2018年7月30日月曜日

原城跡から見る「潜伏キリシタン関連遺産」の世界遺産登録

 日本時間の630日午後550分、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の世界遺産登録決定を伝える速報が入った。マスコミ各社は一斉に喜びに沸く現地の様子を伝えたが、17年間、同運動を表裏両面から目撃してきた人々―なかでも島原の乱(16371638)によって「キリシタン」史の断絶を余儀なくされた「原城跡」関係者にとって、その喜びは単純なものではなかった。
 きっかけは20019月、幕末―明治期に作られたユニークな造形の教会群に建築学の観点から光が当てられたことに始まった。日本の目から見れば、それでも世界にアピールできる文化的価値があると思われたし、むしろ17年間にわたる推進運動のほとんどすべての時間は、その為に費やされたと言っていい。ところが、土壇場になって国連記念物遺跡会議(イコモス)は「価値証明が不十分である」と指摘。「日本におけるキリスト教の特殊性は禁教期の潜伏の歴史にある。そこに焦点を当てて内容を見直すよう」求めてきた。20161月のことだ。

「教会群」から「潜伏キリシタン」へシフト
これを受けて推薦書は取り下げられ、イコモスの意向に沿っての改訂作業を急ぐこととなった。それ以前(2014年)、国の文化審議会がこれをユネスコに推薦する候補に選びながら、内閣官房有識者会議が「明治日本の産業革命遺産」を推すという異例の事態となり、その政治的駆け引きに涙を呑んだ経緯があった。つまりは残された時間はなかったのだ。それまでの名称「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」を急きょ、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」に変更し、半年もない限られた時間で書き改められたのが、このたびの国連教育科学文化機関(ユネスコ)第42回世界遺産会議で審議された推薦書である。
 結果として、イコモスの指摘により「教会群」から「潜伏キリシタン」に価値評価の重点が移行したことは―それゆえに関係者は戸惑いもあったわけだが―むしろ歴史的な意味が付加された、と言うことができよう。「キリシタン」という名の、日本史においてかつて否定された経歴を持つ人々とその歴史が、404年を経て世界史のコンパスで公認されたことであるからだ。

潜伏キリシタンとは―
 ところで、にわかに書き改められたためか、あるいは「教会群」を中心としたそれまでの推進運動に由来するのか、同推薦書はストーリーの展開でいくらか無理がある。たとえば、「潜伏キリシタン」について、同書は「既存の社会や宗教と共生する独自の信仰的伝統」とし、それが幕末、大浦天主堂の建堂を機に「終焉」を迎えた、といった表現をしていることである。「既存の社会や宗教と共生する独自の信仰的伝統」を「変容した土俗信仰」、もしくは「ない交ぜになったキリスト教」と解釈する人もあるが、それでは1865年、浦上潜伏キリシタンがプチジャン神父に「ワレラノムネ アナタノムネト オナジ」と250年隠し続けた信仰を告白し、以後、カトリックに復帰して教会群を出現させた前後の歴史がつながらない。社会学的にはそのような表現もできるだろうが、宗教学―とくにキリスト教神学の立場からすれば異論があるであろう。今後の展開が注目される。

島原の乱事件の舞台・原城跡は―
12の構成資産によって展開されるストーリーのなかで、島原半島南東部(南島原市)に位置する島原の乱の舞台「原城跡」は最初に登場する。―その説明は、幕府の海禁体制を確立して宣教師潜入の機会をなくし、あわせて「宣教師不在のもと、潜伏キリシタンが長期間にわたって自らの信仰を秘かに継続する重要な契機となった」、となっている。全構成資産の中での位置づけとして妥当なものである。ところが、この文章を引いて昨今、「原城跡は日本におけるキリシタン潜伏のきっかけとなった場所である」などと紹介されるのを見掛けるが、すでに誤解がある。潜伏キリシタン出現のきっかけを言うなら、1614年の禁教令にある。島原の乱は、すでに存在した潜伏キリシタンの長期継続の契機をつくっただけであった。(ちなみに、島原の乱にかかる潜伏キリシタン史は、25年で完結した。)
イコモスが敢えて指摘し、ユネスコがこれを世界文化遺産として認定した理由は、潜伏キリシタンの変容形にあるのではない。1614年の徳川幕府の禁教令にはじまり、1865年のカトリック連結に至る二世紀半にわたる不変かつ普遍的な信仰遺産であった。この本筋を日本人が理解するには「キリシタン史」同様に困難を伴うが、このたびの世界遺産登録がその契機となることを願いたい。
(2018年7月記、「宗教新聞」投稿記事)
世界文化遺産に登録された島原の乱の舞台・原城跡(本丸)、南島原市のPRポスター。