2021年5月31日月曜日

日田のドン・パウロ志賀親次④

 ■1596年度日本年報ー日田における毛利高政と志賀親次の友誼

 ーその③再び毛利高政のこと

 日田のこの司祭は、次のように言った。自分はこの殿〔彼については我らは先に話した(※すなわち毛利高政)〕ほど、大きな愛情と好意の徴しを司祭たちに対して示したキリシタンはこれまでには知らなかったし、また自分の地区のすべての人々をキリストの教会へ導こうと、これほど大きな熱望を抱いていた人を知らなぬと。さらに彼については、次のように言われている。彼は非常に乱暴であったので、一同は彼の並々ならぬ温和、親切、愛想のよさに対して驚嘆している。それゆえ領民たちは、絶えず彼から受ける利益のゆえに、殿としてではなく父親のように彼を慕っていると。彼はその熱心さによって、間もなく教会を建てようと望んだ。これによって我らの聖主なるデウスは、このように敬虔で聖なる熱望をかなえさせるために、ジョアン・ソウタンによって大きくされたあの寺院を空家のままで保存し給うたことが判るであろう。しかしその寺院は破損していたので、彼はただちに必要な石、木材その他の材料を集めて完成させるように命じた。彼自身が毎日仕事に立ち会ったので、工事人たちは彼がいない時にしたのよりは二倍も働いた。彼に仕えていた若い貴人たちも、彼に喜ばれることをするためにその現場に赴いて仕事を手伝った。また我らの修道士が、先述の若者たちや彼らの家来や家族、それに彼の年下の兄弟に対して説教を始めた時、皆はデウスの言葉によって大いなる収穫をもたらし、間もなく彼らの中の三十三名が洗礼を授かった。

 〈解説〉宣教師は再度、毛利高政について言及し、彼が「司祭への愛情と好意」、そして「領民すべてのキリスト教への改宗」を「熱望」していることを述べている。「勇敢な武人」として戦火をくぐり抜け、あるいは「抜群の理解力」によって築城家としても活躍した経歴から、これまで「非常に乱暴」(註1)な印象さえあった彼が、今に至って「温和で親切、殿と言うより父親のように領民から慕われる」人物へと変貌を遂げていたのだ。

 同年報は追って、高政が都から呼び寄せた異教徒の父・高次の、キリシタンを容認する息子高政への怒りについて記しているが、高政はこれについても冷静に、そして熱心と賢明さをもって対応し、父の怒りを鎮めている。

 こうした高政のキリシタン武人としての成長ぶりをルイス・フロイスはなかば「驚き」をもって叙述しいるが、その理由については説明がない。推察するに、九州のほぼ真ん中にあって山々に囲まれ、いくつもの支流が曲線を描きながら一本に合流する日田の坩堝(るつぼ)のような自然環境。もしくはその美しい川の畔に位置する日隈城で一年余過ごした後、城下町に司祭と修道士を迎えた彼の36歳という年齢…、等々が上げられるものの、何よりドン・パウロ志賀親次との出会いがその大きな要因ではないだろうか。ドン・パウロ親次はキリシタン信仰において「西の高山右近」と称され、また武勇においては秀吉にも知られた人物であり、正義に関して妥協しない潔癖性や頭脳の明晰生、そして火のごとく燃える性格など、二人は深層部分で共通するものがあったからだ。

 とにかく、日田のキリシタン史がここに至って夜明けを迎えたのは事実である。(つづく)


※註1…結城了悟氏は「以前は残酷な人でした」と訳している。『キリシタンになった大名』(1999年聖母の騎士者発行)196頁。

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