2021年10月29日金曜日

日田のドン・パウロ志賀親次⑦

 ※現地調査継続中につき、写真のみ掲載する。

大肥荘風景(2021年5月22日)

「夜明」にある志賀神社。ドン・パウロ志賀親次との係わりは不明。毎年10月13日に「くんち」の祭りが催される。

 (この稿は、一旦終了する)

2021年6月2日水曜日

日田のドン・パウロ志賀親次⑥

 ■日田キリシタン史のその後

 日田は歴史的に仏教が浸透した地域であったのだろうか、元仏僧でキリシタンになったジョアン・ソウタンが日田を訪れ、教会として某古寺を与えられながら「周囲が偶像主義者であったため」他の土地に行ってしまった、という同イエズス会年報の記録。この年(1596年)、毛利高政の招聘で同地に赴いた司祭・修道士が泊まった「異教徒の家の、使用人の多くがパードレたちを侮辱し、嘲笑し」、また「近所の人々もパードレたちに会うと顔をそむけ、唾を吐いた」との記述などからも、ある程度推察される。

 交通の要衝であり、宣教師もたびたび同所を訪れ、あるいは通過したにもかかわらず、ドン・フランシスコ大友宗麟(1530-1587)の時代、玖珠までしかキリスト教が入らなかったのは、そのような背景と要因があったからと思われる。

 そうであるなら何故、1596年になってキリシタン宗の導入が可能になったのかと言えば、第一にはドン・パウロ志賀親次の大肥荘への入封。第二には毛利高政と彼が一致協力したこと、を上げることができる。二人は共に〃戦うキリシタン武将〃であり、教理の理解と信仰的分別力において秀でていた。既述したように、毛利高政は父の怒りに対して忍耐と「熱心、賢明さ」をもってこれを屈服させ、また志賀親次は異教の容認がいかなる結果を招来するかを弁(わきま)えていたので、熱心な仏教崇拝者であった父・志賀親守(道輝)の要求に対しても敢然と対処したことであった(註1)。その点で1596年、志賀親次が家臣らに語った言葉-「我が家臣であるなら、妻は一人以上持ってはならぬ」。「キリストの福音を理解して、しかもキリシタンにならない者は禄盗人である」。「神や仏はみな地獄にいて、そこから自分を救うことができないのであれば、他人を救うことはなおさら(できない)ではないか」ー等々は、異教圏に切り込むキリストの福音の鋭い一面を覗かせていて、興味深い。

 いくつかの結果を収めた1596年の、日田における宣教活動を終えた司祭・修道士はこのあと、「毛利高政が都へ向かって出発した」のと前後して同地を後にし、臼杵に行った。

 高政は翌1597年、慶長の役に出陣したため、その後、日田のキリシタンたちがどうなったか気になるところだが、大肥荘のドン・パウロ志賀親次は5年ほど同地に定着した。また毛利高政も1598年、秀吉の死去に伴って朝鮮役から戻り、1601年には佐伯に転封するものの、日田と玖珠は引き続き彼の統治下に置かれた。日田におけるキリシタン信仰は、静かに浸透したと見られる。(つづく) 


 ※註1…秀吉がバテレン追放令(1587)を出したあと「(秀吉は)豊後の諸侯に(日本の)神々および諸仏への忠誠に関する誓約を求めている」として、大友義統が志賀親次に迫ったことがあった。このとき親次は「死の決意を固め、そのようなことをするくらいなら自らの知行を失った方がましである」と、例のジュスト高山右近と同様な態度を取ってこれを退けた。また同バテレン追放令についても、親次は「大いなる危険を招来したとしても、拙者は伴天連がたを我が領内に匿いたい」と主張し、事実、豊後国に宣教師を匿った。史料=「1589年2月24日付、日本副管区長ガスパル・コエリュのイエズス会総長宛、1588年度年報」。

 志賀親守(道輝)は親次の祖父とされることが多い。「(長崎)志賀家系図」(長崎県立博物館蔵)によると、親守の子に、親孝(道益)、浄閑、宗頓(林小左衛門)、親次、某(左門)がいて、親次は長兄・親孝(親教、親度)の養子となっていることが分かる。ゆえに、親次にとって親守(道輝)は実の父であった。親孝は対島津戦で島津に味方し、天正15年(1587)大友義統によって誅殺された経緯がある。


 

2021年6月1日火曜日

日田のドン・パウロ志賀親次⑤

 ■1596年度日本年報ー日田における毛利高政と志賀親次の友誼

 ーその④、教会の開設と布教の成果について

 この中で毛利高政は、日田に「教会を建てようと望み」、そのため以前「ジョアン・ソウタンによって大きくされた、空家になっていた古い寺院」を改修した、とある。宣教師が同地を去る頃には、「新しいキリシタンたちが最近、教会に集まるようになった」と記しているので、日田にキリスト教会が設立されたのは事実である。

 「ジョアン・ソウタン」という人物について同年報は、日田に「たまたま訪れた、かつて仏僧であったキリシタン」(註1)としているが、それ以上の説明がないので、詳しいことは判らない(註2)。

 次に布教の成果を列挙してみると、先ず教会の改修を手伝った「毛利高政に仕える若い貴人たち」、また大肥庄のドン・パウロ志賀親次の家臣で、親次とともに司祭のもとを訪れた「若者たち」。そして毛利高政の「家来とその家族」、高政の「年下の弟」(註3)らが修道士の説教を聞き、その中の「三十三人が洗礼を授かった」。続いて、司祭・修道士が泊まった「その地の或る重立った」人物が「妻子とともに全家族あげてキリシタンになった」。そして、家臣だけでなく高政は「土地の(一般)住民たちにも福音の説教に与(あずか)るよう勧め」、「非常に短期間のうちに彼らの中の六十名がキリシタンの教えを信仰した」、と記している。それらを合計すると、日田でこの年、百人余りがキリシタンになったことになる。(つづく) 

※註1…「1596年度日本年報」は「ジョアン・ソウタン」について次のように記している。「国主フランシスコ(大友宗麟)は日田の地へは、その生涯の全期間にわたってキリシタン宗門を導き入れることはできなかったので、その地全体の中にはキリシタンは一人もいなかった。たまたまそこへジョアン・ソウタンという名の(かつて)仏僧であったキリシタンが訪れたことがあり、住民たちは廉潔な人間を好んでいたので、この者のための以前異教徒が所有していた古い寺院を与えた。しかし彼は偶像教徒たちと仲間になることを嫌ってそこを退出したので、その寺院の住人はいないままである。」

※註2…同年報(「1596年度日本年報」)の「都地方について」の項目には、京都の所司代であった前田玄以法印の長男で、丹波国亀山城主であった前田左近(秀則)殿の家臣に「ソウタンというキリシタン」がいて、前田玄以法印に受洗を勧め、妙心寺の元管長「チュウアン」をキリシタンに導いたこと。また、京都に住んでいた富裕な商人で、浄土宗から法華宗に転じて多くの仏僧たちと交わり、堺の奉行・小西立佐(隆佐)ジョウチンを介してキリシタンになった「敬虔で学識の高い」人物「ジョアン・ソーチュウ」のことが出ている。

 前田玄以法印との関係で見ると、法印は1594年(文禄4)に豊後国速見郡内一万石蔵入地代官の朱印状を受けたとき、その代官として毛利重政を日出城の城代として赴任させ、また同じ頃、重政の従弟・毛利高政も日田の大名そして玖珠の代官として日隈城に入った。ジョアン・ソウタンは前田玄以法印の嫡子左近殿秀則の家臣であり、法印から二千石の俸禄を受けていたので、毛利重政の豊後国赴任にあわせて同国に赴き、重政の従弟・毛利高政の要請のもと日田でキリシタン布教を試みた、とも考えられる。ジョアン・ソウタンは二千五石の武将であるが、前田玄以法印は比叡山の元僧侶であり、また学僧で妙心寺の元管長であったチュウアンをキリシタンにするなど、僧侶との交わりも深いものがる。日田に来たジョアン・ソウタンが元仏僧であったとの1596年度年報の表現は、そうした背景で記されたかもしれない。

※註3…佐久間正訳の「イエズス会1596年度年報」(『キリシタン研究・第20輯』掲載)では、「殿のかなり年下の弟」となっている。日田の「殿」毛利高政の「弟」は「吉安」である。吉安は、江国寺墓誌および寛永19年(1643)毛利家が幕府に提出した系図によると、「寛永17年(1640)4月1日、68歳にて死す」とあるので、元亀3年(1572)の生まれになる。兄・高政は永禄2年(1559)生まれであるので、その年齢差は13歳になる。したがってイエズス会年報が伝える「殿(高政)のかなり年下の弟」という表現は正確であると言える。同年報は、毛利吉安が1596年に受洗してキリシタンになったという、新たな情報を提供している。


2021年5月31日月曜日

日田のドン・パウロ志賀親次④

 ■1596年度日本年報ー日田における毛利高政と志賀親次の友誼

 ーその③再び毛利高政のこと

 日田のこの司祭は、次のように言った。自分はこの殿〔彼については我らは先に話した(※すなわち毛利高政)〕ほど、大きな愛情と好意の徴しを司祭たちに対して示したキリシタンはこれまでには知らなかったし、また自分の地区のすべての人々をキリストの教会へ導こうと、これほど大きな熱望を抱いていた人を知らなぬと。さらに彼については、次のように言われている。彼は非常に乱暴であったので、一同は彼の並々ならぬ温和、親切、愛想のよさに対して驚嘆している。それゆえ領民たちは、絶えず彼から受ける利益のゆえに、殿としてではなく父親のように彼を慕っていると。彼はその熱心さによって、間もなく教会を建てようと望んだ。これによって我らの聖主なるデウスは、このように敬虔で聖なる熱望をかなえさせるために、ジョアン・ソウタンによって大きくされたあの寺院を空家のままで保存し給うたことが判るであろう。しかしその寺院は破損していたので、彼はただちに必要な石、木材その他の材料を集めて完成させるように命じた。彼自身が毎日仕事に立ち会ったので、工事人たちは彼がいない時にしたのよりは二倍も働いた。彼に仕えていた若い貴人たちも、彼に喜ばれることをするためにその現場に赴いて仕事を手伝った。また我らの修道士が、先述の若者たちや彼らの家来や家族、それに彼の年下の兄弟に対して説教を始めた時、皆はデウスの言葉によって大いなる収穫をもたらし、間もなく彼らの中の三十三名が洗礼を授かった。

 〈解説〉宣教師は再度、毛利高政について言及し、彼が「司祭への愛情と好意」、そして「領民すべてのキリスト教への改宗」を「熱望」していることを述べている。「勇敢な武人」として戦火をくぐり抜け、あるいは「抜群の理解力」によって築城家としても活躍した経歴から、これまで「非常に乱暴」(註1)な印象さえあった彼が、今に至って「温和で親切、殿と言うより父親のように領民から慕われる」人物へと変貌を遂げていたのだ。

 同年報は追って、高政が都から呼び寄せた異教徒の父・高次の、キリシタンを容認する息子高政への怒りについて記しているが、高政はこれについても冷静に、そして熱心と賢明さをもって対応し、父の怒りを鎮めている。

 こうした高政のキリシタン武人としての成長ぶりをルイス・フロイスはなかば「驚き」をもって叙述しいるが、その理由については説明がない。推察するに、九州のほぼ真ん中にあって山々に囲まれ、いくつもの支流が曲線を描きながら一本に合流する日田の坩堝(るつぼ)のような自然環境。もしくはその美しい川の畔に位置する日隈城で一年余過ごした後、城下町に司祭と修道士を迎えた彼の36歳という年齢…、等々が上げられるものの、何よりドン・パウロ志賀親次との出会いがその大きな要因ではないだろうか。ドン・パウロ親次はキリシタン信仰において「西の高山右近」と称され、また武勇においては秀吉にも知られた人物であり、正義に関して妥協しない潔癖性や頭脳の明晰生、そして火のごとく燃える性格など、二人は深層部分で共通するものがあったからだ。

 とにかく、日田のキリシタン史がここに至って夜明けを迎えたのは事実である。(つづく)


※註1…結城了悟氏は「以前は残酷な人でした」と訳している。『キリシタンになった大名』(1999年聖母の騎士者発行)196頁。

2021年5月29日土曜日

日田のドン・パウロ志賀親次③

 ■1596年度日本年報ー日田における毛利高政と志賀親次の友誼

 ーその②志賀親次のこと

 豊後の国王(大友義統)のかの不運の際に追放処分を受けたドン・パウロ(志賀親次)は、日田に近い地で二千俵の禄を受けていたが、先の高貴な殿(毛利高政)の特別な友人であったので、六千歩隔たった所にいる彼(ドン・パウロ)を呼んで、イエズス会の司祭が一人の修道士とともに訪れていることを知らせ、そして彼(ドン・パウロ)はこう言った。自分は司祭に対して罪の告白をしたいと望んでおり、また己が家臣たちに対しては少しずつ福音の説教を聞いてキリシタンになるよう勧め、また教会を建てることをも考えていると。彼はやがて仲間の数名の貴人たちと一緒に教理を聞きはじめ、そして疑問の箇所を出して、それらの解答によって大いに満足した。彼は熱心な人であったので、修道士の説教の際しては援助の手をさしのべた。また彼は自分の家臣たちに対してこう言っていた。すべての神や仏は地獄にいて、そこから自分を解放することができぬのであれば、他の人々を自由にすることはなおさらでできない、と。

 彼は夕方には二、三十名の貴人たちと訪ねて来て、デウスの言葉を聞いてただすよう勧めたが、彼には、このようなことができることより楽しいことは何もなかった。彼はその間は彼らのもとを去らず、彼らと一緒に夜半過ぎまで説教を聞き、若者たちに対してこう言った。彼らの改宗によって自分もまた利益に与っていると。そして彼は言った。「なぜなら私は、キリシタンたちはデウスを畏れているから信頼するが、異教徒たちに対しては同様にはいかぬからである。我らの法が基づいている平易で明白な諸道理を理解しない人々があるとすれば、それ自体が狭量の精神と判断の人である徴しだからである」と。さらに彼はこう付言した。福音の法が自分の気持ちに合ってもキリシタンにはならぬ人々は、自分の意見によると、その改宗を引き延ばしているのは、他の人々の禄をよりかってに掠めるためにほかならないと。最後に彼は、己がすべての家臣たちに対してこう示した。もし自分(ドン・パウロ)の禄によって生活を受けることを望む者は、以後は妻は一人にすることで満足すべきであり、この点では己が模範をまねるがよいと。

 〈解説〉「豊後の国王(大友義統)のかの不運」とは、朝鮮戦役(文禄の役)での失策である。これによって大友氏は改易処分となったが、志賀親次は秀吉との特別の誼(よしみ)から「千石の知行」を「日田郡大井庄」に受けた。ここに宣教師が言う「ドン・パウロが受けた」「二千俵」の「日田に近い地」がそれである。

 高政と親次の両者は「特別な友人であった」とあるが、過去における交友の経緯は分からない。ただし、二人がキリシタンゆえの友人であったことは、親次が「私は、キリシタンたちはデウスを畏れているから信頼するが、異教徒たちに対しては同様にはいかぬ」と述べていることから明白である。

 志賀親次は家臣や貴人たちを引き連れて大肥庄から日田の宣教師のもとに来た。その距離は「六千歩」(註1)。大肥庄と日田盆地とを隔てる田代峠ー山田地区を経る道程であったと思われる。最初に「己が家臣たち」、次に「やがて仲間の数人の貴人たちと」、さらには「夕方には二、三十人の貴人たちと訪ねて来て」とあるので、それは一度ならず再々のことであった(註2)。中でも「熱心」であったのは親次本人であり、「修道士の説教の際には、援助の手をさしのべた」ほどであった。

 この中で、親次が家臣らに述べた言葉は興味深い。「福音の教えの諸問題をよく理解して、しかもキリシタンにならず、これを引き延ばしている者は、禄盗人である」。「わが禄を食む者は妻を一人以上もってはならぬものと考えよ」(佐久間訳)と述べ、自らその模範を示して見せたことなどは、彼のキリシタン信仰の純真さ、高潔さ、堅固さを示すものであろう。

 また、「(日本の)神や仏は地獄にいて、そこから自分を解放することができぬのであれば、他の人々を自由にすることなどなおさらできない」と明言しているのは、彼が日本の神仏宗教の救いの限界を論理的に理解していたことを表している。ドン・パウロはかつて、父・志賀道輝(親守)が親次の固いキリシタン信仰に折れて、「汝はキリシタンのままで良い。でも、一つだけお願いがある。予はもう年寄りで仏教徒だ。だからここにある二つの寺院には手を付けないでほしい」と頼み込んだことがあり、それに対しても敢然と「デウスに対する冒涜に同意するわけにはいかない。御許様の言う通りにすれば、悪魔を再び尊拝することを認めることになる」と一蹴したことがあった(註3)。キリシタン教理に対する一点の妥協も許さない潔癖さである。このように火の如く燃える信仰と、また理知的に教理を把握する点では、ドン・パウロ志賀親次と毛利高政の両者は一致するところがあったかもしれない。(つづく)


※註1…佐久間正訳「1596年度イエズス会年報」(『キリシタン研究・第二十輯』所載)では、「2レーグア」となっている。なお、この翻訳では「パウロを呼びにやった」人物を、〔〕付で「宗像」と注記しているが、「毛利高政」の間違いである。

※註2…前掲書(佐久間正訳)では、「毎晩…来て」と翻訳されている。

※註3…「1585年8月20日付、長崎発信、ルイス・フロイスのイエズス会総長宛書簡」(『十六-七世紀イエズス会日本報告集・第Ⅲ期第7巻』28-30頁掲載)


2021年5月28日金曜日

日田のドン・パウロ志賀親次②

  豊後国宇目の「るいさ」を追跡調査する過程で、筆者は「日田郡大井庄」という地名が何故か心に残った。それは、宣教師文書に出てくる「ルイサの夫イチノカミドノ」が毛利伊勢守高政であることが判明し、彼が日田と玖珠を治めていた時代、隣接する「大井庄」に千石の知行を宛がわれたドン・パウロ志賀親次がいて、両者が親しく交流してキリシタン信仰を温めたという、ゆかりの地であったからである。それはまた、火の如く燃える信仰を有しながらやがてキリシタン史から消えていく謎のドン・パウロ志賀親次と、佐伯藩初代藩主となって「かくれのキリシタン大名」を演じた毛利高政との密談の場所でもあり、その後の禁教時代における豊後国「かくれ」キリシタン時代がイエズス会の地下組織・コングレガチオとともに展開された、その起点ともなった場所であった(註1)。

 「大井庄」は「大肥庄(荘)」であることは、のちに日田の友人から知らされたが、『角川日本地名辞典・44大分県』には、「大肥荘。鎌倉期から見える荘名。豊後国日田郡のうち、筑後川(三隈川)の支流大肥川流域一帯と想定され、現在の日田市大字小野・鶴河内・大肥・夜明のあたりに比定される。」とある。

 日田のキリシタン史を繙くには、いずれ現地を訪ねてみなければならないー募る思いを果たせたのは2021年5月、例年より早く到来した梅雨の時期であった。その大肥庄現地踏査を紹介する前に、先に毛利高政と志賀親次との交流を記録したイエズス会の史料「1596年度日本年報」(註2)にふれなければならない。

 一般には、日田にはキリシタンがいなかった(註3)とされているようだが、それはこの一史料をもって覆えされるであろう。1596年(慶長1)、二人のパードレ(司祭)と二人のイルマン(修道士)が豊後国に入り、野津や府内、志賀(竹田)など各地で信者を牧会指導した中に日田における活動の様子が綴られている。

■1596年度日本年報-日田における毛利高政と志賀親次の友誼

 ーその①毛利高政のこと

  彼(毛利高政)はまだ若い時に大阪でキリシタンになってから、すでに十二年たっていた。彼は武士として出陣していたので、デウスの認識はほとんど留めていなかった。しかし彼は特別な理解力をもっていたので、以前に聞いた教理の講話を非常に心に留めており、それらをあたかも説教者の務めを果たしているかのように繰り返して言っていた。そして私は、十年前に下関で彼がその一部を大いなる権威と熱意をもって話しているのを聞いて非常に驚嘆したことがある。この男は性格が火のようであると思われる。なぜなら彼は一度知識を頭に入れると、それをすべて(そのまま)伝えるからである。彼は二名の司祭が豊後に滞在しているのを知ると、その中の一名を自分の所へ派遣してもらえばデウスのより大いなる光栄になるであろうと使者を遣わして頼んだ。彼は司祭が来ると非常に喜んで歓迎し、自らその栄誉ある小姓たちとともにミサを献げるための祭壇を作り、それからただちに米十二俵と、その他司祭館のために必要なものを送った。

 〈解説〉毛利高政(森勘八)は1584年、大阪で洗礼を受けた。戦陣に明け暮れ、そのため「デウスの認識はほとんど留めていなかった」が、「彼は特別な理解力をもっていた」ため、キリシタンの教理が心から離れることはなかったらしい。あわせて「性格が火のようである」と宣教師は記している。

 「1595年9月」付けで高政は豊後国日田・玖珠二郡の所領の朱印状を受けて日田に赴任し、日隈城を居城とした。翌1596年、同国に二名の司祭が滞在しているのを耳にし、使者を遣わして一名の司祭と一名の修道士を招き入れ、司祭館となる家を提供してキリスト教導入の準備を整えた。その際、「司祭が来ると非常に喜んで歓迎」した、という。高政がこの時、キリシタン大名として立つ下地がすでに固まっていた、と見ることができよう。(つづく)  

毛利高政が居城とした日隈城の城趾(日田市内)


註1…拙著『るいさと毛利高政ー欧文史料で読み解く豊後キリシタン秘史-』(2018、豊後キリシタン研究会刊)の「ドン・パウロ志賀親次の意志を引き継いだ高政」(36ー39頁)参照。

註2…『16-7世紀イエズス会日本報告集』第Ⅰ期第2巻(1987年同朋者刊)「1596年12月13日付、長崎発信、ルイス・フロイスの1596年度年報」中の「豊後の国での二名の司祭と二名の修道士の布教について」。

註3…『大分縣地方史61号』(1971年3月刊)「日田地方のキリシタンについてー高倉芳男」。「イエズス会1596年度年報」にも、「この日田の領地には、フランシスコ王(大友宗麟)はその生存中に決して神の教えを導き入れえなかったし、改宗への扉が堅く閉ざされていたために、キリシタンは一人もいませんでした」とある。ゆえに、日田におけるキリシタン改宗は毛利高政が宣教師を招聘した「1596年」が嚆矢であった。


2021年5月27日木曜日

日田のドン・パウロ志賀親次①

  豊後国(大分県)が日本のキリシタン史において光彩を放ったのは、ドン・フランシスコ大友宗麟(1530-1587)の功績に依るものであった。「日本の(キリシタン)改宗はデウスに次いで、この善良なる国主(大友宗麟)に負うている」と、イエズス会宣教師カブラルは、彼の果たす使命の大きさについて記したことがある(註1)。

 ところが1587年6月、宗麟の逝去を機に同国のキリシタン情勢は一変する。しばらくは息・義統によって領国統治が維持されたものの1593年、朝鮮戦役の失策により改易処分となり、ついには崩壊を余儀なくされた。その一方で、同国におけるキリスト教布教は苦境を克服しながら、なおも継続された事実をイエズス会の諸記録は伝えている。

■秀吉の朱印状

 豊後国で大友宗麟に次いで注目された武将がいる。ドン・パウロ志賀親次(竹田・岡城主)である。対島津戦においては、宗麟のキリシタン導入を理由に反旗を翻し、あるいは敵側に寝返った配下の家臣・武将が多々いた中で、志賀親次は勇敢に戦い、その武勇は秀吉にも認められた。彼が朝鮮戦役から帰陣し、主家とともに滅びる運命にあったとき、彼はひとり秀吉のもとに赴き、行き残りを模索した(註2)。

 結果、秀吉が志賀親次に示した情けは、「千石」の知行であった。「文禄五年」(1596年)の年号が付された「志賀小左右衛門(親次)」宛て秀吉朱印状によると、知行地として「豊後国日田郡大井庄」が記されている。

 


 筆者がこの史料を目にしたのは、豊後国宇目のキリシタン「るいさ」を追跡した2018年春、もしくはそれ以前、大友宗麟の長女ジュスタとその夫・清田鎮忠のキリシタン事績調査の最中であった。志賀氏のご子孫であられる志賀昭夫氏が2008年(平成20)に編集発刊された『志賀文書解釈書』に掲載され、その原文書は「東京大学史料編纂所所蔵の志賀文書謄写史料」であると明記されている。

 文面は、「豊後国以日田郡大井庄内/千石令扶助事/可全領知候也/文禄五年/三月十一日/志賀小左右衛門殿」。読み下しすると、「豊後国日田郡大井庄内を以て、千石扶助せしめる事、全て知行すべく候也。文禄五年三月十一日(秀吉朱印)、志賀小左右衛門殿」である。(つづく)


註1…「1581年9月15日付、日本のイエズス会の上長フランシスコ・カブラル師よりイエズス会の総長に宛てた書簡」

註2…「志賀ドン・パウロ殿は報せ接すると、豊後の多くの貴人たちとともに妻子を連れ(戻し)に行こうと朝鮮から帰って来た。そして、(妻)マグダレナを毛利の地から連れ戻した。その後彼は何らかの助けが得られないものかと、都へ関白(秀吉)に伺いを立てに行った。関白殿は豊後の国を自ら確保する考えであるから、元どおりに領主に収まることは不可能と思われるものの、(かつて)関白が下(しも=九州)に来た時に彼はつねに忠実に奉仕し、薩摩と善戦し、このたびの朝鮮における戦でも同じような武勲を立てたのので、彼が他の地において封禄が与えられるのではないかと期待している。」(フロイス『日本史』第三部39章、松田・川崎監訳ー豊後篇Ⅲ第80章)

2021年3月13日土曜日

ナバロ神父と佐伯藩主・毛利高政

 ■「るいさ」を偲ぶ命日402周年墓参

 17世紀はじめ、徳川幕府の禁教令下、宣教師ペトロ・パウロ・ナバロを匿い、潜伏キリシタンたちをお世話したコングレガチオ信心会の中心的存在であった「るいさ」は1619年(陰暦)1月22日、大分県の南郡(なんぐん)宇目郷(現・佐伯市宇目重岡)で亡くなった。その命日である2021年3月5日(陰暦1月22日)、家族とともに墓参に出かけた。

 小雨の中、九州・山口の各地から仲間たちが集い、急峻な参道の細い坂道を上り、丘の上にひっそりと佇む「るいさ」墓碑に辿り着くと、そこにはいつもと違う表情をした「るいさ」の墓碑が待っていた。過去四回ほど来たことがあるが、雨に濡れた墓碑を目にするのは初めてであった。碑面に刻まれた「元和五年/るいさ/正月廿二日」の文字がくっきりと際立ち、喜びとも、悲しみともつかない言葉を語りかけているようであった。

 私はその場で、かつて同地域に潜伏した宣教師ペドロ・パウロ・ナバロ神父に、「るいさ」ら宇目郷のキリシタンたちが秘かに届けた食事について紹介した。史料は、マテウス・デ・コウロス神父が書いた「ナバロ神父殉教記」の中に出てくる一節である。

 「毎日二度、村から一人の男が食物を持って来た。その食物は、農民が酒を買うときに使う口の細い焼き物の瓶に入った細かく刻んだ野菜の味噌汁と、少々の飯を混ぜた一切れの塩漬けの魚や、焼いた鰯だけであった。これを古い木の箱に入れ、さらに秘かに行うために全体を藁に包んでいた。もし、誰かがそれを運んでいる者に出会っても、畑で働いている百姓の食事だと思うようにとのことであった。」(註1)

 島原から持参した花を供え、讃美歌391番「ナルドの壺」をうたい、ルイサとその仲間たちの献身的信仰を偲んだ。


■ナバロ神父とアウグスチイノ会、そして佐伯藩主・毛利高政のこと

 今回のルイサ命日墓参に際し、私は新たに発見したナバロ神父にかんするアウグスチイノ修道会神父による記録史料を用意していたが、披露する時間もなく、解散した。ここに改めて紹介しておきたい(註2)。

 それは、ルイサらが匿ったイエズス会宣教師ペドロ・パウロ・ナバロ神父と、豊後国の東部海岸地域一帯で布教を展開したアウグスチイノ会との交流を証明するものであり、アウグスチイノ会のバルトロメオ・グチエーレス師が「1623年3月14日付」で書いた「報告書」である。同師はその中で、イエズス会士ペドロ・パウロ・ナバロ神父の殉教(1622年11月1日)について記し、冒頭で次のように述べている。

 「有馬領の島原では(1622年)11月1日に、4人を焼き殺しましたが、甚だ悲壮な光景でした。これはイエズス会のパードレ・ペドロ・パウロ・ナバロ、その同宿ダミアンおよび他の2名です。今まで日本にいた我が修道会(アウグスチイノ会)のパードレは、みなこのパードレ・ナバロをよく識っていました。それは彼が、豊後国の臼杵(註3)にいる私たちの近くの土地に長い間住み、その地の大名に敬意を表すために私たちのいる市にたびたび来て一緒に生活したし、私たちの修道院で長い間病気の療養をしていたことがあるからです。

 「豊後国の臼杵にいる私たち」とは、言うまでもなく臼杵を布教基地としたアウグスチイノ会(修道士たち)である。また、イエズス会宣教師ナバロが「長い間住んだ」というアウグスチイノ修道会布教地の「近くの土地」とは、豊後国南部の「なんぐん(南郡)」と称された、こんにち「るいさ」墓碑が存在する宇目郷を含む地域を指すであろう。したがって「その地の大名」とは、竹田の城主・中川秀成か、佐伯の城主・毛利高政であるが、「私たち(アウグスチイノ会)のいる市(この場合、臼杵、津久見、佐伯、縣を指す)にたびたび来た」ことからすると、佐伯の城主毛利高政であることは明らかである。

 イエズス会のナバロ神父が病気になり、佐伯にあるアウグスチイノ会の修道院(註4)を頼り「一緒に生活し、療養した」ということを証言するものであるが、一般にイエズス会が托鉢修道会を敬遠し排斥したことからすると驚くべき、かつ感動的な事実である。

 筆者が注目したいのは、なかでも「その地の大名(毛利高政)に敬意を表すために、私たちのいる市(佐伯)にたびたび来た」というくだりである。佐伯の大名・毛利高政と、「なんぐん」の山間に隠れ住んだナバロ神父がこのように親しく会い、交流したという史実は聞いたことがない。これもまた、驚くべき、かつ感動的な史実である。

 佐伯藩初代大名・毛利伊勢守高政は元キリシタンであり、当時は棄教者として知られていたが、実はキリシタンを秘かに保護するため、敢えて棄教者を装った〃隠れのキリシタン大名〃であった。これについて筆者は論考「欧文史料で読み解く豊後宇目のるいさ⑧毛利高政のキリシタン信仰」(註5)で紹介したことがある。あわせて「るいさ」の夫「イチノカミドノ」が毛利伊勢守高政であることにもふれた(註6)。

 このようなキリシタン史に係る史実は、禁教令が敷かれた近世封建社会では信じ難いことであるが、キリスト教宣教師らが記録した欧文史料は、それらを史実として記録し伝えている。アウグスチイノ会のバルトロメオ・グチエーレス師の「報告書」もそれを補い、証明してくれる史料である。

 毛利高政は当時、キリシタンたちによって「イチノカミドノ」と称され、宣教師ナバロを匿った「るいさ」とは夫婦関係にあった。つまりは、二人はキリシタン信仰によって結ばれた仲であるが、同時に豊後地域のキリシタン保護のため政策的・政略的に結ばれた夫婦ー「るいさ」は高政の妾妻ーであった、と言うことができよう。したがって、ナバロ神父にとって「るいさ」とその夫「イチノカミドノ・毛利高政」は自分の身上を保護してくれた恩人であった。それだからこそナバロ師は「なんぐん」の山間から佐伯の市に「たびたび来て」、「その地の大名」である毛利高政に「敬意を表した」のであった。

 キリスト教禁止令の幕命を奉じる多くの大名たちが宣教師捜索に躍起となり、それを見つけるや獄に入れ死刑に処した時代、潜伏宣教師ペドロ・パウロ・ナバロ神父が佐伯の大名毛利高政に会い、敬意を表したなど、信じ難いことであろう。その有り得ない光景が実際、ここ豊後国「なんぐんー佐伯」で秘かに展開されていたのだ。

「るいさ」墓地の参道脇には無数の赤い藪椿の花が落ちていた。


※【註1】…マテウス・デ・コウロスによる「ペトロ・パウロ・ナバロ神父の伝記」ー西日本新聞1992年4月9日付掲載記事・結城了悟筆「殉教の地を歩く⑤」

※【註2】…『キリシタン研究第二十五輯』(昭和60年・吉川弘文館発刊)掲載「聖アウグスチイノ会キリシタン関係史料ー佐久間正訳」

※【註3】…アウグスチイノ修道会は1602年、京都のフランシスコ修道会を介して豊後での布教許可を得、デ・ゲバラ師が臼杵に修道院と天主堂を建てた。1606年にエルナンド・デ・サン・ヨゼフ師が臼杵から佐伯に赴き、修道院を建て、さらに日向の縣(あがた)に行き、天主堂を建てた。また1611年には津久見に教会を建てた。1613年当時、臼杵の市の住民4万人のほとんどはアウグスチイノ会のキリシタンであり、縣にも8千人のキリシタンをつくった、という(レオン・パジェス『日本切支丹宗門史』)。

※【註4】…佐伯の「近く」のアウグスチイノ会の修道院は、1606年にエルナンド・デ・サン・ヨゼフ師が建てた「小さな修道院」と、他に同地の大名毛利高政が建てた「大きな修道院」の二つがあった。

※【註5】…本ブログ「花久留守ー宮本次人キリシタン史研究ブログ」、2018年6月10日付記事参照。

※【註6】…シュタイシェン著『切支丹大名記』(吉田小五郎訳・昭和5年発刊)でも、レオン・パジェスの史料を取り上げ、「この著者が毛利(高政)をさしていふ市正(Yichinokami)の名は、この大名の称号「伊勢守」の転化である。」と註記している(同著305頁)。