2015年7月7日火曜日

桑姫御前の謎②

 桑姫御前とは一体、誰のことであろうか。一般には、キリシタン大名フランシスコ大友宗麟の血筋を引く「マセンシア」を指すとされている。系図によると、マセンシアは宗麟の娘テクラとその夫・久家三休(公家)の娘である。(毛利秀包の妻となった宗麟の娘マセンシアは別人である)
 宗麟の娘の娘であるから、「(宗麟の)孫娘」になるが、桑姫にかんする各種解説書には、「宗麟の娘」、「義統(宗麟の子)の娘」など情報が錯綜している。
 桑姫をマセンシアとする説はこんにち、ほぼ確定されているかのように取り扱われているため、筆者も当初、疑いのない事実と思い込んでいた。ところが、証拠資料をもとに確認作業を進めていくと、その根拠が薄らいでいくので、途中から調査を余儀なくされた。つまりは仮説に過ぎないのだ。

 ◇桑姫=マセンシア説に矛盾あり
 同説を最初に唱えたのは、著名なキリシタン研究家であった長崎人・片岡弥吉であろう。昭和12年(1937)刊行の『長崎談叢第19号』に掲載された論文「浦上草創の頃の二、三の事蹟」で、次のように述べている。

 「切支丹流謫人の中に大友義統の姪(=妹テクラの娘)御西御前(=桑姫)がある。淵神社境内に建つ天女碑はこの貴女の碑であるが、碑文に義統が二女とする。然し思ふにこれは日本西教史第十三章に載するマゼンスがことではないか。さすれば、義統の姪で、年齢僅か七、八歳にしてここに遷(うつ)り、十余歳にして没した。……桑姫とマゼンスが同一人物だとすれば、彼女がキリシタンたりし事は迫害禁教の長日月の間に忘れられ、其の遺徳のみを相伝へて遂に桑姫神社として祀り崇めるに至ったものではなからうか。」

 片岡氏はこの仮説をジャン・クラッセ著『日本西教史』(太政官訳)およびレオン・パジェス著『日本基督教史』(『日本切支丹宗門史』か―)をもとに割り出したようだ。
 フランス人著者になる同二個の史料は、原文書をもとにフランス語で二次的に編纂されたものである。こんにちでは一次史料の原文書を日本語訳したものが出版されているので、片岡氏が言う「マセンシア」についても原文で確認できる。それ―「1605年の日本の諸事、フェルナン・ゲレイロ編イエズス会年報集」によると、マセンシアは「フランシスコ(大友宗麟)の一人の孫娘」であり、1605年当時、「長崎に祖母と他の親戚たちとともに追放されて」住んでいた。ここで言う「祖母」は、「血縁から言えば祖母ではなかったが、娘に対するように彼女に抱いているその愛においては祖母であった。」とあるので、大友宗麟の後室「ジュリア」(次男・親家の妻の母)のことである。
 彼女らは、「つねにデウスを信仰し懼(おそ)れて育った」熱心なキリシタンであった。なかでもマセンシアは「10歳の頃から貞潔と純潔のうちにデウスに仕え」たいとの願いを抱き、密かに誓願を立てた。そして、献身と修行の日々を送っていたが、「ついには純粋な贖罪行為と肉体の虐待のために消耗し衰弱してしまい…80日病床にあって」1605年、18歳で肉体の生涯を閉じた。

 片岡氏が「桑姫」を「マセンシア」としたのは、志賀家とマセンシアが共に大友氏と縁故関係にあること。マセンシアが貞節の誓願を立て、キリストに生涯を捧げるほどの、すなわちキリシタン信仰において称賛に値する人物であったからであろうが、しかし、この仮説には明らかに矛盾がある。志賀家が長崎に移住した時期は「寛永年間」であるのに、マセンシアはそれ以前の慶長10年(1605)にすでに死去していることである。
 『志賀家事歴』によると、桑姫は「(志賀)宗頓を御尋ね、茅屋へ御入家につき、(志賀氏が)御介抱申し上げ罷り在り候」とある。それは後世、志賀家の始祖宗頓と初代庄屋親勝の墓碑に「二君の桑姫を奉ること甚だ篤し」と刻まれたことからしても、事実であるにちがいない。
 片岡氏はそこまでの考察をしていない。ただ、志賀氏が桑姫の死去年を「寛永4年(1627)」とした「碑文(「天女廟碑)」は、「誤りであろう」と一蹴しているのみである。(つづく)
志賀家墓地(悟真寺内)の初祖宗頓(中央)、初代親勝(右)、二代親貞(左)の各墓碑

 
 
 
 
 
 
 
 

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