2020年6月7日日曜日

木浦鉱山キリシタン墓地―「女郎墓」調査記⑤

あとがき―呼称「女郎墓」が意味するもの
 最後に、木浦鉱山のキリシタン墓碑が「女郎の墓」と呼ばれ、また島原半島の典型的な伏碑型ポルトガル様式キリシタン墓碑が同じく「女郎の墓」と称されてきたことの意味について考察してみたい。
 徳川幕府によってキリスト教が国禁となった江戸時代、キリシタンは法度を犯した罪人であり、その墓碑建立も許されなかった(註1)。したがって、「かくれ」つつ信仰を維持した人々がひそかにキリシタンとして埋葬された「かくれ」の墓碑は、一般には知られてはならないものであった。ところが、時の流れのなかで状況によっては露見の危険に見舞われることもあり(註2)、その場合、キリシタン墓碑を隠蔽するための工夫が凝らされることになる。伏せていた墓石を縦に立てたり、十字を削り取ったり、あるいはそのまま土中に埋め隠したりとか、などである。
 また、かくれ墓碑としての「方形石組み型」などは、それ自体「かくし」のかたちを取っていても、怪しまれることが多々あったであろう。その場合、これを積極的に打ち消す必要があり、敢えて別の名称―すなわち「女郎の墓」とか「山伏の墓」などと称して監視の目を反らしたと思われる。島原半島の伏碑型キリシタン墓碑のなかには「山伏の墓」と称されたものが多くある。「るしや」とか「まりあ」など女性の洗礼名がある場合は、これを「女郎の墓」と偽称し、伝承してきたことはあり得ることである。
 木浦鉱山でも同様であろう。ほんとうに女郎(娼妓)であったなら、同遺跡説明板にも述べられているように「死去した時は葬式や埋葬は論外で、雑木林の中にうち棄てられるか廃坑に捨てられ、埋められる」のが習わしであり、敢えて鉱山町から3~4キロ㍍も山道を登って遺体を担ぎ上げ、天神原山(標高995㍍)の中腹・標高750㍍の尾根の上に、石一個ではなく四角形の石組みまでして、鄭重に葬られることはなかったであろう。
 あそこは、山深い鉱山に隠れ住むキリシタンたちにとって、「天の神」にもっとも近い祈りの場でもあった―そのように想定してもあながち外れてはいないと、現地に立って感じたことであった。(おわり)

 ※註1…キリスト教禁止令(1614年)が発布されたとき、教会施設はもとより、キリシタン墓地も同時に破壊された。当時、平戸にあったイギリス商館のリチャード・コックスは、「日本にあるすべての教会は引倒され、…すべての墳墓と廟所は廃かれ、…そして死者たちの骨は取出され…運び去られました。」と記している(『イギリス商館長日記』)
 ※註2…長崎浦上地域では1790年、かくれキリシタンの発覚事件〈浦上一番崩れ〉が起きたとき墓地の取り調べが行われ、仏教式墓碑とは異なるキリシタンと疑われる墓石はすべて破壊された。
 

2020年6月6日土曜日

木浦鉱山キリシタン墓地「女郎墓」調査記④

木浦鉱山キリシタン墓地「女郎墓」造立の背景
 木浦鉱山女郎墓がかくれキリシタンの墓地であるとするなら、その背景としての宇目キリシタン史―とくに迫害時代に対処するイエズス会の地下組織・コングレガチオ信心会の実態と、同鉱山を含む周辺地域のキリシタン遺跡・遺物などを関連して検討しなければならない。
 詳しくは今後の調査に譲るとして、現時点で把握されるいくつかの関連事項を次に上げてみたい。

 …1617年(元和3)のコウロス神父徴収文書の「豊後国なんぐん」の部に登場する6人のキリシタンリーダーのうち、第一人者として名前がある「佐藤九介はうろ Sato Cusuqe Paulo」なる人物と、宇目木浦鉱山の鉱山師「佐藤大膳」との係わり。

「佐藤九介」ら豊後国「なんぐん」のキリシタン組織指導者6人の署名があるコウロス徴収文書

 …重岡の「るいさ」銘キリシタン墓碑は、日本で確認される紀年銘ポルトガル様式伏碑型墓碑では最後(元和5年=1619年)になるが、同時に最大規模を有する墓碑である。それは、この地域に「るいさ」を中心とする強力なイエズス会地下組織「コングレガチオ信心会」が存在した証明でもある。イエズス会は豊後国のこの信心会の活動の一端を「1615-1616年度日本年報」に記している。
 …コングレガチオ信心会の女性リーダー「ルイサ」が元和5年(1619)正月に亡くなったあと、同地で地下宣教をしていた「へろはうろ(ペトロ・パウロ・ナヴァロ)」神父が肥前国(長崎県)島原半島に異動し、1621年(元和7)12月に捕らわれて島原の城下町で10ヶ月余り監禁されながら布教活動をしていたとき、豊後のキリシタンたちがナヴァロ神父のもとに駆け付けて見舞ったことがある(註1)。このように禁教時代であっても「かくれ」たちは互いに地域を越えて交流していたことであり、「方形石組み型墓碑」が長崎県と共通して大分県(野津、宇目木浦鉱山)に存在することの根拠になる。
 …『日本切支丹宗門史』(レオン・パジェス著)は1626年、「豊後には(なおも)一人の神父がいた」と記し、また1633年、「豊後でマノエル・ボルゲス神父(イエズス会のプロクラドール)が2人の伝道師とともに捕縛され、長崎に連行された」と記している(註2)。これは1633年まで豊後国の山中どこかに隠れたイエズス会の組織(コングレガチオ)が維持されていたことの証しである。
 …1696年(元禄9)、木浦鉱山・山師の一人がキリシタンとして捕らわれ、木浦牢内で獄門に処せられた(『宇目町誌』213頁)。木浦鉱山には元禄年間、なおも隠れキリシタンが存在したことであった。
 …宇目から木浦鉱山に至る途中の中岳(長渕地区)にキリシタン洞窟やキリシタン柄鏡など複数のキリシタン関連遺物・遺跡が存在する。今回の調査で帰途、中岳山頂のかくれキリシタン墓地と考えられる場所に案内され、近世期の古い墓地の背後に十字紋と◯紋様が刻まれた「拝み石」があるのを確認した。その名称「拝み石」は、長崎県平戸島のかくれ集落・猪渡谷のキリシタン墓地の「拝み石」と同じである。
◯と十字紋が刻まれたキリシタンの「拝み石」(中岳山頂付近)

 …木浦鉱山の正月行事として伝承される墨つけ祭りの御神体「大弊(おおべい)」に、キリスト教の罪標十字架(干十字)の形を重ねることができる(註3)。
 …女郎墓がある場所の字名「大切」は、キリシタン用語に登場する(註4)。
 
 以上、概略列挙した木浦鉱山に係わるキリシタン史および習俗は、「女郎墓」と言われてきた墓碑遺構がキリシタン史における「方形石組み型墓碑」であることを裏付ける補助資料となるであろう。(つづく)

 ※註1…ナバロ師の捕縛…「島原の4人のキリシタンと有馬のキリシタン5人の責任の下に、アンデレア・マゴエモン(孫右衛門)の家に監禁されていた(ナバロ)師は、毎日ミサ聖祭を献て、キリシタンに聖体を授けた。これは単に島原、長崎、並びに高来の信者のみならず、豊前と豊後の信者が集まって来て、天主堂のやうであった。」(レオン・パジェス著『日本切支丹宗門史』中巻、252頁)。
 ※註2…前掲史料下巻247頁。同261頁には、「この神父は、ここ12年間、立派な仕事をなし遂げた。彼は山間に匿われていた他の神父たちの会計係であった」とある。
 註3イエズス会は、日本の正月行事をキリスト教の祝日「御守りのサンタマリア」と定め、マリアの誕生を祝うための諸催しキリスト教的な舞を奉納したり、数珠に代えてロザリオをもって(神社に)参拝したりした。この取り決めはヴァリニヤーノ師が来日した1580年、イエズス会会議で「決裁」された。木浦鉱山の墨つけ祭り(正式名称は「山上がり祭り」)に、そのようなキリスト教の祝日祭りが重ねられていたとすれば、神社名「山神社(さんじんじゃ)」の「さん」は、長崎の岬にあったイエズス会本部教会名「サン・パウロ」の「サン」に通じるであろうし、また祭りの御神体である「大弊」が罪標十字架の骨組みを有していることの謎も解けてくる。加えて大弊の十字形骨組みに白い御弊を「1440枚」下げる(『宇目町誌』629頁記載)という数字の謎は、聖書「ヨハネ黙示録」に記されている「144千」に依拠したものと考えられ、聖書に通じたイエズス会宣教師の指導のもとに始められた祭りであると推察される。
 ※註4…キリシタン時代の教理書、信仰指導書に「御大切(おんたいせつ)」という言葉が出てくる。これは聖書で言う「神の愛」を意味する、当時のキリシタン用語であった。たとえば『こんち里さんのおらっしょ』に「御大切にわもやうされ」(神への愛にかられて)。フランシスコ会の信心会規約『勢数多講定之事』に「いかにも大切を以てひそかに異見を申し」(どのようにでも愛をもってひそかに意見を述べ)。またイエズス会の信心会『せすゝの組れいからす』規約に「此くみは、互に兄弟のちきり、大切のむすびなれば」(この組の目的は、互いの誓い、神の愛による結束であるから)。『高来に於いてバアデレ・ジャコメ・アントニヨ・ジャノネの編める組の掟』に「御おきてのきわめとなるでうすの御大切にいたらん事をほつし」(組の規約の最終目的である神の愛に至ることを願い)」、などとある。

2020年6月5日金曜日

木浦鉱山キリシタン墓地ー「女郎墓」調査記③

方形石組み型(かくれ)キリシタン墓碑
 ここで一つ問題としたいのは、木浦鉱山女郎墓に一般の仏教墓碑に見られるような一個の中心となる石塔(これには戒名・卒年月日などが刻まれることがある)が、有るか否かである。同史跡説明板や宇目町誌には「墓は川石の一つを真中に立て」などの説明があるが、現場で見るかぎり〃真中に立てられた一つの石〃なるものは確認されない。たしかにそれらしく見える石もあるにはあるが、周囲の石と比べて決して大きいものではないし、小さな石が二個ほど中心から外れた位置にあるのは確認される(註1)。
 こうした墓碑の造り―地面に伏せた格好で方形に複数の石を組み並べる構造―は、臼杵市野津の下藤キリシタン墓地や長崎県外海・平戸地方のかくれキリシタンの墓地にも共通することである(註2)。
大分県臼杵市野津の下藤キリシタン墓地の石組み遺構

 地元宇目の人々が言い伝えているように、木浦鉱山字大切のそれが鉱山にまつわる「女郎」の墓石だとすれば一個の自然石を据えるだけで事足りたはずである。いま現地を訪れ、明らかに確認される方形石組み構造の墓碑遺構は、このようなかたちにしなければならない人々―すなわちキリシタン信仰を有する人々のそれとして解釈しなければならないだろう。
 
 ところで、このような形態のキリシタン墓碑ー方形石組み型ーが出現する経緯について、ここで概略述べておきたい。
 立碑塔形を主流とする日本の石塔史に画期的変化をもたらした伏碑型墓碑は、16世紀後半、西欧から渡来したキリスト教に拠るものであった。遺体を仰向けに伸展して埋葬するため、墓碑も長方形箱形もしくは蒲鉾型をなすものが多い。日本にキリスト教を伝えたイエズス会は、(冒頭でも述べたように)それでも当初、布教方針として日本文化順応政策を打ち出し、そのためキリシタンの墓碑も和様式の塔形墓碑が代用された。これがポルトガル本国流の伏碑に変化するのは、日本文化順応策を強力に推進した巡察使ヴァリヤーノ師が日本を離れた1603年以降である。ここに至って以前から内部で主張されていたキリスト教本位の布教方針が打ち出され、翌1604年(慶長9年)、イエズス会の本拠地であった有馬晴信(1561ー1612)の領内・島原半島(長崎県)にはじめて伏碑型キリシタン墓碑が出現した。その後、同半島を中心に周辺地域、そして豊後、京都へと伝播され、爆発的に広まったものの、10年後の1614年、幕府の禁教令発布とそれにともなうキリスト教への国家的迫害によってキリシタン人口は減少し、伏碑型キリシタン墓碑も姿を消していった。それでも隠れてキリシタン信仰を維持した人々があり、集団で「かくれ」集落を形成した地域―長崎県の外海地方、同平戸島地方、大分県の野津地域などでは、キリスト教の流儀である伏碑型の墓碑が変容したかたちで維持された。その一つが方形石組み型の(かくれ)キリシタン墓碑である。


 佐伯市宇目木浦鉱山の山中にこうしたキリシタンの墓碑が存在することは、この地域に「かくれ」集団が存在し、地下活動を展開していたからに他ならない。それが、イエズス会の宣教師文書に出てくる豊後国のコングレガチオ信心会であった(註3)。(つづく)
 
註1…同「女郎墓」遺跡の複数の遺構のうち、道路に近い所にある遺構は、後世(PRのためか?)人為的に周囲の石を集め乗せた形跡がある。後方、および斜面に位置する遺構はほぼ原形を保っている(柴川英敏氏の証言)。
註2…たとえば長崎県長崎市多以良町垣内地区に「地面に伏せた長墓と呼ばれるキリシタン墓碑」、同外海町出津および黒崎、樫山町に「平たい石を箱形に積んだキリシタン墓碑」、また平戸市猪渡谷の「クロスバル」(キリシタン墓地)遺跡には、「長さ約1・5㍍の長方形状の石組みが複数残っている」(長崎新聞2014年2月9日付記事)。
3…「イエズス会1615・16年度日本年報」。本稿①註5参照。一般の信心会「コンフラリア」が在地のイエズス会組織に帰属するの対し、「コングレガチオ」はローマ本部に帰属する信心会であった。精鋭の信者らで構成され、迫害に対して中枢的機能を果たした。

2020年6月3日水曜日

木浦鉱山キリシタン墓地―「女郎墓」調査記②

 「女郎墓」と言い伝えてきた島原の典型的なキリシタン墓碑と、宇目木浦鉱山の自然石を配置した「女郎墓」とは、外見上は何の共通点もみられない。あるとすれば、「墓」と称されながら双方とも平面的な格好―伏碑的構造―をしている、ということであろう。
 筆者が木浦鉱山「女郎墓」に注目したのは、石の配置の仕方であった。インターネットで検索して複数の女郎墓の写真を比較してみると、四角形、または長方形に並べられた様子がうかがえる。それが事実であるとすれば、下藤キリシタン墓地(大分県臼杵市野津)や長崎県外海地方に多く見られる方形石組み型の(かくれ)キリシタン墓碑である可能性があるのだ。
 2020年2月15日(陰暦1月22日)、宇目地区公民館でキリシタン「るいさ」の命日401周年記念祭(豊後キリシタン史研究会主催)が開かれたとき、筆者は「るいさと宇目のキリシタン史」の題で講演し、その中で木浦鉱山「女郎墓」が隠れ時代のキリシタン墓碑「方形石組み型」として分類されることを紹介した。その際、柴川英敏氏(佐伯市文化財保護審議会副会長・宇目切支丹研究会会長)をはじめ地元の郷土史家、そして菅原健児宇目地区公民館長らが関心をもってくださったことが現地調査への後押しとなった。と同時に、地元宇目ではこれを文化財指定から外すような動きがあることもうかがった。

木浦鉱山「女郎墓」の実地踏査
 5月29日正午過ぎ、宇目地区上小野市で柴川氏、菅原館長、そして豊後キリシタン史研究会会員4人と筆者の計7人が合流し、菅原氏の先導で木浦鉱山天神原に向かう。林道・木浦藤河内線の急峻な坂道を上り、現地に着いたのは午後1時過ぎだった。場所は天神原山(995㍍)に続く東側尾根(字名は「大切」)の、小さく突き出した丘の上。菅原氏が地図をもとに現地の状況について、また柴川氏から女郎墓が文化財になったいきさつ、名称の由来、さらに地元旅館経営者によるPR活動などもあっていくらか石の移動があったことなど、説明があった。
木浦鉱山「女郎墓」墓地風景
 
 
筆者はそれらを参考にしながら個々の墓石を確認した。
 遺構は、地元産自然石を任意に並べた格好で配置され、個々の石は半分以上が土中に埋まっている。木の枝で周辺の枯れ葉や土を退けようと試みたが、容易に掘れる状態ではなかった。これは長い歳月をかけて埋没していったものであり、石そのものは造立された時の姿をそのまま伝えていると判断された。造立された時の元の姿―任意に配置されたかたちというのは、すなわち方形または長方形である。
 尾根頂上付近(平面地)のものは四角形の配列をある程度正確に読み取ることができるが、勾配のある斜面に据えられたものは個々の石がかなり埋没していて、目視するかぎりでは原形が見えない。それでも部分的に露出した石は2個3個あるいはそれ以上、ほぼ直線状に並んでいる状況が確認されるので、方形の一部分であろうと思われた。今後、発掘調査が行われ、正確な情報が得られることを期待したい。
 写真撮影とともに、スケッチおよび計測を試みたが、時間に余裕がなかった。(つづく)

2020年6月2日火曜日

木浦鉱山キリシタン墓地―「女郎墓」調査記①

まえがきキリシタン墓碑の変遷概観
 死者を葬り供養する墓石は日本において総じて「石塔」と称され、縦長の塔形をなしたものであった。ところがキリシタン時代、地面に伏せる形態の墓石が西欧から導入され、石塔史に画期的時代をもたらした。研究者たちはこれを「伏碑(ふせひ)」と称し、地域によっては「寝墓(ねばか)」とも呼ばれている。
 日本におけるキリシタン墓碑は、それでも当初、キリスト教を伝えたイエズス会が日本文化順応の布教方針を採ったため、塔形立碑(とうけいりっぴ)をなしていた。ポルトガル様式の伏碑型キリシタン墓碑が出現するのは、意外にも慶長期半ば以降である(註1)。
 1614年1月(慶長18年臘月)、徳川幕府によってキリスト教が禁止され「かくれ」を余儀なくされたとき、一部は従前の塔形に戻ったが、キリシタン墓碑の特徴である伏碑型を変容させて継承したものも多くあった。その一つに「方形石組み型(かくれ)キリシタン墓碑」がある。長崎県のかくれキリシタンの里として知られる外海地方や平戸、そして長崎の信者らとの往来があった山口県の日本海側―長門市向津具(むかつく)などで分布が確認される。
〔写真〕左から長崎県外海、同平戸、山口県長門市油谷向津具の石組み型キリシタン墓碑
 近年、大分県臼杵市野津の下藤キリシタン墓地で発見された墓碑も「方形石組み型かくれ墓碑」の典型事例であるが、同市教育委員会はこの造立時期を野津のキリシタン指導者リアンが存在した時代(天正年間)としている(註2)。
〔写真〕大分県臼杵市野津「下藤キリシタン墓地」の石組み型墓碑

島原と木浦鉱山二箇所の「女郎墓」
 ところで、キリシタン大名ドン・ジョアン有馬晴信の領地であった長崎県島原半島に、「女郎墓」と称されるキリシタン墓碑がある。美しい花十字と「慶長拾伍年/るしや/生年二十歳/拾一月十七日」の銘が刻まれた典型的なポルトガル様式の墓碑である。地元(南島原市北有馬町)では昔から「寝ている墓、すなわち寝商売の女郎の墓と言い伝えられて」きた(註3)。
〔写真〕女郎墓と伝承されてきた南島原市北有馬の「るしや」キリシタン墓碑

 一方、筆者は2017年5月、「るいさ」銘のキリシタン墓碑がある大分県佐伯市宇目を訪れて以来、イエズス会の記録文書(註4)をもとに同地に組織された信心会「コングレガチオ」の痕跡を追ってきた。宣教師文書によると、「ルイサ」は豊後地方で夫「イチノカミドノ」と協力して宣教師を匿い、コングレガチオ信心会運営に尽力した女性リーダーである(註5)。
 当時(1617年)、イエズス会のコウロス神父は全国を巡回して各地のキリシタン指導者たちの署名と証言文書を収拾した。「コウロス徴収文書」と称される同文書には、豊後地方のキリシタンを潜伏しながら指導した宣教師として「へろなはろ」―正式には「ペトロ・パウロ・ナヴァロ」神父―が記録されている。同宣教師が「ルイサ」らとともに豊後国のどこかに地下の宣教組織コングレガチオをつくり、近隣各地のキリシタン組織(コンフラリア)と連絡しながら禁教時代のキリシタン信者を指導していたのだ。その場所として想定されるのが「コウロス徴収文書」に登場する「豊後国・なんぐん(南郡)」である(註6)。現竹田市と佐伯市が接する宇目・木浦鉱山地域は、「るいさ」の墓碑をはじめ多くのキリシタン遺跡・遺物が分布しており、有力な候補地であるにちがいない。筆者はその調査の過程で、木浦鉱山の山中に「女郎墓」があるのを知った。(つづく)
〔写真〕大分県佐伯市宇目木浦鉱山の「女郎墓」

註1〕…『南島原市世界遺産地域調査報告書―日本キリシタン墓碑総覧』(2012・南島原市教育委員会発行)掲載の「紀年銘キリシタン墓碑一覧」史料によると、伏碑型の初出は1604(慶長9)年、長崎県雲仙市の「上土手元第一号墓碑」。最後は1619(元和5)年、大分県佐伯市宇目重岡の「るいさ」墓碑である。
註2〕…大分県臼杵市野津・下藤地区キリシタン墓地の説明板に「この墓地は、下藤村の地侍でキリシタンであったリアンが、キリシタンとなった村人のため、天正7年(1579)頃に造ったものと考えられます」とある。それは野津キリシタン史の始まりではあるが、「かくれ」の時代が連続している。墓碑・墓地造立の時代は再考されるべきであろう。天正年間のキリシタン墓碑はまだ伏碑ではなく、立碑形式のものであった。紀年銘でもっとも古いものは大坂四条畷の「礼幡」墓碑(1581年)、次に大坂八尾の「MANTIO」墓碑(1582年)が知られているが、いずれも塔形立碑である。
註3〕…『島原風土記第4号』(1987・島原歴史懇話会発行)125-126頁「北有馬町西田平、るしやキリシタン墓碑発見記―太田金敏」参照。
註4〕…『十六・七世紀イエズス会日本報告集』全15巻(同朋社発行)。
註5〕…「ロレンゾ・ポッツェ訳イエズス会総長宛、1615・16年度日本年報」(ミラノ版、日本・シナ・ゴア・エティオピア年報3~84頁)」(1996・同朋社出版『十六・七世紀イエズス会日本報告集』第Ⅱ期第2巻、219-221頁)。
註6〕…「なんぐん(南郡)」はコウロス徴収文書で豊後国のキリシタン宗団の一つとして登場する。その中に、「こんはにや(イエズス会)のはてれ(バーデレ=宣教師)へろはうろ(ペトロ・パウロ・ナバロ神父)様当国ニ聢被成御在宅方々被成御辛身候…」とある。ちなみに、コウロス徴収文書に登場するナバロ神父の活動範囲は、豊後国の「臼杵、油布院、野津、高田、なんぐん(南郡)、日出、府内、利光・戸次・清田、種具村・丹生・志村・大佐井村」。日向国の「縣(あがた)」であった。