2021年5月27日木曜日

日田のドン・パウロ志賀親次①

  豊後国(大分県)が日本のキリシタン史において光彩を放ったのは、ドン・フランシスコ大友宗麟(1530-1587)の功績に依るものであった。「日本の(キリシタン)改宗はデウスに次いで、この善良なる国主(大友宗麟)に負うている」と、イエズス会宣教師カブラルは、彼の果たす使命の大きさについて記したことがある(註1)。

 ところが1587年6月、宗麟の逝去を機に同国のキリシタン情勢は一変する。しばらくは息・義統によって領国統治が維持されたものの1593年、朝鮮戦役の失策により改易処分となり、ついには崩壊を余儀なくされた。その一方で、同国におけるキリスト教布教は苦境を克服しながら、なおも継続された事実をイエズス会の諸記録は伝えている。

■秀吉の朱印状

 豊後国で大友宗麟に次いで注目された武将がいる。ドン・パウロ志賀親次(竹田・岡城主)である。対島津戦においては、宗麟のキリシタン導入を理由に反旗を翻し、あるいは敵側に寝返った配下の家臣・武将が多々いた中で、志賀親次は勇敢に戦い、その武勇は秀吉にも認められた。彼が朝鮮戦役から帰陣し、主家とともに滅びる運命にあったとき、彼はひとり秀吉のもとに赴き、行き残りを模索した(註2)。

 結果、秀吉が志賀親次に示した情けは、「千石」の知行であった。「文禄五年」(1596年)の年号が付された「志賀小左右衛門(親次)」宛て秀吉朱印状によると、知行地として「豊後国日田郡大井庄」が記されている。

 


 筆者がこの史料を目にしたのは、豊後国宇目のキリシタン「るいさ」を追跡した2018年春、もしくはそれ以前、大友宗麟の長女ジュスタとその夫・清田鎮忠のキリシタン事績調査の最中であった。志賀氏のご子孫であられる志賀昭夫氏が2008年(平成20)に編集発刊された『志賀文書解釈書』に掲載され、その原文書は「東京大学史料編纂所所蔵の志賀文書謄写史料」であると明記されている。

 文面は、「豊後国以日田郡大井庄内/千石令扶助事/可全領知候也/文禄五年/三月十一日/志賀小左右衛門殿」。読み下しすると、「豊後国日田郡大井庄内を以て、千石扶助せしめる事、全て知行すべく候也。文禄五年三月十一日(秀吉朱印)、志賀小左右衛門殿」である。(つづく)


註1…「1581年9月15日付、日本のイエズス会の上長フランシスコ・カブラル師よりイエズス会の総長に宛てた書簡」

註2…「志賀ドン・パウロ殿は報せ接すると、豊後の多くの貴人たちとともに妻子を連れ(戻し)に行こうと朝鮮から帰って来た。そして、(妻)マグダレナを毛利の地から連れ戻した。その後彼は何らかの助けが得られないものかと、都へ関白(秀吉)に伺いを立てに行った。関白殿は豊後の国を自ら確保する考えであるから、元どおりに領主に収まることは不可能と思われるものの、(かつて)関白が下(しも=九州)に来た時に彼はつねに忠実に奉仕し、薩摩と善戦し、このたびの朝鮮における戦でも同じような武勲を立てたのので、彼が他の地において封禄が与えられるのではないかと期待している。」(フロイス『日本史』第三部39章、松田・川崎監訳ー豊後篇Ⅲ第80章)

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