2019年6月20日木曜日

宣教師文書にみるドン・パウロ志賀親次とその一族⑤

編者解説⑤
 秀吉のキリシタン排斥政策が一時期、緩んだことがあった。ヴァリニャーノ巡察使がインド副王使節を兼ね、遣欧四少年らとともに再び来日したときである。一行は1590年7月21日、長崎港に上陸し、翌1591年3月、秀吉に謁見した。
 雪解けかとも思われたが、秀吉の脳裡には別の考えがあったようだ。一年後の1592年春、朝鮮出兵(文禄の役)が開始され、西国九州の諸大名・武将らが動員された。ルイス・フロイスはこの戦役にかんする秀吉の意図を、次のように述べている。「もしシナ征服が首尾よく終わったら、予は国替えを実施し、キリシタン諸侯には朝鮮国とシナを与え、代わりに日本国においては、彼らの旧領を異教徒の諸侯に与える所存であった」(「1592年10月1日付、長崎発信、ルイス・フロイスのイエズス会総長宛、1591、92年度日本年報」)と―。
 これについては後日、ドミニコ修道会のコリャード師も同じく、「太閤様(秀吉)は、前述の諸大名が…イエズス会士を自領内に保護・隠匿したことを知り、それらの諸大名を日本の国外に追放する為、朝鮮の国と島嶼を征服することを名目とした。」と述べている(「托鉢修道会日本代表コリャード1631年報告書」)。キリシタン大名小西行長、有馬晴信が先遣隊として渡韓していることからしても確かなことであったようだ。
 しかし、その計画は頓挫し、秀吉も二度目の出兵の折り、死去した。
 キリシタン大名を国外追放する秀吉の計画は実現しなかったものの、豊後国にとっては1593年、文禄の役における戦線離脱の廉で大友義統が改易処分となったことは、同国崩壊を決定的なものとした。その惨状を、晩年のルイス・フロイスは涙をためて綴っている。
 ドン・パウロ志賀親次の身の上も然り。大名の地位を失い、そして「何らかの助けが得られないものかと都へ(老)関白に伺いを立てに行った」と、ルイス・フロイスは記している。…残念ながらこの後、フロイスはヴァリニャーノ師とともにマカオへ行くことになるので、その顛末を文書で確認することはできない。

 邦文史料―「文禄五年(1596)三月十一日」付「志賀小左衛門(親次)」宛「秀吉朱印状」には、「豊後以日田郡大井庄令千石扶助事、可全領知候也」とある。日田は毛利高政の領するところであった。
 宣教師文書は1596年、日田でドン・パウロが毛利高政と友誼を結んだこと。そして1600年、安芸の福島正則がドン・パウロを家臣に迎えたと記し、これを最後に志賀親次にかんする消息が途絶える。


■1590年(天正18)
史料=【1590年10月12日付、長崎発信、ルイス・フロイスのイエズス会総長宛、1590年度日本年報
 ヴァリニャーノ巡察使一行が長崎に到着し、ドン・パウロ夫人が使者をして手紙を届ける
 …巡察使が長崎到着した翌日には、大村からドン・サンチョ(嘉前)が、兄弟、親戚、家人を率つれて彼らの到着を祝福した。やがて次の日ともなると、有馬の国主ドン・プロタジオ(有馬晴信)が何人かの親戚と多くの家人とともに同じ理由ではるばる十二レグアの海路をいとわずに来訪した。…訪れる人々はこの両侯に尽きたわけではなく、十五、二十、三十レグア離れたところからでも多くの人々が来て、到着したばかりの巡察使と公子たちに対する心からの情愛を充たそうとした。…またその驚きを倍加させるようなことがあった。おびただしい数の奥方や夫人たちが、キリシタン信仰の安泰を一目見たいという大きな願望に動かされて、同じ理由で彼らすべての人々に祝辞を述べるために来訪したからである。さまざまの不都合のために自ら赴くことができなかった者たちは、そのかわりに便りや祝辞を送って来た。たとえば、良人の留守番で筑後の領国を離れることができなかったドナ・マセンシア夫人は、三十レグアの距離をいとわず、男女の付添人をつけて、乳母のカタリナを送ってよこした。(豊後の前)国主フランシスコの妻ドナ・ジュリア夫人の場合も同じである。その息女とドン・パウロ志賀殿の妻はいろいろの不都合が生じて、直接に赴き巡察使に祝辞を述べたいという彼女らの願いを充たすことができなかったので、人を遣って、手紙を届けてもくれた(註)。(第Ⅰ期第一巻142143頁)

  ※…フロイスは『日本史』で、その他「また大勢の豊後のキリシタンが(巡察)師を(下にまで)訪れた」と記している。(同書豊後篇Ⅲ336頁)

巡察使来日により秀吉のキリシタン迫害政策が抑制され、ドン・パウロが仲介する…
 …国主(大友義統)は都に赴いて、このたびの巡察使の到着をもって関白殿(秀吉)は司祭たちを追放地から呼び戻すことになるであろうとの噂と風聞に(その政庁で)接した…そこですぐさま豊後に帰って(キリシタン)宗門にふりかかったことに対して償いをするために、とるべき方策について協議し始めた。…そして彼はそのためにとるべき手段について側近の幾人か―彼らがキリシタンであることは百も承知の上で―と相談したところ、彼らの説くところは、イエズス会員たちを彼の国に呼び戻させてみてはとのことで、もしドン・パウロ(志賀親次)を仲介者にすれば、このことは容易に成就されるであろう。彼はその点で望みうることを実現してくれるであろう(とも付言した)。国主はただちに、この用件についてドン・パウロと相談することを側近者の一人に命じた。結局ドン・パウロは事を(※既述の貴人およびイエズス会副管区長を介して)次のように運んだ…
 …先の巡察使が到着する前に、豊後の国主が板東との戦さ(小田原征伐)に関白殿に随行しなければならなかったので、巡察使宛てに一通の書状をのこしておいた。そして既述の貴人に、巡察使が到着したなら、自分の名代として、この書状を携えて速やかに彼を訪ねて行き、和解の印しとしてイエズス会員を幾人か豊後のために要請するよう命じた。また彼らを手厚くもてなすであろうこと、そして関白殿の心がおさまればきっと望みのままに他の司祭を派遣してもらえるようし、必ずや彼らを格別に取り計らい、速やかに領国が以前の状態に戻るようにする旨を伝えた。その貴人は国主から託された使命を折を見て果たし(た)…(第Ⅰ期第一巻181180頁)


■1591~92年(天正19~文禄1)
史料=【1592年10月1日付、長崎発信、ルイス・フロイスのイエズス会総長宛、1591,92年度日本年報
布教もドン・パウロの城下で公然と実施される
 (この二年間に行なわれた布教…第一回の布教は巡察使の命令によって山口キリシタンを訪れさせた一人の司祭と一人の修道士によって…)、第二回の布教は、同様の巡察使から豊後へ派遣された二人の司祭と二人の日本人修道士によって行なわれた。非常に多くの男女が告白のため、あるいは司祭たちを訪れて集まった。それゆえ司祭たちが当地に滞在した一ヶ年は不断の喜びであった。(第Ⅰ期第一巻304頁)

史料=【フロイス『日本史』第三部29章(松田・川崎監訳―西九州篇Ⅳ第101章)
 〈豊後の布教〉 第二回の布教は豊後に対して行なわれた。巡察使は室(むろ)における豊後の国王(大友義統)との約束に基づいて、また同国主があらためて豊後から、我らの同僚たちとまったく和解したから二人の司祭を寄こしてもらいたいと懇願して来たので、二人の司祭と二人の日本人修道士がかの地に派遣された。
 その司祭と修道士たちは、国衆であり、豊後の重立った殿であるドン・パウロ(志賀親次)に会いに行った。彼の改宗、およいその他のことについてはすでに述べた。殿は奥方のマグダレナ、およびその他のキリシタンたちとともに、司祭たちがふたたび豊後に帰って来たのを見てこの上もなく喜んだ。ドン・パウロは一行を城内の非常に立派な家に宿泊させ、その家を彼らの住居としてすべて明け渡し、そこにある一つの大広間を礼拝堂としてキリシタンたちの集会(場所)に当てた。
 伴天連たちが来ているとの噂が豊後のキリシタンたちの間に弘まると、各地から司祭たちを訪ね告白に来る男女の人出はおびただしく、(司祭たちが)一年間引き続き滞在した間には、まるで聖週間におけるような聴罪の仕事が展開された。そこでどんなに大きい聖かが挙げられたか、また(すでに)豊後(における)迫害によって信仰を教化されていたキリシタン全員がふたたびどんなに強く勇気づけられたかは言い表し得ないほどである。また(信仰に)弱かった者は立ち上がり、大勢の人々が新たに改宗した。司祭たちの見解によれば、この(豊後の)国は、関白が亡くなれば、国を挙げてことごとく短期間にキリシタンになることが間違いない(と思える)ほど準備されていた。しかるに関白が名護屋に来たし、また豊後の国主(大友義統)やドン・パウロ(志賀親次)およびその他のキリシタンの殿たちが朝鮮に行ったので、司祭たちはしばらくの間は、ふたたび長崎で潜伏せねばなるまいと思った。(フロイス『日本史』西九州編Ⅳ139141頁)

 ・文禄1年(1592)、文禄の役(朝鮮征伐)に大友義統、志賀親次、佐伯惟定、吉弘統幸ら出陣。
 ・文禄2年(159351日、大友氏、戦線離脱の廉で領国豊後を改易される。


■1593年(文禄2)
史料=【フロイス『日本史』第三部39章(松田・川崎監訳―豊後篇Ⅲ第80章)
大友氏改易に伴う豊後国の破壊、奥方ら毛利の領地に逃避する
 豊後の国に関しては、その惨憺たる貧困と破壊のほかに述べることとてなく、その惨状については、イエルザレムの破壊について歌ったエレミアの哀歌にならって一連の悲嘆を詠ずることができるであろう。…
 (領国没収という)この悲しく不運な報告が(豊後の)国にもたらされると、時を同じくして、(老)関白がこの不仕合わせな国を接収するために遣わした奉行や兵士たちがすでにその途上にあった。(この時に)豊後の国を掩った深い悲嘆、災難、惨憺たる光景は筆舌に絶するであろう。なぜならば、日本の習慣に従えば、このように君侯や領主がその所有地や領国から追われると、その領国のあらゆる名誉や高貴さを形成していた彼の一族郎党、(部下の)兵士の総員が(主君同様に)放逐されるからである。それのみか、(新たに)領土の引き渡しを受けに来る連中は、見つけ次第にことごとく己れの物として没収してしまう。それがために(ここ豊後の)人々の間で惹起された混乱と暴動は、地獄さながらの観を呈した。人々は(老)関白の命令を受けて国を接収に来た武将や兵士が、もうすでに我が家の戸口に現れているように思い、〔唖然自失したかのように泣いたりわめき声を発したり、とりわけ良家の出である婦人たちは涙に暮れて〕腋の下に運べるだけの物を素早く集め、生を享けた(母)国から逃げのびるべく我が家を出るのが精一杯であった。(それまで)大勢の者にかしずかれ、敬われていたそれら婦人たちは、今やいずこに行き、いずこに救いを求めてよいかも判らず、彼女たちには、自分たちは新たに豊後に入って来る連中にやがて殺されるか捕虜にされるように思われた。大小の街路でこれらの婦人たちが出会う時には、ただ涙だけが、その身の不運を示す言葉となって語るのであった。ある者は泣き叫ぶ幼児を抱いており、他の婦人たちは小さな子供にしがみつかれ、召使いが親戚の者たちといっしょに徒歩で逃げていた。とりわけこの光景を嘆かわしくかつ絶望的にしたのは、折から国中のあらゆる殿や重立った貴人が、その兵士の大部分を率いて朝鮮を征服すべく出陣していた時に起こった(という事情であった)。そうしたわけで、これら大多数の貴婦人たちは、それぞれ(の夫から)取り残されており、このような機会に、彼女らはその常として、一方では恐怖に襲われながら、他方では羞恥心と女性らしい貞淑さを失わず、(ここに、この時に豊後)国中に生じた彼女たちの苦難なり悲嘆を如実に描写することは、とうていできることではない。それは(前)国主の奥方、すなわち(今は亡き)善良な国主フランシスコの奥方であったジュリア、それに林殿の妻となっている(国主の)娘コインタ(まで)が、ごく少数の家来に伴われ、他のいかなる人間的な援助もなきままに、急遽この国を離れ、小舟に乗ってこの折でなければ敵(にちがいない)毛利の国へ旅立ったことを述べるだけで十分であろう。その他の婦人たちも、いずれも同じような道をたどって行った。彼女たちの中には志賀ドン・パウロ殿の夫人マグダレナもいた。彼女は持ち運ぶことができた荷物や、家にあった日用品すら携えることなく、(それまで)住んでいた城から出て行った。
 (そして)まもなく(老)関白の武将たちが多数の兵を率い、大いなる傲慢さと非道な仕打ちをもって、(豊後の)国と市と家々にある全財産を接収すべくやって来た。(老関白の)奉行たちは、その思いのままに土地を分配した。このようにして豊後のあらゆる殿たちは、貴人とか身分のある家臣とともに追放され、その領国と財産を失った(註)。彼らは日本の諸国へ、追放された者、迫害され(ても仕方のない)他所者として(新たな)運命を開拓すべく立ち去って行った。(かつては)富裕な領主であった者が、今は家来も持たず、伴侶もなく、乞食同然の旅を強いられた。彼らの苦悩は(人々に)深い同情の念を催させたが、豊後におけるもっとも主要な殿でありキリシタン武将の頭である志賀ドン・パウロ殿の身の上は、とりわけ深く悲しまずにはいられなかった。疑いもなく、そのことは日本キリシタン宗門が従来体験した最大の損失であった。…(フロイス『日本史』豊後篇Ⅲ339343頁)

  ※…秀吉は、文禄2年閏913日、(1593115日)、豊後四十二万石を諸将に頒ち、大野郡五万三千二百石余を太田政之に、直入郡三万二千九百八拾石余を熊谷一直に、大分郡五万七千九百二十九石を早川長政に、海部郡四万四千八百石の内二万八千石を垣見直正に与え、その他は蔵入分として宮部継潤をして管理せしめた(「史料総覧」十三ノ三四頁)(フロイス『日本史』豊後篇Ⅲ345頁、註15

朝鮮役から帰還したドン・パウロ、妻を連れ戻し…
 志賀ドン・パウロ殿は(既述のような)報せに接すると、豊後の他の多くの貴人たちとともに妻子を連れ(戻し)に行こうとして朝鮮(の戦場)から帰って来た(註1)。そして(ドン・パウロは妻の)マグダレナを毛利の地から連れ戻した(註2)。その後彼は何らかの助けが得られないものかと、都へ(老)関白に伺いを立てに行った。(老)関白殿は(今や)豊後(の国を自ら)確保する考えであるから、(ドン・パウロが)元どおり領主に収まることは不可能と思われるものの、(かつて)(老)関白が下(しも=九州)に来た時に彼はつねに忠実に奉仕したし、薩摩(勢が豊後に進入した時には、彼ら)と善戦し、このたびの朝鮮における戦でも同じような(武勲を)立てたので、(我らは)彼が、他の地において(老関白から)封禄が与えられるのではないかと期待している。だが(なにぶんにも)彼が上洛してまだ間もないことだから、そこでどのようなことが起こったかを知り得ない(のが現状である)。(343344頁)

  ※註1…志賀親次が帰国したのは、大友氏の改易処分に伴うものであった。文禄の役はその後、内藤ジョアンが明国へ講和交渉に赴くことになって休戦状態となり、秀吉は1593915日(文禄2820日)、諸将の適宜帰国を言い渡した。
 ※註2…『グスマン・東方伝道史・下巻』(1945.養徳社刊)によると、「ドン・パウロはその妻子を山口国から連れ出し、ドン・アグスチン(小西行長)と朝鮮征伐に出陣する前の約束通りに、彼の封土なる肥後に移した。」(同著611頁)。

■1596年(慶長1)
史料=【1596年12月13日付、長崎発信、ルイス・フロイスの1596年度年報
 昨年司祭一名が修道士一名といっしょに豊後の国へ派遣された。…本年(一五)九六年には、司祭二名が同じく二名の修道士とともにその地へ派遣された。…

日田の領主・毛利高政が宣教師を呼び、ドン・パウロと交流、改宗を図る
 太閤(秀吉)は豊後の国主(大友義統・吉統)を追放し、日本国の最果ての地へ遠ざけて、自らが領国を領有して、その領国の年間の禄を(織田)信長時代でのかつての仲間であった森勘八(毛利高政)という貴人に与えた。ところで豊後には二つの地があり、その一は日田と呼ばれ、そこにはその領国全体の中でもっとも勇敢な兵士たちが常に常住していた。もう一つは玖珠と言われた(地)である。彼は第一の地の絶対的な領主としており、自分の名でその地から収益を受け取った。(しかし)第二(の地=玖珠)では(単に)太閤の代理人であるに留まった。
 国主フランシスコ(大友宗麟)は日田の地へは、その生涯の全期間にわたってキリシタン宗門を導き容れることはできなかったので、その地全体の中にはキリシタンは一人もいなかった。…
 彼(毛利高政)はまだ若い時に大坂でキリシタンになってから、すでに十二年たっていた。彼は武士として出陣していたのでデウスの認識はほとんど留めていなかった。しかし彼は特別な理解力をもっていたので、以前に聞いた教理の講話を非常に心に留めており、それらをあたかも説教者の務めを果たしているかのように繰り返して言っていた。そして私は、十年前に下関で彼がその一部を大いなる権威と熱意をもって離しているのを聞いて非常に驚嘆したことがある。この男は性格が火のようであると思われる。なぜなら彼は一度知識を頭に入れると、それをすべて(そのまま)伝えるからである。彼は二名の司祭が豊後に滞在しているのを知ると、その中の一名を自分の所へ派遣してもらえばデウスのより大いなる光栄になるであろうと使者を遣わして頼んだ。彼は司祭が来ると非常に喜んで歓迎し、自らその栄誉ある小姓たちとともにミサを献げるための祭壇を作り、それからただちに司祭に米二十俵と、その他司祭館のために必要なものを送った。
 豊後の国王(大友義統)のかの不運の際の追放処分を受けたドン・パウロ(志賀親次)は、日田に近い地で二千俵の禄を受けていたが、先の高貴な殿(高政)の特別な友人であったので、六千歩隔たった所にいる彼を呼んで(イエズス)会の司祭が一人の修道士とともに訪れていることを知らせ、そして彼(志賀親次)はこう言った。自分は司祭に対して罪の告白をしたいと望んでおり、また己が家臣たちに対しては少しずつ福音の説教を聞いてキリシタンになるよう勧め、また教会を建てることをも考えていると。彼は仲間の数名の貴人たちといっしょに教理の説教を聞きはじめ、そして疑問の箇所を出して、それらの解答によって大いに満足した。彼は熱心な人であったので、修道士の説教に際しては援助の手を差しのべた。また彼は自分の家臣たちに対してこう言っていた。すべての神や仏は地獄にいて、そこから自分を解放することができぬのであれば、他の人々を自由にすることはなおさらできない、と。
 彼(志賀親次)は夕方には二、三十名の貴人たちと訪ねて来て、デウスの言葉を聞いて疑問をだすよう勧めたが、彼にとっては、このようなことができることより楽しいことは何もなかった。彼はその間は彼らのもとを去らず、彼らといっしょに夜半過ぎまで説教を聞き、若者たちに対してこう言った。「彼らの改宗によって自分もまた利益に与っている」と。そして彼は言った。「なぜなら私は、キリシタンの法が基づいている平易で明白な諸道理を理解しない人々があるとすれば、それ事態が狭量の精神と判断の人である徴しだからである」と。さらに彼はこう付言した。「福音の法が自分の気持ちに合ってもキリシタンにはならぬ人々は、自分の意見によると、その改宗を引き延ばしているのは、他の人々の禄をより勝手に掠めるためにほかならない」と。最後に彼は、己がすべての家臣たちに対してこう示した。「もし自分の禄によって生活を受けることを望む者は、以後は妻は一人にすることで満足すべきであり、この点では己が模範をまねるがよい」と。
 日田のこの司祭は次のように言った。自分はこの殿〔彼についてはすでに話した(すなわち毛利高政)〕ほど、大きな愛情と好意の徴しを司祭たちに対して示したキリシタンをこれまでには知らなかったし、また自分の地区のすべての人々をキリストの教会へ導こうと、これほど大きな熱望を抱いていた人を知らぬと。さらに彼については次のように言われている。彼は非常に乱暴であったので、一同は彼の並々ならぬ温和、親切、愛相よさに対して驚嘆している。それゆえ領民たちは絶えず彼から受ける利益のゆえに、殿としてではなく父親のように彼を慕っていると。彼はその熱心さによって、間もなく教会を建てようと望んだ。(第Ⅰ期第二巻139142頁)


■1600年(慶長10)
史料=【1601年2月25日付、長崎発信ヴァレンティン・カルヴァーリュのイエズス会総長宛、1600年度年報補遺
ドン・パウロ親次、福島殿の家臣となる
 内府様は(イエズス)会員とも、また他のキリシタンたちとも親しい福島正則に対して、毛利(輝元)殿の所領であった中から二カ国を与えた。…福島殿は内府様から己れに対して領国が与えられたことを知ると、すぐに豊後の古くからのキリシタンの貴人である入江左近とドン・パウロ(志賀親次)を己が家臣たちの数に入れることを望んだ。(第Ⅰ期第三巻338頁)

  ※『大友志賀之系図』は、志賀親次について、「文禄元年、太閤朝鮮征伐之砌、属干大友家而朝鮮渡海。大友家没落之節牢人。文禄之末奉仕太閤。豊後日田郡大井庄千国余領知。其後有故。奉仕福島左衛門大夫正則公。慶長六年。安芸・備後両国之内ニ而領知ヲ賜ル」とある。(フロイス『日本史』豊後篇Ⅲ346頁、註16


 これを最後にイエズス会のドン・パウロ志賀親次にかんする記録は途絶える。

 (おわり) 

2019年6月18日火曜日

宣教師文書にみるドン・パウロ志賀親次とその一族④

編者解説④
 1586年から87年、88年にかけて豊後国は大きな危機を迎える。島津軍の侵攻(豊薩合戦)、太閤秀吉軍の九州征伐に伴う仙石氏ら他国軍勢の進入、豊後国の支柱であったフランシスコ大友宗麟の死去である。嫡子義統(吉統)の家督により国のかたちは一応維持されたものの、キリシタン宗をめぐる内部分裂は秀吉のバテレン追放令が後押しとなってさらに激化の一途をたどり、次第に崩壊を余儀なくされていった。
 その中で、奮然として島津と戦い、戦後も弱体化していく主家・大友家を武士道精神で支えるなど、ひときわ光彩を放ったのがドン・パウロ志賀親次であった。キリシタンゆえに日本史では軽んじられ、忘れ去られた人物ではあるが、宗麟亡き後の豊後国を代表する武将であったことは、宣教師が書き残した多くの文書で確認することができる。「1589年10月7日付同年度年報」にある次の記録―大友義統(吉統)の嫡子義乗が都においてはじめて関白秀吉を訪問したとき、秀吉が大友家老中で最年長者でもあった田原親賢を差し置いてドン・パウロ親次を先に登殿させ、一同の面前で彼の武勲をたたえ、「(豊後国主の)嫡子に随伴してきた他の者たちには一瞥だにくれなかった」というのは、その証明であろう。
 戦いにおける勲功により秀吉は親次を賞讃したことではあったが、ことキリシタン宗となると話はちがう。ことあるごとにキリシタン武将らを退けた。また、秀吉の九州征討軍として九州に入ったキリシタン武将・黒田官兵衛の勧めもあって、大友義統、ドン・パウロの祖父・志賀道輝(親守)も一時的にはキリシタンとなったとされるが(「1588年2月20日付フロイス書簡・年報」)、それは形式的なもの。彼らはすぐにキリシタンを棄て、「神仏への誓約書(起請文)」を突きつけて棄教を迫るなど、キリシタンへの弾圧を繰り返した(「1589年2月24日付コエリユ師の年報」)。これに対してドン・パウロ親次は、秀吉にも、国主義統にも敢然と道理の正当性を訴え、ひるむところがなかった(「1589年10月7日付コエリユ師の年報」)。
 キリシタン信仰をあくまで貫いた―このような親次と、歩みを共にする人々は他にもいた。ガスパル・コエリユ師は「1589年2月12日付年報」で、「死んでもキリシタン信仰をとる」と主張する面々として、宗麟の長女ジュスタとその夫・清田鎮忠、ドン・パウロの伯叔父・林ゴンサロ殿(志賀宗頓)とその妻コインタ。宗麟の未亡人ジュリアとその家族、宗麟の娘レジイナ(のち伊東義賢に嫁ぐ)とその一族らを上げている。
 ドン・パウロ親次のキリシタン信仰に基づく武勲として、フロイスはまた「1588年2月20日付書簡・年報」で、島津戦における出来事を特記している。一万田城に籠城していた敵兵の中に天草のキリシタン領主ドン・ジョアン殿(天草久種)を認め、他の天草衆とともに助命したことである。それはキリストの言葉「汝の敵を愛せよ」による行為であったのか、互いに殺し合うことなく争いを終結させたのみならず、後日、天草衆の改宗にもつながったことであり、世界のキリスト教史にのこる逸話であったと思われる。

 島津軍の侵攻と秀吉のバテレン追放令発布に伴い、この時期、豊後の宣教施設はことごとく破壊され、司祭、修道士、神学生らのほとんどは山口を経て平戸、高来(たかき=島原半島)に避難した。それは、身の危険を冒してイエズス会の宣教活動を擁護した有馬城主ドン・ジョアン有馬晴信の武士道的キリシタン信仰に拠るものであったが、豊後国において同様の役割を果たしたのがドン・パウロ志賀親次であった。彼(親次)は、「大いに危険を招来するものだが、拙者はバテレン方をわが領内に匿う」と宣言し、その通りに実践した(「1589年2月24日付コエリユ師の年報」)。
 それゆえ、宣教師らはこぞって「確かにドン・パウロとその奥方(マグダレナ)のキリスト教的精神は大いに賞讃に値する」と言ったが、キリシタン侍(サムライ)としての彼の生き様は、しかし異邦人の国では歓迎されることはなかった。


■1586年(天正14)
史料=【1586年10月2日付、臼杵発信、ペロ・ゴーメスのアレシャンドロ(・ヴァリニャーノ)宛書簡
志賀殿(親次)はキリシタンになったもっとも大物の一人
 …このようにして徐々に当豊後の改宗が進み、昨(一五)八五年は一万二千名が改宗したと私は推定しており、今年八六年は三千(註・三万の誤記か)を超え、戦さが終われば六万以上又は七万人が改宗するのを妨げるものはない。というのは尊師御存知のとおり、志賀殿(親次)は国衆で豊後の大官の一人であり、キリシタンとなった者の中でもっとも大物のひとりで、名をドン・パウロと称し、その支配下に四万人以上の人がおり、この人々が皆キリシタンになろうとしているのは問題ない。…(第Ⅲ期第七巻153頁)

ドン・パウロの兄弟が清田鎮忠家の養子になる
 清田は、御寮人(宗麟の長女ジュスタ)とその夫清田殿(鎮忠)がキリシタンで、その領地をすべてキリシタンにしたので、今日全員がキリシタンである。彼らには(男)子がなかったので、ドン・パウロ(志賀親次)の兄弟を養子にし、ドン・パウロが邪魔の入らない内に同人に洗礼を受けさせ、その名をドン・ペドロとした。そこで我らはドン・パウロとドン・ペドロの二人の兄弟の豊後の国衆を持っている。…(第Ⅲ期第七巻155頁)


■1587~88年(天正15~16)
史料=〔1588年2月20日付、有馬発信、ルイス・フロイスのイエズス会総長宛の書簡(1587年度日本年報)
島津軍が豊後国に侵攻・破壊、ドン・パウロ志賀が奮起活躍する
 敵(島津軍)は豊後に入った時、志賀ドン・パウロ殿〔同国の主要な国衆の一人〕以外に抵抗する者を見出せなかった。彼は二十二歳を少し超えた青年であり、三、四年前(※1585年)、我らの主のすばらしい呼びかけでこの地のキリシタンとなった。この殿はキリシタンとして強力に豊後側につき、その証拠を自ら示した。というのは、彼の父、および叔父は、近隣の殿たちといっしょに薩摩側についたので、彼も突然四方より囲まれ、その窮状を嫡子(大友義統)に知らせて助勢を求めたが、嫡子は助力できないと答えたので、全力をもって豊後の各地を支える決心をして多大の努力と思慮を示した。最初は巧みな言葉で敵を引き留め、あたかも彼らと協定して彼らの味方になるような振りをし、この間自分の兵と若干の食料を集め、好機が到来すると突然親類の近隣の殿を打って出〔この者は豊後に背いていた〕、彼の多量の食料を貯えた城を占拠した。そしてそれを自分の城に取り込んだので薩摩やその他の敵に対抗することが広く明らかになった。これが豊後のすべてが失われてしまった訳ではない大きく主要な部分である。というのは、薩摩の兵はすべての地方で前進が保証されている訳ではなくなり、自分たち自身背後をつかれないよう恐れるようになり、これが(島津)中務が兵を留め、豊後に叛いた幾人かの殿といっしょに、その兵力の一部だけを豊後の奥深く入った理由の一つである。これらの人々は陸路を進み、破壊や殺戮を行ない、多くの人を捕虜とした。そしてその地から臼杵に至るまではキリシタン宗団も数多く、幾つかの教会もあり、彼らが行なった破壊は涙なくして語れない。多くのキリシタン武士や貴人を殺しただけでなく、その妻子のかなりの部分を捕虜にし、その地方のすべてが、ひどく荒らされ破壊された。(第期第七巻170頁)
 …この間、薩摩の兵は、豊後の国の破壊を中断することなく、(島津)中務は進入して来た道の確保を終えた後、ドン・パウロを除いた南郡(なんぐん)のすべての殿を味方にして、嫡子(大友義統)と仙石のいた府内に向かって兵とともに進軍したが、そこの抵抗のための準備は不十分であった。…(第Ⅲ期第七巻175頁)

小寺(黒田)官兵衛が着陣し改宗に尽力、志賀道輝も受洗する
 豊後、および豊前でこのようなことが起きている間、関白殿(秀吉)が送った軍勢が到着し始めた。最初に関白殿の養女と結婚した三カ国の領主八郎殿(宇喜多秀家)が多数の兵をつれて到着し、少し遅れて関白殿の弟美濃殿(羽柴秀長)が大将として最大の軍勢を連れて来た。彼は豊後で生じたことを聴き、薩摩の兵を豊後から追い払うため、小寺官兵衛殿が先陣となることを決定した。〔豊後の嫡子(大友義統)は、この人といっしょに国に帰れることを大いに満足していた〕。小寺はこの良い機会を逃すまいと、嫡子にキリシタンになって自分自身と父である国主(大友宗麟)を満足させてはどうかと勧め始めた。両人(小寺と義統)が豊前に来て、嫡子(義統)は教理の説教を(ジョアン・デ・トルレス修道士から)もう一度すべて聴いたので小寺は大いに喜んだ。嫡子は、当時彼といっしょにいた多くの武士や殿たちと共に、ペロ・ゴーメス師から洗礼を受けた(洗礼名は義統がコンスタンチイノ、のちに受洗した夫人がジュスタ)。嫡子はキリシタンになって帰って来、官兵衛のような熱心な武将がついて来たので、短期間に豊後その他の老中、国衆、殿たちは皆キリシタンになった。ドン・パウロ(志賀親次)の祖父で国主の顧問であった老志賀(道輝)殿はもっとも激しい敵対者で、いつも我らに反対していたが、この人でさえそうであった(註)。(第期第七巻178179頁)

 ※…志賀道輝の受洗について、ルイス・フロイスは『日本史』で次のように述べている。「豊後国の為政である老中たちも皆受洗した。すなわち宗像殿がその長男と、本庄殿が長男の息子と、臼杵殿がその長男と、および(志賀)道輝とドウレキがそれぞれ長男とともに洗礼を受けた。」(『日本史』豊後篇Ⅲ234頁)。ただし、この後秀吉が伴天連追放令を出し、大友義統もキリシタン迫害に転じる。志賀道輝も翌1588年、大友義統のキリシタン弾圧政策に加担し、ドン・パウロ親次にふたたび棄教を迫っているので、ホンモノではなかった。

敵将ドン・ジョアン天草らを助命したドン・パウロ志賀親次の義挙
 ここではすべてが失われてしまったと思われたが、今は従来に亡いような収穫を収めている。すべての国衆、および王国の殿たちの間で、もっとも名誉を高めたのは志賀ドン・パウロ殿である。というのは、彼はすべての敵に対し、嫡子のためもっとも強力に戦い、嫡子を信頼し、その後、彼の周辺の反乱を起こした殿たちの多くの領地を征服して以前にも増して強力となり、嫡子の寵愛を得、この戦役で名をあげ名声を博したからである。この戦さの間、彼に生じた別のことの一つに、キリシタン宗団のために大きな収穫をあげたことがある。彼が、豊後に叛いた一人である一万田殿の城を包囲していた時、その城中の薩摩側に、当時は薩摩に従っていた天草の島々の五人の領主の殿が立て籠もっていた。この中に天草の領主ドン・ジョアン(天草久種)がいた〔最も主要で良きキリシタンであり、前の書簡で述べた通り、自分の身とその領地を危険に曝してまでこれを証明した〕。ドン・パウロ(志賀親次)は城を締め上げ、小寺はすでに豊後に入り、薩摩の兵には逃げられてしまい、包囲された側はどうしようもなかった。ドン・パウロは、城の中に天草のドン・ジョアンがいることを知って、部下の全員と共に安全に彼の所へ来るようにと伝言させた。というのはキリシタンなので助けてあげたい。そうすればその直後城に攻め入り、その他の城中のものを殺すことにすると。ドン・ジョアンは、これに対し感謝の言葉を伝えさせると共に、「そのような慈悲を示してくれるのであれば、彼の名誉を守ってほしい。同僚を置き去りにして、自分の生命だけ助けてもらい彼らが殺されるのを放って置くのであれば、彼にとって最大の不名誉となろう。慈悲をかけて下さるお気持ちがあらば全員の命を与えて頂きたい。そうすれば城を明け渡すであろう」と伝えて来た。ドン・パウロは、この願いを名誉ある良いものと認め、彼の願いをかなえてやり、ドン・ジョアンに対する愛から全員を許し招待して大いにもてなした。ジョアンと彼の兄弟のバルトロメウには様々な物を与え、肥後の安全な所まで連れて行ったが、これに対し他の殿たちもドン・ジョアン同様深く感謝し、後に彼らの中の一人大矢野(種基)殿は家臣と共にキリシタンになり、他の人々も改宗することが大いに期待できる。(第Ⅲ期第七巻180181頁)

大矢野殿も改宗に至る
 …既述の天草のドン・ジョアンの信仰のお陰で、志賀ドン・パウロ殿に生命と自由を与えられた五人の殿のうちの一人は、キリシタンの間の親愛と団結を見て満足して帰り、またドン・パウロがドン・ジョアン〔その戦させは敵であった〕を許したのみならず、その信仰により他の殿たちをも許したことを見て、キリシタンの掟に何があるのか知ろうと決心した。自国に帰り、関白殿の迫害を聞いたが、驚かなかっただけでなく、その嵐の最中に副管区長師に書状を認めて誰か説教師を送ってくれるよう頼んだ。説教師がその土地に行き、我らの聖教の教えを説教すると、大きな理解力を示し、キリシタンになる決心をして、このことを両親や家臣と話し、かれらをも動かして皆が同じようにキリシタンとなることになった。このようにして火が付き、家臣一同〔三千人を超える〕がキリシタンとなった。この殿は大矢野(種基)殿ジャコメといい、天草の領主ドン・ジョアンの従兄弟である。我らは他の三人の殿も、近いうちキリシタンになることを期待しているが、もしそうなれば、天草の島々のキリシタン宗団は極めて大きいものとなろう。司祭たちがその殿に、関白殿がこのように大きい迫害をキリシタンや司祭たちに対して起こしている時に家臣と共にキリシタンになってどうする気かと言ったところ、その殿はキリシタンの間の愛が彼の命を救った。もし日本の掟によれば、またもしドン・パウロが異教徒であったなら、彼らは全員殺されていたであろう。というのも、彼の手中にあったからである。彼がキリシタンだから、生命を与えられた。その生命を使う方法としては〔デウスとドン・パウロに感謝するため〕同じくキリシタンになるより良い方法があろうか。またすべての地方で盛んである時よりも、今の時〔キリシタンが盛んに迫害されている〕にキリシタンになる方が、他の目的ではなく霊魂の救済のために動かされていると理解してもらえるので喜ばしいと言った。その後、関白殿の命令に反し〔このように新しいキリシタンであるにもかかわらず〕幾人かの司祭がその土地に残るよう希望し、副管区長師がこれを承諾した。(第Ⅲ期第七巻233頁)

…戦場で敵将らの命を助けたドン・パウロ志賀親次のキリシタン信仰に基づく好意は、天草の改宗に大きな影響を及ぼした。解放された五人衆は自領に戻り、先ず大矢野種基が(上記のように)その年のうちに洗礼を受け、ドン・ジャコウベを名乗った。翌年に栖本鎮通・親高親子も領民とともに受洗し、鎮通はドン・バルトロメウ、息子親高はドン・ジョアンの洗礼名を授かった。

 6月28日(天正15523日)、豊後国主フランシスコ大友宗麟死去。
 7月24日(天正15619日)、関白殿(秀吉)がバテレン追放令を発布。

バテレン追放令後も、かまわず象牙の大きなコンタツを首に掛けて…
 豊後の国衆志賀ドン・パウロ殿は、常に迷いのないキリシタン宗団の保護者で…当時、豊後は戦さの最中で多くの苦労があったが、彼の領内では洗礼を受けた霊魂が八千以上、さらに三万が洗礼を受けようとしている。関白殿(秀吉)の兄弟で、全軍の司令官の美濃(秀長)殿が、関白殿と共に都に帰るため豊後を通過した時、関白殿がすでにキリシタン宗団に対し大きな迫害を発動師、キリシタンが十字架やコンタツを持ち歩くのを禁止していたが、ドン・パウロ殿は美濃殿を訪問する時、キリシタンと判るどのような印も持っていないと隠すこともできたが、そうすることは臆病であると考え、象牙の大きなコンタツを首に掛けて美濃殿の前に出る危険を冒したが、すべてはうまく行き、美濃殿は彼を丁重に好意を見せて迎え、戦さでの功績に謝辞を述べた。(第Ⅲ期第七巻222頁)


■1588年(天正16)
史料=【フロイス『日本史』第二部112章(松田・川崎監訳―豊後篇Ⅲ第74章)
大友義統がドン・パウロの武勲への報酬として封禄を授けるも、のち半ばを没収する
 ドン・パウロは(去る)薩摩との戦において、豊後の誰にも優る勲功をもって嫡子(大友義統)に奉仕した。彼は大勢の部下を失い(ながらも)、(嫡子に対して)蜂起した殿たちから十二、三の城を奪取した。嫡子は常日頃、彼(※志賀親次)に対して嫉妬と悪意を抱いていたが、(自分が)キリシタンとなってからは、道理と真理の力に押され、ドン・パウロの武勲への報酬として彼に叛逆者たちの封禄と居城を授けた。ドン・パウロは嫡子(がいかなる人物であるか)を心得ており、その移り気を熟知していたので、(他日)嫡子が自分を非難するに至ることを案じて、「もし後になって没収されるようなら、今は王家いたさぬほうがよい」と言って(受領することを)断った。(これに対して)嫡子は、「他意なくゆえ、安堵して受領されよ」とふたたび命じた。
 嫡子は都に向かって出発するに際し…ドン・パウロに与えた新たな俸禄の半ばを没収するようにと(老中たちに)言い残した。(その処断に対して)ドン・パウロは、(封禄を加増されたのは)武勲が(殿によって)高く評価されたためであることを力説はしたものの、なんらこれについて助けてくれる(者は)なく、結局、その封禄の半ばを没収され巻き上げられてしまった。(前掲書281282頁)

ドン・パウロが高来に赴き、コエリユ師らを訪問する
 嫡子(大友義統)が上洛中、豊後に留まっていたドン・パウロは、義務づけられていたこととて肥後にいる暴君(秀吉)の武将たちをその地に訪れた。彼は彼らと友人関係にあった(註)。(ドン・パウロは)同所から非常に大急ぎの旅をし、船足の速い船で、それまでまだ会ったことがなかった副管区長の(コエリユ)師、ならびにその他の司祭や修道士たちを高来(タカク=島原半島)に訪問した。(司祭たち)一同は彼に会って、この上もなく喜んだ。彼はその地には一昼夜しか滞在しなかった。彼が豊後に戻ったのと時を同じくして嫡子が都から帰って来た。(前掲書283284頁)

 ※…肥後においては天正15年(15879月から一揆が勃発し、秀吉は佐々成政を援けるために小早川秀包を将として、筑後や肥前の諸将を率いて肥後に入らしめた。この一揆は翌16年初めにはすでに鎮定されたが、大友義統が上洛していた頃、肥後国主佐々成政が尼崎に幽閉されていた。天正16年(1588)2月、秀吉から、この一揆の本末糺明のために蜂須賀家政、戸田勝隆、生駒香近江、福島正則、浅野長政、加藤清正、小西行長ら重臣が派遣された。このうち志賀親次と友人関係のあったのは福島正則と考えられる。本稿「1600年」の項を参照のこと。

志賀(竹田)の城に赴き、密かに司牧した宣教師たち
 豊後の国主が都に滞在していた間に、副管区長(コエリユ)師ならびに同司祭から諮問された(他の)司祭たちには、主(なるデウスの御名)において、さらに二名の司祭と一名の日本人修道士を豊後に派遣して、貧困(な状態)で取り残されているかの地のキリシタンたちの世話に当たらせ、彼らを援助することがデウスへの優れた奉仕となるように思われた。そこでフランシスコ・パシオ師、ゴンサーロ・レベロ師、およびロマンと称する日本人修道士がかの地に向かって出発し、ドン・パウロの城に赴いた。彼らは密かに各地のキリシタンを訪れて激励し秘蹟を授けた。(前掲書284285頁)

史料=【1589224日付、日本副管区長ガスパル・コエリュのイエズス会総長宛、1588年度日本年報
義統がドン・パウロとゴンサロ夫妻に異教の神仏への誓約書で棄教を迫る
 …豊後の国に生じた大いなる破壊…我らが被ったもっとも大きな損失は我ら一同にとってもこの国にとっても模範的なキリシタンで聖なる老国主フランシスコ(大友宗麟)の逝去であった。…そこで副管区長師は、そこにいたクリストヴァン・モレイラ師に一人の修道士をつけて豊後に赴かせることを決断した。…こうして一人の司祭が一人の修道士とともに津久見に宿を得ることができた。ここは前国主のフランシスコが亡くなり、その妻ジュリアが家族とともに住んでいるところである。その他の二名はもう一人の修道士とともに豊後の重立った国衆であるドン・パウロ志賀殿の領地に避難した。彼のキリシタンとしての徳と勇気については過ぐる年報に詳述したとおりである。
 …関白殿(秀吉)は異教徒たちが慣習的に行なうような神々および諸仏への忠誠に関する誓約を豊後のすべての諸侯が立てるよう命じているのだという。…そこで国主(大友義統)はただちに次のような命令を出した。件の誓約を執り行ないたく、異教徒たちが慣習的に行なう荘厳な祝祭に豊後の貴顕諸侯はすべて府内の市に集合すべし、と。以上からただちに理解されるのだが、彼らはこのようなやり方でキリシタン宗団に対する迫害と破壊をもくろんだのである。また彼らはこの罠をとくにドン・パウロおよびその他の領主たちに対してしかけた。ドン・パウロにせよ、その他の領主たちにせよ、誓約になど決して応じないことを彼らは重々知っていた。案の定、彼らはたとえそのために死ななければならぬとしても、そのような誓約には決して応じぬことを明言した。これらの領主の大立て者はドン・パウロ殿(志賀親次)と彼の伯叔父にあたる林ゴンサロ殿(宗頓)であった。彼らに対して老中たちの悪意と嫌悪が一身にふりかかっていた。彼らは何といっても豊後のキリシタン宗団に欠くことのできない大切な二本柱であり、ドン・パウロは彼らすべてが有するよりもっと多くの知行を有するいとも偉大な領主であった。このたびの戦争で彼は大いなる名声をかち得、彼らはドン・パウロを圧倒し得なくなったものだから、さまざまな告げ口でもって国主がドン・パウロに不信感を抱くようしむけるという挙に出た。これが功を奏したか、件の誓約の折り、国主は老中たちとともにドン・パウロを殺戮するか、あるいは完全な失脚に追い込むかの決意を固めたという噂が広く行なわれた。…豊後のキリシタンたちの多くはそのような誓約に応ずるくらいならむしろ死んだ方が、さもなくば持てるもののいっさいを失った方がよいとの決意を固めていた。しかしながら、他の多くの連中はこれがために動揺し、どのキリシタンたちも一般的に大いなる苦悩を感じてやまなかった。ドン・パウロ殿は死の決意を固め、そのようなことをするくらいなら自らの知行を失った方がましであるとの覚悟を決めていた。それのみか彼の妻のマグダレナも大いなる勇気と節操をもって彼にそのようなことに応ぜぬよう説得してやまず、こう言うのだった。「御屋方様は御老中ともどもそなたを滅ぼし陥れる決意を固めておられます。たとえそなたがかような誓約をなされましても、それゆえそなたへの迫害をやめるようなことはなく、ただちにその他の口実を探すでありましょう。それゆえ、そなたにとってより良いことは、キリシタンの信仰を守るという大義名分のもと、生命もしくはお家を失うことでございます。このたび幸いにして無事でありましょうとも、他日別の機会に生命もしくはお家を失うだけのことでございます」と。
 林ゴンサロ殿もまた同じような決意を固めていた。彼の妻コインタはマグダレナに負けず節操の堅い助勢で、夫に、そのようなことに同意するくらいなら私たちはむしろ生命を棄てるべきである、と言った。親類衆や友人たちからのさまざまな説得には事欠かなかった。誓約するなど大したことではない。非常に危険にそなたたちの身を曝さぬためである。そのようなことでキリシタンをやめることにはなるまい。仮にそのような誓約によってキリシタンの法に対して何らかの過失なり罪なりを犯したとて、いとも軽微なことで、ただちに懺悔すれば済むではないかと、連中はコインタらに説得を繰り返すのであった。彼女からそれを話題にすることを許されていなかったこともあって、連中は彼女の夫たちとはしゃべり合いたくなかった。しかし連中は彼女らにさかんに議論をふきかけた。彼女らは巌のように堅固な信仰の持ち主であることを証明し、あくまでもこのような議論に抵抗した。連中は彼女らを説得できなかったばかりでなく、彼女らは自分たちの夫に勇気を与えることをやめなかった。もっとも夫たちにはそうしてもらう必要などなかったし、またさまざまなキリシタンたちが連中の言ったこととまた同じことを言っていたのである(註)。…(第Ⅰ期第一巻6165頁)
 
 …この神仏への誓約書について、イエズス会司祭らは「(同時に)公的拒絶証書を付して行なう」という折衷策を案出し、解決を図った(第Ⅰ期第一巻68頁)。

ドン・パウロ、それでも「宣教師を匿う」と宣言
 (他の一つの大きな苦難がふりかかった。―すなわち宣教師を匿っているという問題であり、それに対して国主大友義統が「決然と伴天連たちはすべて退出すべし」との命令を下した。)司祭たちは国主が申し越してきたいっさいについてドン・パウロと協議した。しかしドン・パウロはただちに申し出た。「事態はそのとおりだが、それでもよい。拙者は伴天連がたをわが領内に匿おうではないか。伴天連がたもご存知のとおり、御屋方様はすべての殿たちと同様、余に対して非常な悪意を抱いておられる。それゆえかような行為は大いなる危険を招来するものである。たとえそうであっても、拙者は伴天連がたをわが領内に匿いたい」と。(第Ⅰ期第一巻7071頁)

―「死んでも信仰をとる」と主張する豊後国の固い信仰の面々
 …豊後のキリシタン宗団は全面的にたいへんな苦悩と動揺に包まれた。弱き者、また信仰に入って間もない者として既述の(キリシタンを棄てたことの)証文の作成に応じてしまう連中は少なからずいた。そして彼らは外面的には信仰を後退させつつあるような態度を示していた。…しかしこれとは別にもっと勇気ある者、雄々しい者にも不足はなかった。このようなことをするくらいならむしろ死ぬ決意をかためている人々である。彼らはいとも自由な精神をもってこう言った。「たとえ国主が我らの処刑や追放を命じてもそのようなことは決してすまい。彼らは司祭たちに次のように書きしたためた。どうか安心して下さいますように。我らにはキリシタンの信仰に反することは絶対にせぬという堅い決意のほかなにものもございませぬ」と。彼らの中の主要人物は次の顔ぶれであった。(前)国主フランシスコの妻のジュリアとその家族、レジイナとその一族。レジイナは結婚を控えた若い身であったが、ただならぬ勇気を示した(註)。…同じように自由の精神をもって抵抗を試みたのは、ドン・パウロの伯叔父・林ゴンサロ殿と、ジュリアの娘でその妻であるコインタ、および志賀ドン・パウロ殿とその妻マグダレナ、さらにはキリシタンである彼らの家来たちである。彼らの数はすでにしたためたように八千人を超えた。同じように既述の不当な命令を承諾することを望まなかったのは、同じ国主(義統)のもう一人の姉妹である御寮人(※ジュスタ)とその夫ドン・清田殿(鎮忠)であった。今、この両人は既述の御寮人に属するある場所で貧窮に暮らしている。清田殿がかつて有していた諸領をほかならぬ国主(義統)に召し上げられたためである。(第Ⅰ期第一巻7273頁)

…レジイナについて同年報は続いて次のように述べている。「国主フランシスコの娘であるレジイナは日向の国でドン・バルトロメウ・レクロン(伊東義賢)殿と結婚している。この人物は日向の出身であり、あちら(ヨーロッパ)に行っている伊東ドン・マンショ殿の兄弟とは従兄弟の間柄であった。彼は自らの伯叔父(伊東祐兵)の養子となった。(第Ⅰ期第一巻76頁)

確かにドン・パウロ夫妻のキリスト教的精神は賞讃に値する
 今、国主(義統)は関白殿からの指令を受けているので自らの息子(大友義乗)を関白殿のもとに遣わす準備を進めている。ドン・パウロ(志賀親次)と林ゴンサロ殿(宗頓)、それに供の人々多数が彼につきそって関白殿のもとへまかり出る予定である。
今、そこにいるフランシスコ・パシオ師から受け取った一五八九年二月の一通の書簡には、いろいろなことがしたためてあるが、その中に次のような一節が見える。「毎金曜日、モレイラ師は熱情のこもった説教を行ない、これらのキリシタンたちに大いなる慰めを与えている。最初に来たのはドン・パウロ(志賀親次)であった。彼は鞭打ちの苦行を行ない、総告白を試み、都へ行く準備のために聖体を拝領した。彼の妻であるマダレイナは元気であり、カルナル(肉食を許された期間)の終わりに司祭は彼女の告白を聞きに行った。毎金曜日、司祭は一つの部屋に多くの夫人たちを集め、そこにしつらえ、一同、そこで鞭打ちの苦行を行なう。この四旬節においては彼女たちの中にきわだった熱意と犠牲の精神がみられることを我らは知っている。確かにドン・パウロとその奥方のキリスト教的精神は大いに賞讃に値する。(第期第一巻7778頁)

史料=【フロイス『日本史』第二部121章(松田・川崎監訳―豊後篇Ⅲ第75章)
ドン・パウロの女児、死亡する
 ドン・パウロは臼杵の館に六日間だけ滞在した。彼が自邸に戻ると、時を同じくして妻のマグダレナが女児を分娩した。それは彼にとって初めての子供(註)であったから、少なからず喜んだが、既述のようにその子供は洗礼を受けて幾日も経ずに死亡した。298299頁)

 ※…ドン・パウロには1585年(天正13)に生まれ病死した男児がいるので、この女児は初めての子供ではない。

ドン・パウロ、司祭を匿い、密かに訪う
 (豊後に留まっていた)司祭たちについて(言うと)、(ドン・パウロと)彼らが話し合った結果、同所にいた司祭は三名とも、屋形(義統)と折り合うために司祭と修道士全員が(豊後の国を)退出するように見せかける必要があるように思った。そこで彼らはキリシタンたちに別れを告げ、一名の司祭だけは同宿や使用人とともに巧みに(城)外に出、残りの二名の司祭と一名の修道士は、城外にあるドン・パウロの家臣の家に隠れることになった。そこはドン・パウロが用意させた(場所であった)(註)。…
 ドン・パウロと(妻の)マグダレナは司祭たちに対して、彼らが(先に)城内にいた時に倍する愛情を示し、かつ優遇し、部下の者には、自分が伴天連方を匿っていることを決して口外してはならぬ、これに反する者は死罪に処すると言い渡した。ドン・パウロは、一と月の間に自ら三度、司祭たちを訪ねて行った。そうした時には彼は、日の出よりずっと早く、鉄砲を携え、河(原)へ鳥を撃ちに行くようにして出かけ、その際、司祭たちがいる家の主人である自分の家臣の従僕を一、二名だけ連れて行った。これらの従僕は、(ドン・パウロが)外出する時には城の麓で出迎えた。(ドン・パウロが)帰城するにあたっては、どこから来たか悟られないようにするために、城の近くまで人通りのない道を選んだ。ある日曜日など、遠くから目撃した者が彼(の正体)に気付かぬようにと、彼は公道に出るまでは一人の背が高く頑丈な家臣に前方を歩かせ、自らはその後方で、その下僕を装って銃砲を担いで歩んで行った。300301頁)

  ※…フロイスは同書で続いて次のように述べている。「国主(義統)が暴君関白に対する恐怖を理由として(豊後にいた)三名の司祭全員に退去を厳命した後、司祭たちは、国内が動揺しキリシタンへの迫害がひどくなって行く間に、自分たちがいた(岡)城の主君であるドン・パウロにこの件について相談した。その結果、(司祭たち)一同には、ドン・パウロの家臣中のもっとも優れたキリシタンであり、かつもっとも信頼の置けるバレンチイノの親戚に当たるあるキリシタンの家に隠れるのがよいと思われ、前年からそこに潜伏していた。」(313頁)


■1589年(天正17)
史料=【1589年10月7日付、加津佐発信、日本副管区長のアレシャンドロ・ヴァリニャーノ宛、1589年度日本年報
関白殿(秀吉)に厚遇されたドン・パウロ、キリシタン信仰は譲らず
 …志賀ドン・パウロは豊後の国主とともに都にのぼり(註)、関白殿を訪ねる必要が生じた。彼は慎重な性格で、容易におこりうる事態を心配して、旅に出る前に告白をし聖体を拝領するとともに、武装し、身にふりかかる出来事に備えることにした。しかし要請を受け、必要とあれば、一度として信者たるを見棄て給うことのない我らが主は、宿敵に対してすらむしろ慈悲を見出すように仕向けられ、万事が幸いとなって成就するようにとりなされたのである。関白殿が彼に示した思いやりと彼への好意はかくも大きなものであったので、そのことに異を唱えようと敢えてする敵は一人もいなかった。むしろ彼の最大の宿敵(※田原親賢)は、関白殿の面前で大いに屈辱を受け、傷心の呈であった。それゆえその国主が関白殿に敬意を表するために登殿の際、ドン・パウロの敵対者には、老中〔と言われる高位〕としてドン・パウロは自分たちよりもっと後で登殿すべきであると思われた。しかし関白殿はドン・パウロの登殿をとりなし、さらに豊後の役でたてた武勲を讃えて、彼に讃詞と格別の好意を呈したのである(註)。
関白殿はその国主とともにドン・パウロが豊後に帰還してからも〔彼が逗留している間、都で言わなかったことだが〕こうしたすべての好意を示して、人を遣わし、「当面のところ、司祭は活動を停止し、またキリシタンであることをやめるように」と申しつけた。ドン・パウロは彼に答えて、「殿下は(人々は)外面的には命令に背くようなことはしていないことを十分承知のはずであり、また内心では、キリシタンであることについても殿下に対していかなる謀叛をたくらむようなことはなく、かえってそれが各自に最適と思われる救いの道と方途とに誰しも終着するという道理にも非常にかなっていることも承知されているはずであると申し述べた。したがって、この用事のために使者などを派遣されないように留意していただきたい」、と言った。彼は自らをキリシタンたらしめている多くの理由ゆえに、福音は棄てまいと固く決意していたからである。(第Ⅰ期第一巻131132頁)

…ルイス・フロイスは『日本史』で次のように記している。「豊後国主(義統)の嫡子(義乗)は暴君(秀吉)を訪問のために都に向かって旅立った。」(フロイス『日本史』松田・川崎訳8-316頁)。 「嫡子(義乗)が都においてはじめて関白(秀吉)を訪問した時に、ドン・パウロ(志賀親次)と、キリシタンの大敵である(田原)親賢は豊後国主(義統)の伯叔父であり(随員のうち)最年長者でもあったので、嫡子のすぐ後に続いて入室しようとしたところ、関白は、豊後の偉大な城将・志賀殿〔ドン・パウロのこと〕を先に入らせて親賢をその後方に廻らせた。関白は一同の面前において豊後の防衛戦におけるドン・パウロの精励と労苦を賞讃し、(豊後国主の)嫡子に随伴して来た他の者たちには一瞥だにくれなかった。暴君(関白秀吉)は、かの若者(嫡子義乗)を淀城に招待した時に、ドン・パウロだけに彼らとともに食事することを許し、その間、他の人々は関白の家臣に混じって外に留め置かれた。」(前掲書326頁)。

(つづく)

2019年6月17日月曜日

宣教師文書にみるドン・パウロ志賀親次とその一族③

編者解説③
 志賀親次の受洗とこれに係る諸事件は、長崎にいるルイス・フロイスのもとに豊後国の複数の司祭から届けられたようだ。同年「11月13日付」でフロイスが長崎から発信した報告には、親次の洗礼式を担当したペロ・ゴーメス師、臼杵修練院から志賀(竹田)に赴いて布教したペロ・ラモン師らの書簡が引用され、フロイス自身がその他の司祭から送られた書簡をもとに志賀領内でも出来事を補足追記している。その中で、親次の祖父・道輝(志賀親守)にかんする記事は興味深い。
 彼(道輝)は「デウスの教えの大いなる敵であり、そのため国主フランシスコ(大友宗麟)に嫌われ、この国の岬(端)にある宇目の砦に追放され」ていた(「1585年8月20日付フロイス書簡」)。それは同時に、国境の「防衛として(宇目の)城に配置した」ことでもあった(「11月13日付フロイス書簡」)。ところが、「薩摩の国主の弟が大軍を率いて」来るとの報せに道輝は、「多大な恐怖にとりつかれ…、逃げ出し(た)」と言うのだ。
 このような祖父の武士にあるまじき「臆病」な行為とは裏腹に、ドン・パウロ親次は自ら三~四千の家臣団を集め、宇目の砦に布陣し、島津軍に立ち向かう。
 一方、父・親度(親教・道易)はこの時、どうしたのか。宣教師も把握していないが、ひと言「世捨て人のドン・パウロの父」と記している(「8月20日付フロイス書簡」)。彼(親度)は、日本史が伝えるところによると、二年後の1587年、「罪あって島津に味方し、(大友)義統によって殺害された」。志賀家の複雑な事情が浮かび上がってくる。

 ここで親次の年齢(生年)についてふれておきたい。
 ガスパル・コエリユが親次をはじめて取り上げた「1582年2月15日付書簡」では、親次の年齢は「十五、六歳」であった。フロイスは複数の書簡で、親次がキリスト教に関心を寄せたのはそれより数年前の「十二、三歳」の頃であり、受洗した1585年まで「七年間」が過ぎた、としている。一方、親次に洗礼を授けたペロ・ゴーメス師は「1585年」、親次は「十九歳」であったと明記している(同年11月8日付書簡)。また、追ってフロイスは「1588年2月20日付書簡」の記事で、「二十二歳を少し越えた青年」と記している。これら複数の史料を整理すると、親次の生年は1566年(の1月末~2月はじめ)となるであろう。


1585年(天正14)8月~11月
史料=【1585年11月13日付、長崎発信、ルイス・フロイスのイエズス会総長宛書簡
1585年8月8日付、府内学院発信、ペロ・ゴーメス師の書簡
大友義統がキリシタン改宗を妨害する
 …前に書簡では、順風に帆を受けて、ドン・パウロの地で改宗が進んだことを認めた三千人を下らない彼の家臣がすでに洗礼を受けたであろうと考える。風が変わって船首から吹き、音もなく改宗が止んだ。そして洗礼も鎮まった。というのは国主(フランシスコ大友宗麟)の嫡子(大友義統)が、その事業を無理矢理止めさせたので、この予の用心深い者は、彼らの言い方をすれば、ドン・パウロはキリシタンになったため家を失うであろうとのことである。
 しかし原因は嫡子の方が、そんなことはしないと約束したのを破ったことである。主よ、聖なる御業を下されんことを。嫡子と、豊後を上から下まで支配している武将立花(道雪)が、ドン・パウロを過酷に扱い(註)、彼の父も祖父も彼の味方をしない。これはすべてキリシタンになったためである。ドン・パウロが、真実次のように言ったとしても、主は嘉し給うであろう。「わが父も、わが母も我を捨て、神のみ我を受け容れ給えり」と。…国主フランシスコの権力は弱まり、ドン・パウロの軍勢は削がれた。そして、このように豊後の教会という小舟は、風や沈没させると思われるほどの波に打たれている。…(第Ⅲ期第七巻3839頁)

  ※…立花道雪(戸次鑑連)の態度としてルイス・フロイスは別の書簡「1585年の追伸―豊後の戦さで生じた幾つかのことについて」で次のように述べ、(道雪は)キリシタン宗に敵対するのではない、と明言している。
 「豊後の敵が豊後に攻めて来た時、豊後の中でもっとも武勇があり、優秀な武将がいかに国を助けたかは、昨年の書簡に書かれている。その武将は、七十歳以上の老人(立花道雪、即ち戸次鑑連)で、国主(大友義統)が持っている城の中でもっとも重要な立花の城の領主兼指導者で、彼と宝満の城の武将(高橋紹運)が豊後を回復し、今国主の嫡子を指導している。たまたま、リイノ(柴田礼能)と呼ばれる豊後のヘラクレスのようなキリシタンの貴人が、嫡子の伝言を携え、そこへ行くことになった。彼が前記の両武将と話していた際、二人のうちの重立った方の立花殿が彼に言った。「私と宝満(高橋紹運)が、キリシタン宗門の掟を憎んでいると国主フランシスコ(宗麟)に述べた者がいるので、私は当惑している。これは噓で、私はキリシタン宗門について何も知らないので、何もしたこともなければ、これに敵対するようなことを言ったこともない。私は国主フランシスコに、国衆および老中として、また今はこの軍の総大将として一生仕えてきた。その国主がキリシタンであり、キリシタン宗門を崇拝しているからである。たとえ彼が意識もうろうとして、竿(カナ)を持って踊りながら街をねり歩いたとしても、私はそれを良しとし、私もついて行かねばならない。というのは、彼は私の国の国主で主君であり、彼に仕えるため私は私の城から、ここに来たのである。…国主と嫡子は、キリシタンの教えが弘まることについて、何か意見の相違があるということを知っているので、このことで二人を和解させるため、私が何か手を打たねばならない。そしてもし必要なら、この掟が弘まるよう私自身があらゆる助力をしよう」と。国主フランシスコは、この伝言をペロ・ゴーメス師にすぐ伝えてきた。その後、伝言を伝えた貴族自身が司祭に会って、詳細にこのことを語った。」

1585年8月18日付、豊後(臼杵)発信、ペロ・ラモン師の書簡
夫人マグダレイナの強い信仰
 志賀パウロ殿については、その将来は判らないが、現在は心にデウスを持っていると言える。というのは、彼の信仰の初期とそれを保持してきたことは、デウスのものであったし、現在の進歩もデウスのものだからである。さらにデウスは彼を助けるためマグダレイナという名の夫人を彼に与えられた。マグダレイナは彼と同程度というよりむしろデウスの教えについては彼をしのぐほどと言われており、そのため洗礼後わずかの月しか経たない間に、大きな二つの苦難に遭った。最初の苦難は非常に愛していた彼女の一人息子が死んだことであり、これに次ぐ第二の苦難は国主の嫡子がドン・パウロを家から締め出し、国外に追放しようとしたことである。彼女はこれらすべてを、あたかもデウスの御手からのものとして平静に熱意をもって受け入れたが、これはデウスの御加護と御恵みなしには為し得ないことと思われる。私は彼の家に数日滞在し、二人の日本人修道士と共に夜半までドン・パウロ、およびその夫人とデウスのことやその他の良き説話について何度も話し合った。マグダレイナが心を込めて聴いていたことから判断すれば、彼女がドン・パウロを超えているというのも私には誇張とは思われない。
この時、我らが洗礼を授けた者は二千人、その後さらに千人が洗礼を受けた。そこに今回の迫害が始まったが、ドン・パウロとその夫人は両名ともすべての点で堅固で、デウスの教えに背くよりは、家や生命を捨てる決心をしており、その旨両親に伝えている。/一五八五年八月十八日、臼杵より。(第Ⅲ期第七巻3940頁)

祖父・志賀道輝の孫・親次への迫害と、これに対する国主大友宗麟の諭し
 (ルイス・フロイス記:)これらの書状といっしょに着いた司祭からの書簡によれば、キリシタンの昔からの大の敵であるドン・パウロの祖父(志賀道輝親守)が、国主の嫡子に工作していたドン・パウロから家を取り上げそれを彼の弟に与えるか、またはすでに家を彼に譲っていたドン・パウロの父(親度)にふたたび家を継がせようとしていた。国主フランシスコは、敵があまりに多いのでドン・パウロが家から追われ、そうなれば豊後のキリシタン宗団、および志賀の新しいキリシタン宗団が大打撃を受けることになり、人力ではどうしようもなくなることを大いに心配した。ペロ・ラモン師は臼杵に帰ったが、イエズス会にずっと昔から入っている日本人修道士ジョアン・デ・トルレスを信仰の実践・教化のため、その地に残した。
 豊後の状況は以上のとおりで、キリシタンは励まされず悲しんでおり、他方異教徒や敵は喜び、悪魔は放たれている。ドン・パウロの勇気ある心は、このように強い嵐と戦っている。親族は彼がキリシタンになったことに憤っている。この際、司祭、修道士は謙虚に絶えず祈り、犠牲、断食、および鞭打ちをして、デウスが立ち上がり、その強い御手でこの荒波を止め、このような不安を鎮め給うようお願いする以外の方法はない。国主フランシスコは、我らの誰にも劣らぬほどこのことを悲しみ、彼特有の慎重さと注意深い配慮で、この不安を減らし、もとの平和と静穏さうぃ取り戻す方策を探していたが、道輝という名のドン・パウロの祖父がキリシタンの敵(であり)、悪魔の用いている主な道具であることが判り、そこにすぐ言って彼を正すことを決めた。そして彼に伝言を伝えさせたが、その文面は、我らに届いた豊後からの書簡によれば、次の通りである。
 「行って道輝に言え。数年前、嫡子(義統)が年寄一同の意見により貴殿を殺し、その家を断絶させようと決めた時、その意見に反対したのは予だけであったのを憶えているか。そしてそのため今日、貴殿と家族が生き永らえ、家が続いていることも、これは貴殿が忘れてさえなかったら、いかに大きい恩恵か、そして今このことを忘れているのは明らかで、その証拠に道輝、貴殿は孫のドン・パウロがキリシタンであるため、その家を取り上げようと工作してまわっている。予がキリシタンであることを考えただけでも、キリシタンのことを好意的に扱う十分な理由があろう」と。
 この伝言は、道輝が彼の息子、すなわちドン・パウロの父(親度)といっしょにいた時に届いたが、これに対して二人は次のように答えた。「行って国主に伝えよ。殿のおっしゃることは至極もっともである。しかし我らはドン・パウロから家を取り上げようとしたことはまったくなく、この件について我らがしたことは、国主の嫡子をなだめる以上のものではなかった。殿の伝言は我々にとって大変うれしく、二人ともこの件について何をなすべきか殿の忠告をお願いする」と。国主フランシスコは、この件については遅滞なく道輝に対し二人の男、すなわち一人は嫡子の書記で、もう一人は道輝が信頼する男を派遣し、これらの者を通じ嫡子に道輝自身が許しを請うようにと伝えさせた。
 そのため、それから数日してイザベルの異教徒の姉妹の一人が、ドン・パウロについてその婿のキリシタンに次のように言ったのである。嫡子は、ドン・パウロがキリシタンになることについてどのような不満も持っていないが、嫡子の許可を得ずにはキリシタンにならないという約束を守らなかったことには不満がある。しかし嫡子はすでに国内の他の大身たちと同様に彼を用いることを望んでいるので、結局その次の日には、彼に戦さに出発する準備をするよう伝言させた。こうして、我らの主デウスはこの問題をふたたびこのように解決され、これにより悪魔とその使いは打ち負かされ、我らがすべて望むように主の御業を前進させようとするデウスの御配慮に我らは希望を持つのである。…(第Ⅲ期第七巻4041頁)

宇目の砦を逃げ出した志賀道輝の失態、および志賀親次の活躍
 …二ヶ月くらい前に豊後で生じた或る出来事は、それに次いで起こった(皆が)賛嘆するすばらしい出来事に比べれば、異教徒にとっては恥辱であり、キリシタンにとっては馬鹿げたことであった。国主の嫡子(大友義統)はドン・パウロ(親次)の祖父(志賀道輝親守)を豊後と日向の国境にある宇目と呼ばれる国境の城に配置したが、この者は既述の通り豊後における我らの最大の敵の一人である。この老人(志賀道輝)は頑健であったが、実際難攻不落の所にある城の位置も信頼できず、山の峰を通る狭い路を数カ所、人力で切り崩させた。これで敵が攻めて来た場合、長くとどまって修理しなくては、いかなる場合でも通れなくした。某日、老人(志賀道輝)は用心していなかった時に、薩摩の国主の弟が大軍を率いて豊後に入るとすぐその城を責めに来るとの報せ〔これは故意にそう見せかけたものと思われる〕を受けた。その報せが入ると彼は多大の恐怖にとりつかれ、部下と協議もせずに突然逃げ出し、婦女子が後に続いた。彼に伴う部下がいないのを振り返って見もせずに、五里は止まることもなかったが、そこに至ってもまだ安全とは考えなかった。そしてあまりに急いだので、先の所に沢山持っていた身のまわりの品を風呂敷に包む暇もなかった。これはそこに住んでいた貧しい異教徒たちが、残された品々で彼らの必要性を満たそうとしたのを、デウスが嘉し給うたように思われる。
 このことが豊後に伝わって、不信感が加わり、嫡子が国の入口の防壁として城に配置した老人(志賀道輝)の臆病さが知れわたったが、これはすぐ彼の孫のドン・パウロの耳に達した。ドン・パウロには、数日前嫡子が彼に対して行なった理不尽と不正を憤る理由があったが、それ以上にデウスに仕え、キリシタン宗団に良かれと願う気持ちが強いのと、彼の血の高貴さにより、全精力を傾注して、またたく間に家臣三千から四千名を集め、彼の祖父が捨てた城に立てこもりに行った。そこに着くと、老人(志賀道輝)が切り崩させた道に小石を埋めて修復させ、薩摩の者共に、彼を自由に攻め昇れる橋と本格的な道を作ってやりたかっただけだと言った。そしてその城に家臣と共に今日まで留まっているが、これが彼の名声をさらに高め、嫡子も彼をそのことで称賛こそしないが、ドン・パウロが特にまだ若輩であることから、火急の場合にそのような思慮を示すとは期待していなかったものである。我ら司祭や修道士たちが、たびたびそこを訪れているが、これは彼がこれらの人々との話し合いによって大いに励まされるためである。そして薩摩の兵は、この一件を知ったが、知らぬ振りをし、たとえそこを通って攻め入ることを決めていたとしても、そのような素振りも見せず、まだそうすることを決めていない振りをしている。…/一五八五年十一月十三日、/主における尊師の息子、ルイス・フロイス(第Ⅲ期第七巻5152頁)

1585年11月8日付、臼杵発信、ペロ・ゴーメスのエーヴォラの大司教ドン・テオトニオ・デ・ブラガンサ宛書簡
ドン・パウロ志賀親次・マダレイナ夫妻の強い信仰
 …当地の人々は…この私が住む豊後の国だけでも、当(一五)八五年には、約一万二千人がキリシタンになった。その中には国主の姉妹の一人、ドン・パウロと呼ばれる国主(大友宗麟)の甥(註)がおり、この人はもっとも深刻な試練を経験したが、その中でも極めて強い信仰を示し、信仰を捨てるより、その身分を棄て首にロザリオをかけ、杖を引いてキリシタンとして満ち足りて諸国を遍歴するであろうと口外した十九歳の若者である。そしてその妻のマダレイナは、同じ歳であるが、信仰において同様に堅固で、たとえドン・パウロが信仰を棄てるようなことがあっても、彼女は棄てないと言った。…(第Ⅲ期第七巻105頁)
  ※…ドン・パウロ志賀親次の母親(志賀親度夫人)―「彼女はイザベルとその前に夫との間にできた子供であった。」(フロイス『日本史』・豊後篇Ⅲ268頁)

(つづく) 
 

2019年6月16日日曜日

宣教師文書にみるドン・パウロ志賀親次とその一族②

編者解説②
 七年間待望しながら、周囲―とくに祖父・親守(道輝)と父・親度(親教)の反対のゆえに叶わなかった志賀親次の受洗の日が1585年、ついに訪れる。『日本史』の記者ルイス・フロイスはその次第を「1585年8月20日付書簡」で詳細に書き残している。場所は「府内の学院(コレジオ)」、ペロ・ゴーメス師から「ドン・パウロ」の名が授けられた。
 祖父道輝(親守)はこれを知り、激怒するが、親次は勇敢に対峙する。すでに志賀家の家督をうけた立場であり、宇目(うめ)の砦で防衛の任に当たっていた祖父を呼びつけ、〃キリシタンになったことが気にくわないなら、家督を返上する〃と。また、宗麟の嫡子義統の棄教勧告に対しても、毅然としてこれを断った。「必要な場合には、首にロザリオを掛けてこの国から出、追放される準備が出来ている。…私が名を賜わった使徒サン・パウロは、その信仰告白のために殺されたが、私もそのために死にたい。」―これがドン・パウロ志賀親次のキリシタン信仰に基づく決意であった。
 ジュスト高山右近が太閤秀吉から棄教を迫られたとき、「全世界に代えても、棄教して己が霊魂の救いを棄てる意志はない。それゆえ、年貢米六万俵におよぶ明石の領地と知行を即刻返上する」と答え、追放されたことは有名であるが、親次のそれは右近より二年前のこと。「西の右近」と称されるにしかるべき人物であった。
 祖父・親守(道輝)は孫・親次の捨て身の訴えに、折れた。
 ルイス・フロイスは他に、男児の死去に伴う親次・マダレイナ夫妻の態度、親族・臣下の受洗、仏教寺院の取り壊し、仏僧の追放など受洗を前後して起きた諸事を交え、ドン・パウロの火のごとく燃えるキリシタン信仰を描出している。


■1585年(天正13)1月~7月
史料=【1585年8月20日付、長崎発信、ルイス・フロイスのイエズス会総長宛書簡
記者フロイスが親次の受洗に至る七年を再度、振り返る
 イザベルの孫で、豊後の国では三番目の人である高貴な若者(志賀親次)のことは、数年前すでに書き送っている。この人は十二、三歳であるが(十二、三歳であった頃)、政庁から十一里離れた自領にいたため、イエズス会の司祭も修道士も、かつて見たことがなく、説教を聴いたこともなかった。国主フランシスコがキリシタンになったのを聞き、またその掟では、十字架を崇め、その十字架がどういう形をしているかを聞いた。というのは、彼は十字架を見たことがなかったためである。しかしその十字架の意味も知らなかった。彼はキリシタンになりたいと強い望みを持つようになり、いとも幼いのにその望みから小刀を取り、人から聞いた通りの十字架の形を腕に刻み、墨を塗った。その十字架は、非常にはっきり刻まれたので、今日でも残っている。その後或る司祭が、彼の十字架を見たが、執拗に頼んだところ、それを見せた。彼がキリシタンになりたいという望みを持ったまま七ヶ年が過ぎたが(註)、彼の両親が、未だ反対していた。特に祖父の志賀(道輝)殿は、豊後における我らの最大の敵であった。(第期第七巻22頁)

 志賀親次の年齢はこの年(1585年)、1920歳であった。

志賀親次、ペロ・ゴーメス師から受洗、ドン・パウロの名を受く―
 或る機会があって、彼(志賀親次)は嫡子(大友義統)を訪ねて臼杵に来たが、そこにフランシスコ・カブラル師がいたので、夜中密かに修道院に来て、我らの聖教のことを聴きたがったので、一人の修道士が、夜中の八時から夜明けまで彼に説教をした。しかし、国主フランシスコ(宗麟)は、十分な理由があって、彼が改宗する時ではないと思っていた。というのは彼は長男で、その後(家を)継ぐことになるのだが、当時は未だ父親から家を継いでおらず、先に述べた通り、七年間も洗礼を受けたいという望みを持ったままでいたのである。この若者については、多くの励まされることがあり、主におかれてもお喜びのことであるが、このように幼少の時から変わらない心の強さを持っていることは、少なからず賛嘆すべきことである。国主フランシスコが述べたように、我らの主は彼を豊後におけるキリシタンの大きな支柱として、国主フランシスコの代わりとなるよう選ばれたように思われる。
 今回、国主(宗麟)と嫡子(義統)が府内にあり、そこに老中および国衆、すなわち国中の主だった人々が集まり、また家の名により志賀殿と呼ばれるその若者もそこに来たが、彼はその位階、家柄、領地において全員の中で二番目か三番目の人である。府内に着くとすぐ、彼が信頼している家臣の一人だけを仲介にして、極秘裡に、ペロ・ゴーメス師と、昔から長い間引き延ばされた望みをはたす方法について相談し始めた。司祭は、何回か我らの日本人修道士を通じて彼に書状を出しており、彼の方も極秘に返事をしていた。というのは、嫡子が意図的かつ効果的に彼に警告を与え、さらにいかなる場合でもキリシタンにならないという誓いを、彼の抗議にもかかわらずさせていたからである。しかし彼にもっとも苦痛を与えていたのは、人に知られずに家を出ることはできなかったし、昼間は無理だとペロ・ゴーメス師が言ってきたからである。何故なら、数年前に臼杵で彼は終夜教理を聴いたが、再度聴くことが必要と思われたし、また彼に重要なことを伝えたいが、昼間は無理で、しかるべき時間が必要と言ってきた。昼間は、彼一人で家臣を伴わないで長時間司祭や修道士といることはできなかった。というのは、皆の話題となるだろうから、結局彼は見つかれば嫡子(義統)の不興をかう危険をおかして、夜来る決心をした。学院の道側の扉を彼のために開けておき、そこに彼は夜やって来た。ペロ・ゴーメス師は、修道士たちに部屋に引きさがるように命じ、志賀殿を特に彼にためにきれいに飾った部屋に導き入れた。日本の慣例の鄭重な挨拶をした後、少し話しを始めたが、ペロ・ゴーメス師は彼の判断力と慎重さを讃嘆し、満足した。ジョアン・デ・トルレス修道士が、彼と彼が同じ目的のために連れて来た二人の家臣に、もっとも必要で不可欠のことについて細かに説教した。教理と、彼にもっとも必要な注意が終わって、ペロ・ゴーメス師が彼と彼が連れて来た二人の若い武士に洗礼を授けた。彼には、ドン・パウロという名を付けたが、すでに十二時を過ぎ、そこに列席していたのはペロ・ゴーメス師と学院の副院長、および二人の修道士だけであった。彼は大いに励まされ、それは我らの励みでもあったが、立ち去るに際し次のように述べた。数日前彼の初めての子供が誕生したが、子供が生まれた時よりもその夜はさらに素晴らしい歓喜と満足を見つけた、と。
 豊後でこのように高貴で、温和で、抑制された性格の若者をキリシタンに成し給うた我らの主デウスの栄光をたたえる司祭には、こと欠かなかった。この改宗から、この国における大いなる収穫が期待される。次の日、ドン・パウロは贈物の食物を持った者を公然とペロ・ゴーメス師の所に遣ったが、彼の側も、こちら側も洗礼のことについては判らないように、というより知らぬ振りをしていた。その後彼は教会と学院を見るために来た人の風を装って、家臣を連れて公然と来訪したが、彼と共に来た家臣を考慮して、我らは知らぬ振りをしていたところ、彼は帰った後、教会側も知っての通り、最近キリシタンになった人たちと彼は違い、七年間洗礼志願者だったので、何か特別の扱いに価するのではないかと司祭に伝言し来、国主フランシスコが、キリシタンになった時のロザリオを彼に秘密に送って来たのを司祭に見せるよう命じた。司祭は手元にそれ以上の品がなかったので、ゴアから来た銅に金メッキした聖遺物匣を送ったが、それを受け取ると彼は喜びを隠しきれなかった。修道院長の司祭も彼に縁飾りが付いた紙製の記録帳を一冊送った。
 ペロ・ゴーメス師は、以上の出来事を嫡子に知らせた方が良いのではないかと国主フランシスコに相談した。というのは、皆がドン・パウロはキリシタンだとすでに言っており、彼の父もそのことにすでに同意しているので、嫡子がこれを知った時、異常な言動をとらないためである。ドン・パウロは、国主の勧めで、彼がキリシタンになる許可をくれるよう、嫡子に使いを出すことを決心した。彼は長年の間キリシタンになることを望んでいたからである。しかしこの伝言をあえて嫡子に伝えに行く者がいなかった。このことが市に伝わり始めたため、彼の家臣が教理を聴きに教会に来て少しずつ洗礼を受け、祈祷文を書いて持ち帰った。国主は知らぬ振りをしてドン・パウロにその家臣をキリシタンにするよう伝言を送った。というのは彼の祖父(志賀道輝親守)はデウスの教えの大いなる敵であり、そのため国主フランシスコに嫌われ、この国の岬にある宇目(F.Vme)の砦に追放されたままであるが、国主がわざとこういう伝言をすれば、孫が祖父の意向を聞くだろうからであるが、はたしてその通りになり、そして祖父は、憎悪を感じながら、汝は国主の命令通りにせざるを得ないだろう、と答えた。
 ドン・パウロは、府内から彼の領地に帰ることにし、白昼、公然とペロ・ゴーメス師に別れの挨拶に来た。司祭は彼の切なる願いにより、彼にボヘミア・ガラスの玉(コンタ)を、また、彼の妻にはロザリオを与えたが、彼は近いうち、妻をキリシタンにするため教育をすると言った。また多くの聖女の名前を書き付けたものを持ち帰ったが、これは家の者たちに、その名をつけるためであった。次の日、司祭に別の伝言を送り、その出発の様子を知らせ、また国の者たちをキリシタンにするようにと国主に強く勧められて帰る旨、さらに修道士たちの時間がある時に、彼らを迎えに来る人を送り、すぐに彼の臣下に教理を聴かせようと言った。彼の臣下は男、女、子供合わせて七万人を超えるということである。…
 ドン・パウロはキリシタンとなって志賀の領地に向かった。帯にはロザリオをつけて、それについて人がどう言うかも気にしなかった。その地では都合がつかなかったので、その近くの、かなり大きな教会がある夏足(なたせ)の領土のサンチョと呼ばれる別の殿と連絡をとり、そこに一司祭と修道士を呼ぶよう要請した。そうすれば、彼はそこに家臣の武士を送り、教理を聴かせ、すぐに洗礼を受けさせられるからである。そしてそのようにした。ここでは、その他の多くの出来事を語るのをやめ、我らの主がドン・パウロの信仰と精神を試し、確認するために用いた多くの逆境と、それがより大きな彼の生涯にわたる功績、好評、徳の向上につながって行ったことを語ることにしよう。(第Ⅲ期第七巻2326頁)

高田の未亡人の養子となっていた親次の下の弟
 彼の一番下の弟が、先に述べた府内の近くの大きな土地高田を治める未亡人の養子となっているが、そこの多くの人たちがすでに洗礼を受けているだけでなく、兄のパウロを通じキリシタンになる者がいるのは間違いない。彼は府内を去る前、弟が司祭や修道士と知り合いになり、友達となるよう、学院に行かせたからである。(第Ⅲ期第七巻26頁)

祖父・志賀道輝(親守)および大友義統との確執
 (志賀)道輝と呼ばれる彼(親次)の祖父は、我らが豊後で持つ最大の敵の一人であり、孫の改宗を知ると極度に怒り、デウスの教えに対し悪態の限りをつくし、少し前に、国主フランシスコの命ずる通りにせよと孫に伝言したことを忘れ、いっそうそのことで怒って常軌を逸し、嫡子(大友義統)の所に次のような伝言を送った。「予の孫はキリシタンになったと言われる。彼のすべての祖先が崇めた神・仏(カミ・ホトケ)を拝むことをやめ、先頭に立ってそれを破壊しようとし、すでにそれに着手したと言われるが、寺院を破壊し、仏僧にキリシタンになれと勧めているといわれる。無知な若者なので、それが天から落ちたか、地から湧いたかわからぬ日本のものでない教えを受け入れた。これは明らかに志賀家、ひいては豊後の国の滅亡である。殿に彼を、その不服従に適わしい厳しさで罰するようお願いする。彼は予の忠告を無視し、キリシタンにならないとの殿への誓約さえ尊重しない」と。嫡子(義統)は非常に怒り、その件では最高に驚いており、彼に対する約束を破る以上のことであると言い、すぐ使者を遣わして、キリシタンであることをやめるよう命じ、もしこれに従わない場合は、今の地位からはずし、追放するであろう、と返事した。そして、すぐ高山およびもう一人の大津留殿と呼ばれる二人の武士を派遣して伝言を伝えさせた。その伝言は次のようなものである。「汝の祖父は、汝がキリシタンになったと言って寄こしたが、このことで予は非常に驚いている。これは極めて奇妙と思わざるを得ない。というのは、汝も知っての通り日本の習慣によれば、老人たちはその年齢と身体の不調により、この世の統治の仕事や役職をこなすことができないので引退し、家や収入をその子らに譲り、また自分自身の救いの事に専念することになっている。しかるに若い男子が信仰にうつつを抜かし、来世に望みを託すなど相応しくなく、褒められたことではない。なぜなら、若者の場合、信心深いとか、救われたい望みを持っているというよりは、むしろ臆病や覇気がないように見えるからである。したがって汝を愛し、また親類関係にある故、汝が転向し、これ以上偶像の寺院や神も仏も焼かないよう忠告する。もし汝に対する予の忠告が判らぬ場合は、予は予のなすべきことをなすであろう」と。ドン・パウロはその使者たちを歓待し、次の日、領地のかなりの部分が見渡せる高い所に建った家に彼らを招待することにした。彼らが着座した後、ドン・パウロは意図的に、その近くにある二カ所の神社に放火するようにと命じた。神社が炎を上げ始めると、家の中で大きなざわめきが上がった。というのは彼の家臣さえそれが何だか承知しておらず、使者たちの場合はなおさら驚嘆し、混乱し、ほとんど顔色を変え、窓の所まで行って、窓にくっつき、火を眺めていた。ドン・パウロは使者たちに言った。「さあ、もとの座に戻られよ。何でもない。予の家臣の誰かが、長い間汚れていたあの社殿をきれいにしているのであろう。」と。そして接待が終わると次のように言った。「予は、第三者を通じて、特に予にとって極めて重要なことについて、嫡子にお答えするのは失礼と思うが、殿は貴公らが返事を持たずに帰ると良く思われないであろう。ついては次のように伝えてほしい。「予がキリシタンになった点については、予がデウスについて得た知らせにより、むしろ予の中に今まで以上に良く今後は嫡子に仕えようという気持ちが増したので、これを怒らないでほしい。また神・仏の寺社を、如何なる場合であれ焼くなどという命令については、殿に次のことを思い出してほしい。殿が繁栄した四カ国を失った後、従う民も、兵も、戦さで使う武器もなく、多くの悲惨さと不如意に陥った。その時、殿の慎重さと、その日その日の欠乏を埋めるための良き進言により、その解決策として、府内の市内にある主要な僧院で、領内でもっとも格式高く高名な万寿寺に密かに火を放つ命を下し、次いでその寺院の収入を戦場で殿に仕えた貧しい武士と兵に分配した。この解決策は非常に効果的だったので、短時日の間に事態を今日のように好転させるのに十分であった。このため予は、殿の真似をすることを強くの望み、殿により良く仕えるため、現在幾つかの寺院を焼いている、というのは、仏僧の収入を家臣に分配し、その数を増し、武器を光らせ、さらに良馬を探し、そしてその他の洗練された戦法と機動力を用いるものである。予が行なっていることは以上の通りなので、叱責や脅迫よりも殿からの栄誉や報賞、賞讃に価すると思う」と。嫡子は、この答えに憤慨し、幾度かさらに厳しい伝言を伝え、また別の伝言を世捨人のドン・パウロの父(志賀親度)に送り、何故息子に反対し、彼にキリシタンをやめるよう説得しないのかと言った。ドン・パウロは、学院に何回か書状を寄こしたが、その中で次のように述べている。「嫡子は盛んに私を脅迫し、転向させようとしている。しかし私はデウスの御慈悲により平静で、必要な場合には、わずか一人の従僕を伴い、首にロザリオを掛けてこの国から出、追放される準備ができている。何故なら、この七年間のキリシタンになりたいという望みが叶えられたということを知るだけで十分である。私が名を賜った使徒サン・パウロは、その信仰の告白のために死んだが、私もそのために死にたいと明言する」と。(第Ⅲ期第七巻2628頁)

ドン・パウロ親次の捨て身の信仰に祖父志賀道輝(親守)が折れる
 この時彼の祖父道輝は、国の岬にある宇目の砦を防衛しており、薩摩との戦さの懸念があった。そこへドン・パウロ(親次)は、四、五回使者を派遣し、祖父が嫡子(大友義統)に自分を中傷したことで非常に傷つけられたことを明らかにし、また祖父のような近い親類は、子孫がより繁栄するため、その世代を引き立て支援するのがどこの世界でも共通の慣習である。したがって祖父のように老齢で経験豊かな者が、そのまったく逆のことをするのは理解できない、と言った。そして、今祖父と話したい重要なことがあるので、御足労ではあるが、何かが生じ、その後では取り返しがつかなくなる前に、志賀まで来られるよう希望する、と熱心に頼んだ。老人道輝は、三、四回断ったが、彼の度重なる頼みにまけて、ドン・パウロに会いに志賀まで来た。
 日本においては、家または父の所領を長男に譲る時は、その家の名誉の称号、祖先の中の著名な者、祖先が持っていた免責と特権を記した系図と呼ばれる書き物もいっしょに渡すのが習慣である。ドン・パウロは、これをすでに家と共に父と祖父から受理していた。ドン・パウロはわずか四、五名の家臣を従え、その内の一人が先に述べた書き物を収めた箱を持ち、祖父の道輝が待っていた部屋へ入って行った。そして言った。「私を殺すか、国の外に追放するよう嫡子に勧めた御許様の非人間的な私に対する残酷さを誠に残念に思わざるを得ないが、一つだけ私を励ますことがある。それはすでにキリシタンになった私の家臣の忠誠と愛を見ることで、皆の者の最終的な結論として、もし私が国外に追放される場合には私に付いてくる、もし私が殺されたら私と共に死ぬ。そしてもし私がこの地に留まれば大いなる忠誠をもって尽くすことに決めている。これは彼らがキリシタンとなり、デウスの教えを知ったことから来るものである。御許様は身分高く、多くの経験を重ね、名誉とこの国についての知識で尊敬されているので、私は御許様の不興の種となることを望まず、また御許様が今まで私に与えたものより以上のものを受け取るつもりはない」と言い、書き物が入った箱を取り、立ち上がってそれを老人の前に置き、次のように述べた。「ここに私は志賀家の長子を放棄し、御許様にお返しする。私には二人の弟がいるので、二人のうち、どちらか御許様が気に入った方に志賀家を継がせてほしい。そして家を二つに割るもよく、一つは御許様がこれから定める長子のものとし、もう一つは私に。というのは、この家の主要な従臣と武将は私に仕えたがっており、別人には仕えたがらないからである。この新しい長子に残される収入で皆の者が暮らし、私は国を治める大きな義務から免れ、多くの煩瑣からも自由になって、戦さのことで今まで以上に嫡子に、身軽になって仕えられよう」と。老人(道輝)は、その孫がそのようにつきつめて決心しているのを見て驚き、特に家を分けるというのを聞き、それも半々に分ければすぐ家の滅亡につながるので、ふたたびその箱をドン・パウロの前に押し返したが、彼は受け取らなかった。そこで少し押し問答があった。「汝が受け取るべきだ」。「いや私がとるべきではない」と。ついに老人が善意をもって彼に言った。「息子(孫)よ。すでに予と汝の父(親度)が志賀家を汝に渡した以上、汝は一時の感情から家の相続を放棄するというのは良くない。嫡子(義統)に対し、汝を𠮟るように言ったのは、憎しみからではなく、汝に対する愛情からだというのは判るだろう」と。そして目に涙をためて、付け加えた。「キリシタンのままで良い。その内予が嫡子に、そのことで汝を苦しめないよう働きかけよう。一つだけお願いがある。汝も見ての通り、予はもう年寄りで、仏教徒だ。だからここにある二つの寺院には手を付けないでほしい。これは先祖からの寺院で、予が死んだ時仏僧が予を埋め、葬式をするようにだ」と。孫のドン・パウロはこれに答えて言った。「デウスに対する冒瀆に同意する訳にはいかない。御許様の言う通りにすれば、悪魔をふたたび尊拝することを認めることになってしまう」と。その時彼の年老いた家臣が十名から十二名入って来、穏やかな言葉でドン・パウロに、そのような小さな事では祖父に同意した方がいいのではないかと言い、さらに彼がいかに祖父の恩を受けているか考えてほしいとか、祖父の願いを弁解し、それをかなえるよう、涙をためて彼に願った。ドン・パウロは。極めて厳しい顔付きを見せ、短く次のように言った。「汝らは皆、予に対する愛がないから、祖父のために予にそのようなことを頼むのだ。そんなことをすれば、予は地獄に投げ込まれる。出て行け。もう二度とそのことは言うな」と。そして祖父道輝に別れを告げ、書き物を入れた箱を持って家へ帰った。
 老人道輝はふたたび嫡子(義統)に話しに行って、言った。「殿、私の孫がキリシタンになったので罰するようにお願いしたことで私をお許しいただきたい。彼は若く、忠告する者がいないため、志賀の家を分裂の危機に追いやるかも知れない。それによって国を乱し、すぐ問題を新たに生じさせるであろう。それ故彼をキリシタンのままにして置くよう殿にお願いする。そうすれば、時が問題を解決するであろう」と。嫡子は怒り、老人に対して激しい口調で言った。「予の父が支配していた頃、予は五、六カ国を有しており、その後自ら治めるようになって以来、いつも御身は自分の言葉に責任を持ち、年齢に相応しい助言をする男だと思ってきた。ところが、今や精神がすでに錯乱しており、予は御身のことを恥ずかしく思う。御身は予を知恵の足りない男と思い、どんな言葉にでも動かされると思っている。御身の孫がキリシタンをやめるようにしてくれと予に頼んでおいて、今度はキリシタンであることを認めてくれと、またわけもわからず頼みに来た。御身に対しては、もっと厳しく答えるべきだが、今陣中にあり、混乱を引き起こさないよう、これ以上は言わない」と。(第Ⅲ期第七巻2631頁)

国主に対するドン・パウロ志賀親次の忠節、および親次家族らの受洗
 嫡子(大友義統)は、もし国主フランシスコ(宗麟)の勧誘と尽力がなければ、ドン・パウロ(親次)の改宗は行なわれなかったに違いないと思うようになり、そのことについて国主に幾度か伝言を送り、また非常に礼を失した書状を二通送り、その中で、今や国主の助力は不可欠ではなく、必要ともしないこと、国のこと〔すでに譲位している〕に必要以上に介入し過ぎることを明確に判らせるようにした。国主は、当然これを非常に残念がり、今日に至るも互いに連絡はない。…
 戦さに出掛ける時が来ると、嫡子は国内の主要な殿である国衆に兵を調えて出発するよう書状を送ったが、ドン・パウロに対してだけは、彼に対する不興のため、書状を送らなかった。そして老国主(宗麟)に国主自ら彼に戦さの準備をするよう命じてほしいとの伝言を送った。しかし国主の伝言は必要がなかった。というのは、彼自ら、嫡子に書状を出さないのを詫び、すぐ出発したからである。そして嫡子のいた玖珠に最初に着いたのは彼であった。彼は故意に少しの兵しか伴って行こうとしなかった。というのは、嫡子が彼に対して何かたくらんだ場合、自分を守るために兵を連れて来たと思われないためである。皆が、このことを勇気があり、また思慮あることと解釈した。嫡子は、彼がこのように早く来たのを見て、彼に言った。「良く来た。他の国衆はまだ来ていないので、汝は引き返してゆっくり兵を集め、連れて来るが良い」と。ドン・パウロはこの伝言をもって家に帰り、彼の夫人と家族全員が洗礼を受けるため、司祭一人と修道士一人を臼杵に呼びにやった。修練生の指導司祭であるペロ・ラモン師と日本人の修道士一人がそこに向かった。彼らがそこに着く前に、ドン・パウロは家を出、途中のかなり手前で出迎えた。というのは、家におれる日がすくなかったので、戦さの準備で忙しくなるに先立って、その間に彼の妻、家の身分の高い何人かの人々、他所から来てそこにいた同様の人たちに教理を聴かせるべきだと思っていたからである。説教が終わり、司祭が彼らに洗礼を授けたが、その時ドン・パウロの一人の息子もいっしょであった。その子はドン・パウロがキリシタンになる前に生まれていたのである。そこで司祭と修道士は臼杵に帰り、彼はすぐ戦さに行く準備をした。(第Ⅲ期第七巻3132頁)

ドン・パウロ親次の男児の死去、および臣下の受洗
 我らの主は、ドン・パウロの心を試そうと、さらに手を下し始めた。というのは受洗の直後、ドン・パウロの子供が膀胱炎を病んだ。皆の者が驚いたのは、息子の病気の際に見せた彼の平常心と強さで、またその子が死ぬと、彼は人や家族を励まし、息子は間違いなく天国にあり、父より何と幸せで至福に満ちていることか、父にはこれから先何が起こるのか判らないと説いたことを知った時の皆の驚きはいっそう大きなものがあった。
 ドン・パウロは軍団を離れて家に帰ろうとした時、それに先立ってペロ・ゴーメス師に伝言を送り、彼が家に帰り着いた時、そこに司祭一人と幾人かの修道士がすでに来て、引き続き彼の臣下をキリシタンにするよう、熱心に願った。すぐペロ・ラモン師と二人の日本人修道士が行った。ドン・パウロは五、六人頼んだのであったが、それ以上は無理で、三人であった。というのは、その他の者は他の地方を説教し、洗礼を授けて廻っていたからである。ペロ・ラモン師は修練院で引き続き大いに必要とされていた人であるが、かの地に今是非行く三つの理由があった。第一に国主フランシスコが何度もそれを勧め、そこに司祭を駐在させるよう切望したこと。第二に同師の教理、忠告、および慣行により、ドン・パウロが我らの聖教について、より良く知り、彼がしっかり知ることによって臣下が堅固な信仰を持つからである。今試そうとしていることは、主要な頭(カペーサス)をすべてキリシタンにすることである。第三に仏僧や、デウスの教えの敵たちは、この地を撹乱するため、ドン・パウロの子供の死が明らかにドン・パウロに対する神や仏の罰であると声を大にして言うに違いないからである。そこで司祭が同地にいて、これらの噂、中傷、および大騒ぎを打ち消すことが必要であった。ドン・パウロ自身、ペロ・ゴーメス師に、修道士一人と司祭一人が、その地の人々を教化するために必要であると伝えて来た。
 六月四日に、ペロ・ラモン師は、志賀からペロ・ゴーメス師に一通の書状を寄こし、いかにしてどこで千数百人の人々に洗礼を授けたか、また改宗の仕事が順調に進んでいる旨、報告してきた。また修道士の一人は、そこに教会がないため、ドン・パウロは彼の何軒かの家を明け渡し、そこを一教会としたが、そこに三、四千人が入れる旨知らせてきた。戦さの人手を増やすため、仏僧たちの収入を臣下に分配しつつあり、そのため彼に従軍する騎馬武者の数がかなりあり、戦場で多くの異教徒の中を彼が十字架の旗を立てて進む目立つ姿は、大いに見応えがあると言われている。(第Ⅲ期第七巻3233頁)

志賀と久我殿領との境界にある寺院の顛末
 嫡子(義統)は今のところ、ドン・パウロが臣下をキリシタンにするのを妨害してこなかった。ただ数日前、ドン・パウロの管轄地内の嫡子自身の給人に、キリシタンにならないよう命じている。これにより、嫡子はドン・パウロの権限内のことには、あえて干渉しないように見える。国主フランシスコの婿の一人(久我三休)が、志賀領に接して少しばかりの農園を持っていたが、この男は昔仏僧で久我殿と呼ばれ、常にデウスの敵であった。嫡子には義兄弟に当たるが、それでも嫡子を喜ばせようとしてキリシタンに非常な敵意を示していた。彼の領地の境界に一大寺院があり、双方の領主に属する標識、または境界線となっていたが、ドン・パウロはキリシタンなので、その偶像を取り壊したいと彼に伝言を伝えた。久我殿は異教徒なので、破壊したくないと返事した。そこでドン・パウロは彼に属する寺院の半分を破壊し、他の半分はその持ち主のために残して置くよう命じ、相手側の権利を損なうことなく、それを実行した。しかし寺院は機能しなくなり、きたなくなって、異教徒のための祈祷の場所というより、むしろ烏たちの家のようになった。(第Ⅲ期第七巻33頁)

ドン・パウロ親次、仏僧を追放する
ドン・パウロは家臣の幾人かに教理の説教を聴くように話した。彼らは答えて言った。「喜んで聴きましょう。またキリシタンにもなりましょう。というのは、主君が新しい教えを受け入れるには、それが日本の教えより良いとまず確かめたに違いないからです」と。彼らの中に、神や仏を深く信じていた一人の自由で大胆な仏僧がいて、言った。「拙僧も聴きましょう。しかしキリシタンになるについては、もしそれが理解できればなりましょう。ということは、理解するということは、そうなりたいということと同じです。何故なら、そうなる気がない人々は理解することができないというか、或いは理解することが信ずることと同じだというのが判らないからです」と。ドン・パウロは、彼の言うことが理解できたので、すぐに、「予は説教を聴き、理解した。汝が理解できないはずはない。ところが汝は今理解する期待がほとんどないことを自ら明らかにしている以上、汝がキリシタンになる期待は予にはなおさら持てないので、説教は聴かなくてよろしい。立ち去って自分の生活を探すがよい」と言い、彼を追放した。(第Ⅲ期第七巻34頁)

大友宗麟亡き後の強力な円柱となるであろう
 これが本年一五八五年の一月から七月末までに豊後で生じたことである。我らの主の愛により、ぜひ尊師が、司祭と修道士たちに、その祈りにおいてドン・パウロを推奨するよう命じられんことをお願いする。また我らの主が彼を守り、前進する砦を彼に与え給わんことを祈る。これはデウスの恩顧の力により彼の中で始まったものを我らが見るからである。我らの主が、国主フランシスコを御許に召し給うとも、豊後の国においてはドン・パウロが一つの強力な円柱となろうからである。船が出帆するまでに、さらに豊後で起こるべきことについては、司祭たちが当方に知らせてくるにつれて、尊師とインド管区長師に通信することにしたい。以上により、尊師からの聖なる祝福をお願いし、また、尊師の犠牲と祈りにおいて、我らの主に、我らをよろしく推奨お願いしたい。/長崎より、一五八五年八月二十日、/キリストにおける尊師の息子、ルイス・フロイス(第Ⅲ期第七巻34頁)

(つづく)