2021年3月13日土曜日

ナバロ神父と佐伯藩主・毛利高政

 ■「るいさ」を偲ぶ命日402周年墓参

 17世紀はじめ、徳川幕府の禁教令下、宣教師ペトロ・パウロ・ナバロを匿い、潜伏キリシタンたちをお世話したコングレガチオ信心会の中心的存在であった「るいさ」は1619年(陰暦)1月22日、大分県の南郡(なんぐん)宇目郷(現・佐伯市宇目重岡)で亡くなった。その命日である2021年3月5日(陰暦1月22日)、家族とともに墓参に出かけた。

 小雨の中、九州・山口の各地から仲間たちが集い、急峻な参道の細い坂道を上り、丘の上にひっそりと佇む「るいさ」墓碑に辿り着くと、そこにはいつもと違う表情をした「るいさ」の墓碑が待っていた。過去四回ほど来たことがあるが、雨に濡れた墓碑を目にするのは初めてであった。碑面に刻まれた「元和五年/るいさ/正月廿二日」の文字がくっきりと際立ち、喜びとも、悲しみともつかない言葉を語りかけているようであった。

 私はその場で、かつて同地域に潜伏した宣教師ペドロ・パウロ・ナバロ神父に、「るいさ」ら宇目郷のキリシタンたちが秘かに届けた食事について紹介した。史料は、マテウス・デ・コウロス神父が書いた「ナバロ神父殉教記」の中に出てくる一節である。

 「毎日二度、村から一人の男が食物を持って来た。その食物は、農民が酒を買うときに使う口の細い焼き物の瓶に入った細かく刻んだ野菜の味噌汁と、少々の飯を混ぜた一切れの塩漬けの魚や、焼いた鰯だけであった。これを古い木の箱に入れ、さらに秘かに行うために全体を藁に包んでいた。もし、誰かがそれを運んでいる者に出会っても、畑で働いている百姓の食事だと思うようにとのことであった。」(註1)

 島原から持参した花を供え、讃美歌391番「ナルドの壺」をうたい、ルイサとその仲間たちの献身的信仰を偲んだ。


■ナバロ神父とアウグスチイノ会、そして佐伯藩主・毛利高政のこと

 今回のルイサ命日墓参に際し、私は新たに発見したナバロ神父にかんするアウグスチイノ修道会神父による記録史料を用意していたが、披露する時間もなく、解散した。ここに改めて紹介しておきたい(註2)。

 それは、ルイサらが匿ったイエズス会宣教師ペドロ・パウロ・ナバロ神父と、豊後国の東部海岸地域一帯で布教を展開したアウグスチイノ会との交流を証明するものであり、アウグスチイノ会のバルトロメオ・グチエーレス師が「1623年3月14日付」で書いた「報告書」である。同師はその中で、イエズス会士ペドロ・パウロ・ナバロ神父の殉教(1622年11月1日)について記し、冒頭で次のように述べている。

 「有馬領の島原では(1622年)11月1日に、4人を焼き殺しましたが、甚だ悲壮な光景でした。これはイエズス会のパードレ・ペドロ・パウロ・ナバロ、その同宿ダミアンおよび他の2名です。今まで日本にいた我が修道会(アウグスチイノ会)のパードレは、みなこのパードレ・ナバロをよく識っていました。それは彼が、豊後国の臼杵(註3)にいる私たちの近くの土地に長い間住み、その地の大名に敬意を表すために私たちのいる市にたびたび来て一緒に生活したし、私たちの修道院で長い間病気の療養をしていたことがあるからです。

 「豊後国の臼杵にいる私たち」とは、言うまでもなく臼杵を布教基地としたアウグスチイノ会(修道士たち)である。また、イエズス会宣教師ナバロが「長い間住んだ」というアウグスチイノ修道会布教地の「近くの土地」とは、豊後国南部の「なんぐん(南郡)」と称された、こんにち「るいさ」墓碑が存在する宇目郷を含む地域を指すであろう。したがって「その地の大名」とは、竹田の城主・中川秀成か、佐伯の城主・毛利高政であるが、「私たち(アウグスチイノ会)のいる市(この場合、臼杵、津久見、佐伯、縣を指す)にたびたび来た」ことからすると、佐伯の城主毛利高政であることは明らかである。

 イエズス会のナバロ神父が病気になり、佐伯にあるアウグスチイノ会の修道院(註4)を頼り「一緒に生活し、療養した」ということを証言するものであるが、一般にイエズス会が托鉢修道会を敬遠し排斥したことからすると驚くべき、かつ感動的な事実である。

 筆者が注目したいのは、なかでも「その地の大名(毛利高政)に敬意を表すために、私たちのいる市(佐伯)にたびたび来た」というくだりである。佐伯の大名・毛利高政と、「なんぐん」の山間に隠れ住んだナバロ神父がこのように親しく会い、交流したという史実は聞いたことがない。これもまた、驚くべき、かつ感動的な史実である。

 佐伯藩初代大名・毛利伊勢守高政は元キリシタンであり、当時は棄教者として知られていたが、実はキリシタンを秘かに保護するため、敢えて棄教者を装った〃隠れのキリシタン大名〃であった。これについて筆者は論考「欧文史料で読み解く豊後宇目のるいさ⑧毛利高政のキリシタン信仰」(註5)で紹介したことがある。あわせて「るいさ」の夫「イチノカミドノ」が毛利伊勢守高政であることにもふれた(註6)。

 このようなキリシタン史に係る史実は、禁教令が敷かれた近世封建社会では信じ難いことであるが、キリスト教宣教師らが記録した欧文史料は、それらを史実として記録し伝えている。アウグスチイノ会のバルトロメオ・グチエーレス師の「報告書」もそれを補い、証明してくれる史料である。

 毛利高政は当時、キリシタンたちによって「イチノカミドノ」と称され、宣教師ナバロを匿った「るいさ」とは夫婦関係にあった。つまりは、二人はキリシタン信仰によって結ばれた仲であるが、同時に豊後地域のキリシタン保護のため政策的・政略的に結ばれた夫婦ー「るいさ」は高政の妾妻ーであった、と言うことができよう。したがって、ナバロ神父にとって「るいさ」とその夫「イチノカミドノ・毛利高政」は自分の身上を保護してくれた恩人であった。それだからこそナバロ師は「なんぐん」の山間から佐伯の市に「たびたび来て」、「その地の大名」である毛利高政に「敬意を表した」のであった。

 キリスト教禁止令の幕命を奉じる多くの大名たちが宣教師捜索に躍起となり、それを見つけるや獄に入れ死刑に処した時代、潜伏宣教師ペドロ・パウロ・ナバロ神父が佐伯の大名毛利高政に会い、敬意を表したなど、信じ難いことであろう。その有り得ない光景が実際、ここ豊後国「なんぐんー佐伯」で秘かに展開されていたのだ。

「るいさ」墓地の参道脇には無数の赤い藪椿の花が落ちていた。


※【註1】…マテウス・デ・コウロスによる「ペトロ・パウロ・ナバロ神父の伝記」ー西日本新聞1992年4月9日付掲載記事・結城了悟筆「殉教の地を歩く⑤」

※【註2】…『キリシタン研究第二十五輯』(昭和60年・吉川弘文館発刊)掲載「聖アウグスチイノ会キリシタン関係史料ー佐久間正訳」

※【註3】…アウグスチイノ修道会は1602年、京都のフランシスコ修道会を介して豊後での布教許可を得、デ・ゲバラ師が臼杵に修道院と天主堂を建てた。1606年にエルナンド・デ・サン・ヨゼフ師が臼杵から佐伯に赴き、修道院を建て、さらに日向の縣(あがた)に行き、天主堂を建てた。また1611年には津久見に教会を建てた。1613年当時、臼杵の市の住民4万人のほとんどはアウグスチイノ会のキリシタンであり、縣にも8千人のキリシタンをつくった、という(レオン・パジェス『日本切支丹宗門史』)。

※【註4】…佐伯の「近く」のアウグスチイノ会の修道院は、1606年にエルナンド・デ・サン・ヨゼフ師が建てた「小さな修道院」と、他に同地の大名毛利高政が建てた「大きな修道院」の二つがあった。

※【註5】…本ブログ「花久留守ー宮本次人キリシタン史研究ブログ」、2018年6月10日付記事参照。

※【註6】…シュタイシェン著『切支丹大名記』(吉田小五郎訳・昭和5年発刊)でも、レオン・パジェスの史料を取り上げ、「この著者が毛利(高政)をさしていふ市正(Yichinokami)の名は、この大名の称号「伊勢守」の転化である。」と註記している(同著305頁)。