2018年6月22日金曜日

欧文史料で読み解く豊後宇目の「るいさ」―付記②―

■迫害に備える潜伏信心会コングレガチオの事例として
 徳川幕府が1614年、禁教令・追放令を発布してキリスト教の本格的な弾圧に乗り出したとき、各修道会はその対応を余儀なくされた。ドミニコ会は以前にも増して信仰の所作に励み、「教えを棄てるよりは神の御心に従って死ぬことを定めた」組、すなわち「殉教に向かって励まし合う」信心会をつくった(註1)。
 一方、イエズス会は「逼塞(ひっそく)」の方針を打ち出し、隠れた(註2)。一見「臆病」とも見えるイエズス会の迎合的対処には、托鉢修道会から非難の声が向けられ(註3)、また一般信者からも疑念が持ち上がったため、さらなる対策を講じる必要にせまられた。高来(島原半島)南部の山中「折木Voriqui村」でジアノネ神父が編成した「デウスの御母さんたまりやの御くみ」、ゾラ神父が島原三會(みえ)でつくった「世主々(ぜすす)の組」などは、その事例であろう(註4)。
 H・チースリク氏によると、これは従来のサンタ・マリアの御組をいっそう強化し、迫害に備えて集会や活動を目立たないよう配慮し、また、殉教の覚悟を準備するものであった(註5)。高来の有馬には1603年、「ローマの聖母信心会に直属する」精鋭会員養成のための「コングレガチオ・マリアーナCongregatio Mariana」(御告げのサンタ・マリアの組)が編成されたので(註6)、その連動組織であったと考えられる。
 豊後の国に、ルイサを中心とした地下教会組織・信心会が存在したことについて本稿で言及したが、その実在はイエズス会「1615・1616年度日本年報」によって明確に証明することができる。何故なら、同年報に登場するルイサとその「夫イチノカミ」にかんする記事は、実のところ、迫害に備えて組織されたコングレガチオ信心会「至聖なるマリアとその僕という名称のもとに開かれた」組の、その事例として紹介されているからである(註7)。

 …彼らは、秘蹟以上にキリシタンたちの心を強める手段を見出した。それは適当な時期を選んで行われる信心の組(コングレガチオ)であった。そこでは死を賭しても信仰を守るという不動の堅い信念を告白すること以上には、何ひとつ取り扱われなかった。この信心の組(の集会)は、たいてい、至聖なるマリアとその僕という名称のもとに開かれた。聖職者が不在の折りには、このような組において、必要に応じて赤ん坊に洗礼を施したり、病人を見舞ったり、危機が迫っている時には聖職者を呼んだり、死者を埋葬したり、必要に応じて施し物を配分したりといった活動が、とくに、主の教えを守ったがために追放された人々のために行われた。そして、週のうちのある定められた日に人々は注意を払いながら、どこかの家に集い、そこで、徳を高めてしっかりと(自分のものに)したり、魂の糧(となるもの)を読んだり、この迫害の中においても町でも村でも数多くの場所で不断に続けられてきた四十時間の祈りを捧げたりした。人々は祈りに加えて断食も行ない、金曜、土曜に行なう者もあれば、週に三日行なう者もいた。彼らの多くが貧しかったので、祝日には必ず断食をしていると言ってもよいほどであった。
 このような組には、単に年配の男女だけのものではなく、いろいろな年齢の若い男女も集った。…彼らの司祭(宣教師)たちに対する愛と敬意の大きさには信じ難いものがある。…幾多の人々が司祭たちに自分自身と自分の家を提供しようとし…幾多の人々が彼らの貧しい食べ物を半分にしながら、司祭たちを養おうとしたことであろう。彼らは司祭たちの生命を守るためなら、己の生命にはまったく重きをおかなかった。…――「1615-16年度日本年報」――

 ルイサの勇敢な信仰と、これを陰ながら支えた「夫イチノカミ」毛利高政、そして惣支配役深田氏、割元役渡辺氏をはじめとする地元宇目郷の多くのキリシタン住民が秘かに神父を匿い、オラショを唱え、助け合いながらあの困難な時代を生き抜いた…。
 「宇目は、隠れキリシタンたちの安住の地であったらしい」。
 ―渡辺澄夫大分大学名誉教授が『宇目町誌』にしるした言葉を添えて、このを稿を閉じたい。  (おわり)
精鋭会員養成のため、かなり徹底した修行が実施された有馬コングレガチオ・マリアーノの印版。ローマに送られた1603年10月1日付記録に押印されている。ローマ・イエズス会文書館蔵。

 【註1】…『福者アロンソ・デ・メーナOP書簡・報告』(1982・キリシタン文化研究会発行)に次のようにある。「(佐賀の三つの住院から追放されたとき)パードレはキリシタンの中の最も信仰心の深い何名かを長に指定し、日本人が組と呼んでいる信心会を作りました。…この組の目的は…残っている家に時々集まって、説教がまったく欠けるということがないように、そこで信仰書を読み、また断食・苦行および相互間の平和や愛の規則を定め、迫害に際してはお互いに励まし合い、最後には教えを棄てるよりは神の御心に従って死ぬということを定めました。」(同書118-119頁)。「…一つの信心会を作りました。それは霊的問題を話し合い、予期される殉教に向かって励まし合うためでした。…迫害が始まったならば、信仰を表明し、信仰のために死ぬ目的をもって、呼ばれないでも裁判官の前に真っ先に出頭する、という定めでした。」(同書152頁)。
 【註2】…イエズス会「1615-1616年度年報」に次のようにある。「迫害という外的な攻撃に対して立派に身を処した。数多くの人々がこのようにして生き方を改めた。そのため、(もし彼らが自分の口から)そうだと言わなければ、(誰一人として)彼らが以前の彼らと同じ人間だとは見分けがつかないほどであった。…それは、こうした、単に声高にキリシタンだと言えない時期がそう長くないと判断したからであった。」(1997年同朋社出版『十六・七世紀イエズス会日本報告集』第Ⅰ期第2巻、217-218頁)。また、「1515年3月17日総会長宛、ジェロニモ・ロドリゲスの書簡」に、「…宣教師は信者の家に住み、外人は商人に変装し、日本人キリシタンは普通の町民のようにふるまった。」とある(『キリシタン研究第25輯』19頁―H・チースリク「レオナルド木村」&註37)。
 【註3】…フランシスコ会宣教師ディエゴ・デ・サン・フランシスコは次のように言っている。「長崎の全キリシタンが徳の立派なおこないをことごとく棄て、次第に異教の習わしに染まっていくのを5年間も見て、〃キリシタンに与える司祭の忠告〃という題名の論文を日本語で書いた。…私はこの文を長崎中に発表させ、キリシタンの会合で読ませ、私自らもそれを読んだ。結局、彼らは改めようとはせず、常に悪い方向へ進んで行った…残り滓のみになり、その人々は集まって、恰も滓をかきまわし動かすように、悪臭を放っていた。」―『ディエゴ・デ・サン・フランシスコ報告・書簡集』(1981・キリシタン文化研究会発行)246-247頁。
 【註4】…H・チースリク著『キリシタンの心』(1996・聖母の騎士社発行)395-396頁。
 【註5】…前掲書440-441頁。
 【註6】…「この年度(1606年度)報告でなお興味深いのは、長崎のこの信心会はConfrariaと称され、同年報で報告されている有馬のはCongregacamと称されていることである。…有馬のはローマの聖母信心会の支部assi primarima como de segundaであったわけである。さて、ローマの聖母信心会と同様な組織でまた正式にローマ本部の支部として認められた聖母信心会が初めて編成されたのは、1603年の2月か3月かに有馬のセミナリヨにおいてであった。」(1996・聖母の騎士社発行、H・チースリク著『キリシタンの心』436-437頁)。
 【註7】…『十六・七世紀イエズス会日本報告集』第Ⅰ期第2巻(1997・同朋社出版)217頁ー221頁。ルイサの事例が「コングレガチオ」信心会のそれであることに留意すべし。 

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