2022年4月19日火曜日

きりしたん作法で解く島原の乱①

序、蜂起・一揆ではなかった「立上り」

 歴史家の多くが島原の乱事件を農民一揆とした理由の一つに、「立上(たちあが)り」の言葉を読み誤ったことが上げられる。「矢文」をはじめとするキリシタンたちの文書には、棄教を意味する「転(ころ)ぶ」または「宗門を改める」の対語として「立上り」が登場するが、それは〃元のキリシタンに復帰する・再改宗〃を意味する言葉であった。たとえば、島原・三会(みえ)地方の転びキリシタンの証言に次のようなくだりがある。「先年、へるせきさん相始り候節、弱き色体にひかれ、ころび申すもの数限りなく候つれども、いづれも御出家衆には、はなれ申し、立あがり申すべき便りも御座なく、昼夜かなしみに沈み罷り在り候…」(註1)。現代文に直すと、〃幕府によるキリスト教迫害が始まったとき、信仰の弱さゆえ、肉体の命が惜しくて転び・棄教した者が数多くありましたが、いずれもパードレ(司祭)がいなくなったため、立上りの方途がなくなってしまい、昼夜悲しみに沈み込んでおりました〃である。その「立上り」は〃転びからの立上り〃であって、一揆または蜂起の意味がないことは明らかである。

 ■「立上り」のためのキリシタンの作法―ゆるしの秘蹟

 また、原城に籠もったキリシタンたちが、その行動の経緯や理由について説明した「矢文」の一節に、「右の仕合(しあ)わせ、きりしたんの作法に候」というのがある(註2)。〃このような行動に至ったのは、キリスト教の教義に基づく作法・仕方である〃といった意味である。それは、島原の乱の性格を端的に説明したものであると思われるが、多々ある乱関連の論考・書籍の中でこれに言及したものが見当たらない。

 もとキリシタンであった人々が幕府の禁教令に屈して転び証文に署名し、心なくも仏教寺院の檀信徒として過ごした「転び」の日々は、キリスト教の教義である「十戒」の第一条「我(デウス)以外、神とするなかれ」(註3)を犯す「モルタル罪(死に値する罪)」であった。この不信仰の罪を償い、元の状態に戻るための「きりしたん作法」は「ゆるしの秘蹟」に他ならない。キリシタン時代の教義書『どちりいな・きりしたん(Doctrina Christao)』に、ポルトガル語で「ぺにてんしやのさからめんと(Penitencia Sacramento)」とあるのがそれである。これは、①コンチリサン(心中の後悔)、②コンヒサン(言葉で懺悔すること)、③サシチハサン(行為をもって償うこと)の三つの過程を経て成就されるもので、司祭・神父の介在を要するものであった(註4)

 その他、付随的な「きりしたんの作法」として「転び証文」の取り戻しがあり(註5)、また、一同がキリシタンに立ち帰ったことの最終的な証明として、秘蹟中の秘蹟とされる「ご聖体拝領(Eucharistia)」の儀式(ミサ)があったと考えられる(註6)。

 以下、島原の乱事件を「キリシタン作法」による行動として見直し、検証してみたい。

■ゆるしの秘蹟―その①こんちりさん(心中の後悔)

 「ゆるしの秘蹟」について『どちりいな・きりしたん』は、「是即(これすなわち)、ばうちずもを授かりて以後、あにまの病となる科(とが)をなを(治)さるるすぴりつあるの良薬也」と説明している。洗礼を受けて(キリシタンとなって)以降、霊魂の病となる罪科を(犯したとき、それを)治すための良薬である、という意味である。述べたように、この作法は①こんちりさん(心中の後悔)、②こんひさん(言葉による懺悔)、③さしちはさん(行為による償い)の三過程で成就される。

 はじめに、その①「こんちりさん」について検証してみたい。

 『四郎法度書』の文面に「前々よりの御後悔、日々の御礼のおらしよ」とある、その「御後悔(のオラショ)」というのが「コンチリサンのオラショ」である(註7)。転びの罪科を償う最初の段階として、犯した罪科を心中から悔い改める「コンチリサン」が求められた。『どちりいな・きりしたん』では、「もるたる科(とが)を赦さるゝ道(死に値する罪が赦される方途)」について、次のように説かれている。「科はでうすに対し奉りての狼藉(ろうぜき)なるによて、それを悔ひ悲しび、以後二度(ふたたび)犯すまじきと思ひ定め、やがてこんひさん(コンヒサン=告白)を申すべき覚悟をもて科を悔ひ悲しむ事、是(これ)こんちりさん(コンチリサン)とて、科を赦さるゝ道也。」転びキリシタンが愛読した『こんち里さんのりやく』は、これに関する詳細な解説書であった(註8)。その教えに従って彼らは「前々より」「ご後悔のおらしよ」すなわち「コンチリサンの祈り」を唱えてきたし、また原城に集結したのちもこれを継続していた。

 ところで、このように「御後悔(コンチリサン)の祈り」を日夜捧げて過ごした島原・天草地方の転びキリシタンたちが、その間、この世に在って生きた心地がしない、死ぬような苦しみ・悲しみの中にあったと矢文やその他の証言文に綴っているのは、どうしたことであろうか(註9)。あるいは踏み絵を繰り返すなど、幾重にも同じ罪を重ねたため、コンチリサンによって「科を赦される」実感を伴わなかったと思われる。『こんち里さんのりやく』にあるように、その一方で「コンヒサンを申すべき仕合わせ」―すなわち「ゆるしの秘蹟」の第二課程である〃司祭に罪を懺悔告白する「こんひさん」〃の機会の到来を待ち望んでいたのは事実であろう。果たして、25年以前一人の伴天連(宣教師)が書き遺した一巻の書『末鑑』の予言通り(註10)彼らの前に現れたのが、「司祭」役としての天草四郎であり、「コンヒサンを申すべき仕合わせ」の到来であった。

■「司祭」役・天草四郎登場

 筆者は2015年、「司祭」の用語を有しなかった当時のキリシタンたちが、「司(つかさ)」の用語でそれを表していたことや、天草四郎が「司祭」として登場したことを突き止めたことがあった。たとえば、宣教師・コリャードが徴収した文書に「こんはにやの司(つかさ)」、「さんととミんこの司」の表記があり、また『どちりいなきりしたん』に「きりしたんの司」と記されている、その「司」はいずれも「司祭」(または司教)を意味するものである。そして、『山田右衛門作口上書』に「四郎を引き立て、此の宗門の司と仕る…」とあるのは、天草四郎が司祭役に就任したことを説明するものであった。加えて、『寿庵の廻文』で「天人あまくだり成らせられ候…天草四郎様と申すは天人にて御座候」(註11)と言い、また細川藩史料に「四郎は…人間にては無之」(註12)、「でいうすの再誕之様に申し候」(註13)などとあるのは、司祭としての天草四郎を別の言葉で表現したもの、と見ることができるであろう(註14)。

 『寿庵の廻文』をもって島原・天草地域のキリシタンたちに天人・天草四郎の出現が知らされたのは、「寛永14年10月15日」(註15)の満月の夜であった。それから、にわかに「立上り」、転び証文を取り消すための寺社破壊・焼却、それを取り戻すための島原城への直訴行動などを経たあと、「同年12月1日(西暦1638年1月15日)」から原城に入った。司祭・天草四郎が到着したのは「12月3日」(1638年1月17日)。最終的に島原半島・宇土半島・天草の島々から3万7千余の「立上り」「きりしたんに成り候」仲間たちが結集した。

 こうしていよいよ、司祭・天草四郎の直接指導のもと、「きりしたん作法」としての「ゆるしの秘蹟」が真冬の原城を舞台に展開されることになったのである。(つづく)

【写真=「右の仕合わせ、きりしたんの作法に候」とある矢文】

註1】…「元和年間、ドミニコ会士コリャード徴収文書」のうち「元和七年霜月十日付、平左衛門等十八名連署証言」。松田毅一著『近世初期日本関係南蛮史料の研究』(1967年刊)1167頁。

註2】…寛永15年「城中より、御陣中」宛て矢文。「…宗門に御かまひ御座なく候へば存分御座なく候。籠城の儀も頻りに御取り掛かり成られ候につき、此のごとくに御座候。右の仕合わせ、きりしたんの作法に候。…」

註3】…『どちりいな・きりしたん』に、「第七・でうすの御掟の十のまんだめんとの事…第一、御一体のでうすを敬ひ貴び奉るべし」。旧約聖書「出エジプト記」第20章3-5節に、「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。」とある。

註4】…『どちりいな・きりしたん』「第十一、さんたゑけれじやの七つのさからめんとの事」のうち、「第四ヶ条目のさからめんと」として「ぺにてんしやのさからめんと(ゆるるしの秘蹟)」があり、「是すなはち、ばうちずも(洗礼)を授りて以後、あにま(霊魂)の病となる科(とが)をなをさるる、すぴりつある(霊的)の良薬也。」とある。

註5】…本ブログ「花久留守―宮本次人キリシタン史研究ブログ」2016年1月13日付「転び証文を取り戻す寺社放火―島原の乱を解く⑦」参照。

註6】…『どちりいな・きりしたん』「第九、御母さんた・ゑけれじやの御掟の事」五ヶ条の中に、「第二、せめて年中に一度、こんひさん(罪の懺悔告白)を申すべし。第三、ぱすくは(復活祭)に、えうかりすちあのさからめんと(ご聖体の秘蹟)を授かり奉るべし。」とある。

註7】…本ブログ「花久留守―」2016年1月3日付「四郎法度書に見る転びの償い―島原の乱を解く⑥」参照。

註8】…外海・五島・長崎系のかくれキリシタン集団に伝承された「コンチリサン」に関する解説書。「別してこんびさん(コンヒサン=告白)聞かるべきばあてれ(パードレ=司祭)なき所は、科に落ちたるきりしたん、此書を読み明(あき)らめ、おしゑ(教え)のごとく務めば、其(その)科をゆるされ、でうす(デウス=神)のがらさ(ガラサ=恩寵)をかうむり奉り…」とあり、宣教師を失ったキリシタンに、暫定的な「ゆるしの秘蹟」を説くものであった。ただし、平戸・生月系キリシタンには、これの伝承がなかった。島原・天草地域のキリシタンは外海・五島・長崎系との連絡があったため、伝承があったと思われるが、確認されていない。

註9】…「ころび申す者、数限りなく候…いづれも御出家(=司祭)衆には離れ申し、立あがり可申便りも御座なく、昼夜悲しみに沈み罷居候」(コリャード徴収文書「元和7年霜月10日平左衛門等18名連署証言」)。「落涙湿袖(らくるいそでをぬらし)…片時も今生之暇(こんじょうのいとま)希計(ねがうばかり)ニ候」(意訳・いつもいつもこの世との別れ(死)を願うばかりでした)(寛永15年正月付、天草四郎より松平伊豆守様宛矢文)。

註10】…『嶋原物語』に、南蛮に追放された伴天連(宣教師)が天草地方の信徒に遺したという『末鑑』一巻の書物に、「二十五年後にひとりの善童が現れる」と記されている。また『山田右衛門作口上書(口書写)』には、「天草ノ内上津浦と申所に住所仕候伴天連、廿六年以前ニ公儀より御払、異国へ被遣候刻、伴天連書物以申置候ハ、当年より弐拾六年目にて必善人一人生れ出べし…」とある

註11】…「(寛永14年)丑10月15日」付「上総村寿庵の廻文」。

註12】…東京大学史料編纂所『大日本史料近世史料・細川家史料22』(2010年3月刊)所載・細川忠利の諸方宛書状のうち「(寛永15)2月6日、日根野吉空明宛書状」。

註13】…細川藩史料『綿考輯録・第五巻』所載「(寛永14)11月6日、天草にてきりしたんニ立帰申候村々覚」。

註14】…本ブログ「花久留守―」2015年12月19日付「司祭としての天草四郎―島原の乱を解く⑤」参照。

註15】…『島原記巻一』所載の「寿庵の廻文」の日付に「丑十月十五日」。『耶蘇天誅記』に同じく「十月十五日、上総村寿庵」。また『山田右衛門作口上覚書写』に「一、きりしたんのおこり候時分は丑十月十五日頃…一、丑十月十五日の夜に入り、俄にきりしたん立帰り…」とある。

2022年4月7日木曜日

神代貴茂夫人マリアの墓③

 ■2022年マリアの受洗記念日(4月4日)のこと

 神代城の支城・切通の砦に存在したという神代貴茂の夫人マリアとその息女の墓塔について、筆者は島原新聞社に記者として勤務していた2006年、神代在住の歴史研究家・坪田照子女史からある証言を聞いたことがある。「たしかに墓碑は切通の砦の場所に存在したが、町が同所の崖を切り崩して施設(研修センター、武道館)を作ったため行方不明になった」、というのだ。

 いくつかの証言によると、切通の砦は現・神代小学校の敷地に位置し、南側に隣接して小高い丘があり、その上に墓石が存在していた。昭和の年号が平成に変わる頃まであったというその丘が、重機によって崩されるとき、この歴史的遺物(史跡)に対しての然るべき法律または人道に基づく対処はなかったらしい。同小学校敷地の片隅に棄てられたように置かれた墓石の残欠を、当時の学校長・岩崎氏が一カ所に拾い集め、神代氏ゆかりの光明寺(堺光憲住職)に回向(えこう=供養)を依頼したことがあった。堺住職もまた、その時の状況を話してくださった。

 ところで、神代貴茂の夫人マリアとその息女らの墓石はその後、どうなったのだろうか。筆者は2021年9月、雲仙在住の歴史愛好家・中村泰尚氏から一枚の写真(本稿№①添付掲載)と新聞記事(註1)のコピーを頂戴した。写真には、破砕コンクリート片とともに側溝近くに置かれた神代マリア母子の五輪の塔の残欠が、廃棄された格好で写っていた。

 それから半年が過ぎた2022年4月4日、マリアが嶋原純茂の娘(姫)としてアルメイダ師から洗礼を受けた記念日に、筆者はにわか仕立ての標柱と花を抱えて現場を訪れた。歴史愛好者ら関係者14~5人が集う中、神代マリアについていくらか説明し、可能であれば五輪の塔を復元しようと雑草を採り、作業を開始したところ、「そのままにしてくれ。立て札と花は撤去してくれ」、との声があった。

 史跡としての神代貴茂夫人マリアの墓地を破壊し、墓石を廃棄した地元の行政の責任を言わず、これを哀れに思う在野の一研究家が訪れて、墓に花を供える行為を咎める理由はないはずだが、禁教令下、理不尽な世の中に生きたキリシタンを偲ぶには、むしろ相応しい状況であろう。2022年4月4日午後、わずかに5分間ほど「神代貴茂夫人マリアの墓」の標柱を立て、花を供えることができた記念として、ここに写真一枚を掲げ、霊界のマリア母子に捧げたい。(おわり)

写真=神代貴茂夫人マリアの五輪塔残欠に標柱と花を捧げる】
 ※註1…島原新聞2010年4月16日付、宮本記者連載記事「島原キリシタン史発掘」(全40回)のうち第34回記事「切通の砦に隠住したマリア―」。


2022年4月6日水曜日

神代貴茂夫人マリアの墓②

 

 ■神代貴茂夫人マリアのこと

 神代貴茂は、キリシタン大名ドン・ジョアン有馬晴信(15611612)と同時代に生きた有馬氏領の一領主であった。その夫人が嶋原純茂(?~1570?、領主有馬氏の従兄)の娘であったことは、日本側の記録にはないが、イエズス会の複数の記録史料で明らかになる。参考まで次に列挙する。

 ・№①「1563417日付、横瀬浦発イルマン・ジョアン・フェルナンデスより豊後のイルマン等に贈りし書簡」、/・№②「15631117日付、横瀬浦発インドに在るイルマン等に贈りし書簡」(※以上2点は嶋原純茂の娘の受洗のことを記している)。/・№③「1588220日付、有馬発信、ルイス・フロイスのイエズス会総長宛書簡―1587年度日本年報」、/・№④「フロイス『日本史』第70章」(※以上2点は神代城および同城下へのキリスト教布教について述べている)。/・№⑤「1589224日付、日本副管区長ガスパル・コレリュのイエズス会総長宛、1588年度日本年報」(※これには神代貴茂が有馬晴信に誅殺された経緯が記されている)。

 このうち、嶋原純茂が「娘マリアを神代の城主・神代貴茂に嫁がせたこと」を記しているのは、№④である。

 概略は、以下のようである。

島原純茂の娘は156344日(棕櫚の主日)、イエズス会修道士ルイス・デ・アルメイダによって洗礼を受けた。1563年(永禄6)はイエズス会が島原半島にはじめて上陸した年である。マリアは当時23歳(もしくは34歳)の幼女であったが、「高来においてデウスの教えを受け入れた最初の高貴の方」であった。

 父島原純茂は、教会および墓地の敷地を提供するなどキリスト教に理解を示したものの、周囲の仏教勢力の反対により退けられ(註1)、息子の嶋原純豊の時代になると神代氏、西郷氏、安富氏らとともに「キリシタンの敵」龍造寺氏に与した。

 3歳で受洗した島原マリアは、したがって「異教徒たちの間で成長」し、年頃になって神代城主・神代貴茂に嫁いだ。その時期は神代・島原両氏がともに龍造寺氏に降った天正56年のことと思われる。「再び信仰を取り戻した」のはイエズス会が神代城に入った1588年(天正16)。受洗からすでに25年が経過していたが、「祈祷を覚え、ミサ聖祭に与かり、告白する準備をして救いを得られる状態に立ち返った。」と、ルイス・フロイスは『日本史』第70章に記している。

 28歳にしてようやく信仰の春を迎えたマリアではあったが、運命は彼女に味方しなかったようだ。有馬晴信に反抗し続けた夫貴茂は15892月に殺害され、マリアは息女とともに神代城を出て「切通の砦」(神代城の枝城)に隠れ住んだ。江戸時代末期の1844年(天保15)、旧神代氏家臣・辻八郎右衛門が伝承を拾い集めて編纂した『神代古代史』によると、「(夫人は)終に尼となりて貴茂の跡を弔い、かすかに暮らして果てた」という。墓碑「五輪塔」は「切通ノ砦(きりどおしのとりで)」にあって、「苔むし、かつ散乱し…寂々たり」、と伝えている。(つづく)

【写真=文政5年の絵図に見られる神代城跡と神代マリアの墓地があった「切通ノ砦」】

註1】…15669月後半、祇園祭りに乗じて島原の仏教勢力がキリシタンおよび純茂を排斥し、純豊を起用したクーデター事件。逃亡を余儀なくされた島原のキリシタンたちは、口之津を経由して長崎に移住し、「嶋原町」を形成した。

2022年4月5日火曜日

神代貴茂夫人マリアの墓①

 

 ■代村のキリシタン史

 宣教師ルイス・フロイスが「高来の鍵」と著書『日本史』に記録した神代城は、戦国大名ドン・ジョアン有馬晴信の所領地・島原半島の北辺に位置する要害である。城主神代貴茂(こうじろたかしげ)はもと有馬氏の臣であったが、天正5年(1577)龍造寺隆信の勢力拡大にともない伊佐早(西郷)氏、嶋原氏らとともに龍造寺に降った。有馬晴信は「同城を必要としながらも決してそれを攻略することができなかった」。均衡が崩れるのは天正12年(1584)のことである。晴信は沖田畷の戦で薩摩の島津氏と結んで龍造寺を破り、神代城奪回の機を掴んだ。

 その後3年間ほど島原半島の北部一帯は島津氏の支配下に置かれたが、天正15年(1578)豊臣秀吉の九州侵攻により島津氏が降伏し、その支配から解かれた。翌天正16年(1588)、有馬晴信は北目地域に宣教師を派遣してキリスト教布教を展開し、支配権奪回を目指した。

 「…下地方の上長ベルショール・デ・モーラ師は、他の一司祭を伴って神代城に赴いたが、ここは昨年、武力によってドン・プロタジオ(のちのジョアン有馬晴信)の支配下に属したところである。城主(神代貴茂)とその家臣たちは説教を聞いた後、城主とその母堂、および一人の息子と娘、さらにその他の仏僧たち全員が受洗した。こうしてその機会に百五十人の重立った人たちが受洗し、司祭たちが二度目にその地に行った時には百人が受洗した。このようにその地での改宗事業は進展していき、すでに同所にはほとんど一人の異教徒もいなくなった。当1588年(天正16年)の7月までに当地域の各所において千六百八十八人が洗礼を受けた。」(フロイス『日本史・第70章』)

 この後、フロイスは神代貴茂の夫人―1563年春、ルイス・デ・アルメイダ師によって幼児洗礼を受け「マリア」の霊名を授かった嶋原純茂の娘―について述べている。彼女は受洗後、「異教徒だけの間で育ち」、自分が受洗したことさえ忘れる状況にあった」が、25年が経過したこの年(1588年)、再び「(教理を)聴聞して信仰を取り戻した。」。

 一方、夫貴茂は一旦受洗して晴信に降ったものの、内心「晴信の敵」であり続けた。そして、やがて貴茂の最期が訪れる。

 「…この人物(神代城主・貴茂)は今でこそキリシタンに成り代わっているものの、神代の城が奪われたのをみてとると、有馬に対していくつかの策謀をめぐらし始めた。…彼らの間で企てられていた策略が露見するやいなや、ドン・プロタジオ(有馬晴信)は伊佐早殿(西郷信尚)の同意を得て、…神代殿(貴茂)に不意討ちをかけるよう(家臣ら)に命じた。彼らはドン・プロタジオの召使いに刃向かったため、ただちに全員が殺された。…すでに日本人が正月―これはすなわち新年の最初の日―と呼ぶ時期にかかっていた。」(イエズス会「1588年度年報」―1589225日付)。

 神代貴茂が有馬晴信に殺された「正月」は日本の「旧正月」であり、「1588年度」年報が記録された「15892月中旬」に当たる。(つづく)

写真=2022年9月某氏から筆者が受け取った神代マリアの墓碑の写真】