2018年10月27日土曜日

ポルトガル様式伏碑型キリシタン墓碑出現の背景

ポルトガル様式伏碑型キリシタン墓碑出現の背景

                                                       宮本次人

 ◆はじめに、―変遷したキリシタン墓碑―
 日本の「キリシタン時代」を彩る文化諸相の一つにキリシタン墓碑がある。それは当初、立碑塔形の日本様式墓碑が転用され、天正年間になると十字や洗礼名が彫刻された墓碑が京都・大坂に出現した。さらに十七世紀初頭、伏碑形式のポルトガル様式キリシタン墓碑が島原半島を中心として建立されたが、「キリシタン時代」としては、すでに終末期の出来事であった。
 イエズス会は「基本的に日本の文物に対する適応を重視した布教政策をとった」(高瀬弘一郎『キリシタンの世紀』45頁)。立碑塔形墓碑をそのままキリシタン墓碑に使用したのはその一環と見られるが、途中、方針を変更してポルトガル様式の墓碑を採用したのは何故であろうか。
 伏碑型キリシタン墓碑について故片岡弥吉氏は、その形式がポルトガル国由来のものであることを明らかにしている(註)。それならば、イエズス会の布教保護国ポルトガルを示威する意味、すなわちスペイン国を布教保護国とする托鉢修道会との確執が背景にあったとも考えられるが、真相は誰も明らかにしていない。
   ・片岡弥吉「キリシタン墓碑の源流と墓碑型式分類」(『キリシタン研究』第十六輯)、片岡弥吉「キリシタン墓碑」(小学館一九七九年・『探訪大航海時代の日本7南蛮文化』)。

 ◆「死者のためのミサ」に限り喜捨受納を容認した謎
 高瀬弘一郎氏の著書『キリシタンの世紀―ザビエル渡日から「鎖国」まで』(岩波書店・2013年発行)は、イエズス会を取り巻く往時の世界史事情と同会の日本布教をめぐる経済活動、特殊事情等を明らかにしていて、有馬晴信の領国島原半島にポルトガル様式キリシタン墓碑が出現した事由を考察する上で、示唆に富んでいる。
 たとえば「死者のためのミサ」についての言及がある。
 「死者のためのミサ」とは、日本流に言う「葬礼(葬儀)」にあたる。仏教ではこれに対し「布施」というかたちで信者から僧侶に対して喜捨が上納されるが、清貧理念を基礎におくキリスト教では司牧活動や礼拝、洗礼、告解等の秘蹟などと同様、司祭職が執り行う聖務の一つであり、元来「無償」で行われるものであった。ところがヴァリニャーノの死後(1606年死去)、日本布教の方針―イエズス会会則が改変され、本来無償でなされるべき聖務のうち「死者のためのミサ」に限り喜捨の受納を特別に容認した、というのだ(前掲書117頁)。
 キリスト教宣教師が仏教の欺瞞性を言う場合、その理由の一つに掲げるのが仏僧たちの物欲―葬儀に対する布施を「回向」になると説いて正当に受け取ること―であった。加えてキリスト教は、東洋人が伝統的に有する先祖崇拝に対して「無知蒙昧」として一蹴してきた経緯がある。そうであるにもかかわらず、日本宣教半世紀を過ぎた十七世紀に至って「死者のためのミサ」(葬儀)に限り、仏教と同様に喜捨の受納を容認したのは何故であろうか。
 この点に関して高瀬氏は「単に(日本人の)習慣に順応するだけの意味で、このような重大な、(イエズス会)会憲に抵触しかねない変更を決したとは、ほとんど考えられない。布施の意味を承知の上で、たとい仏教と融合されたものであっても、日本人の祖先崇拝を無下に否定するだけでなく、その念いのこもった異教的な行為を、ある一局面のみであるが容認して取り組み、日本人の心情に応えようとしたのではないであろうか」と解釈している(前掲書121頁)。

 ◆イエズス会の経済問題が絡む?
 加えて同書は、日本布教が布教保護国の「ポルトガル圏に属しながら、現実にポルトガルの植民地にならなかった」(前掲書78頁)特殊事情と、それに起因する不自然かつ厳しい経済事情があったことを明らかにしている。
 前後二つの指摘は、「死者のためのミサ」に限り会則を改変して喜捨受納を認めたことが伏碑型キリシタン墓碑の出現を勧誘し、その背景にイエズス会の経済問題が絡んでいたことを推察させるものだが、高瀬氏は伏碑型キリシタン墓碑出現との関連については一言も言及していない。そして、「死者のためのミサ」に伴う喜捨は、イエズス会の「財源としては取るに足らない」(同書117頁)として、これが経済問題対策の一環であったとは解釈していない。
 筆者がこの件にかんし疑問を抱くのは、次に述べるように、高瀬氏がコレジオ(学院)の問題を資産保有と関連づけて紹介しているからである。すなわち有馬に設置されたコレジオが常識を逸していたものであるとの高瀬氏の指摘は、その不自然さからして、「死者のためのミサ」によって上がる喜捨資産の保有、つまりは経済問題に絡むものであると推察したい。

 ◆謎の「有馬コレジオ」
 高瀬氏の著書『キリシタンの世紀―』によると、イエズス会員が所有する機関には、司祭が居住する「カーザ・教会」と、それ以外の者が使用する「コレジオ・修練院」がある。前者は喜捨を経済基盤とし、後者はレンタ(教会領などの土地から定期的に得られる所得)を所有してそれを財源とすることが決められていた。つまり「司祭は、個人はもとより会としても、資産を所有してそれに依存して暮らすことは、一切禁ぜられた」(前掲書71頁)。ところが、実際には日本布教の特殊事情、厳しい経済事情により、「カーザやレジデンシア(小規模カーザ)がレンタを経済基盤とするという、会憲違反が行なわれ」ていた。その両者の矛盾を埋め合わせる工夫として、「長崎のみに存在したはず」のコレジオを「長崎・有馬・京都の下京と、三つもあるように」し、「レンタを財源に暮らすことが許された」コレジオの生徒を「ほとんどすべてのカーザやレジデンシアに居住したような形にし」て報告された、というのだ(前掲書73頁)。
 この中で高瀬氏は、コレジオが「長崎のみに存在したはず」だと言っているが、1600年以降、有馬にもコレジオ(学院)が設置された史実がある。
 有馬にコレジオが設置された経緯は、「フェルナン・ゲレイロ編イエズス会年報集・新版第一冊・第一部第二巻第八~四十五章」の「一五九九―一六〇一年、日本諸国記」に記されている(松田毅一監訳『十六・七世紀イエズス会日本報告集/第一期第三巻』所収、184―189頁)。それはドン・プロタジオ/ジョアン有馬晴信が二度目の結婚でジュスタ夫人を迎えるため日野江城下の市の中の「海の近く或る大きな広場の端」に新築した邸宅を、「イエズス会に対して抱いている深い愛情から」同会に寄進したもので、イエズス会はこれを「学院(コレジオ)」として使用した。
 この件について一般には、晴信の新築邸宅が「セミナリヨ(神学校)」になったと勘違いされているようだが、同史料には「邸宅はむしろイエズス会の学院(コレジオ)のために意図して作られたかのように我らの様式に非常にかなっていた」。「邸宅が譲渡され、すでに(イエズス)会の学院になっている。」、と明記されている(註)。
   ・前掲史料「一五九九―一六〇一年、日本諸国記」によると、セミナリヨ(神学校)はこのあと教会とともに大広場の邸宅(コレジオ)に隣接または向かい側に新築され、「邸宅」寄進より遅れてイエズス会に奉献された。

 高瀬氏が、「コレジオは長崎のみに存在したはず」と主張するのは、何か理由があるのだろうか。当時、「国内のコレジオには教師や必用な書籍等の備えもなく」、そのため一五九四年マカオに設置されたコレジオが日本人司祭養成の役割を担っていた。日本国内に複数のコレジオが存在することなどあり得なかったのかもしれない。
 加えて高瀬氏は、「コレジオは実は、教会の経済問題の延長線上にある」と主張する(前掲書『キリシタンの世紀』250頁)。なぜなら「コレジオはそこに学ぶ修学生のために、喜捨によらないで資産を所有してもよいと規定」され、ゆえに「資産を保有するには、コレジオがないと困る」(前掲書248頁)からである。
 コレジオの設置はイエズス会が資産を保有するための工夫であった―との高瀬氏の説明は、有馬キリシタン時代の知られざる一面を暴くことになる。たとえば、前掲史料に登場する晴信寄進の邸宅すなわち「有馬のコレジオ」に、「邸宅にあるすべての庭園と菜園」のほか「併設されている家臣の家屋」などが含まれていたこと―その意味するところである。「庭園」と「菜園」、「家臣の家屋」などは、日本の神社・仏閣の「寺領」「社領」にあたる「教会領」、すなわちレンタ収入のある不動産ではないだろうか。「菜園」とは米・野菜を栽培し収穫する「田畑」である。イエズス会としても半ば会憲に抵触することであれば触れたくないであろうから、その場所や面積等についての詳細は判らない(註)。
   ・あるいは、これらの教会領が伏碑型キリシタン墓碑の分布と関連していたとも考えられる。

 本来「長崎にのみ存在したはず」のコレジオが、実際には有馬に存在した理由は、宗教史・文化史中心の従来のようなキリシタン研究の手法では解答を得にくい。
 十七世紀はじめ、有馬晴信の領内・島原半島にポルトガル様式の伏碑型キリシタン墓碑が出現した問題の解明もまた同様であろう。それはイエズス会が「死者のためのミサ」にかぎり喜捨を許容したこと、そして、有馬に資産所有が認められる「コレジオ」が設置されたことと複雑に関連したことであり、背景に経済問題が絡んでいたと見ていいようだ。


 ◆立碑墓碑に代え伏碑型ポルトガル様式キリシタン墓碑を採用した理由
 見てきたように、伏碑型キリシタン墓碑の出現には、イエズス会の日本布教にかかる経済問題が絡んでいたと推察される。しかし、単にそれだけの理由であるなら、喜捨(布施)のみ受け入れ、日本の伝統的な塔形墓碑を代用する従来の方針を変更しなくてもよさそうである。あえて西欧ポルトガル様式のそれを導入した理由がほかにあったのだろうか、考察してみたい。

 =その①
 考えられる理由の一つに、彼我の分別が上げられる。すなわち従来の立碑(りっぴ)塔形墓碑を転用した場合、仏教徒として死んだ先祖をあわせ崇拝することになるため、キリシタン信者のそれと区別する必用があったことである。キリスト教は、「神を信じないまま死亡した近親者や先祖の霊の行方を案じて悲しむ日本人に対し、教義上いかんとも為し得ない」ものであった。会則を改変してまで喜捨の受納を認めた「死者のためのミサ」の「死者」とは、キリシタン信者のことである。その葬儀によって上納された喜捨が、伏碑型キリシタン墓碑の建立に関連したとすれば、それとこれとを視覚的にも判別できるよう工夫しなければならなかったであろう。

 =その②
 故片岡弥吉氏が1974年、伏碑型キリシタン墓碑のルーツを追跡調査して―スペインではなく―ポルトガルにあるとしたこと(註)は留意すべきであろう。そこから見えてくるのは、托鉢修道会またはプロテスタント(新教)との確執に起因するポルトガルの潜在的領有地としての縄張りを主張する意図である。
   ・片岡弥吉氏は昭和49年(1974)11月、「キリシタン文化講演会」で『キリシタン墓碑の源流とその思想・形式分類試案』と題して研究報告し、「キリシタン墓碑の源流はポルトガルからローマにさかのぼることを明らかにした。」(『キリシタン研究第十六輯』116頁、片岡弥吉「キリシタン墓碑の源流と墓碑型式分類」)

 高瀬氏によると、日本教会は1576年1月のグレゴリウス十三世の大勅書によりマカオ司教区に包含され、ポルトガル国王の潜在的領有地になった。続いて1588年、日本司教区が府内に設置されたことにより、これ以降日本イエズス会はマカオ司教区から独立することとなった。これに対しスペイン国を布教保護国とするフランシスコ会、ドミニコ会、オルガンチーノ会が1590年代以降、日本に進出し、教派(門派)抗争を展開した。それは宗派の対立が第一義ではなく、実は布教保護権をもつスペイン国とポルトガル国との「政治的背景あっての勢力争い」(前掲書20頁)であった。
 また1600年以降、プロテスタント国(オランダ、イギリス)が日本に進出したため、イエズス会は複雑かつ危機的な政治勢力構図の中におかれていた。窮地に立つポルトガル国が、その布教保護権を示威する必用に駆られたことは考えられる。

 =その③
 もう一つ、伏碑型ポルトガル様式のキリシタン墓碑の建立者が、おもに名家、資産家ら上層階級の人々に限られた事実がある(註)。そこから見えてくる理由は、「特別な位置にあった人々」と、それに伴う相応の額の喜捨に対するイエズス会の配慮である。
   ・上智大学の川村信三氏は、「私はそれが、指導的な立場にあったか、あるいは宣教師のものであったと推定している。一般のキリシタンたちにとって、墓石を特別につくるほどの余裕はなかったと考えるからである。現在、各地で発見されているキリシタン墓碑のほとんどが、そうした特別な位置にあった人々のものではないかと推測している。」と述べている(南島原市教育委員会・企画、大石一久・編集、『日本キリシタン墓碑総覧』、川村信三「キリシタンの葬送典礼」418頁)

 一例として、ローマ字彫刻のキリシタン墓石として知られる南島原市西有家町砂原墓地のそれ(国指定史蹟)を取り上げてみよう。
 日本26聖人記念館館長デ・ルカ・レンゾ氏によると、これは「作右衛門とディオゴの名前が付いた、キリシタンとして貢献していた身分の高い人で、…史料に現れる限り、上の条件を満たすのは、小西行長の家老、八代の城主であった小西美作ディエゴ、木戸作右衛門(末郷)であった可能性が高い」という(前掲書『日本キリシタン墓碑総覧』422頁、デ・ルカ・レンゾ「キリシタンの共同体の意識を表す墓碑」)。
 小西一族は、行長アゴスチイノが1600年、関ヶ原の戦いで徳川氏に敗れると家臣らは領国(肥後南部)を追われて四散し、「ディエゴ作右衛門」(小西美作行重)と一族家臣ら1500人は60隻の船で薩摩国に逃れた。「ディゴ作右衛門」小西美作が1602年に亡くなったあと息子のヤコベ小西忠次郎が薩摩の領主から俸禄米六千俵の江口領の相続を認められたが、領主島津氏のキリシタン迫害に伴い1609年、長崎に移った。ヤコベ忠次郎は堺のキリシタン商人ディオゴ日比屋了珪の息ビセンテ兵衛門の娘アガタを娶っていた。ほかに隣国有馬晴信の領内に移住したキリシタンも多くあり、重臣の一人ジョルジ結城弥平次は有馬晴信に抱えられた。
 ディエゴ作右衛門(小西美作)の夫人は、小西行長の娘イサベルである。1602年に死去したディオゴ作右衛門(小西美作)の「死者のためのミサ」が―おそらくはその後のイエズス会の方針変更に伴って―有馬のコレジオもしくは有馬の教会で営まれ、小西家はもとより日比屋家を含む親族、家臣らからのミサ法要にかかる多額の布施(註)がイエズス会に上げられたことであろう。
   ・前述したように高瀬氏は、これにかかる喜捨は「財源としてはほとんど取るに足らない」(『キリシタンの世紀』117頁)としている。筆者は、その額は決して小さくはなかった、としたい。

 その額が無視できないほどのものであったがゆえ、イエズス会としては逆に、それに見合うもの―布教保護国由来の墓碑―を用意せざるを得なかったのかもしれない。上層階級の「特別な位置にあった人々」から相応の喜捨が寄せられるものであればこそ、それ以外の一般信徒のそれと区別する必用があったとも言えよう。
 キリシタン宗は、川村信三氏が前掲論文で述べているように、「慈悲の所作」として「身寄りのない人々へ、本来ならば、誰にも看取られず、ただ穴を掘って埋められた遺体に、全身全霊で奉仕した」。ゆえに、「特別な位置にあった人々」と貧困者、一般者とを差別するというのではない。多額の喜捨を寄せたものへの配慮として、従来の日本の習慣文化と異なる墓碑―布教保護国ポルトガルの様式によるキリシタン墓碑を導入した、との解釈である。
 日本で1605年に出版された『サカラメンタ提要』の「死者の典礼」の部の目次が、川村信三氏の論文「キリシタンの葬送典礼」(『日本キリシタン墓碑総覧』所載)に掲載されている。それによると「葬儀」として「一般信者の荘厳な葬儀―」と「一般信者の通常の葬儀」、「洗礼を受けた子供の葬儀」の三項目があり、区別して執り行われたことがわかる。ここで言う「一般信者」とは、宣教師たちイエズス会会員と区別してのものであり、この中に日本社会の「特別な位置にあった人々」から「身寄りのない人々」までが含まれていた。その葬儀が「荘厳な儀式」と「通常の儀式」と区別して営まれたというのは、上述した日本社会の「特別な位置にあった人々」すなわち資産があり相応の喜捨を上げられる人々の葬儀が「特別な儀式」で、それ以外の人々の葬儀が「通常の葬儀」として、区別しておこなわれたと解釈していいようだ。
 葬儀が「特別」と「一般」とに区別される以上、それに伴う喜捨の多寡や墓碑建立の有無がある。また、上層階級の「特別な位置にあった人々」に限りキリシタン墓碑が建立されたとしても、身分の上下、喜捨の多寡にともなう墓石の大小・形態、花十字等装飾の区分けなどが存在したことは、考えられるであろう。
 

 ◆まとめ、―付随する問題二、三
 伏碑のポルトガル様式キリシタン墓碑が何故十七世紀初頭に出現したのか、その理由を高瀬弘一郎著『キリシタンの世紀』を手がかりに探ってみた。背景に、主として財政問題があり、ほかにも托鉢修道会への対応、日本人の先祖崇拝問題への対処等々、危機に立たされた当時のイエズス会側の諸事情が原因として存在していたことが明らかになった。

 ・有馬に発生→全国に波及?
 今回取り上げた伏碑型ポルトガル様式キリシタン墓碑出現の解析は、同時に同型墓碑の発生および波及の問題についても解明の糸口を与えることになるであろう。
 一般的には、関西京都や大分県、熊本県、長崎市、大村市等に少数点在するそれを含めて、それらは全国同時発生であったと暗黙的に認識されているようだが、有馬晴信の領地島原半島南部に集中的に分布する特異な現象があること、イエズス会との係わりが主原因であったこと、そして、キリシタン大名有馬晴信とイエズス会が運命を一にしていた状況があったこと(註)等からして、その発生源は自ずか絞られてくるにちがいない。それは、コレジオがそれらの複雑な問題と係わる重要な役割を担い、それが「有馬」に存在した史実からしても言えることである。
    ・松田毅一監訳『十六・七世紀イエズス記日本報告集第Ⅰ期第Ⅰ巻』「1588年度年報」16頁。宮本次人『ドン・ジョアン有馬晴信』(2013・海鳥社)「第三章・晴信に見るキリシタン信仰の世界」。

 ・日野江城二の丸「仏塔石階段」との関連
 こうした有馬の周辺事情が判明してくると、有馬晴信の居城日野江城の二の丸で発掘された「仏塔石階段」の謎も、また新たな視点で捉えられることになる。伏碑型ポルトガル様式キリシタン墓碑の導入は、同時にそれまで代用してきた立碑塔形墓碑の廃棄処分に係わるからである。キリスト教の性格上、それは単に廃棄すればいいということにはならない。逆に異教的事物に係わったというような新たな問題を突きつけたであろうし、そうであれば、「贖罪」的な信仰上の対処が要求され、ある種神聖な儀式が、これら廃棄墓石をもって実施されることになる(註)。
   ・「日野江城二の丸仏塔石階段」については稿を改めたい。(本ブログ2016年5月31日付記事「日野江城〃仏塔石階段〃―それはコンチリサンの遺構であった」参照)

                           (2015年1月4日記)
キリシタン墓碑変遷図(宮本作図)

2018年7月30日月曜日

原城跡から見る「潜伏キリシタン関連遺産」の世界遺産登録

 日本時間の630日午後550分、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の世界遺産登録決定を伝える速報が入った。マスコミ各社は一斉に喜びに沸く現地の様子を伝えたが、17年間、同運動を表裏両面から目撃してきた人々―なかでも島原の乱(16371638)によって「キリシタン」史の断絶を余儀なくされた「原城跡」関係者にとって、その喜びは単純なものではなかった。
 きっかけは20019月、幕末―明治期に作られたユニークな造形の教会群に建築学の観点から光が当てられたことに始まった。日本の目から見れば、それでも世界にアピールできる文化的価値があると思われたし、むしろ17年間にわたる推進運動のほとんどすべての時間は、その為に費やされたと言っていい。ところが、土壇場になって国連記念物遺跡会議(イコモス)は「価値証明が不十分である」と指摘。「日本におけるキリスト教の特殊性は禁教期の潜伏の歴史にある。そこに焦点を当てて内容を見直すよう」求めてきた。20161月のことだ。

「教会群」から「潜伏キリシタン」へシフト
これを受けて推薦書は取り下げられ、イコモスの意向に沿っての改訂作業を急ぐこととなった。それ以前(2014年)、国の文化審議会がこれをユネスコに推薦する候補に選びながら、内閣官房有識者会議が「明治日本の産業革命遺産」を推すという異例の事態となり、その政治的駆け引きに涙を呑んだ経緯があった。つまりは残された時間はなかったのだ。それまでの名称「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」を急きょ、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」に変更し、半年もない限られた時間で書き改められたのが、このたびの国連教育科学文化機関(ユネスコ)第42回世界遺産会議で審議された推薦書である。
 結果として、イコモスの指摘により「教会群」から「潜伏キリシタン」に価値評価の重点が移行したことは―それゆえに関係者は戸惑いもあったわけだが―むしろ歴史的な意味が付加された、と言うことができよう。「キリシタン」という名の、日本史においてかつて否定された経歴を持つ人々とその歴史が、404年を経て世界史のコンパスで公認されたことであるからだ。

潜伏キリシタンとは―
 ところで、にわかに書き改められたためか、あるいは「教会群」を中心としたそれまでの推進運動に由来するのか、同推薦書はストーリーの展開でいくらか無理がある。たとえば、「潜伏キリシタン」について、同書は「既存の社会や宗教と共生する独自の信仰的伝統」とし、それが幕末、大浦天主堂の建堂を機に「終焉」を迎えた、といった表現をしていることである。「既存の社会や宗教と共生する独自の信仰的伝統」を「変容した土俗信仰」、もしくは「ない交ぜになったキリスト教」と解釈する人もあるが、それでは1865年、浦上潜伏キリシタンがプチジャン神父に「ワレラノムネ アナタノムネト オナジ」と250年隠し続けた信仰を告白し、以後、カトリックに復帰して教会群を出現させた前後の歴史がつながらない。社会学的にはそのような表現もできるだろうが、宗教学―とくにキリスト教神学の立場からすれば異論があるであろう。今後の展開が注目される。

島原の乱事件の舞台・原城跡は―
12の構成資産によって展開されるストーリーのなかで、島原半島南東部(南島原市)に位置する島原の乱の舞台「原城跡」は最初に登場する。―その説明は、幕府の海禁体制を確立して宣教師潜入の機会をなくし、あわせて「宣教師不在のもと、潜伏キリシタンが長期間にわたって自らの信仰を秘かに継続する重要な契機となった」、となっている。全構成資産の中での位置づけとして妥当なものである。ところが、この文章を引いて昨今、「原城跡は日本におけるキリシタン潜伏のきっかけとなった場所である」などと紹介されるのを見掛けるが、すでに誤解がある。潜伏キリシタン出現のきっかけを言うなら、1614年の禁教令にある。島原の乱は、すでに存在した潜伏キリシタンの長期継続の契機をつくっただけであった。(ちなみに、島原の乱にかかる潜伏キリシタン史は、25年で完結した。)
イコモスが敢えて指摘し、ユネスコがこれを世界文化遺産として認定した理由は、潜伏キリシタンの変容形にあるのではない。1614年の徳川幕府の禁教令にはじまり、1865年のカトリック連結に至る二世紀半にわたる不変かつ普遍的な信仰遺産であった。この本筋を日本人が理解するには「キリシタン史」同様に困難を伴うが、このたびの世界遺産登録がその契機となることを願いたい。
(2018年7月記、「宗教新聞」投稿記事)
世界文化遺産に登録された島原の乱の舞台・原城跡(本丸)、南島原市のPRポスター。


2018年6月22日金曜日

欧文史料で読み解く豊後宇目の「るいさ」―付記②―

■迫害に備える潜伏信心会コングレガチオの事例として
 徳川幕府が1614年、禁教令・追放令を発布してキリスト教の本格的な弾圧に乗り出したとき、各修道会はその対応を余儀なくされた。ドミニコ会は以前にも増して信仰の所作に励み、「教えを棄てるよりは神の御心に従って死ぬことを定めた」組、すなわち「殉教に向かって励まし合う」信心会をつくった(註1)。
 一方、イエズス会は「逼塞(ひっそく)」の方針を打ち出し、隠れた(註2)。一見「臆病」とも見えるイエズス会の迎合的対処には、托鉢修道会から非難の声が向けられ(註3)、また一般信者からも疑念が持ち上がったため、さらなる対策を講じる必要にせまられた。高来(島原半島)南部の山中「折木Voriqui村」でジアノネ神父が編成した「デウスの御母さんたまりやの御くみ」、ゾラ神父が島原三會(みえ)でつくった「世主々(ぜすす)の組」などは、その事例であろう(註4)。
 H・チースリク氏によると、これは従来のサンタ・マリアの御組をいっそう強化し、迫害に備えて集会や活動を目立たないよう配慮し、また、殉教の覚悟を準備するものであった(註5)。高来の有馬には1603年、「ローマの聖母信心会に直属する」精鋭会員養成のための「コングレガチオ・マリアーナCongregatio Mariana」(御告げのサンタ・マリアの組)が編成されたので(註6)、その連動組織であったと考えられる。
 豊後の国に、ルイサを中心とした地下教会組織・信心会が存在したことについて本稿で言及したが、その実在はイエズス会「1615・1616年度日本年報」によって明確に証明することができる。何故なら、同年報に登場するルイサとその「夫イチノカミ」にかんする記事は、実のところ、迫害に備えて組織されたコングレガチオ信心会「至聖なるマリアとその僕という名称のもとに開かれた」組の、その事例として紹介されているからである(註7)。

 …彼らは、秘蹟以上にキリシタンたちの心を強める手段を見出した。それは適当な時期を選んで行われる信心の組(コングレガチオ)であった。そこでは死を賭しても信仰を守るという不動の堅い信念を告白すること以上には、何ひとつ取り扱われなかった。この信心の組(の集会)は、たいてい、至聖なるマリアとその僕という名称のもとに開かれた。聖職者が不在の折りには、このような組において、必要に応じて赤ん坊に洗礼を施したり、病人を見舞ったり、危機が迫っている時には聖職者を呼んだり、死者を埋葬したり、必要に応じて施し物を配分したりといった活動が、とくに、主の教えを守ったがために追放された人々のために行われた。そして、週のうちのある定められた日に人々は注意を払いながら、どこかの家に集い、そこで、徳を高めてしっかりと(自分のものに)したり、魂の糧(となるもの)を読んだり、この迫害の中においても町でも村でも数多くの場所で不断に続けられてきた四十時間の祈りを捧げたりした。人々は祈りに加えて断食も行ない、金曜、土曜に行なう者もあれば、週に三日行なう者もいた。彼らの多くが貧しかったので、祝日には必ず断食をしていると言ってもよいほどであった。
 このような組には、単に年配の男女だけのものではなく、いろいろな年齢の若い男女も集った。…彼らの司祭(宣教師)たちに対する愛と敬意の大きさには信じ難いものがある。…幾多の人々が司祭たちに自分自身と自分の家を提供しようとし…幾多の人々が彼らの貧しい食べ物を半分にしながら、司祭たちを養おうとしたことであろう。彼らは司祭たちの生命を守るためなら、己の生命にはまったく重きをおかなかった。…――「1615-16年度日本年報」――

 ルイサの勇敢な信仰と、これを陰ながら支えた「夫イチノカミ」毛利高政、そして惣支配役深田氏、割元役渡辺氏をはじめとする地元宇目郷の多くのキリシタン住民が秘かに神父を匿い、オラショを唱え、助け合いながらあの困難な時代を生き抜いた…。
 「宇目は、隠れキリシタンたちの安住の地であったらしい」。
 ―渡辺澄夫大分大学名誉教授が『宇目町誌』にしるした言葉を添えて、このを稿を閉じたい。  (おわり)
精鋭会員養成のため、かなり徹底した修行が実施された有馬コングレガチオ・マリアーノの印版。ローマに送られた1603年10月1日付記録に押印されている。ローマ・イエズス会文書館蔵。

 【註1】…『福者アロンソ・デ・メーナOP書簡・報告』(1982・キリシタン文化研究会発行)に次のようにある。「(佐賀の三つの住院から追放されたとき)パードレはキリシタンの中の最も信仰心の深い何名かを長に指定し、日本人が組と呼んでいる信心会を作りました。…この組の目的は…残っている家に時々集まって、説教がまったく欠けるということがないように、そこで信仰書を読み、また断食・苦行および相互間の平和や愛の規則を定め、迫害に際してはお互いに励まし合い、最後には教えを棄てるよりは神の御心に従って死ぬということを定めました。」(同書118-119頁)。「…一つの信心会を作りました。それは霊的問題を話し合い、予期される殉教に向かって励まし合うためでした。…迫害が始まったならば、信仰を表明し、信仰のために死ぬ目的をもって、呼ばれないでも裁判官の前に真っ先に出頭する、という定めでした。」(同書152頁)。
 【註2】…イエズス会「1615-1616年度年報」に次のようにある。「迫害という外的な攻撃に対して立派に身を処した。数多くの人々がこのようにして生き方を改めた。そのため、(もし彼らが自分の口から)そうだと言わなければ、(誰一人として)彼らが以前の彼らと同じ人間だとは見分けがつかないほどであった。…それは、こうした、単に声高にキリシタンだと言えない時期がそう長くないと判断したからであった。」(1997年同朋社出版『十六・七世紀イエズス会日本報告集』第Ⅰ期第2巻、217-218頁)。また、「1515年3月17日総会長宛、ジェロニモ・ロドリゲスの書簡」に、「…宣教師は信者の家に住み、外人は商人に変装し、日本人キリシタンは普通の町民のようにふるまった。」とある(『キリシタン研究第25輯』19頁―H・チースリク「レオナルド木村」&註37)。
 【註3】…フランシスコ会宣教師ディエゴ・デ・サン・フランシスコは次のように言っている。「長崎の全キリシタンが徳の立派なおこないをことごとく棄て、次第に異教の習わしに染まっていくのを5年間も見て、〃キリシタンに与える司祭の忠告〃という題名の論文を日本語で書いた。…私はこの文を長崎中に発表させ、キリシタンの会合で読ませ、私自らもそれを読んだ。結局、彼らは改めようとはせず、常に悪い方向へ進んで行った…残り滓のみになり、その人々は集まって、恰も滓をかきまわし動かすように、悪臭を放っていた。」―『ディエゴ・デ・サン・フランシスコ報告・書簡集』(1981・キリシタン文化研究会発行)246-247頁。
 【註4】…H・チースリク著『キリシタンの心』(1996・聖母の騎士社発行)395-396頁。
 【註5】…前掲書440-441頁。
 【註6】…「この年度(1606年度)報告でなお興味深いのは、長崎のこの信心会はConfrariaと称され、同年報で報告されている有馬のはCongregacamと称されていることである。…有馬のはローマの聖母信心会の支部assi primarima como de segundaであったわけである。さて、ローマの聖母信心会と同様な組織でまた正式にローマ本部の支部として認められた聖母信心会が初めて編成されたのは、1603年の2月か3月かに有馬のセミナリヨにおいてであった。」(1996・聖母の騎士社発行、H・チースリク著『キリシタンの心』436-437頁)。
 【註7】…『十六・七世紀イエズス会日本報告集』第Ⅰ期第2巻(1997・同朋社出版)217頁ー221頁。ルイサの事例が「コングレガチオ」信心会のそれであることに留意すべし。 

2018年6月20日水曜日

欧文史料で読み解く豊後宇目の「るいさ」―付記①―

■「夫イチノカミ」にかんしイエズス会と相違するドミニコ会文書の記述について
 宣教師の記録史料をもとに、「るいさ」の正体を考証してきた。使用した主な欧文史料は3点、一つはドミニコ会、他の二つはイエズス会に所属するものである。
 その内容をみると、共通点が多い一方で、一部相違する点がある。イエズス会文書では、ルイサと「夫イチノカミドノ」がともに熱烈なキリシタンであり、協力して宣教師を匿う任務を遂行しているのに対し、ドミニコ会の文書に登場する「夫」は、宣教師を歓迎してはいるものの「偶像崇拝者」である、としている点である。
 誰もが疑問に思うにちがいないこの問題を解く前に、もう一つ、指摘しておかねばならないことがある。不自然な点がいくつかあることだ。
 オルファネールはルイサを頼りにわざわざ「回り道」して訪ねことであったのに、肝心の「ルイサは不在であった」ことが一つ。宣教師を匿い、お世話することに命を賭けていたルイサであれば、いかなる用件より宣教師を迎えることを優先したであろうに、その代わりに―と言っては失礼だが―「異教徒の夫」が現れて、異常と思えるほど「暖かく迎え容れ」ている、―これがもう一つの不自然さである。何か様子がおかしい、と言わざるを得ない。

 これらの疑問を解くには、イエズス会と托鉢修道会(フランシスコ会、ドミニコ会、アウグスチニ会など)との間に繰り広げられた門派間の対立・抗争に触れなければならない。
 キリシタン墓碑のところで述べたように、イエズス会は日本での宣教権を独占する立場を主張し、スペインを母国にして西廻り航路で日本に辿り着いた修道会を、ことあるごとに排撃した。もちろん、これらの事実は排斥した側の文書には出て来ないので、排斥された側の文書を見なければ分からない。
 その実態は、たとえばドミニコ会のジュアン(ファン)・デ・ルエダ神父による「日本において起こった特有なかつ内部からの迫害に関する報告書」(註1)でもその一端を知ることができるが、時には脅迫を伴うような深刻なものであった。こうした対立抗争は、肥前国の長崎、島原で顕著に見られるが、他の地域でも同様であった。豊後国を訪れたドミニコ会の宣教師オルファネールを、イエズス会は歓迎しなかったということである。
 この直後、幕府による禁教令・追放令発布があり、臼杵のアウグスチノ会修道院にいたオルファネールと同会宣教師二人が長崎に向けて発った。その際、イエズス会宣教師も同道したので、ルイサがこの神父を匿っていたことは事実である。
 もとよりルイサはイエズス会神父とともにあり、同会に所属する信者であった。ナバロ神父がルイサとともにあり、その近く(の洞窟)に潜伏していたとすれば、―そして、イエズス会が托鉢修道会を如何に排撃したかを知れば、どうしてあのようなことになったか、理解されるであろう。敢えて言えば、「ルイサが不在であった」というのは、隠れているイエズス会の神父がそのようにした、ということである(註2)。

 また、「異教徒」である夫がオルファネールを異常なほど歓迎した、という記述も、これをそのまま受けとめることはできない。イエズス会が隠れの信者を守るため仕組んだ秘密の組織であれば、その状況を他の修道会に明かすことはなかったであろうし、とくにルイサにかんしては、夫のことを含めて秘匿すべきことがらであった。ゆえに、オルファネールが「夫」として書き留めたこの「異教徒」なる人物は、別人を指している可能性がある。
 参考として上げるなら、毛利高政の「父親・高次」である。イエズス会記録には、高政は「己が父親を都の地から呼び寄せた。この父親は郷土の神々である神と仏を驚くばかりに信仰し…」とある(註3)。
 もう一つ考えられる理由は、夫毛利高政が異教徒を装ったことである。

 いずれにしても、ルイサの「夫イチノカミドノ」佐伯藩主・毛利伊勢守高政のことを、排斥の対象である托鉢修道会宣教師に話すことはなかったであろう。日本人には分かりにくいが、イエズス会と托鉢修道会との関係は、実際、それほどまでに複雑であった。(つづく)


 【註1】…『17世紀の日本における歩くドミニコ会宣教師ファン・デ・ロス・アンヘレス・ルエダ神父伝記、書簡、調査書、報告書』(1994・聖ドミニコ修道会発行)240-310頁。
 【註2】…イエズス会史料を中心に進められてきた従来の日本キリシタン史研究は、この面の検証はいまだ不十分であると言わざるを得ない。たとえば、イエズス会がドミニコ会の進出を激しく拒んだ島原では、イエズス会神父が信者に対し、ドミニコ会神父に宿を貸してはならない、秘蹟を受けてはならない。もしこれを守らないなら「科(とが)を御ゆるしあるまじき」(あなたの罪はゆるされない)などと脅迫した(コリャード徴収文書)。拙稿「三會村のロザリオ信心」(島原新聞2011年11月2日~11月30日連載)参照。
 【註3】…イエズス会「1586年度年報」―『十六・七世紀イエズス会日本報告集』第Ⅰ期第2巻(1987・同朋社出版)143頁。
 

 
 

2018年6月14日木曜日

欧文史料で読み解く豊後宇目の「るいさ」⑪

在りし日、宇目郷のルイサ…
 ルイサが佐伯藩主毛利高政の妾妻(めかけ)として、秘かに隠れて暮らした宇目郷は、近世時代、岡藩(中川藩主)の領するところであった。ただしその支配体制は、他の村郷が「千石庄屋」で分割統治されたのに対し、宇目郷のみ「惣支配・割元」制が敷かれ、惣支配役深田家および割元役渡辺家に例外として計4千石の支配権が付与された。それは従前、佐伯氏の勢力下にあり、同佐伯氏の家臣深田氏が宇目郷で確固たる支配基盤を有していた歴史的経緯によるものと考えられる(註1)。
 仕組みとしては岡藩領でありながら、深田氏を介して、実は佐伯藩とも連携していた…宇目郷はそのように、微妙な境目に位置する山村であった。
 1617年(元和3)、コウロス神父が徴収した文書のうち「豊後国なんぐん(南郡)」の署名簿に、「渡辺孫助志門(シモン)、Vatanabe Magosuqe Simon」の名前が見える。彼は宇目郷割元役渡辺家の一族であっただろうか。信心会(コンフラリア)の組親(くみおや)として、キリシタンたちの世話をしていた人物である。
 半田康夫氏が「るいさ」の夫として想定した渡辺善左右衞門は、たとえ夫でなかったとしても、ルイサの理解者であり協力者であったことは間違いない。何より渡辺家墓地の裏山に、あの「るいさ」を祭り、先祖たちが墓守をしてきた(であろう)ことが、それを物語っている。

 宇目郷は「江戸時代、隠れキリシタンの安住の地であったらしい。」―『宇目町誌』編纂に携わった渡辺澄夫大分大学名誉教授(当時)は、同誌巻頭言で、こう述べている。禁教令下、キリシタンにとって安住の地はおそらくなかったであろうが、「イチノカミ毛利高政」と「ルイサ」によって守護されたこの山村は、あるいは安住と言える世界があったかもしれない。
 
 ―あとがき―
 2018年5月、重岡の山道に野アザミの花が咲くころ、筆者は宇目出身の「某氏」に案内され、はじめて「るいさ」の墓前に佇んだ。ちょうど大分地方が梅雨入りした日ではあったが、前日までの雨もあがり、木洩れ日が墓碑とその周辺を照らしてひかり、初夏のさわやかな風が聖霊のように吹きかけてきた。
 ルイサと毛利高政―キリシタン信仰によって強く結ばれながらも、それを知られてはならなかった禁教下、宣教師を匿い、キリシタンポロシモらの信仰を守るために、もろもろの困難と耐えがたい境遇を厭わず奔走した。その生き様は、「たとえどのような危険があろうとも、私どもは真心を込めて伴天連さまにお仕えいたします。」(註2)と、ルイサがイエズス会宣教師に書状をもって伝えた、あの誓いの言葉そのままであったと思われる。
 「元和五年正月」(1619年3月)、あるいは雪が降っていたかもしれない厳寒の日に、ルイサは逝った。
 この墓碑は、規模からして、たしかに夫毛利高政が指図して準備したものに違いない。人は「何故、このように大きなものを―」と言うが、それは、ルイサが大名の夫人として逝ったことを後世に伝えるものではなかっただろうか。墓碑であると同時に、二人の絆を証明する記念碑であった、と筆者は受けとめた。(つづく)
2018年初夏、「るいさ」墓地のたたずまい。筆者撮影。

 【註1】…『宇目町誌』(1991・宇目町発行)第三章近世の宇目郷―第一部岡領宇目郷の成立(196-205頁)。 
 【註2】…『十六・七世紀イエズス会日本報告集』第Ⅱ期第2巻(1996年・同朋社出版)、221頁。
 
 
 

2018年6月13日水曜日

欧文史料で読み解く豊後宇目の「るいさ」⑩

■ナバロ神父、豊後を去る
 ペトロ・パウロ・ナバロ神父は1561年、イタリア国ナポリ領の生まれ。1588年来日し、はじめ九州―とくに長崎、平戸で働き、次いで山口、四国に赴いた。1602年から豊後国に入り、1614年、幕府の禁教令で一旦離れたものの、再び豊後に戻り、1618年までルイサをはじめ幾人かの篤信家の保護のもと、潜伏活動を継続した。1619年はじめ頃、高来(肥前島原)に移り、1621年12月、有馬の八良尾で捕縛された。10ヶ月ほど島原城下(アンデレ孫右衛門の家)で監視下にあったものの、その間、多くの信徒を導き、同宿のディオニゾ藤島、ペトロ鬼塚三太夫をイルマンにした。レオン・パジェスは『日本切支丹宗門史』に「豊後の信者も来訪した」と記している。1622年11月1日、島原の刑場にて火炙り刑に処せられ、殉教した。61歳。

 ナバロ師が長年潜伏した豊後を離れ、島原に移ったのは、ルイサの死去と関係している。「るいさ」墓碑に刻まれた年号「元和五年正月廿二日」(西暦1619年3月8日)が、そのまま彼の移動の時期と重なるからである。
 そうすると、ルイサの葬儀を担当した司祭も誰であったか判明する。言うまでもなくナバロ師であった。

■「るいさ」墓碑建立のいきさつ
 また、イエズス会由来の伏碑型キリシタン墓碑が宇目に建立されたのも然りである。ナバロ師が高来(島原)から情報を入手し、そのデザインに基づいて製作されたものであった。形式はもとよりだが、墓碑上面に彫刻された花十字の意匠(註1)、あるいは十字架を立てるための上面に穿たれた四角形の溝穴なども、有馬地方のキリシタン墓碑に見られるものである。
 加えて、夫毛利伊勢守高政(佐伯藩主)から多額の布施が上げられたことは想像に難くない。イエズス会は教会運営のため資産を保有することのできる工夫として、コレジオを長崎、有馬、京都に有していた。葬儀もまた「通常の葬儀」と「特別の葬儀」に区別されて執り行われたようで(註2)、その際、喜捨の額面に対して配慮する必要が生じ、あのようなポルトガル様式の独特のキリシタン墓碑が導入されたいきさつがあった(註3)。
 つまりは、あれほど規模の大きい墓碑が建立される裏には、ルイサ側―毛利高政から相応の喜捨が捧げられた、ということだ。寸法についても多分、高政から申し入れがあったであろう。
 こうして、大名の夫人(妾)に相応しいキリシタン墓碑が割元役・渡辺家をはじめとする地元の関係者によって準備され、あの宇目重岡の山中に設置されたことであった。(つづく)

 【註1】…ルイサ墓碑上面に施された十字架は、一般に「日輪十字章」と言われているが、このような名称は他に使用例がない。意匠の元になったのは、島原半島のキリシタン墓碑にある「花十字紋」である。十字架の四つの先端を碇(いかり)状に装飾し、それによって囲まれる四つの空間が四つ葉のクローバーのようになるので、「るいさ」墓碑はその部分(四つ葉)が強調され、外周は省略された形になっている。浮き彫りにすべき十字架が、逆に陰刻(凹彫り)されたことに起因するものであろう。写真参照。
左が島原にある花十字紋、右が「るいさ」墓碑の十字架紋
   【註2】…『南島原市世界遺産地域調査報告書・日本キリシタン墓碑総覧』(2012、南島原市教育委員会企画・大石一久編集)所収の論考「川村信三・キリシタンの葬送典礼と墓」、同書415頁。
 【註3】…拙稿「ポルトガル様式伏碑型キリシタン墓碑出現の背景」(2015)。

欧文史料で読み解く豊後宇目の「るいさ」⑨

■「るいさ」墓碑はイエズス会の指導で作られた
 ここでもう一度、「るいさ」の墓碑に注目してみよう。
 前述したように、キリシタン墓碑は最初、「和様式塔形墓碑」をそのまま転用した時代があり、次に、十字架や洗礼名等のキリシタン記号を彫り込んだ「造形塔型墓碑」、そして1604年以降「ポルトガル様式の伏碑型墓碑」が現れ、弾圧時代になって「かくれ墓碑」に移行する。蒲鉾形、あるいは「るいさ」墓碑のような上面がやや膨らんだ扁平長方形のポルトガル様式墓碑は、イエズス会の布教方針の見直し、または途中から来日したスペイン系托鉢修道会に対して、イエズス会の教区であることを主張する意図があったと考えられる。
 その発祥地は、イエズス会が最後の布教基地としたジョアン有馬晴信の領地・島原半島であった。1604年に出現し、以後約10年間で急速に浸透したが、禁教令発布(1614年)を機に減少し、元和年間に終焉する。統計では、「元和4年6月14日、斎藤かすはる」墓碑(南島原市)が島原半島で最後のもの。その7ヶ月後「元和5年1月22日」に建立された豊後宇目の「るいさ」墓碑は、最後を飾る大輪の花であった。
 一方、スペイン系托鉢修道会は、来日した時期が遅れたこともあって、キリシタン墓碑について、とくに規定された形式はなかったようだ。清貧・托鉢・洗足をモットーとする彼らは、カタチよりもキリストの精神、神の愛の精神を重視したものと思われる。
 宇目重岡の「るいさ」墓碑は、それがイエズス会宣教師の指導により建立されたものであり、ルイサがイエズス会所属の信者であったことを物語るものである。

■ルイサが扶養した宣教師はペトロ・パウロ・ナバロ師
 ところで、ルイサとその夫・佐伯藩主毛利伊勢守高政が、協力して匿ったとされる宣教師は誰であろうか。イエズス会は当豊後地方に当時、二人の宣教師が潜伏していたことを伝えている。一人はペトロ・パウロ・ナバロ師。他のひとりはフランシスコ・ボルドリーノ師である。
 「1618年度年報」に、「豊後の国の志賀(竹田)は、ボルドリーノ師の教区であった」とある。一方、ペトロ・パウロ・ナバロ師は豊後国の全域を潜伏しながら巡回し、司牧した。1617年(元和3)、イエズス会のコウロス神父が全国を回って集めたキリシタン代表者らの署名簿「コウロス徴収文書」のうち、豊後国の文書全9通(註)に「へろはうろ」とあるのは、ペトロ・パウロ・ナバロ神父のことである。
 その中の一つ、ルイサが所在する「南郡(なんぐん)」の文書には、「佐藤九介はうろ/衛藤市介ろれんそ/渡辺孫助志門/中野半次志門/新七ヱ門了こ/龍徳喜右衛門ミける」の署名があり、「こんはにや(=イエズス会)のはてれ、へろはうろ様当国ニ聢被成御在宅方々被成御辛身候…」とある。現代文に直すと、「イエズス会の宣教師ペトロ・パウロ・ナバロ様が当豊後国にたしかに在宅(潜伏)されて、あちらこちらで大変ご苦労されておられます」、といった意味である。
 これらの証言文書から、ルイサが匿い扶養した宣教師は、イエズス会神父ペトロ・パウロ・ナバロ師であったことが判明する。(つづく)

 【】…「コウロス徴収文書」のうち、豊後国の文書全9通の内訳は、「臼杵、油布院、野津、高田、南郡、日出、府内、利光・戸次・清田、種具村・丹生・志村・大佐井村」。

2018年6月11日月曜日

欧文史料で読み解く豊後宇目の「るいさ」⑧

ルイサは高政の妾妻
 宣教師たちが遺した史料をもとにルイサの「夫イチノカミ(ドノ)」を捜し求め、辿り着いた人物は、意外にも佐伯藩主初代・毛利伊勢守高政であった。冷静に作業を進めなければならない筆者は、正直、困惑したが、その一方で、いくつか合点することがあった。禁教令下、幕命に反して10年以上も宣教師を匿うことは、一地方役人の婦人にできることではなく、大名の婦人(妾)にして、はじめて可能ではないか。また、地方役人の婦人にしては分不相応な巨大な墓碑の建立にしても、大名夫人であれば、何の矛盾もない。前述したように、あれはキリシタン墓碑ではあるが、大名(またはその夫人)墓碑であった。

 ルイサの夫が「イチノカミドノ」毛利高政であるなら、ルイサは夫人である。正室は「木曽義昌の娘」とされているので、妾妻(めかけ)ということだろうか。
 高政の子供の母親を毛利氏系図で見てみると、高成の母は正室「木曽義昌の娘」。高定の母は「吉田氏」、女子の母は「某氏」とある(註1)。名前を記せない「某氏」を含め、高政には側室・妾が複数存在したことであるので、「ルイサ」がその一人であった可能性は否定できない。十分にあり得ることである。
 
■ルイサと毛利伊勢守高政との接点
 見てきたように、ルイサは摂津国高槻出身の「高貴な」武士の家系・加賀山一族であり、小倉キリシタン集団の指導者的存在であったディエゴ加賀山隼人の「姉妹」であった。従兄弟のバルタザール加賀山半左衛門一家を含め、一族が九州に下って来たのは1601年、細川忠興の豊前・豊後国入封に伴うものであった。
 したがって、ルイサと毛利高政が出会うのは1601年以降となる。仮りに1605年とすると、その時のルイサの年齢は、兄弟隼人(1565年生まれ)のそれから推定して、40歳ぐらいになる。あるいは結婚歴があり、連れ子があったかもしれない。ちなみに高政(1559年生まれ)の年齢は46歳であった。
 ルイサが毛利高政の妾となる機縁を問えば、やはりキリシタン信仰であったと言えるだろう。宣教師の記録は、十分にそれを裏付けている。

■毛利伊勢守高政のキリシタン信仰
 そうした場合、ルイサの信仰にかんしては問題ないであろうが、一方、高政の信仰については検証を要する。『日本切支丹宗門史』にもあるように、彼は一般に「背教者」と言われれていたからである。
 この点について、ディエゴ・パチェコ(日本名・結城了悟)元日本26聖人殉教記念館館長(司祭、キリシタン研究家)の見解は参考になる。高政が佐伯に入封する以前、彼が日田2万石の大名であったとき、日田から2里ほど離れた所に2千石の知行を得ていた元竹田城主ドン・パウロ志賀親次を頻繁に招き、神父をまじえてキリストの教えを深く理解し、「信仰の道を選んだ」というのだ(註2)。
 1606年、アウグスチノ会のエルナンド・デ・サン・ヨゼフ神父が佐伯を訪れて貧弱な修道院を建てたとき、毛利高政は自費で天主堂(教会)と、更に立派な修道院を建て(てあげ)たという、『日本切支丹宗門史』の記事は、彼のキリシタン信仰が中途半端なものでなかったことを証明するものである。

■ドン・パウロ志賀親次の遺志を引き継いだ高政
 このように、佐伯藩主毛利高政がドン・パウロ志賀親次との友誼交流を機に本物のキリシタンに目覚めたとするなら、サムライ高政の生き方について、もう一つ、考慮すべきことがある。「西の(高山)右近」を自称して憚らず燃えるようなキリシタン信仰を持ちながら、あわれな運命を辿らざるを得なかった畏友ドン・パウロ志賀親次の遺志を、高政が引き継いだ、ということだ(註3)。
 その場合、一度は「背教者」と呼ばれた人間と、最初から純粋に意志を貫き通した高山右近、志賀親次、加賀山隼人らの正道を行く人間とでは、おのずから物事への対処の仕方が異なるであろう。
 毛利高政は、右近や親次らの教訓(註4)をもとに、内面ではキリスト教信仰を堅持しながら、外面ではむしろ背教者、迫害者の態度をとり続けることで、裡に秘めた信仰の信念を果たそうとした。つまり、大名の立場でキリシタンを擁護するため、自身は外面上、迫害者・背教者を演じるということである。―それが、佐伯藩初代・毛利高政がとった対キリシタン政策の基本姿勢ではなかっただろうか。
 レオン・パジェス著『日本切支丹宗門史』に、それを思わせる記事がある。1615-16年、「豊後の重要な地クフ(玖珠)で、九人の切支丹が手足を縛られ俵につめられて、寂しい場所に曝され、野獣の餌食に供された。彼らは全く飲食せずに其処におること四日五晩、中には婦人や子供もあって、中一人は僅かに四歳であった。領主は彼らの勇気に感じ、之を殺すことを望まず、遂に釈放した。」というものである。「クフ(玖珠)の大名」とは、同地の代官を兼任した佐伯藩主・毛利高政である。
 キリシタン禁制下にあって、「キリシタンの勇気に感じ…釈放した」という話は聞いたことがない。〃隠れのキリシタン大名・毛利高政〃にしてできることであった、と思われる。
 毛利高政が、そのように篤い信仰を秘めたキリシタンであったとすれば、彼は最後のキリシタン大名であったと言えるだろうし、それだからこそ、宣教師を保護するという目的で、ルイサを妾妻にした、とも考えられる。

 ルイサの背景には、異教徒を装った夫毛利高政がいる、…となると、次第に見えてくるものがある。禁教令下、迫害に抗してキリシタンを守るため、イエズス会とキリシタン為政者、篤信のキリシタンらが協力して組織した秘密の地下洞窟教会の存在である(本稿付記②参照)。
(つづく)
毛利伊勢守高政が築城した佐伯城(鶴屋城)―同城案内板より筆者撮影(2018年5月)

 【註1】…佐伯史談会1994年6月発行『佐伯史談166号』―宮下良明「乱世の武将と善教寺」の鯰江・毛利氏系図。
 【註2】…結城了悟著『キリシタンになった大名』(1999・聖母の騎士社発行)194-195頁。パチェコ・ディエゴ(結城了悟)著『九州の古城とキリシタン』(1978・日本26聖人記念館発行)167-173頁。原史料は『十六・七世紀イエズス会日本報告集』第Ⅰ期第2巻(1987・同朋社出版)所収の「1596年度年報」。同書139-145頁。
 【註3】…ドン・パウロ志賀親次の信仰を表す言葉(一例)として、イエズス会は「1588年度年報」に次の証言を記している。「ドン・パウロは司祭たちを自分の手許から放したり、下(しも=長崎)に送ったりすることを望まなかった。…彼も彼の妻(マダレイナ)も、キリシタン宗団がこのように巨大な苦難のなかにある時こそ、どのような事態に見舞われようと、自分たちは(高山)右近殿の行為に負けぬことをやり遂げずにはおかぬ、という決意を固めていた。」(『十六・七世紀イエズス会日本報告集』第Ⅰ期第1巻、73-74頁)。
 【註4】…たとえば、広島の大名福島正則の場合、「彼は、キリシタンに対して余りに好意を示したために、皇帝(徳川幕府)から所領を没収せられ、追放された。」(レオン・パジェス『日本切支丹宗門史』中巻、86頁)。

2018年6月10日日曜日

欧文史料で読み解く豊後宇目の「るいさ」⑦

■ルイサの夫イチノカミ(ドノ)とは誰か?
 問題は④の夫「イチノカミ(ドノ)」である。
 イエズス会「1615-16年度年報」の欧文史料を翻訳した鳥居正雄氏(註1)は、ルイサの夫として宣教師が記録した「Ichinocamo」を「イチノカミドノ」がつづまったものと判断されたようで、日本語として「イチノカミ」すなわち「市正(いちのかみ)」を宛て、疑問符を附している(註2)。
 たしかに、日本人で「イチノカミ」は「市正」または「市之正」が宛てられる。当時、豊後の国にこのような名前をもつ武将が存在したのだろうか。これを探すとなると、記録の有無を含めて気の遠くなるような話である。筆者は半ば、諦めかけていた。
 ヒントになるのは、彼が宣教師に記憶されるほどのキリシタンであり、何より宣教師を匿うほどの熱心な信者であったことだ。それなら、邦文史料を探すより、宣教師の記録に「イチノカミ(ドノ)」、「市正」が他にないか、探した方が早いにちがいない。
 それと、以前からもう一つ気に掛けていたことがあった。豊後のキリシタン史を特徴づけるものとして、托鉢修道会の一派アウグスチノ会の活動があるが、その記録史料が発見されていないため、誰も手を付けていないことである(註3)。筆者は長年、それを探し求めて来たが、まとまった史料を拝見するに至らなかった。
 ところが今回、「るいさ」のご縁で―(詳しく話せば長くなるので省略するが)―レオン・パジェスの『日本切支丹宗門史』(註4)を再読することとなり、その中にアウグスチノ会の記事があるのを見て惹き付けられた。
 『日本切支丹宗門史』(レオン・パジェス著、全3巻)は、日本キリシタン史の主要部分である織豊時代が省かれているという難点がある。それゆえ、筆者はかつて、これを敬遠したことがあるが、このたびはむしろ、それが幸いしたようだ。同書第一編(内府様の時代、1596ー1616)第一章の冒頭「治部少・浅野弾正両奉行間の軋轢」の部分に「イチノカミ(Ichinocami)」が登場するのだ(註5)。
 それは、朝鮮役(文禄慶長の役)後、五大老・五奉行が分裂し、石田治部少三成派と浅野弾正長政派とが対立する構図を説明したくだりで、次のように述べている。

 「…浅野弾正方には、肥後半箇国の領主アウグスチノ(小西行長)の身にとって不倶戴天の敵である主計殿(カズエドノ、加藤清正)、共に豊前の領主たる甲斐守(カイノカミ、黒田甲斐守長政)、イチノカミIchinocami、佐伯の大名毛利伊勢守高政か)、並びに肥前の大名鍋島(鍋島直茂)等が左袒した。」

■それは佐伯藩初代藩主・毛利伊勢守高政であった!
 同書の翻訳者・吉田小五郎は、この部分の「イチノカミ」について「Ichinocami、佐伯の城主毛利伊勢守高政か」とカッコして註記しているが、さらに同書を読み進めると、「第八章1606年」のところで、もう一度「イチノカミドノ」が登場する。それは、アウグスチノ会の宣教師エルナンド・デ・サン・ヨゼフ師が佐伯に赴き、そこに小さな修道院を建て、「イチノカミドノ」という大名も「自費で天主堂と、もう一つ更に大きな修道院を建てた」、と記述している部分である(註6)。

 「…エルナンド・デ・サン・ヨゼフ師は、当時豊後から佐伯の近くに行き、その城下に小やかな修道院を建て、聖ヨゼフの保護の下においた。伊勢守殿(イチノカミドノ、毛利伊勢守高政)という大名は、一度は改宗したことのある背教者で、彼は自費で天主堂と、もう一つ更に大きな修道院を建てた。神父は、佐伯で大きな結果を収めて後、日向(ヒュンガ)に行き、その城下縣(アンガタ)で働いていた。…」

 「イチノカミドノ」が「佐伯の大名」であると明記されているので、その人物は、言うまでもなく佐伯藩主「毛利伊勢守高政」(1559ー1628)のことである。先に「イチノカミドノ」として疑問符を附していた人物が、ここに来て「伊勢守殿」すなわち「毛利伊勢守高政」であったことが判明する。
 それでは何故、宣教師は毛利伊勢守高政を「イチノカミドノ」と表記したのだろうか。考えられるのは「伊勢守」の読み方(発音)が、そのように聞こえたからであろう。もとより宣教師は日本の地名や人名を漢字で表記したのではなく、ローマ字で記録した。「イセノカミ(伊勢守)」が「イチェノカミ」、「イチノカミ」と聞こえたか、あるいは何かの理由があって敢えて「イチノカミ」と称されていたかもしれない。とにかく宣教師は伊勢守毛利高政のことを「イチノカミ」と記録したことであった。
 結論として言えることは、「イチノカミドノ」とローマ字表記された人物は「市正」ではない。佐伯の大名である「伊勢守殿(イチノカミドノ)」、すなわち「毛利伊勢守高政」その人であったのだ。(つづく)
レオン・パジェス著『日本切支丹宗門史』1606年の項に出てくる「イチノカミドノ」(Ichinocamidono)のこと。

 【註1】…鳥居正雄は、松田毅一監訳『十六・七世紀イエズス会日本報告集』(全15巻、同朋社出版)の翻訳者のひとり。同書第Ⅱ期第2巻(1996年刊)掲載の略歴は次の通り。「1921年、香川県生まれ。上智大学文学部卒、文学博士。現、東京外国語大学特任教授。」
 【註2】…『十六・七世紀イエズス会日本報告集』第Ⅱ期第2巻、220頁。
 【註3】…松田毅一氏は、著書『南蛮の世界』(1975年刊・東海大学文化選書)181頁で、次のように述べている。「津久見南方の佐伯方面へは、スペイン系のアウグスチノ会のバテレンが伝道に来たが、同会のこれに関する記録はスペインのバリャドリードの修道院文庫に見出されるべくして未だ出現しない。」
 【註4】…フランス人レオン・パジェス(Leon Pages、1814ー1886)の遺稿『日本史』(全4巻)のうち第3巻「日本切支丹宗門史」。『切支丹大名記』の著者であるシュタイセン氏が1886年(明治19)、レオン・パジェス師からその原稿を贈与され、これを1869ー70年にかけて印刷発行した。日本語翻訳は吉田小五郎が手掛け、1938年(昭和13)3月、岩波書店から発刊された。イエズス会はもよとりドミニコ会、フランシスコ会、アウグスチノ会の原史料をもとに編纂されたもので、徳川時代の1598年(慶長3)から1651年(慶安4)に至る政治・社会・日欧交渉上の事件・キリシタン史上の出来事が編年史形式で収められている。※アウグスチノ会の原史料(書簡・報告)が同書編纂に使用されたことは、たとえば第3巻226頁に「アウグスチノ会の報告は、この年アウグスチノ会の多数の第3会員と革帯の会員が死んだと断言している」との注釈があることなどから分かる。
 【註5】…前掲書(岩波書店刊「日本切支丹宗門史・全3巻」)のうち(上)巻22頁。
 【註6】…前掲書(上)巻180頁。

2018年6月9日土曜日

欧文史料で読み解く豊後宇目の「るいさ」⑥

■3点の欧文史料に登場する豊後の「ルイサ」は同一人物か
 以上、見てきた通り、豊後の「ルイサ」にかんする宣教師の記事は、托鉢修道会ドミニコ会神父オルファネールによるものと、イエズス会による1615・16年度年報、これにコーロス神父による1616年度年報(部分訳)を含めると計3点が確認される。
 その時期は、オルファネールの記録が1613年12月。イエズス会のそれは1615年~1616年のことである。その間は約2年、徳川幕府の禁教令発布と、続く宣教師の国外追放事件があり、キリシタン・宣教師が極めて厳しい環境に晒された頃であった。
 前述したように、「ルイサ」は一般の信者ではない。「高貴な身分」の婦人であり、しかも、自身および家族の生命の危険を顧みず宣教師を宿泊させ、あるいは匿(かくま)い、扶養した篤信者であった。
 封建社会における女性の立場は、現代では考えられないほど低いものであった。そのような時代に一女性が「危険を冒し、自分の責任において」宣教師を匿うことは至難の業であったろうし、ましてや「豊後の国」という限られた地域で、しかも2~3年ほどの間に「ルイサ」の洗礼名で登場する人物が多くいるとは考えられない。同一人物であると見て間違いないであろう。
 (※なお、イエズス会文書とドミニコ会文書とで、夫についての記述など、いくらか相違点がある。これについては別途、考察する。後述する付記1を参照のこと。)

 以下、「ルイサ」なる人物の特定作業に移りたい。
 先ず、これら3つの史料から「ルイサ」という人物の特徴を抽き出してみる。次の4点に絞られるであろう。

■「ルイサ」を特定する4つの条件
 、宣教師を宿泊させ、匿い、扶養した婦人である。
 、高貴な婦人、身分の高い婦人である。
 、ディエゴ加賀山隼人の姉妹である。
 、夫は「イチノカミ(ドノ)」である。

 については、既に述べた。については、③④を見ていくことで、何故「高貴な、身分の高い婦人」であるか、その理由が判明すると思われる。
 先ずのディエゴ加賀山隼人から見ていこう。
 彼は、1601年に豊前国に入封した細川忠興(夫人はガラシャの名で知られる)の家臣で、小倉キリシタン集団のリーダーであった。摂津国高槻の生まれで、10歳の時にルイス・フロイスから洗礼を受け、安土セミナリヨに学んだ。キリシタン武士として高山右近、蒲生氏郷、そして細川忠興に仕えた。1601年、細川氏に従い豊前に至り、はじめ下毛郡の郡奉行であったが、その実力のゆえ国家老に抜擢された。従兄弟の加賀山半左衛門バルタザール(日出の役人)らとともに熱烈なキリシタンであり、やがて徳川幕府の禁教政策に従う藩主細川氏と対立するようになる。藩主忠興が、ディエゴ加賀山隼人の「姉妹」である「ルイサ」とその夫に対して、匿っている宣教師を長崎に追放するよう忠告したという「1615・16年度年報」の記事は、その延長線上での出来事であった。
 忠興は最後、自分の領内の家臣であるディエゴ加賀山隼人とバルタザール加賀山半左衛門を1619年10月15日、小倉と日出(ひじ)でそれぞれ処刑した。隼人の「姉妹ルイサ」とその夫「イチノカミ」がこれを逃れたのは、彼の統治圏外―「豊後の国」にいたからであった。もっとも、ルイサは兄弟・隼人と従兄弟・半左衛門が殉教する7ヶ月ほど以前に亡くなっている。
 「ルイサ」は、そのようなディエゴ加賀山隼人の姉妹。摂津国高槻出身の高貴な武士・加賀山一族の血を引く女性であり、「高貴な婦人」と呼ばれるにふさわしい人であった。(つづく)

 
 
 
 

欧文史料で読み解く豊後宇目の「るいさ」⑤

イエズス会による「ルイサ」の記録
 次に「ルイサ」にかんするいま一つの欧文史料を紹介し、ルイサがいかなる人物であったか、より詳しく見ていきたい。史料は、イエズス会による記録「1615・16年度年報」である(註)。
 時は、徳川幕府によるキリスト教禁令が発布された直後のこと。これに触れると「当人のみならず家族全員の生命が奪われ、全財産が没収される」、という厳しい刑罰が課せられるにもかかわらず、「師としての宣教師を匿(かくま)い」、「貧しい暮らし」ではあったが「その食べ物を半分にしながら(宣教師を)養なおうとした」人々がいた。その例として「豊後の国のルイザ」について、宣教師は次のように述べている。

 …この上なく深い慈悲の心を備えていたキリシタン、加賀山ディエゴ隼人の姉妹のルイザという名の身分の高い女性は、豊後の国で以前からキリシタンの世話に従事していた司祭の手助けをするために司祭の一人を新たに豊後へ派遣したことに対して、我らに感謝しようとして上長(イエズス会日本副管区長)に宛てた書状の中で、次のように、少しも女性的な点が見られない調子で述べている。
 越中殿〔豊前国および豊後の一部の領主、細川忠興〕は、ある書状により、都にいた一人の司祭が牢に入れられたことをお知りになり、(殿の周囲には)私どもを説得しようとする人々にこと欠いておられないためか、私どもが我が屋敷に匿っている伴天連様を長崎に送り返すようお求めになりました。しかしながら、我が夫イチノカミ(Ichinokamo、市正?は、〃どのような迫害の嵐が吹き荒れようとも、これまでと異なることを行う必用は何一つない。なぜならば、自分は今後起こり得るあらゆる厳しい状況を予想したうえで、伴天連様を手元に置いているのであり、これからも置いておくであろう。と言うのも自分がこの伴天連様に対して責任を負っているからだ。もし、(内府の役人が)おせっかいにも何かを捜し出そうとしたとしても、自分は巧みに伴天連様を丁重に隠しておける。それにもかかわらず、仮に彼らが伴天連様を見つけ出したとしたら、その時こそ、たとえ伴天連様の命を守ることができないとしても、自分たちは伴天連様とともにデウス様が我らにお求めになっていることを終に成就することができる。それゆえ、我らが踏み留まっている限り、伴天連様は決して立ち去らない〃、とお答え申し上げた。…たとえどのような危険があろうとも、私どもは真心を込めて伴天連様にお仕えいたします。
 これが、この身分の高い婦人の書状である。

 この史料の監訳者は、著名なキリシタン研究家・松田毅一氏である。氏は別著『南蛮巡礼』(1967・朝日新聞社発行)において、いま一つ「1616年の豊後のルイサ」にかんする情報を提示している。記録が複数存在する理由は、「日本にいたバテレンたちはヨーロッパへ報告するのに3通ないし4通も同文の書類を作成した。1616(元和3)年の日本年報は、マテウス・デ・コーロスが執筆したが、…原文は、一つはローマのイエズス会文書館に、他はマドリーの王宮図書館に収蔵されている」(前掲書)からであるが、これは松田氏が別途に「豊後のルイサ」に関する記事として部分訳出されたものである。原文とともに著者の要約をはさみながら、次のように述べている。

 …そのなか(筆者註=マテウス・デ・コーロスが執筆した「1616年度日本年報」のなか)の「豊後」の項に、地名を挙げていないが、「ルイサLuisaと称する高貴な一婦人は、自らの身分と家族について、大きい危険を冒し、自分の責任において、一人の司祭を扶養した」…(中略)…という記事が紹介されている。…

 (つづく)

 〔〕…「ロレンゾ・ポッツェ訳イエズス会総長宛、1615・16年度日本年報(ミラノ版、日本・シナ・ゴア・エティオピア年報3~84頁)」(1996・同朋社出版『十六・七世紀イエズス会日本報告集』第Ⅱ期第2巻、219-221頁)
 

2018年6月8日金曜日

欧文史料で読み解く豊後宇目の「るいさ」④

 ■半田説への疑問②―墓碑と人物の不一致
 来日したイエズス会が日本で実践した布教の仕方は、「先に彼らの門から入って、然る後に自分自身の門から出る」という〃日本文化順応方針〃であった(註1)。そのため、キリシタンの墓碑は当初、日本の伝統的な縦長型の塔形墓碑が代用され、その過程でキリシタンの記号―十字架や洗礼名など―を彫り込んだ塔形キリシタン墓碑が、京阪地方を中心に現れた。
 「るいさ」墓碑のような伏せ碑型キリシタン墓碑(寝墓とも言う)が現れるのは、徳川時代に入ってからである(註2)。それはイエズス会の母国ポルトガルに由来するものであり(註3)、イエズス会が最後の布教基地としたキリシタン大名・ジョアン有馬晴信(1561―1612)の領内・島原半島にはじめて出現し、それ以降、豊後や都(みやこ)に伝播した(註4)。したがって、伏せ碑型キリシタン墓碑の分布は島原半島に集中し、140基ほどが知られている。
 これら島原半島のキリシタン墓碑を基準にして、豊後宇目の「るいさ」墓碑を検証すると意外な事実が判明する。それは、造形が正確精密であるとともに、大きさが桁違いに突出していることである。島原半島のそれの平均的長さは、91.0㌢㍍であるのに対し、「るいさ」墓碑はその2倍ある。島原で最大の伏せ碑型墓碑である「里阿ん」銘墓碑(雲仙市南串山)129㌢㍍よりも60㌢も長いのだ。超特大と言える存在である。
 こうしたキリシタン墓碑の統計学的調査から判断される「るいさ」墓碑は、したがってそれなりの人物が想定されなければならないであろう。日本式に言えば、大きさから言えば大名クラスに匹敵するものであり、女性であるからその側室のような人物である。
 「るいさ」は、半田説によると、宇目郷の庄屋役を補佐する地方役人「割元役」渡辺善左衛門の前妻であると想定されているが、主人でもなく、その夫人にして、しかも「前妻」の立場で、あれほどの巨大な墓碑をつくる必用があるのだろうか。
 渡辺家累代墓地に、もし初祖善左衛門の墓碑が現存しているなら分かり易いであろうが、おそらく、それとは比較にならないほど夫人「るいさ」の墓の方が大きいにちがいない。双方が釣り合わないのである。
 キリシタン墓碑から想定される「るいさ」と、定説「るいさ」との間には、ズレがあることを指摘しておきたい。(つづく)
紀年銘伏碑型キリシタン墓碑比較表―宮本作図

 【註1】…キリスト教の歴史で世界的にも異例とされる「日本文化順応方針」をイエズス会が如何なる理由で選択したのか、ルイス・フロイスは著書『日本史』の第一巻89章の中で説明している。H・チースリク著『キリシタン史考』(1995・聖母の騎士社)48-49頁参照。
 【註2】…伏せ碑型キリシタン墓碑(筆者は「ポルトガル様式墓碑」と称している)の初出は「南串山土手の元1号墓碑」の「慶長九年」(1604)。島原三会出土の「慶長九年十二月二十日」銘墓碑は、西暦で1605年になる。以下、「元和四年(1618)六月一四日/斎藤かすはる」銘の墓碑まで、島原半島では計14点の紀年銘の伏碑型墓碑が確認されている。熊本県での初出は「慶長十一年(1606)一月」銘の正覚寺1号墓碑。京都・大坂の初出は「御出世以来千六百八年(1608)戌申七月八日/さんちょ/波々泊部右近将監」銘の等寺院南町さんちょ墓碑。豊後大分県でも臼杵市下藤の「常珎」銘墓碑、掻懐(臼杵市)のカルワリオ十字架銘墓碑など多数の伏せ碑型墓碑が知られているが、紀年銘がない。「元和五年(1619)正月廿二日/るいさ」銘墓碑が唯一最後となる。『南島原市世界遺産地域調査報告書・日本キリシタン墓碑総覧』(企画・南島原市教育委員会、編集・大石一久、2012年刊)「第2章統計一覧」335-343頁参照。
 【註3】…片岡弥吉「キリシタン墓碑の源流と墓碑型式分類」(1976・キリシタン文化研究会刊『キリシタン研究第十六輯』) 
 【註4】…拙論「ポルトガル様式伏碑型キリシタン墓碑出現の背景」(2015・1)。
 

2018年6月7日木曜日

欧文史料で読み解く豊後宇目の「るいさ」③


 ■宣教師の記録に登場する婦人「ルイサ」の家は宇目村―
 ドミニコ会のオルファネール神父が豊後国竹田に入ったのは1613年12月、「ディエゴ弥五兵衛…の家に泊まった。」とある。
 当時、豊後国にはイエズス会の司祭館が高田と野津、志賀(竹田)の三箇所にあり、これとは別にアウグスチノ会の修道院が臼杵と津久見、佐伯にあった。イエズス会は托鉢修道会(フランシスコ会、ドミニコ会、アウグスチノ会)の日本入国を当初から認めない方針をとったため、徳川時代にフィリピンのマニラから入ってきた同修道会士たちを執拗に排斥したが、志賀(竹田)に於いては例外であったらしい。ディエゴ弥五兵衛の家は「すべての修道会の修道士たちの通常の宿になっていた」(前掲史料)。
 ドミニコ会宣教師オルファネールはこの後、志賀(竹田)からアウグスチノ会修道院がある臼杵に向かうわけだが、野津を経て行く近道を取らなかった。オルファネール神父が別途編集した『日本キリシタン教会史』には、「若干回り道になる」(註1)とあるので、この史料に登場する「ルイサ」の家は、こんにち「るいさ」墓碑が存在する宇目村の位置と一致するであろう。
 オルファネール神父は何故、わざわざ「回り道をして」ルイサの家を訪ねたのだろうか。理由の一つは、竹田から臼杵に至る途上の野津にあるイエズス会司祭館が利用できなかったことであり、もう一つは、竹田の宿主ディエゴ弥五兵衛から紹介されたルイサの家が、竹田同様、托鉢修道会宣教師をも迎え入れる状況にあった、ということだろう。ルイサが登場する他の一つの史料―イエズス会の「1615・1616年度日本年報」(後述)によって明らかになるが、彼女は禁教令下、身の危険を顧みず宣教師を匿(かくま)うほどの篤信のキリシタンであった。
 ―このようなルイサは、地方の一般信者というのではなく、宣教師たちから特別の信頼を得、相応の実力を持つ婦人であったと考えられる。

 ■半田説への疑問①―若すぎるルイサの年齢
 ところで、半田氏は「るいさ」の夫である渡辺善左衞門の死亡年・享年(寛永18年、52歳で死去)から計算して、元和5年(1619)に夫善左衛門が29歳になることから、ルイサは「30歳前後で没したようだ」とした。これが事実であれば、オルファネール神父が宇目のルイサの家を訪ねた1613年、ルイサは24歳前後であったことになる。まだ、うら若い婦人である。
 ところが、オルファネールの目撃記録によると、ルイサには青年一人、嫁いで子供3人と生まれたばかりの赤子の計4人の子を持つ娘があり、その母親―孫からすれば祖母になる人であった。それから6年後の1619年(元和5年)に死去したとすれば、どんなに若く見積もっても40歳を下らないであろう。
 これはルイサに関する今一つの情報―ルイサの兄弟である加賀山ディエゴ隼人の年齢―からも言えることであるので、後述したい。
 半田氏が想定した渡辺善左衞門の前妻説は、オルファネールが実際に目撃した状況と一致させるには無理がある、と言わねばならない。(つづく)
「るいさ」墓碑前面の刻銘、「元和五年/るいさ/正月廿二(22)日」。(没)年月日は和暦。西暦では「1619年3月8日」になる。2018年5月筆者撮影。

 ※【】…『オルファネール日本キリシタン教会史1602-1620年』(1977年・雄松堂書店発行)83頁。「豊後国を巡回していた時…女のキリシタン(ルイサ)が住んでいることを耳にした。彼(オルファネール)は、若干回り道にはなるが、…このキリシタンの家に行きたいと望んだ…」。

 

2018年6月6日水曜日

欧文史料で読み解く豊後宇目の「るいさ」②


 ■半田康夫教授の調査に基づく従来の見解
 半田康夫教授が渡辺由忠氏から連絡を受け、「るいさ」墓碑の調査を実施したのは昭和31年(1956)夏のことであった。報告書は翌32年(19575月刊行の「大分県文化財調査報告書・第5集」に上げられ、それ以降、一般に周知されるようになった。
 氏は、同墓碑が宇目村大字重岡字宮園の旧「割元役」(註1)であった渡辺家の累代墓地にあることから、「るいさ」を同家先祖であると想定した。そして、「渡辺氏系書草案」や「位牌」等の史資料により、「宇目渡辺家の祖・善左衛門重福に嫁いだ」「もと岡(竹田)藩士渡辺与吉郎の娘(俗名不詳)」なる人物を割り出し、「一男一女を生んだのち元和5年、30歳前後で没したようである」と推定した。没年時の年齢を「30歳前後」としたのは、夫・善左衛門の享年―寛永18年(1641)に52歳で死去―から「推測」されたものである。
 結論から言うと、これは仮説の域を越えるものではない。仮りに新たな史料が見つかり、それが半田氏の仮説を裏付けることになれば事実であると断定されるが、双方に矛盾・齟齬が出て来た場合には、見直しを余儀なくされるであろう。
 
 ■托鉢修道会宣教師による「ルイサ」の記録
 次に、筆者が新たに発見した宣教師による史料―「ルイサ」に関する記事2点のうち、先にドミニコ修道会の宣教師ハシント・オルファネールの記録から紹介しよう。師は1613年暮れ、島原から肥後を経て豊後国竹田に至り、ルイサの家を訪ねた。

 …(1613年)12月初旬に…私は高来(註=島原半島)へ行きましたが、そこは迫害があって間もなかったので、仕事がたくさんありました。そこから肥後を通って南郡(註=豊後国の直入・大野・南海部の3郡)へ行くと、そこでも竹田市で告解を聴いたり棄教者を信仰に立ち戻らせたり、異教徒の洗礼を授けるなど多くの仕事がありました。そこで私はディエゴ・弥五兵衛という身分が高くて殿(註=中川久盛)に最も重んじられている人々の一人である者の家に泊まりました。この人物は1613年以後の迫害において執拗に棄教を求められましたが、強い信仰によって勇敢に対抗したので、殿の寵愛や財産をことごとく失いました。この秀れた武士の家はすべての修道会の修道士たちの通常の宿になっていました。
 ここの仕事を終わって私はただ一人の婦人のいる異教徒の町へ行きました。彼女の一家は裕福であり、その町の主要な人物であるから喜んで私を泊めてくれるだろうと思いました。その家に着いてみると、ルイサというその婦人は不在でしたが、その夫は異教徒であり熱心に偶像を崇拝しているにもかかわらず(一人の仏僧を養っているほど熱心でした)、私が来ることを知った時に息子を途中まで出迎えによこし、妻のために私を暖かく迎え容れ、喜びの様子を示しました。この家で神の予め定め給うた特別なことが起こりました。冬であったので私が火にあたっている時、すでに結婚しているこの家の娘が幼児を抱いて、火にあたるという口実で私に近づき、秘かに「私はキリシタンです。私は告解をしたいし、この子は未だキリシタンではありませんから洗礼を授けていただきたいのです。しかし私と子供たちがキリシタンであることを父が知ったならば、何か大きな面倒が起こる心配があります。母は昔からのキリシタンですから、キリシタンの修練を行なうことを見逃していますが、私と子供3人がキリシタンであることを父は知りませんし、疑ってもいません。それは母だけのしたことですから」と言いました。私が「火にあたったまま告解をしなさい」と答えると、彼女は父親の入って来るのを心配しながら告解をしました。それが終わると、私は子供に洗礼を授け、ビセンテという名をつけました。その少しのち私は再びそこを通った時に、この子供が死んで天国で行ったことを知りました。
 そこを出発して私は豊後国の臼杵へ入りました。ここはアグスティン会の神父が一つの教会をもっていました。…16142月末、私がアグスティン会士の修道院にいたとき、将軍の命令(註=禁教令)が届きました。その命令が全国の領主に、領内の教会を毀し、船に乗せて自国へ追放するため領内にいる宣教師を長崎市へ送るように命じていることをしりました。…(註2)

 【註1】…割元役(わりもとやく)は江戸時代の地方行政組織、身分は士分に準じ、代官・郡代と庄屋の中間の立場にあった。数か村~数十か村を支配し、年貢や諸役の割り振り、指図などをおこなった。
 【註2】…『福者ハシント・オルファネールOP書簡・報告』(1983年・キリシタン文化研究会発行)107~109頁。

 (つづく)

半田康夫氏が調査した昭和31年頃の「ルイサ」墓碑。同氏著『豊後キリシタン遺跡』(1962年・いずみ書房刊)掲載。

2018年6月5日火曜日

欧文史料で読み解く豊後宇目の「るいさ」①

―はじめに―
 来日した宣教師のひとり、イエズス会のフランシスコ・カブラル師は、豊後の国主大友宗麟(1530ー1587)について次のように語った。「日本の改宗は、デウスに次いでこの善良なる国主に負うている。」(註1)と―。誇張に見えるが、ある面、的中した。豊後一国のみならず、その影響力を九州・四国一円に及ぼして、日本のキリシタン時代を創出したからだ。しかし、彼は1587年(天正15)、夢半ばにして逝った。
 1593年、後継者・義統が朝鮮戦役で失態を演じて改易処分を受けるや、豊後の国は瓦解した。そして、40年余かけて育んだキリシタン信仰の灯も同じく消滅したかに見えるが、宗教の興亡は、国の興亡と運命を共にしない法則がある。その灯は半ば隠れながらも、静かに燃え続けていた。豊臣秀吉のバテレン追放令(1587)後も、徳川幕府禁教令下の弾圧時代にも、そこには宣教師が秘かに潜伏し、信徒らの司牧活動が継続されていたのだ。
 一般には知られていないが、托鉢修道会の一派アウグスチノ会が布教活動の拠点としたのも豊後国である。1602年、同会の宣教師が徳川幕府の許可を得て臼杵に入り、続く1606年には佐伯、縣(あがた=日向国延岡)に進出して修道院と教会を建てた(註2)。
 当時、「南郡(なんぐん)」と称された大分県南部の直入郡、大野郡、南海部郡の一帯は、400年を経た今もなお、司祭が潜伏したとされる洞窟や人工の掘削遺構、隠れのキリシタン信者が遺した墓石等の遺物が散在する。その中で、ひときわ目を引くのは宇目の「るいさ」のキリシタン墓碑であろう。
 
 ■求められる欧文史料による再検証
 「ルイサ(Luisa)」という洗礼名を日本語ひらがなで陰刻したポルトガル様式キリシタン墓碑は、大分県の最南端、佐伯市最奥部山中の宇目重岡にある。
 九州のキリシタン史をひもとくとき、誰もが一度は目にするであろうが、筆者の記憶は20年ほど前、キリシタン伊東一族を紹介するテレビ番組で見たそれだった。巨大で均整のとれた美しい造形の墓碑がつよく印象に残った。
 その後、イエズス会の「167世紀日本報告集」(全15巻)をはじめ、各種欧文翻訳史料を読み進めるなかで、ある日、「ルイザ」の文字が目に入った。そこが豊後国竹田に近い場所であったことから、「これが〃宇目のるいさ〃のことか―」と心に留めたことがあった。
 時は巡り、20183月、「るいさ」について調査する機会を得た。複数の関連資料に目を通して分かったことは、「るいさ」という人物の特定について、昭和30年代はじめに大分大学の半田康夫教授(故人)が日本側の資料のみで調査された見解をそのまま、今なお繰り返し紹介している、ということだった。

 半田教授の論文(註3)が発表されてから、すでに60年余りが経過している。その間、往時の来日宣教師たちが書き遺した一次史料―書簡・報告書等―の翻訳版が複数発刊され、その中には豊後の「ルイザ」の記事がいくつかある。これら欧文史料をもって再考・検証されなければならない、と考えた。―これが本論稿の意図である。(つづく)

2018年5月、現地調査のため、はじめて宇目を訪れた。新緑がひかる山道の旁らで、また重岡の「るいさ」墓地に至る坂道で、薄紫色の可憐な野アザミの花を見掛けた。

 【註1】…1581915日付、日本のイエズス会の上長フランシスコ・カブラル師よりイエズス会の総長に宛てた書簡」(『16-7世紀イエズス会日本報告集』1991・同朋社出版、307頁)
 【註2】…アウグスチノ会の豊後における布教展開は、原史料が確認されていないため、詳細は分からない。概要はレオン・パジェスの『日本切支丹宗門史』に出ている。それによると、フランシスコ会の宣教師ヒエロニモ・デ・イエズス師が徳川幕府の意向を受けてフィリピンとの交渉にあたり、宣教師(ルイス・ゴメス師、ペドロ・デ・ギロス師ら)を伴って帰国、京都および関東で布教を開始した。一方、島津氏の要請を受けてマニラからドミニコ会が1602年に甑島(鹿児島県)に上陸、アウグスチヌス会も同年、来日した。アウグスチノ会のデ・ゲバラ師は、京都のフランシスコ会宣教師ヒエロニモ・デ・イエズス師を介して幕府の許可を得、豊後(臼杵)にアウグスチノ会の修道院・天主堂(教会)を建てた。1604年、修練院長オルチス師が臼杵に第二の天主堂を建てた。同年、エルナンド・デ・サン・ヨセフ師が豊後に着任。翌1606年、エルナンド師は佐伯に赴き、小さな修道院を建て、そこの大名「イチノカミドノ」(毛利伊勢守高政)は天主堂と大きな修道院を建てた。エルナンド師は日向国の縣(あがた=現延岡)にも出向き、天主堂を建てた。

 【註3】…半田康夫教授の調査報告書は、『大分県文化財調査報告集第五集』(昭和三十二年五月刊)、『大分大学学芸学部研究紀要第七号』に「新たに発見した豊後の遺跡・遺物」が掲載されている。