2023年4月6日木曜日

カタリイナ永俊〈補遺〉―皆吉氏系図考㊦

島原の乱を前後して

  ところで1634年(寛永11)春、カタリイナ永俊が種子島に遠島処分となった後、娘のマルタ妙身と孫娘(満津と津留)も同じくキリシタン宗門の廉で配流が決定され、1年3ヶ月ほど喜入氏の領地である鹿籠(かご=現枕崎市)の田代家で待機した後、1636年(寛永13)、種子島に流された。

 その翌年(1637、寛永14)、高来(島原)と天草地方の転びキリシタン3万7千人が「もとの宗門に立ち帰る」島原の乱事件が起きた(註1)。その舞台となったのは、島原半島の南東部、有明海に突き出た小高い丘「原城」と称される所であったが、そこは、かつて皆吉氏が領有した「大江」の一部であった。

南有馬村大江名のうちにある原城(藩政時代初期絵図)

 日向国に転封した有馬直純と行動を共にしなかった有馬氏の家臣、および住民ら「転びキリシタン」の多くが「立上り」に参加した。皆吉氏も、直純に従臣した次男・大膳亮純政一統以外は地元に居残り、この事件に関与したと思われる。

永俊に仕えていた皆吉長右衛門家族 

 島原の乱が終結したのは1638年(寛永15)の春、陰暦の2月28日(西暦4月12日)である。その一ヶ月後、カタリイナ永俊らを預かっている種子島の領主・種子島左近大夫忠清の許に衝撃的な連絡が入った。島原の乱に「与(くみ)した」某の息子・皆吉長右衛門がカタリイナの身内の者として種子島にいるので、彼とその妻子5人を捕らえ、送り届けよ、との命令である。『種子島家譜(五)』は、寛永15年4月3日付けで次のように記している。

 「渋谷恕兵衛および足軽三人、鹿府より来たり。永俊内・皆吉長右衛門および妻子五人を捕え、帰る。…是、長右衛門の父、島原一揆に與(与=くみ)するを以て也。

 この史料は『鹿児島県史料旧記雑録拾遺家わけ4・種子島家譜』に掲載されているが、茂野幽考氏は著書『日南切支丹史』で、同じ内容ながら異なる文面の史料を上げている。

 「永俊内・皆吉長右衛門は天下の囚人と為る。是に依り、渋谷恕兵衛四月三日下島、足軽三人を従え来る。是、長右衛門・親が今度、島原籠城の処、虜と為り、白状して曰く、長右衛門永俊に仕ゆと。是に由り長右衛門妻子五人搦(から)め、鹿陽に帰る。此の時、山崎新右衛門・羽生伊左衛門、警固の為、之に従う。

 史料名が「種子島家正統系図」とあるので、「種子島家譜」とは別のものである。仮に前者を〔〕、後者を〔〕とする。
 〔〕の史料で皆吉長右衛門は「島原一揆に与(くみ)した」とあるので、筆者は当初、直接参加したのではなく、間接的に係わった、と解した。何故なら、直接籠城した人々は山田右衛門作以外、全員が殺されたからである。ところが〔〕の史料を見ると「島原籠城之処、虜(とりこ)となり、白状し…」とある。間接的な係わりではなく、直接籠城し、そして捕虜となった人物であった。はたして「息子・皆吉長右衛門が永俊に仕えている」と白状した「父親」とは誰であるのか。息子の名前からすると「皆吉」家の者と思われるが、どういう訳か二つの史料は「父」「親」と記すのみで、実名を挙げていない。この問題を解く前に、先にこれと関連する他の一つの史料――「長右衛門の弟」が薩摩藩に潜入していたことを示す史料を取り上げたい。

長右衛門の「弟」も薩摩藩に―
 日付けは「寛永15年卯月13日」とあるので、(皆吉)長右衛門発覚事件から10日後のことである。

 「一筆申し入れ候。然者、最前申し入れ候皆吉長右衛門弟芦塚権右衛門と申すもの、歳比廿四五に成り申すものゝよし、薩摩殿御舎弟北郷式部殿に居り申す由、嶋原より只今到来候。穿鑿(せんさく)致され、御とらへ、小倉迄御越し有るべく候。…
 寛永十五年卯月十三日、     戸田左門氏鉄/松平伊豆守信綱
 山田民部殿/北郷佐渡殿(註2) 

 差出人は島原の乱で幕府軍総大将を務めた松平伊豆守信綱である。「小倉迄御越し有るべく候」というのは、乱後の「(陰暦)4月4日」、小倉に幕府軍参加の各藩代表を集め、処罰の上意を伝える会議があったので、松平信綱はそこで待機していたのであった(註3)
 従来、この文書は五味克夫氏(鹿児島県史料編纂委員・鹿児島大学教授)の論考「矢野主膳と永俊尼」(『鹿大史学第17号』掲載)により紹介されていたが、筆者が『鹿児島県史料旧記雑録後編五』で確認したところ、五味氏は「弟」を「方」と読み替えていて、正確ではないと分かった。「皆吉長右衛門」と「芦塚権右衛門」が兄と「弟」であるというのは理解し難いが、史料の記述通り、事実であると見なければならない(註4)。つまりは、カタリイナに仕えていた皆吉長右衛門と、北郷式部のもとにいた芦塚権右衛門は実の兄弟であり、島津藩に潜んでいたのであった。
 
 ■長右衛門・権右衛門兄弟の「父」は山田右衛門作か
 先に述べたように、籠城して生き残り、幕府軍の捕虜となって島原の乱の詳細を白状した人物は、公式的には山田右衛門作のみである(註5)。そうであるのに、ここにもう一人、生き残りの捕虜が存在したかのごとく島津藩文書は証言している。しかも、その文書の発信者は、小倉に山田右衛門作とともにいる幕府軍総奉行・松平伊豆守信綱であるから、事実を誰よりも承知していたはずである。信綱の念頭にある「籠城者の捕虜で、白状した」人物は山田右衛門作以外にあり得ないのだ。矛盾するかに見えるこの事の真相を読み解くには、両者を同一人物としなければならないであろう。すなわち「皆吉長右衛門の父」とは山田右衛門作その人であったということである。この仮説のもとで検証してみると、不思議にもいくつかの点で合点されることがある。以下に述べる。

 ◇その①、名前の「右衛門」が共通する。…父は山田右衛門作(佐)、息子の兄は皆吉長右衛門、「弟」が芦塚権右衛門である。
 ◇その②、皆吉家と山田家とのつながりは、皆吉本家(大膳亮純政家系)に於いて存在した。…山田氏の有馬氏家臣としての出自は、有馬氏の分家になる古賀城主・山田氏である(註6)。この家系の直純時代の家臣は有馬長兵衛純親であるが、その息子・大膳純忠は皆吉本家を相続した大膳亮純政の家に養子となっている(本稿註1参照)。つまり皆吉氏と山田氏は一族的な関係にあったので、皆吉家の長男権左衛門の家系にも山田氏が係わっていたことは、あり得ることである。山田右衛門作は島原の乱当時、口之津村の庄屋であったとされるが、有馬氏の家臣であったのは間違いない。
 ◇その③、父の実名を伏せるに理由があった。…島原の乱にかんするすべての情報を受けていた幕府軍総奉行・松平信綱は、長右衛門・権左衛門兄弟の「父親」が誰であるか承知していたはずである。ところが、島津藩に宛てた文面で、それを敢えて伏せた様子が見られるのは、それなりの理由があったからではないか。山田右衛門作に対する幕府のその後の待遇は、「松平伊豆守に召され、江戸へ参り候」(註7)であった。幕府はこの人物が、その後の幕政上―とくにキリシタン政策上、必要であると見ていたのだ。しかし、ここで実名を明かしたなら、息子たちが処罰されたその父親を幕府が抱えることになるから、控えなければならい、―そのような配慮があって敢えて名を伏せた、と見ることができよう。

山田家から皆吉家、芦塚家に養子
 意外な展開となったが、皆吉氏の系譜を探る上では、新たな事実が確認されたことになる。カタリイナ永俊に仕えていた皆吉長右衛門は、皆吉家の人物ではなく、実は山田家からの養子であったということだ。藩主光久の舎弟北郷式部殿のところに潜入していた「弟・権右衛門」もまた、皆吉家出自ではなく、山田家から芦塚家に養子となり、「芦塚権右衛門」を称していたのであった。有馬晴信や小西行長のもと、かつてキリシタンの名族として活躍した皆吉氏、山田氏、芦塚氏などがこのように連携して、あの困難な弾圧時代を生き抜こうとした日本キリシタン史の、複雑な一端が窺える事例であろう。

 なお、皆吉長右衛門家族がカタリイナ永俊に仕えたのは、永俊の意向に依るものと思われる。その期間は、わずかに4年間ほどであった(註8)。1634年に種子島大長野に配流された永俊と、その2年後の1636年に配流された娘マルタ妙身および孫娘二人は、皆吉長右衛門家族逮捕事件から一年後の1639年(寛永16)6月、ともに赤尾木石之峯に拠り、その後「井ノ上」に移った。その際、処分された皆吉長右衛門家族に代わり、新たに「仕える人数」として「女七人、男三人、合わせて拾人を召し置かれた」という(註9)

 以上の考察のもと、皆吉氏の系図をまとめると、以下のようになる。(おわり)
皆吉氏系図(宮本作成)

註1…島原の乱は、従来の見解では農民一揆とされるが、本質は「転びキリシタンの立上り」事件である。薩摩藩のキリシタン事情に通じた家老・喜入忠政、島津弾正大弼久慶らは「今度、有馬へきりしたん宗誇(=起こり)候儀、…それより前ころびたる者共も皆々もとのやうに宗を直したる由に候」(『鹿児島県史料旧記雑録後編五』692頁、№1115史料)と、ほぼ正確に事の真意を捉えている。

註2…『鹿児島県史料旧記雑録後編五』799頁、№1296史料。

註3…島原の乱後、寛永15年(1638)4月4日、幕府の特使・太田備中守が小倉に下り、乱に関与した各藩の代表らに対し同事件に関する処罰の上意が伝えられた。

註4…芦塚忠右衛門は元、小西行長の家臣で、その子(同じく忠右衛門)とともに1615年、大坂陣で真田信繁の隊に加わった。真田信繁はのち、薩摩に逃れ、「芦塚」姓を名乗った(伝説)。芦塚忠右衛門は1637年、島原の乱でキリシタン軍の天草四郎のもと、軍奉行(参謀)を務めたとされる。舎弟に忠大夫、嫡子に左内がいた。

註5…捕えられた山田右衛門作が島原の乱の経緯について詳細を述べた記録が「山田右衛門作口上書」として知られている。

註6…山田氏は有馬経純の末男・嶋原純尚越前守につながる家系である。山田主計頭(有馬貴純・純鑑時代の老職)―山田兵部少輔(有馬晴純時代の古賀城主)―…有馬長兵衛純親(直純時代の公族大夫)と続いた(『国乗遺聞巻三』)。

註7…『別当杢左衛門覚書』(『島原半島史・中巻』91頁)。

註8…江戸詰家老・伊勢兵部貞昌が在国家老に宛てた「寛永10年9月19日」付け書状に、「(北郷)式部殿御側に、わかき男罷居候て、御ぐしなと結申候、いつかたより参たる人にて候哉、たて野の御引付にて御座候…」とある。ここにある「わかき男」は、すなわち(皆吉)長右衛門の弟・(芦塚)権右衛門である。彼は「たて野(カタリイナ永俊)の御引き付け」により、北郷式部殿の御側に仕えていたのであった。なお、捕縛された長右衛門と権右衛門二人の処罰が如何に行われたかは不明である。このうち長右衛門について茂野幽考氏は著書『薩藩史料集成』で、「鹿児島から長崎に送られ、処刑された」(205頁)と記しているが、根拠が示されていない。

註9…『枕崎市史』掲載「喜入氏系図」中、忠政の女子・津留の項に「寛永13年丙子4月母及ビ姉(満津)ニ随ッテ種子島ニ放タレ6月26日石之峯ニ拠ル、後井ノ上ニ移ル」。『鹿児島県史料旧記雑録家わけ4・種子島家譜』84頁に、「寛永16年6月28日、喜入摂津守忠政室(永俊娘)及女子二人(姉は島津中務久茂室・忠政非実子、妹者忠政之実子也)坐永俊之事被放、中江主水入道護送来、皆與永俊共居(自大長野移居赤尾木石之峯時也)…」。同史料85頁掲載「寛永16年6月22日付川上久国外三名種子島左近大夫宛連署状」に、「一書申候、然者立野・摂州内儀・基太村越中守殿内儀・摂州息女四人、相中ニ可被召仕人数女七人男三人、合拾人被召置…」とある。


2023年4月1日土曜日

カタリイナ永俊〈補遺〉ー皆吉氏系図考㊤

 カタリイナ永俊の出自である皆吉氏は小西行長の臣ではなく、有馬氏の家臣であった。筆者は稿「カタリイナ永俊」で史料『藤原有馬世譜』をもとにこれを明らかにし、概略の系図(下図)を紹介した。

 すなわち、皆吉氏の祖・又次郎重能は鎌倉時代、高来郡東郷御墓野村および佐賀郡西泉の地頭職にあり、「御墓野」姓を称していた。出羽守長能の頃、佐賀城城主となり、同地に進出した有馬氏第10代晴純に帰属した。その子・久右衛門續能(つぐよし)の時代、主君有馬氏から高来(たかき=島原半島)の内「大江」を宛行(あてが)われ、その頃、姓を「皆吉」に改めたらしい。同史料には、佐賀から大江に移った理由は記されていないが、台頭した龍造寺氏に城を「抜かれた」ためである(『国乗遺聞』後述)。續能の子が権左衛門、そしてカタリイナ永俊であった。権左衛門は、一時期「東」氏を称し、後「有馬」氏を賜ったという。

 ところで、キリシタンとして活躍した永俊が寛永11年(1634)、種子島に配流されたとき、「皆吉長右衛門」なる人物が家族とともにカタリイナに仕えた、という記録が島津藩の記録(後述)にある。それは、皆吉一族が依然としてキリシタン宗と係わりながら生き延びたことを証言するものであるが、上記皆吉氏系図上での「長右衛門」の位置は不明である。本稿では、散見される皆吉氏関連史料を拾い集め、皆吉氏系図――とくに、禁教令を前後してキリシタン宗と密に係わった同一族の系譜――の解明を試みたい。

『国乗遺聞』が伝える皆吉氏

 皆吉氏または東氏についての記事は、有馬氏の他の一つの史書である『国乗遺聞』にもいくつか見られる。たとえば第10代有馬晴純公時代の「国老」の一人「佐賀城主御墓野出羽守長能」について、次のようにある。

 「佐賀城主・御墓野出羽守長能。此の御代、初て(有馬晴純)麾下に属し、士将の魁首に列す。子・皆吉久右衛門續能、幼穉(ようち)の時、当城を龍造寺隆信に抜かれ、後、大江に於て食邑を賜ふ。…其の子・有馬大膳亮純政、士将に大夫を兼ね、子孫代々此の職を領す。」

 この中に、皆吉續能の子で「有馬大膳亮純政」とあるのは、『藤原有馬世譜』が「(續能の子)権左衛門」としているのと異なっている。これを解釈するに参考となるのが、次の記事である。

 「東左馬大夫・民部少輔。…実は皆吉久右衛門の二男。東家の養子となり、後、実家を相続して有馬大膳亮と称す。…

 これは、キリシタン大名として知られる有馬氏第13代晴信公時代の国老「東左馬大夫・民部少輔」についての記述であるが、この中に出てくる「有馬大膳亮」が前項に登場した皆吉續能子「有馬大膳亮純政」である。彼は「実は皆吉久右衛門の二男」であって、一旦「東家の養子」となったが、後(ある事情により)「実家」すなわち「皆吉」本家を相続した。その際、「有馬大膳亮と称した」というのである。

 これによって『藤原有馬世譜』にあった、續能の子「権左衛門」皆吉氏が「東姓を冒し、後、有馬姓を賜った」という記述の事情が判明するであろう。と同時に、「権左衛門」と「大膳亮純政」の二人が、いづれも皆吉久右衛門續能の息子であり、兄弟であったことも判明する。問題となるのは、皆吉本家を相続したはずの長男・権左衛門が有馬晴信時代に「二男・大膳亮純政」に取って代わられた家督相続の謎である。

 この謎は、キリシタン宗門を巡る徳川幕府と有馬氏との対立、そして、有馬氏が辿った幕府恭順の道、それを機として家臣団が二分した有馬家の事情を検証することで、解けてくるであろう。

 ■有馬藩のキリシタン事情ー奨励から禁圧へ

 有馬氏は、第13代晴信(1661―1612)が1580年(天正10)に受洗してキリシタンとなったあと、30年余りにわってイエズス会と連携し、領国の支配体制を確立した。その途次、新たに来日した托鉢修道会との確執をめぐるイエズス会の陰謀に巻き込まれ、有馬晴信は1612年5月、甲斐国で生涯を閉じた。危うく改易になるところ、晴信の嗣子直純が幕府に恭順することで領国は維持されたものの、それは同時にキリスト教を遺棄することであり、正妻のマルタ(妙身)を離縁し、代わりに家康の孫娘国姫を妻として迎え入れた。直純は幕府の意向であるキリスト教迫害に着手したが、徹底することができず、幕府に転封を願い出た。こうして有馬氏は1614年7月、日向国縣(あがた=現延岡市)に移った。

 この直純の幕府恭順を巡って、そのほとんどがキリシタンであった家臣団の選択は二分した。棄教して直純に従う者と、信仰を維持して地元に留まる者とにである。

 ■皆吉権左衛門、有馬氏を離れる

 有馬家の史書は後世、再編纂されたものであるから、家臣団はこの時点で直純に従った者を中心として記録され、キリシタンとして有馬家を離れた者は、徳川時代のキリシタン禁圧政策とも絡んで故意に隠され、もしくは切り捨てられた。―これが、皆吉家の長男・権左衛門の家系が姿を消し、次男の大膳亮純政が本家を継いで記録に遺された理由である。次男であるから当初、本家を出て「東」家に養子となったとあり、その「後、実家(皆吉家)相続して有馬大膳亮と称」した、というのは、長男・権左衛門が有馬氏の家臣「国老」の立場を離れたためであった。

 なお、有馬氏家臣としての皆吉家を相続した二男・大膳亮純政の系譜は、その後、大膳純景、そして大膳純忠(養子、実は古賀城主・山田兵部少輔の家系になる有馬長兵衛純親の息子)と続いた(註1)。(つづく)

皆吉氏系図(宮本作図)


 ※註1…『国乗遺聞』巻三の記載で、「直純公・六公子」の一人に「女子・与志子(母皆吉氏)」とあり、彼女は有馬氏の臣(山田家)有馬長兵衛純親に下嫁して、吉兵衛純右、大膳純忠(有馬/皆吉大膳純景養子)および三女子を生み、その一女子が「有馬大膳純景に嫁す」とある。ここに「大膳純忠」と「大膳純景」の二人が登場するが、両者の関係は「純景の養子」が「純忠」であるので、「純景―純忠(養子)」と並べることができる。同じ官途名「大膳」を冠していることから、皆吉家の本家を相続した次男「大膳亮純政」の家系につながるものと考えられる。また、これら三者が同じ「純」の共通字を持っているのは、主君・有馬直純に仕える家臣であり、その偏諱を受けたものであろう。

 養子・大膳純忠が古賀城主・山田氏の家系になる者であることは、彼の母が「与志子」であり、その夫が「有馬長兵衛生純親」であること。そして同じく『国乗遺聞・巻三』の記事に「有馬長兵衛純親」は「古賀城主・山田兵部少輔(の)…三代孫・有馬長兵衛純親」とある。つまり、(古賀城主)山田兵部少輔―…有馬長兵衛純親―大膳純忠、とつながる山田氏系譜の人物であった。なお、山田氏は有馬家から分家した有馬一族である。