清田を大友宗麟の長女ジュスタの娘であると仮定して、彼女の生年(1570頃)から殉教死(1627)に至る事蹟と、それらを取り巻く客観事象が矛盾なく説明されることがわかった。それは同時に、「桑姫」を重ねての考察でもあった。

 最後に、志賀家の伝承において、史実と一致しない二点について述べたい。「宗麟の孫娘」であるマダレイナ清田を「義統の二女」としてきたことと、命日(殉教日)のこと、である。
 前者については、母ジュスタが大友義統の支配下にあった清田家に嫁いでいるので、清田家の主君であった宗麟の子・義統を取った、と考えられないであろうか。伝承における誤差の許容範囲とみたい。また、キリシタン色をできる限り払拭しなければならなかった江戸時代、キリシタン大名としてその名が知られた父宗麟よりも、政治的失策で失脚した子義統の娘とする方が都合がよい、とする心理も働いたものと思われる。
 
 ◇7と8が東西で交錯?
 後者の没年については、「西暦1627年8月17日」、和暦で「寛永4年7月7日」がマダレイナ清田の殉教日であった。これに対し、志賀家が記念するその日は「寛永4年8月7日」である。1627年(寛永4年)では一致しているものの、日付けが正確ではない。それは、たとえば七夕(たなばた)祭りが陰暦7月7日であるのに、実際は8月7日に実施する習慣があることと似ている、と言えないだろうか。これも、許容される誤差とみたい。
 ちなみに、マダレイナ清田が教皇ピオ9世によって列福されたのは「西暦1867年7月7日」である。和暦の殉教日「7月7日」と重なっているのは偶然であろうか。7と8とが東西で微妙に交錯しあっている。

 「桑姫御前」は、「寛永4年」に殉教した大友宗麟の孫娘「マダレイナ清田」とみて間違いなさそうだ。
天保8年(1837)、大友家遺臣らが長崎淵村尾崎竹の久保に建立した「大友家桑姫御前塚」(「長崎名勝絵図」)。明治33年に建てた記念の石碑に「奉納桑姫君。寛永四年ヨリ尾崎地(に)安座致し、春秋ニ御祭礼致す」とあるので、それ以前、マダレイナ清田(桑姫)を秘かに祭り、殉教の遺徳を偲ぶ行事を「寛永4年(1627)」から春秋、継続していたものと思われる。

 

2015年7月12日日曜日

桑姫御前は「マダレイナ清田」か④

 ところで、「大友宗麟の家系に属する子孫」とされるマダレイナ(マグダレナ)清田の系譜上の位置については、一次史料にも記録がない。そこで『16-7世紀イエズス会日本報告集』(第Ⅰ~Ⅲ期15巻・1987―94年・同朋社出版)によって、「マダレイナ清田」の系譜を探ってみたい。
 
 ◇清田一族と殉教者「マダレイナ清田」
 清田氏は、先祖が大友家につながる戸次(へつぎ)氏の分家筋にあたる。豊後国の「国衆(くにしゅう)」と呼ばれる「主要な殿の一人」であった。所領地は当時「清田」(現大分市判田一帯)と称され、臼杵にいた宗麟の隠居領ではなく、息・義統(よしむね)の配下の本領に属していた。
 宗麟と時代をともにしたのは1578年、カブラル師によって受洗した清田鎭忠である。宗麟の娘ジュスタ(元一条兼定室)と結婚し、ために「義統侯御姉婿」とも称された。
 夫妻には「男の子がなかったので、ドン・パウロ(志賀親次)の兄弟を養子にした」、と「1586年度年報」は伝えている。―そうであれば、清田鎮忠の跡を嗣いだ「ドン・ペドロ鎭乗(寿閑)」は志賀家の出身であったことになる。後日、長崎淵村庄屋志賀家と清田家が運命をともにする縁を、ここにも確認することができる。
 清田鎮忠は1585年当時、「盲目で重病を患っていた」(「1585年8月20日づけ、スイス・フロイスの書簡」)。
 1586年12月、豊後国が島津氏から攻められたとき、鎭忠は多くの大友氏配下の家臣・領主と同様、島津方に味方した。その廉により翌1587年、豊臣秀吉から所領を没収され、一時期「ある場所で貧しく暮らしていた」(「1588年度年報」)。このあと、間もなく長崎に避難・移住したと思われる。
 一方、鎭忠本家を嗣いだ養子ドン・ペドロ(志賀)鎭乗の一族は細川家に仕えた。細川忠興の後室に迎えられた「幾知(圓通院)」は、ドン・ペドロ鎭乗の娘である。
 
 清田鎭忠の娘については、宣教師の記録に2人登場する。ひとりは「2歳くらい」で病にかかり夭折した(「1578年10月16日付、ルイス・フロイスによる書簡」)。他のひとりの「長女」は1580年に受洗した(「1580年度年報」)。この「長女」こそが1627年8月17日に長崎で殉教した「マダレイナ清田」であろう。
 マダレイナ清田は、殉教した1627年当時、「58歳」であったから、1570年頃の生まれとなる。だとすれば、マダレイナの父親は清田鎮忠ではなく、母ジュスタの前夫・一条兼定であろう。つまりは母ジュスタ(宗麟の長女)の「連れ子」であった。1580年、10歳で受洗し、その後嫁いだものの「寡婦となり」、おそらく1600年前後、長崎に移住した実母ジュスタを頼ったであろう。

 キリシタン迫害が本格化した1614年以降、ほとんどの信者が「転び」、そしてドミニコ会、フランシスコ会など托鉢修道会所属の信者として「立ち上った」。マダレイナ清田もドミニコ会所属の信者として再改宗した一人である。1620年、親族のシモン清田卜斎(鎭忠の義兄弟)・マグダレナ夫妻が小倉で殉教したことが機縁となったであろうか、彼女は荘厳誓願を立て、修道女の道を選んだ。
 宗麟の血を引く一族には、数えきれないほどのキリシタンがいる。その中で殉教の栄に輝いたのは「マダレイナ清田」のみであろう。ちなみに殉教者・シモン清田卜斎とその妻マグダレナは、宗麟の血を引いていない。
 マダレイナ清田は、宗麟―長女ジュスタ―孫マダレイナ清田とつづく、宗麟直系の「孫娘」であった。それゆえ、大友一族にとっては「―姫」であり、殉教の栄冠を戴いた「天女」であり、後世幾百年も「奉(まつ)り」讃えられるにふさわしい、特別な存在であったと考えられる。(つづく)
長崎淵村庄屋志賀家とその一統・旧大友家遺臣が「桑姫君」すなわち「マダレイナ清田」の遺徳を偲び文政12年(1829)、宝珠山萬福寺(現淵神社)境内に建立した「天女廟碑」


 
 
 
 
  

2015年7月11日土曜日

桑姫御前は「マダレイナ清田」か③

 長崎に避難・移住したこれら大友一族の女性キリシタンたちのうち、「―姫」と呼ばれ、崇敬の対象となりうる人物とは、言うまでもなく大友氏直系の「子孫」であり、「殉教者」でもあるマダレイナ清田であろう。
 殉教者は、これを弾圧した幕府にとっては大罪人であるが、キリシタン信者にとっては信仰の勝利者として、崇め称えられる聖なる存在であった。殉教者の遺物が、遺骨はもとより焼き灰に至るまで信者たちがこれを掻き集め、聖遺物として大切にした話は、宣教師たちの書簡・報告書にたびたび登場する。そのようなキリシタン信仰上の意味からすると、殉教者であるか否かは、桑姫特定の重要な判断材料になることが理解されるであろう。
 前述したように、マダレイナ(マグダレナ)清田は「聖ドミニコ会第三会」の会員として殉教した。これに関して聖ドミニコ修道会の岡本哲男司祭は、著書『日本ドミニコ会殉教録―信仰の血証し人』(1988・聖母の騎士社刊)で次のように述べている。

 「荘厳誓願を立てた会員…マグダレナ清田(1627年殉教)、豊後の領主フランシスコ大友宗麟(1530―1587)の家系に属する子孫である。彼女の夫の死後、ドミンゴス・カステレット神父によって聖ドミニコ信徒会員として受け入れられた。宣教師たちを自分の家に泊めた理由で、1627年8月17日、長崎において生きながら火あぶりの刑に処せられた。1867年7月7日、ピオ9世によって列福された。」(前掲書267頁)

 「荘厳誓願を立てた会員」とは、「神に捧げられたいけにえとして自己を全面的に奉献し、それにより、その全存在は、愛における神への絶えざる崇敬となる」人、すなわち生涯を神に捧げて生きる修道女のことである。マダレイナ清田はおそらく、夫との死別後、在俗の修道女として誓願を立て、「信仰のため死ぬ覚悟をもって」生きていたであろう。

 ◇迫害に立ち向かったドミニコ修道会
 ドミニコ修道会は幕府が禁教令を発した直後から、その対策として迫害に備えるための信心会(コフラディア)を結成し、「転び」の「立ち上げ」(再改宗)に尽力した。そのため、一般の信心会である「尊きロザリオのコフラディア」、「イエズスの御名のコフラディア」などとは別に、「迫害に立ち向かうエリートの組」を組織する必要があった。「それは男の組と女の組に分けられ」、迫害の期間も「説教が全く欠けるということがないように」ある家に集まり、「そこで信仰書を読み、また断食・苦行および相互間の平和や愛の規則を定め、迫害に際してはお互いに励ましあい、最期には教えを棄てるというよりは神の御心に従って死ぬという定め(規則)」を作った。「率先して宣教師を匿う」というのも会員たちの任務であった。
 「自分の家に宣教師たちを泊めた」マダレイナ清田もまた、その使命に生き、殉じた一人であったと思われる。(つづく)
 

2015年7月9日木曜日

桑姫御前は「マダレイナ清田」か②

 「桑姫」と同時代に生きた長崎淵村庄屋元・志賀氏の「二君」―初祖・宗頓(親成)と初代庄屋・親勝が「桑姫を奉ること甚だ篤し」(『志賀親勝墓碑銘』)というのは、二つの理由があったと考えられる。ひとつは、主君大友宗麟との主従関係によるもの。もう一つはキリシタン信仰に基づく紐帯である。かのフランシスコ大友宗麟は熱心なキリシタン宗信奉者であり、イエズス会の最大の擁護者であった。
 したがって、志賀氏が篤く信奉する桑姫は、主君大友宗麟の遺児またはその血を引く女性にして、後世まで記念して伝承されるほどの、キリシタン信者としてのある特別の価値を有する女性でなければならないであろう。それは、志賀宗頓(親成)自身がかつての領国―志賀一族が支配した豊後国竹田―において、稀にみる熱心なキリシタンであり、竹田の領主志賀親次ドン・パウロを周囲の反対の中で受洗に導いたことからも窺える(註1)。

 ◇長崎に移住した大友一族のキリシタン女性たち
 ほとんど知られていないことだが、志賀宗頓(親成)の妻は、主君大友宗麟が後室として迎えたジュリア夫人(=宗麟の次男親家の妻の母)の連れ子(洗礼名=コインタ)であった(註2)。「寛永年間」、志賀宗頓(親成)が肥後国八代を経て長崎に移住したとき、妻コインタも―生きていたとしたら―同伴したにちがいない。
 長崎には、コインタの実母である宗麟の未亡人ジュリアがいた。彼女は、宗麟の娘テクラ(正室・奈多鑑元女の子)の娘マセンシアとともに1600年頃、長崎に避難して来ていた。在俗修道女の道を選択したマセンシアが修道の途次1605年、病に倒れたあと、ジュリアはどうしていたのか。実の娘コインタが夫志賀宗頓らとともに来崎したとき、両者は互いに助け合って禁教下の困難な時代を生き抜いたに相違ない。
 そこに、もう一人「大友宗麟の子孫(孫女)たる」マダレイナ清田が存在したことは、彼女が1627年8月17日(寛永4年7月7日)、長崎で殉教した史実によって知ることができる。
 レオン・パジェスの『日本切支丹宗門史』によると、マダレイナ清田は「30歳で寡婦となり、長崎に(1600年前後頃)追われて来た。デ・トルレス神父は彼女の家でミサを立てた。これにより彼女は自宅に監禁され、1622年から1627年まで4年間をすごした。殉教したとき、58歳であった」。(つづく)

 ※註1、註2…「1582年2月15日付、長崎発信、ガスパル・コエリュのイエズス会総長宛、1581年度日本年報」。「1584年1月2日付、ルイス・フロイスのイエズス会総長宛、1583年度日本年報」。
桑姫社の花生けに彫刻された大友家家紋「抱き杏葉」

 
 
 
 
 

2015年7月8日水曜日

桑姫御前は「マダレイナ清田」か①

 桑姫をマセンシア(大友宗麟の娘テクラの娘)とする片岡氏の仮説に異議を唱える理由は、他にもある。「―御前」(一般には貴人または夫人を意味する)と称された桑姫を、独身のキリシタン修道女とすることに些かの違和感があること。「桑姫」の名の由来とされている養蚕との係わりの伝承が、十代の若い修道女で、かつ病に倒れるほど修道に打ち込んだ少女マセンシアにそぐわないこと。没年「寛永4年」が、明治に至るまで命日の「8月7日」とともに明記して伝承されたこと、などである。
 とくに没年にかんしては明治33年(1900)、淵神社境内の桑姫社の旁らに建立された由来を記した石祠に「寛永四年八月七日没」とあるなど、年月日に固執した様子さえ窺われる。逆に言えば、そこまで明確に記録して後世に伝えられた「桑姫の没年月日」こそが、彼女を特定する有力な証拠資料になる可能性があるのだ。
 回りくどい説明は省略することとしよう。
 筆者が突き止めた桑姫の真の正体は、じつに彼女の「没年月日」が決め手になった。それは、「1627年8月17日(=寛永4年7月7日)」、長崎は西坂の刑場で火炙りにより殉教した「豊後のドン・フランシスコ大友宗麟の子孫たる日本人寡婦マダレイナ清田」(註)である。(つづく)
 
 ※註=同日殺された殉教者は、フランシスコ会とドミニコ会の司祭・修道士、一般信者あわせて18人。「ある者は残忍な猛火で、ある者は鋭い刀で殺された」。マグダレナ清田はドミニコ修道会第三会所属の信者であった。史料『日本の聖ドミニコ―ロザリオの聖母管区の歴史―』(1990/ロザリオ聖母管区本部)によると、ドミニコ会信者の殉教者は、ほかにカヨ治左衛門(高麗人)、筑後のフランシスコ九郎兵衛、レオン(日本名不明)、高麗人寡婦フランシスカ・ピンゾケレの息子アントニオ・メンコソらがいた。なお洗礼名「マダレイナ」は「マグダレナ」と表記されることもある。前掲史料の註に「マダレナ清田」とあることから、筆者はこれを採った。

2015年7月7日火曜日

桑姫御前の謎②

 桑姫御前とは一体、誰のことであろうか。一般には、キリシタン大名フランシスコ大友宗麟の血筋を引く「マセンシア」を指すとされている。系図によると、マセンシアは宗麟の娘テクラとその夫・久家三休(公家)の娘である。(毛利秀包の妻となった宗麟の娘マセンシアは別人である)
 宗麟の娘の娘であるから、「(宗麟の)孫娘」になるが、桑姫にかんする各種解説書には、「宗麟の娘」、「義統(宗麟の子)の娘」など情報が錯綜している。
 桑姫をマセンシアとする説はこんにち、ほぼ確定されているかのように取り扱われているため、筆者も当初、疑いのない事実と思い込んでいた。ところが、証拠資料をもとに確認作業を進めていくと、その根拠が薄らいでいくので、途中から調査を余儀なくされた。つまりは仮説に過ぎないのだ。

 ◇桑姫=マセンシア説に矛盾あり
 同説を最初に唱えたのは、著名なキリシタン研究家であった長崎人・片岡弥吉であろう。昭和12年(1937)刊行の『長崎談叢第19号』に掲載された論文「浦上草創の頃の二、三の事蹟」で、次のように述べている。

 「切支丹流謫人の中に大友義統の姪(=妹テクラの娘)御西御前(=桑姫)がある。淵神社境内に建つ天女碑はこの貴女の碑であるが、碑文に義統が二女とする。然し思ふにこれは日本西教史第十三章に載するマゼンスがことではないか。さすれば、義統の姪で、年齢僅か七、八歳にしてここに遷(うつ)り、十余歳にして没した。……桑姫とマゼンスが同一人物だとすれば、彼女がキリシタンたりし事は迫害禁教の長日月の間に忘れられ、其の遺徳のみを相伝へて遂に桑姫神社として祀り崇めるに至ったものではなからうか。」

 片岡氏はこの仮説をジャン・クラッセ著『日本西教史』(太政官訳)およびレオン・パジェス著『日本基督教史』(『日本切支丹宗門史』か―)をもとに割り出したようだ。
 フランス人著者になる同二個の史料は、原文書をもとにフランス語で二次的に編纂されたものである。こんにちでは一次史料の原文書を日本語訳したものが出版されているので、片岡氏が言う「マセンシア」についても原文で確認できる。それ―「1605年の日本の諸事、フェルナン・ゲレイロ編イエズス会年報集」によると、マセンシアは「フランシスコ(大友宗麟)の一人の孫娘」であり、1605年当時、「長崎に祖母と他の親戚たちとともに追放されて」住んでいた。ここで言う「祖母」は、「血縁から言えば祖母ではなかったが、娘に対するように彼女に抱いているその愛においては祖母であった。」とあるので、大友宗麟の後室「ジュリア」(次男・親家の妻の母)のことである。
 彼女らは、「つねにデウスを信仰し懼(おそ)れて育った」熱心なキリシタンであった。なかでもマセンシアは「10歳の頃から貞潔と純潔のうちにデウスに仕え」たいとの願いを抱き、密かに誓願を立てた。そして、献身と修行の日々を送っていたが、「ついには純粋な贖罪行為と肉体の虐待のために消耗し衰弱してしまい…80日病床にあって」1605年、18歳で肉体の生涯を閉じた。

 片岡氏が「桑姫」を「マセンシア」としたのは、志賀家とマセンシアが共に大友氏と縁故関係にあること。マセンシアが貞節の誓願を立て、キリストに生涯を捧げるほどの、すなわちキリシタン信仰において称賛に値する人物であったからであろうが、しかし、この仮説には明らかに矛盾がある。志賀家が長崎に移住した時期は「寛永年間」であるのに、マセンシアはそれ以前の慶長10年(1605)にすでに死去していることである。
 『志賀家事歴』によると、桑姫は「(志賀)宗頓を御尋ね、茅屋へ御入家につき、(志賀氏が)御介抱申し上げ罷り在り候」とある。それは後世、志賀家の始祖宗頓と初代庄屋親勝の墓碑に「二君の桑姫を奉ること甚だ篤し」と刻まれたことからしても、事実であるにちがいない。
 片岡氏はそこまでの考察をしていない。ただ、志賀氏が桑姫の死去年を「寛永4年(1627)」とした「碑文(「天女廟碑)」は、「誤りであろう」と一蹴しているのみである。(つづく)
志賀家墓地(悟真寺内)の初祖宗頓(中央)、初代親勝(右)、二代親貞(左)の各墓碑

 
 
 
 
 
 
 
 

桑姫御前の謎①

 前稿「キリシタン志賀一族ほか長崎に至り②」でふれた「於西御前」は後世、「天女」または「桑姫」と称され、その事蹟を刻んだ記念碑が現在、長崎市内の淵神社境内にある。一つは文政12年(1829)に志賀親善、薬師寺種成、同種文、吉岡親平、蘆茢純房らが建てた「天女廟碑」(橘元一撰文)。他の一つは天保8年(1837)、庄屋志賀親善が当初、竹之久保尾崎に建立し、のち法入、さらに淵神社境内に昭和11年(1936)に移設された「桑姫御前塚」(現桑姫社)である(註)。
 このうち「天女廟碑」については、史料「志賀家事歴」に「其の後、当初の氏寺真言宗宝珠山萬福寺本社の後に(桑姫御前の)御霊儀の地蔵尊を一体、先祖ども建立仕る」と記載される事歴に係わるもの。また「桑姫御前塚」は、「塚」が墓石を意味するので、死者を葬った墓碑であったと思われる。
 これら二つの石碑建立が当人の逝去から200年余り遅れたのは、当時「御法度」とされたキリシタンであったからに他ならないが、6~7代を経てなお、志賀家ら旧大友家家臣がその事蹟を詳細に伝え、巨大な「廟碑」を建てたのはそれなりの理由があったものと思われる。

 筆者は、隠された訳を探すべく現地に取材した。そして、庄屋志賀家墓地の始祖「志賀親成(宗頓)」および初代庄屋「志賀親勝」の墓碑に、「二君(始祖・宗頓と初代庄屋・親勝)嘗て桑姫を奉ること甚だ篤し」、とあるのを見つけ、桑姫御前が志賀家にとって特別の存在であったことを再確認した。(つづく)

 ※註…この時点で筆者は「塚」と「石祠」を混同していた。「塚」は志賀家屋敷内に当初から祀られ、天保8年(1837)になってその石祠が製作された。詳しくは後述する。
 
「桑姫御前塚」を祀る淵神社境内の桑姫社