2018年6月10日日曜日

欧文史料で読み解く豊後宇目の「るいさ」⑦

■ルイサの夫イチノカミ(ドノ)とは誰か?
 問題は④の夫「イチノカミ(ドノ)」である。
 イエズス会「1615-16年度年報」の欧文史料を翻訳した鳥居正雄氏(註1)は、ルイサの夫として宣教師が記録した「Ichinocamo」を「イチノカミドノ」がつづまったものと判断されたようで、日本語として「イチノカミ」すなわち「市正(いちのかみ)」を宛て、疑問符を附している(註2)。
 たしかに、日本人で「イチノカミ」は「市正」または「市之正」が宛てられる。当時、豊後の国にこのような名前をもつ武将が存在したのだろうか。これを探すとなると、記録の有無を含めて気の遠くなるような話である。筆者は半ば、諦めかけていた。
 ヒントになるのは、彼が宣教師に記憶されるほどのキリシタンであり、何より宣教師を匿うほどの熱心な信者であったことだ。それなら、邦文史料を探すより、宣教師の記録に「イチノカミ(ドノ)」、「市正」が他にないか、探した方が早いにちがいない。
 それと、以前からもう一つ気に掛けていたことがあった。豊後のキリシタン史を特徴づけるものとして、托鉢修道会の一派アウグスチノ会の活動があるが、その記録史料が発見されていないため、誰も手を付けていないことである(註3)。筆者は長年、それを探し求めて来たが、まとまった史料を拝見するに至らなかった。
 ところが今回、「るいさ」のご縁で―(詳しく話せば長くなるので省略するが)―レオン・パジェスの『日本切支丹宗門史』(註4)を再読することとなり、その中にアウグスチノ会の記事があるのを見て惹き付けられた。
 『日本切支丹宗門史』(レオン・パジェス著、全3巻)は、日本キリシタン史の主要部分である織豊時代が省かれているという難点がある。それゆえ、筆者はかつて、これを敬遠したことがあるが、このたびはむしろ、それが幸いしたようだ。同書第一編(内府様の時代、1596ー1616)第一章の冒頭「治部少・浅野弾正両奉行間の軋轢」の部分に「イチノカミ(Ichinocami)」が登場するのだ(註5)。
 それは、朝鮮役(文禄慶長の役)後、五大老・五奉行が分裂し、石田治部少三成派と浅野弾正長政派とが対立する構図を説明したくだりで、次のように述べている。

 「…浅野弾正方には、肥後半箇国の領主アウグスチノ(小西行長)の身にとって不倶戴天の敵である主計殿(カズエドノ、加藤清正)、共に豊前の領主たる甲斐守(カイノカミ、黒田甲斐守長政)、イチノカミIchinocami、佐伯の大名毛利伊勢守高政か)、並びに肥前の大名鍋島(鍋島直茂)等が左袒した。」

■それは佐伯藩初代藩主・毛利伊勢守高政であった!
 同書の翻訳者・吉田小五郎は、この部分の「イチノカミ」について「Ichinocami、佐伯の城主毛利伊勢守高政か」とカッコして註記しているが、さらに同書を読み進めると、「第八章1606年」のところで、もう一度「イチノカミドノ」が登場する。それは、アウグスチノ会の宣教師エルナンド・デ・サン・ヨゼフ師が佐伯に赴き、そこに小さな修道院を建て、「イチノカミドノ」という大名も「自費で天主堂と、もう一つ更に大きな修道院を建てた」、と記述している部分である(註6)。

 「…エルナンド・デ・サン・ヨゼフ師は、当時豊後から佐伯の近くに行き、その城下に小やかな修道院を建て、聖ヨゼフの保護の下においた。伊勢守殿(イチノカミドノ、毛利伊勢守高政)という大名は、一度は改宗したことのある背教者で、彼は自費で天主堂と、もう一つ更に大きな修道院を建てた。神父は、佐伯で大きな結果を収めて後、日向(ヒュンガ)に行き、その城下縣(アンガタ)で働いていた。…」

 「イチノカミドノ」が「佐伯の大名」であると明記されているので、その人物は、言うまでもなく佐伯藩主「毛利伊勢守高政」(1559ー1628)のことである。先に「イチノカミドノ」として疑問符を附していた人物が、ここに来て「伊勢守殿」すなわち「毛利伊勢守高政」であったことが判明する。
 それでは何故、宣教師は毛利伊勢守高政を「イチノカミドノ」と表記したのだろうか。考えられるのは「伊勢守」の読み方(発音)が、そのように聞こえたからであろう。もとより宣教師は日本の地名や人名を漢字で表記したのではなく、ローマ字で記録した。「イセノカミ(伊勢守)」が「イチェノカミ」、「イチノカミ」と聞こえたか、あるいは何かの理由があって敢えて「イチノカミ」と称されていたかもしれない。とにかく宣教師は伊勢守毛利高政のことを「イチノカミ」と記録したことであった。
 結論として言えることは、「イチノカミドノ」とローマ字表記された人物は「市正」ではない。佐伯の大名である「伊勢守殿(イチノカミドノ)」、すなわち「毛利伊勢守高政」その人であったのだ。(つづく)
レオン・パジェス著『日本切支丹宗門史』1606年の項に出てくる「イチノカミドノ」(Ichinocamidono)のこと。

 【註1】…鳥居正雄は、松田毅一監訳『十六・七世紀イエズス会日本報告集』(全15巻、同朋社出版)の翻訳者のひとり。同書第Ⅱ期第2巻(1996年刊)掲載の略歴は次の通り。「1921年、香川県生まれ。上智大学文学部卒、文学博士。現、東京外国語大学特任教授。」
 【註2】…『十六・七世紀イエズス会日本報告集』第Ⅱ期第2巻、220頁。
 【註3】…松田毅一氏は、著書『南蛮の世界』(1975年刊・東海大学文化選書)181頁で、次のように述べている。「津久見南方の佐伯方面へは、スペイン系のアウグスチノ会のバテレンが伝道に来たが、同会のこれに関する記録はスペインのバリャドリードの修道院文庫に見出されるべくして未だ出現しない。」
 【註4】…フランス人レオン・パジェス(Leon Pages、1814ー1886)の遺稿『日本史』(全4巻)のうち第3巻「日本切支丹宗門史」。『切支丹大名記』の著者であるシュタイセン氏が1886年(明治19)、レオン・パジェス師からその原稿を贈与され、これを1869ー70年にかけて印刷発行した。日本語翻訳は吉田小五郎が手掛け、1938年(昭和13)3月、岩波書店から発刊された。イエズス会はもよとりドミニコ会、フランシスコ会、アウグスチノ会の原史料をもとに編纂されたもので、徳川時代の1598年(慶長3)から1651年(慶安4)に至る政治・社会・日欧交渉上の事件・キリシタン史上の出来事が編年史形式で収められている。※アウグスチノ会の原史料(書簡・報告)が同書編纂に使用されたことは、たとえば第3巻226頁に「アウグスチノ会の報告は、この年アウグスチノ会の多数の第3会員と革帯の会員が死んだと断言している」との注釈があることなどから分かる。
 【註5】…前掲書(岩波書店刊「日本切支丹宗門史・全3巻」)のうち(上)巻22頁。
 【註6】…前掲書(上)巻180頁。

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