2018年6月13日水曜日

欧文史料で読み解く豊後宇目の「るいさ」⑨

■「るいさ」墓碑はイエズス会の指導で作られた
 ここでもう一度、「るいさ」の墓碑に注目してみよう。
 前述したように、キリシタン墓碑は最初、「和様式塔形墓碑」をそのまま転用した時代があり、次に、十字架や洗礼名等のキリシタン記号を彫り込んだ「造形塔型墓碑」、そして1604年以降「ポルトガル様式の伏碑型墓碑」が現れ、弾圧時代になって「かくれ墓碑」に移行する。蒲鉾形、あるいは「るいさ」墓碑のような上面がやや膨らんだ扁平長方形のポルトガル様式墓碑は、イエズス会の布教方針の見直し、または途中から来日したスペイン系托鉢修道会に対して、イエズス会の教区であることを主張する意図があったと考えられる。
 その発祥地は、イエズス会が最後の布教基地としたジョアン有馬晴信の領地・島原半島であった。1604年に出現し、以後約10年間で急速に浸透したが、禁教令発布(1614年)を機に減少し、元和年間に終焉する。統計では、「元和4年6月14日、斎藤かすはる」墓碑(南島原市)が島原半島で最後のもの。その7ヶ月後「元和5年1月22日」に建立された豊後宇目の「るいさ」墓碑は、最後を飾る大輪の花であった。
 一方、スペイン系托鉢修道会は、来日した時期が遅れたこともあって、キリシタン墓碑について、とくに規定された形式はなかったようだ。清貧・托鉢・洗足をモットーとする彼らは、カタチよりもキリストの精神、神の愛の精神を重視したものと思われる。
 宇目重岡の「るいさ」墓碑は、それがイエズス会宣教師の指導により建立されたものであり、ルイサがイエズス会所属の信者であったことを物語るものである。

■ルイサが扶養した宣教師はペトロ・パウロ・ナバロ師
 ところで、ルイサとその夫・佐伯藩主毛利伊勢守高政が、協力して匿ったとされる宣教師は誰であろうか。イエズス会は当豊後地方に当時、二人の宣教師が潜伏していたことを伝えている。一人はペトロ・パウロ・ナバロ師。他のひとりはフランシスコ・ボルドリーノ師である。
 「1618年度年報」に、「豊後の国の志賀(竹田)は、ボルドリーノ師の教区であった」とある。一方、ペトロ・パウロ・ナバロ師は豊後国の全域を潜伏しながら巡回し、司牧した。1617年(元和3)、イエズス会のコウロス神父が全国を回って集めたキリシタン代表者らの署名簿「コウロス徴収文書」のうち、豊後国の文書全9通(註)に「へろはうろ」とあるのは、ペトロ・パウロ・ナバロ神父のことである。
 その中の一つ、ルイサが所在する「南郡(なんぐん)」の文書には、「佐藤九介はうろ/衛藤市介ろれんそ/渡辺孫助志門/中野半次志門/新七ヱ門了こ/龍徳喜右衛門ミける」の署名があり、「こんはにや(=イエズス会)のはてれ、へろはうろ様当国ニ聢被成御在宅方々被成御辛身候…」とある。現代文に直すと、「イエズス会の宣教師ペトロ・パウロ・ナバロ様が当豊後国にたしかに在宅(潜伏)されて、あちらこちらで大変ご苦労されておられます」、といった意味である。
 これらの証言文書から、ルイサが匿い扶養した宣教師は、イエズス会神父ペトロ・パウロ・ナバロ師であったことが判明する。(つづく)

 【】…「コウロス徴収文書」のうち、豊後国の文書全9通の内訳は、「臼杵、油布院、野津、高田、南郡、日出、府内、利光・戸次・清田、種具村・丹生・志村・大佐井村」。

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