2020年6月5日金曜日

木浦鉱山キリシタン墓地ー「女郎墓」調査記③

方形石組み型(かくれ)キリシタン墓碑
 ここで一つ問題としたいのは、木浦鉱山女郎墓に一般の仏教墓碑に見られるような一個の中心となる石塔(これには戒名・卒年月日などが刻まれることがある)が、有るか否かである。同史跡説明板や宇目町誌には「墓は川石の一つを真中に立て」などの説明があるが、現場で見るかぎり〃真中に立てられた一つの石〃なるものは確認されない。たしかにそれらしく見える石もあるにはあるが、周囲の石と比べて決して大きいものではないし、小さな石が二個ほど中心から外れた位置にあるのは確認される(註1)。
 こうした墓碑の造り―地面に伏せた格好で方形に複数の石を組み並べる構造―は、臼杵市野津の下藤キリシタン墓地や長崎県外海・平戸地方のかくれキリシタンの墓地にも共通することである(註2)。
大分県臼杵市野津の下藤キリシタン墓地の石組み遺構

 地元宇目の人々が言い伝えているように、木浦鉱山字大切のそれが鉱山にまつわる「女郎」の墓石だとすれば一個の自然石を据えるだけで事足りたはずである。いま現地を訪れ、明らかに確認される方形石組み構造の墓碑遺構は、このようなかたちにしなければならない人々―すなわちキリシタン信仰を有する人々のそれとして解釈しなければならないだろう。
 
 ところで、このような形態のキリシタン墓碑ー方形石組み型ーが出現する経緯について、ここで概略述べておきたい。
 立碑塔形を主流とする日本の石塔史に画期的変化をもたらした伏碑型墓碑は、16世紀後半、西欧から渡来したキリスト教に拠るものであった。遺体を仰向けに伸展して埋葬するため、墓碑も長方形箱形もしくは蒲鉾型をなすものが多い。日本にキリスト教を伝えたイエズス会は、(冒頭でも述べたように)それでも当初、布教方針として日本文化順応政策を打ち出し、そのためキリシタンの墓碑も和様式の塔形墓碑が代用された。これがポルトガル本国流の伏碑に変化するのは、日本文化順応策を強力に推進した巡察使ヴァリヤーノ師が日本を離れた1603年以降である。ここに至って以前から内部で主張されていたキリスト教本位の布教方針が打ち出され、翌1604年(慶長9年)、イエズス会の本拠地であった有馬晴信(1561ー1612)の領内・島原半島(長崎県)にはじめて伏碑型キリシタン墓碑が出現した。その後、同半島を中心に周辺地域、そして豊後、京都へと伝播され、爆発的に広まったものの、10年後の1614年、幕府の禁教令発布とそれにともなうキリスト教への国家的迫害によってキリシタン人口は減少し、伏碑型キリシタン墓碑も姿を消していった。それでも隠れてキリシタン信仰を維持した人々があり、集団で「かくれ」集落を形成した地域―長崎県の外海地方、同平戸島地方、大分県の野津地域などでは、キリスト教の流儀である伏碑型の墓碑が変容したかたちで維持された。その一つが方形石組み型の(かくれ)キリシタン墓碑である。


 佐伯市宇目木浦鉱山の山中にこうしたキリシタンの墓碑が存在することは、この地域に「かくれ」集団が存在し、地下活動を展開していたからに他ならない。それが、イエズス会の宣教師文書に出てくる豊後国のコングレガチオ信心会であった(註3)。(つづく)
 
註1…同「女郎墓」遺跡の複数の遺構のうち、道路に近い所にある遺構は、後世(PRのためか?)人為的に周囲の石を集め乗せた形跡がある。後方、および斜面に位置する遺構はほぼ原形を保っている(柴川英敏氏の証言)。
註2…たとえば長崎県長崎市多以良町垣内地区に「地面に伏せた長墓と呼ばれるキリシタン墓碑」、同外海町出津および黒崎、樫山町に「平たい石を箱形に積んだキリシタン墓碑」、また平戸市猪渡谷の「クロスバル」(キリシタン墓地)遺跡には、「長さ約1・5㍍の長方形状の石組みが複数残っている」(長崎新聞2014年2月9日付記事)。
3…「イエズス会1615・16年度日本年報」。本稿①註5参照。一般の信心会「コンフラリア」が在地のイエズス会組織に帰属するの対し、「コングレガチオ」はローマ本部に帰属する信心会であった。精鋭の信者らで構成され、迫害に対して中枢的機能を果たした。

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