2020年11月5日木曜日

嶋原三會(みえ)村のロザリオ信心―⑧―

 嶋原・三會の町と村で一線/「大手原」平左衛門のことなど…


知らされぬまま今に―

 1620年(元和6)8月、教皇パウロ五世発布の「ジュビレオ」が「日本の信徒に宛てた教皇の慰めの書簡(訓示)」とともに長崎の港にもたらされたとき、イエズス会は「管区長マテウス・デ・コウロスが司教の職を執って教書(ジュビレオ)と訓示(書簡)の伝達をつかさどり、本文を複写するとともに翻訳を付して各地の教徒に伝えた」(姉崎正治著『切支丹迫害史中の人物事蹟』497頁)。「嶋原と三會の二つの町」の信徒に対してはゾラ神父がその配布に尽力した。

 やがて、教皇の恩赦「ジュビレオ」および「慰めの書簡(訓示)」に対する日本信徒からの感謝の「奉答文」が全国から集められ(長崎、有馬、中國、奥州の計5通)、後日、ビエイラ神父の手によってローマに送られることになるが、有馬地方信徒の奉答文はそのうちで最も早い「(1620年)9月23日」の日付けで上げられている。「有馬/嶋原/有家/口(之)津/」の信徒代表(組親)の署名があり、「嶋原村」は「内堀作右衛門はうろ/鹽塚與市しゆあん/西田休巴はうろ」の3人の名前が見える。つまり、このジュビレオおよび書簡は「嶋原町」と「嶋原村」(および三會町)までの南目の範囲にのみもたらされ、「三會村」(当時、五つの小村で構成)とその以北地域には伝えられなかった!三會村で布教・司牧活動に従事したドミニコ会士ルエダ神父、コリャード神父も当然のこと、それを知らなかったわけだが、ルエダ神父は同年(1620年)暮れ、健康を回復するためマニラに戻り、はじめてこれを知らされることになる。その時点「1621年9月4日」で認めたのが同報告書である。

 日本に残ったコリャード神父にもおそらく追って伝達されたに違いない。コリャード神父が著した『日本キリシタン史補遺』「第61章」には、「1621年(元和7)」のこととして「当時公布されていた聖年の全免償(ジュビレオ)の恵みを儲(もう)けるために、この地方のキリシタンの告解と聖体拝領の聖なる秘蹟の授与に助力した。…」とある。

 なお、『ルエダ神父の―伝記・書簡・調査書・報告書』を編集した聖ドミニコ修道会本部(愛媛県松山市)のホセ・デルガド・ガルシア司祭(ドミニコ会資料編纂委員)は、同報告書に記されている「教皇パウロ五世の全免償」を「慰めの書簡」であるとし、「教皇が1619年、その頃まだマニラにいたフランシスコ会員ルイス・ソテロ神父に託したものである」と註記しておられる。それでも構わないが、これは「1617年6月14日」発令の「祝福のジュビレオとともに1620年8月20日(元和6年7月18日)、日本に到着した」(姉崎正治著『切支丹迫害史中の人物事蹟』)ので、ジュビレオと小勅書「慰めの書簡」の双方を指していると見て差し支えない。

 また、コリャード著『日本キリシタン史補遺』(第61章、1621年)に出てくる「聖年の全贖宥(=ジュビレオ)」については、「…1617年6月12日、ローマ教皇パブロ五世から授けられた贖宥(=ジュビレオ)のこと。西洋と東洋との地理的遠隔、航海の困難から日本には1621年(元和7)まで公布されなかった」と同書に註解しておられる。同ジュビレオの日本到着は「1621年」ではなく「1620年8月」であることは、有馬国信徒奉答文の本文にある「尊書今年7月(陰暦)参着仕り…」のくだり、および日付け「(陰暦)9月23日」(=西暦1620年10月18日)からして明らかである。にもかかわらずガルシア司祭が「1621年」とされたのは、ドミニコ会がイエズス会の妨げにより一年遅れたことによる認識と思われる。嶋原・三會および島原半島北目の住民にとってこの問題は、かつてロザリオ信心会にあずかった先祖たちに係わることがらであり、彼らのためにも真実が明らかにされなければならない、と考える。

 

 嶋原と三會を舞台に展開されたイエズス会とドミニコ会の「門派対立」の結末は、結局のところ元和7年(1621)の段階で最終決着を見た。すなわち「嶋原と三會の二つの町に於いては人々がロザリオの組を棄て」イエズス会に帰属し、それより西側山手に位置する「千本木(せんぶき)」「杉山村」「山寺村」辺りも、どちらかと言えばイエズス会の影響下に入ったものと考えられる。それは寛永14年(1637)の島原の乱で、同地域の住民の多くが南目信徒に同調したことからも裏付けられる。

 一方、「三會村」のうち「木崎村」「北道村(中原名、寺中名)」、および「三之澤村」にはドミニコ会のロザリオ信心が存続した。コリャード神父が徴収した10通ほどの証言文書の多くに登場するロザリオの組のリーダー「ひせんて(下田)平左衛門」は「(木崎村)大手原Votebaru」の住民であったらしい。コリャード神父は、「1621年1月31日に三會地方の大手原に於いて、右の記録の証人となったヴィセンテ(ひせんて)平左右衛門、ミゲル弥蔵(二人は兄弟である)、及び数名を召喚した」と、イスパニア文証言書に綴っている。


 三會村はこの後、島原の乱(1637―38)を経て万治元年(1658)、「杉山村」と「山寺村」が「杉谷村」として独立し、「三之澤村」も三會村から分かれた。残った「木崎村」と「北道村」が「三會村」の名称で存続した。

 「立あがり」のロザリオ信心がその過程で、あるいはその後どのような経緯を辿ったかは、わからない。(おわり)

写真=「正保二年肥前國高来郡高力摂津守領分」絵図のうち「嶋原村、三會村」の部分。島原の乱以前の村々とその石高が描かれている。「三會村」は「小村五」―「杉山村」「山寺村」「木崎村」「北道村」「三澤村」で構成されていた。〕


 



2020年11月4日水曜日

嶋原三會(みえ)村のロザリオ信心―⑦―

 元和6年ロザリオの組を離れる謎/背後にイエズス会の「教皇ジュビレオ」独占操作?

=ジュビレオの取り扱いに問題あり=

 ―ここに一つの謎がある。ロザリオのコフラヂア(組)の「別而貴き」こと「高上なる事を弁え」、同組に入会した嶋原・三會のキリシタンのうち、「嶋原と三會の二つの町に於いて」は、ロザリオの組が消えてしまった!ことである。「元和6年閏師走3日付、ひせんて平左右衛門証言」文書に、「…さりながらこんはにや(コンパニヤ)(=イエズス会)のはてれ(パーデレ)、同宿、かん坊、組親より色々の事を申され候間、きりしたん衆大形(おおかた)ろさりよの組をすて候」と。また、ドミニコ会士コリャード神父が1621年1月31日付けで書いたイスパニア文の証言文書にも、「嶋原と三會の二つの町に於いては人々がロザリオの組を棄てて以来、…ロザリオの組親も組も残っていない。…」とある。

 それより一年ほど前「1619年(元和5)」まで、「三會という有馬国の地方―この地方の住民はすべてロザリオの組員で、己の霊魂の問題を真剣に語り、片時もロザリオの祈りを怠らぬようにして」いた(オルファネール著『日本キリシタン史』第35章)。また、ルエダ神父が初め「嶋原町」に、1619年(元和5)3月から三會村に入り、「嶋原と三會の転びたる者をおおよそ御立上げなられ、ろさりよの御組に惣別(そうべつ)(=全体として)御入れ」られた。そのなりゆきからしても奇異である。ルエダ神父自身、後日、マニラに帰還して執筆した報告書「1621年9月4日付」の中で、「聖なるロザリオの信心について、このような出来事はまことに珍しいことでした」、と述べている。

 理由の一つに、領主松倉重政が島原城を森嶽(もりたけ)に築き、「嶋原町」と「三會町」(=森嶽の東側周辺―島原港奥部に存在したと考えられる)が城下町として改変されつつあったことも上げられようが、彼らの信仰「ロザリオ信心」はそのような外的要因に影響される性格のものではなかった。一体何が、「嶋原町」と「三會町」のロザリオ組員の心を変えたのだろうか?

 この疑問は長いこと解けなかったが、答えは2005年10月、東京ドミニコ会聖ヨセフ修道院(同修道院はその後、愛媛県松山市のロザリオの聖母管区日本地区本部に統合された)の岡本哲男司祭から送られてきた一冊の書籍『17世紀の日本における歩くドミニコ会宣教師、ファン・デ・ロス・アンヘレス・ルエダ神父 伝記・書簡・調査書・報告書』(1994年、聖ドミニコ修道会発行)の中にあった。「ジュビレオ」に絡む、次のような出来事である―、


 …昨年、1620年に起こった出来事をここでお話ししましょう。それは多くのキリシタンがこの迫害中に示した勇気を、彼らのうちの多くの者が聖なる信仰のために命を捧げたことを私たちの教皇聖下パウロ五世が聞かれて、彼らを勇気づけ、忍耐するように励ますために告白し聖体拝領をした者に全免償を許可されましたが、その奉仕者は私たち全修道会のあらゆる修道者たちであり、私たちはさまざまな地方を巡るはずであったのに、教皇がこの全免償の知らせを送付された司教総代理がイエズス会の神父で、彼は他の修道会のいかなる修道者にもその公布を委託しないで、ただイエズス会の神父たちだけ委託しました。

 そして、私たちはこの会の神父を幾人か知っていますが、彼らが上記の全免償の特典を公布し、それを得させるためにキリシタンたちの告白を聴こうと巡っているとき、聖なるロザリオの信心会員で私たちに告白していたキリシタンたちがいる地方では、これらの神父たちは決してそれを公布せず、また全免償の特典を知らせようともしなかったので、この地方のキリシタンたちは全免償を得ることなく取り残されてしまいました。その結果、これらの神父たちは私たちとの平和と一致を望まないゆえに、教皇が大きい愛徳と寛大さでもって差別なく全員に許可された全免償という宝物をあのキリシタンたちから剥奪してしまったのです。(同書282頁)


 ローマ教皇パウロ五世が「異例のジュビレオ(カトリック信者が償うべき罪に対し、ローマ教皇が特別の赦しを与えること。聖年、回勅とも言う)」を発布したのは「1617年6月14日」。聖ペテロ大聖堂の本体「身廊」の完成・祝別を記念するものであった。これが日本にもたらされたのは「1620年(元和6)8月20日」パウロ五世による日本の信者のための「慰めの書簡」が特別に添えられていた。嶋原・三會にロザリオ信心が拡まり、イエズス会とドミニコ会との「対立」が深刻化していた頃である。

 ルエダ神父が述べているように、「ジュビレオ」は会派・修道会を隔てることなく、あらゆる会員がその恩恵の対象になる。―にもかかわらず、イエズス会だけがこれを独占し、他の修道会「ロザリオの信心会員たちがいる地方では(知られると困るため)、決してそれを公布せず、全免償の特典を知らせようともしなかった」。唖然とするような事実が隠されていたのだ。

 「免償」のないがために苦戦を強いられていたイエズス会・ゾラ神父は、これにより「嶋原・三會の二つの町」の信徒らの奪回に成功したものと考えられる。信仰に燃え、「立あがり」を公に宣言したあの固い決意のロザリオ信心信徒らが、短期間に豹変した理由を他に見つけることはできない。(つづく)

写真=ルエダ神父自筆の「1621年9月4日付―報告書」の最後の頁。同神父の真正の署名で終わっている(『17世紀の日本における歩くドミニコ会宣教師―ルエダ神父―報告書』掲載)。〕


 

2020年11月3日火曜日

嶋原三會(みえ)村のロザリオ信心―⑥―

 三會村「転び」きりしたん、禁教下で「立あがり」!/定説揺るがす「元和年中証言文書」

「島原の乱」真相解明に示唆―

 「転び」のキリシタンが徳川幕府のキリスト教禁制下で「立あがる」!そんなことがあり得るだろうか?三會村信徒の証言文書に見える「さんとどみんごのはてれふらい志ゆあん(聖ドミニコ会パーデレ、フライ・ジュアン・デ・ルエダ)」神父による「立あげ」の真否を確認するため、彼らがその理由として上げている「別而貴きろさりよのこんふらちや」、「ゐんづるせんしやす」等々、イエズス会にはなかったドミニコ修道会の用語とその信仰世界を繙(ひもと)いていくと、意外な事実が浮かび上がってくる。たしかに三會村の「転び」は元和年間「息を吹き返した」ようだ。「後生を扶(たすか)る」ための生き方―それはロザリオの組の名簿に名前を書き入れるという形式ではなく、「面々の行儀次第」であると弁(わきま)え、イエズス会の「妨害」に対しても信仰的姿勢を崩さず、「隔(へだ)てなく」「大切(=愛)を専(もつぱ)ら」に生きていた!その信仰はホンモノである、と言っていい。

 従来のイエズス会中心のキリシタン史理解によれば、「立あがり」「復活」は幕末の「信徒発見」(1865年)を俟(ま)たねばならない。しかし、ドミニコ会によるキリシタン史では元和6―7年(1619―20)に「立あがり」があり、それが少なくとも島原の乱(1637―38)前後の期間(いつ頃までかは不明)継続した、と見ることができる。

 「立あがり」は「転び」に対する逆の行為であり、転びという「罪」の「償い」の過程〈作法〉を経なければならないことは先に述べた。これについてもイエズス会とドミニコ会とでは、そのやり方に見解の違いがあったことをルエダ神父は「1619年3月20日付」書簡の中で指摘している。すなわちドミニコ会は「転び証文」を取り戻し、キリシタン信仰に戻ったことを奉行・役人に告げなければならない、と教えたのに対し、イエズス会(の中浦ジュリアン神父)はそこまでする必要はない、と―。

 当時、この作法を「言い戻し」と言ったらしいが、三會村の信徒が「言い戻した」と思われる出来事が、実は元和6年(1619)にあった。島原城築城最中のことで、城下町における仏教寺院建設公役(くやく)(=加勢)に関する事件である。オルファネール神父の『日本キリシタン史・35章』に次のように出ている。

 

…当時、三會という有馬国の地方―現在、この地方の住民はすべてロザリオの組員で、己の霊魂の問題を真剣に語り、片時もロザリオの祈りを怠らぬようにしている―に私が滞在中、殿(松倉重政)の代理者が住民に対して、偶像に捧げる寺院建立助勢のため同地最大の市(まち)(=島原)に参集を命じた。これに対して、これらロザリオの組親たちは全組員を代表して「我等はキリシタンなるがゆえ、我らに命ぜられたことは致しかねます。しかし、その代りに偶像崇拝に関しないことであれば、何なりとも御下命なされませ。たとえその仕事の量が倍加しても喜んで致します」と答えた。…


 フランシスコ・カレーロ神父もまた、著書『キリシタン時代の聖なるロザリオ信心』にこの事件を記し、「…熟慮した結果、全員の組員は意見を一致し、聖なるロザリオの乙名と組親は、(寺院建立公役(くやく)に)働かざること、ただし仕事は他のものに替えるように訴えること、を彼らに告げた。」と述べている。「彼ら(役人)に告げた」というのは、「自分たちはキリシタンに戻った」と公に宣言したこと、「立あがり」の手続きを踏んだことを意味しているではないか!当然「生命の危険にさらされることになる」が、それは覚悟の上であった。結末は、こうである―「奉行は善き組員の決意を知らされると激怒して、その人数を尋ねた。しかし四百人を超えるほど多数にのぼり、我が身を滅ぼすことになると悟ったので見過ごそうとし、『命じたことは今はさほど急がぬゆえ、放っておくように』と語った」。―つまりは黙認した、三會村信徒の「立あがり」を認めた、ということになる。

 この事件は、ドミニコ会の『日本キリシタン史』では、ロザリヨ信心が深く浸透した顕著な事例として取り上げられているが、日本の一般的キリシタン史からすると、迫害期のごく初期―元和年間に「立あがり」の事実が存在したことであり、定説を揺るがす出来事である。このあと間もなく起こる「島原の乱」(1637―38)との関連で言えば、乱の参加者が南目(半島南部)に限られ、三會村以北の北目が参加しなかった謎に答えを提供し、さらには乱の真相が「立あがり」と関連した事件であったことを示唆するものであり、見逃すことのできない内容を秘めている。

 従来、〃苛政に対する反乱(一揆)〃という構図で解釈され、それが一般に分かりやすいこともあって長年、そのように説明され語り継がれることの多かった島原の乱は、近年、各種資料に基づく学術研究により宗教原因説〈立あがり説〉がクローズアップされるようになってきた。それでも結果的行為の「乱」(=立あがり)のみに視点を当てる傾向があり、十分な解答が導き出せない状況にある。〈立あがり〉は、原因としての〈転び〉を抜きにしては説明できないことがらであれば、その解は〈転び〉問題の方程式を解いていく以外に得られない。

 ドミニコ会神父コリャードが徴収した三會村信徒による「元和年間証言文書」は、そのような意味で貴重な資料となる。(つづく)

写真=『元和6年閏12月3日付、ひせんて平左衛門証言』文書(部分)。「伴天連ふらい寿庵、嶋原三會のころひたる者を立上被成候―」とある。〕



 

2020年11月2日月曜日

嶋原三會(みえ)村のロザリオ信心―⑤―

 「免償」の有無が「対立」を生む?/ドミニコ会は「一味大切を専らに仕り候へ」―

=門派対立の実際、何がどのように―=

 ルエダ神父がマニラで印刷した『ロザリオ記録』は、正式名称を『ピルゼン・サンタ・マリアの貴きロザリオの修行と、同じくゼズスの御名のコフラヂアに当たる略の記録』と云う。創設の由来と再興(さいこう)・伝播(でんぱ)の歴史、興行(こうぎよう)・免許の相伝権、マリア信仰の意義とロザリオの祈り、組の規則、免償・免許の記録などについて12章にわたって解説し、付録として「イエズスの御名の組」の規則を載せている。

 「ロザリオの祈り」はドミニコ会だけでなく、カトリックのあらゆる会派で採用され、日本に最初にもたらしたのはイエズス会であった。しかし、イエズス会のそれは「聖イグナチオの心霊修行の精神にあわせて、むしろ個人的な信心に力をいれた」もので、「免償」もなかった(H・チースリク著『キリシタンの心』)。一方、ドミニコ会のそれは「主の祈り」と「天使祝詞(てんししゆくし)」を繰り返し、キリストおよび聖母マリアの生涯を15場面(15のミステリヨ)で辿り讃美する、一般大衆向きの覚え易い形式を採っている。単純で機械的な祈りのようにみえるが、「実は口祷と念祷とを合わせた優れた祈りの方法でもあった」(チースリク著前掲書)。

 ロザリオの祈りと組の普及に尽力したドミニコ会の長年にわたる功績により、ローマ教皇はこれに「インヅルゼンシヤス(免償)」を賦与し、あわせて「この修行の師範とコフラヂアの興行」、運営管理、相伝の権限をドミニコ会に委ねた。ゆえに、ドミニコ会の許可なくしてこの信心会を興行することはできないし、たとえ興行したとしても「コフラヂヤに授けたまふインズルゼンシヤスと御免許等を受くべきこと、かつてもって有るべからず」(『ロザリオ記録』)、と定められていた。

 ―にもかかわらずイエズス会は「長崎その他の多くの場所でロザリオ信心会を創設した」。そこで後日、ドミニコ会が長崎に入り、「ロザリオに関する特権と教皇勅書(ちよくしよ)を彼らに示し、どんな権威でもってそれを創設したのか尋ねたが、イエズス会はこの点について話そうとはせず、はっきりと答えなかった」(ルエダ神父の1621年9月4日付報告書)。また、「ドミニコ会の信心会には免償があるが、イエズス会のにはないので、信者はみな私たち(ドミニコ会)の方に来てしまう」、という現象が起こった。結果、「ドミニコ会がロザリオの信心会を創めようとすると、同宿やイエズス会の信奉者を通じて巧みに妨害を加えてきた」(オルファネール神父「1620年3月日本発信書簡」)。嶋原・三會でも同様の「妨害」が展開された。


 ■「門派対立」背景にイエズス会の危機感―

 日本キリシタン史における「門派対立」は、双方がにらみ合う形のものではなく、イエズス会が托鉢修道会を一方的に排撃する「いじめ」的性格のものであった。その背景には、ドミニコ会のロザリオ信心が有するローマ教皇認可の豊かな特典の前に、これら一切がないイエズス会側の引け目、危機感があったのは事実である。嶋原・三會では次のような事例が報告されている。

 ①「諸秘蹟(ひせき)の禁止」…「こんぱにや(=イエズス会)の住持(=宣教師)なくてハ別のはあてれ(=托鉢修道会士)ニてこんへしよん(=悔い改め)御申し候まじき事、御授(さず)け(=聖体(せいたい)拝領の秘蹟)請(う)け申すまじき事、たち上げ(=改心)することまじきこと、いかに水さづけ(=洗礼の秘蹟)申すまじき事、まちりまうによ(=婚礼の秘蹟)取らるまじき事」(『龍雲老慶証言』)。②縄張りを宣言…「別のはあてれ爰元(ここもと)に入る事ならぬ」(『じよあん彦左衛門証言』)。「ろざりよの組をすてよ。さんととミんこのはあてれを入るな。只こんはにや(=イエズス会)ばかりに付き候へ」(『かうすめ次左衛門証言』)。③集会日を邪魔…ロザリオの組の集会日は「さばと(=土曜日)」―イエズス会「御守りの組」も集会日を「さはと」にした(『しやかうべ新次郎証言』)。④脅迫…「今より後、さんととミんこのはあてれニこんひさん(=告解の秘蹟)などを申すべきと存じおもふなら、科(とが)(=罪)を御ゆるしあるまじき」と―」(『ミける与七郎証言』)。


 ■隣人愛貫くドミニコ会

 島原半島では当時、イエズス会宣教師が「4人」ほど隠れ残り、嶋原・三會・深江地域はジョアン・バウチスタ・ゾラ神父が担当していた。ために、同地域に進出したドミニコ会への妨害・排斥行為は、おもにゾラ神父によって為されたものだが、当事者であったドミニコ会・ルエダ神父は、他に、「原マルチノ」、「中浦ジュリアン」、「セバスチアン木村」ら日本人司祭も介在した、と報告している(「1621年9月4日付」報告書)。

 これに対し、攻撃をうけたドミニコ会・ルエダ神父と三會村・ロザリオの組の信徒たちは、如何なる態度で応じたのだろうか?『元和7年霜月10日付ひせんて平左衛門ら18人の証言文書』は、その辺(あた)りの事情を詳しく物語っている。

 ―ルエダ神父は、「いづれもきり志たん(キリシタン)衆中一味大切(いにみたいせつ=隣人愛)を専(もつぱ)らに仕(つかま)り候へ、諸門派の御出家衆を隔(へだ)てなく信仰申し、相応の御奉公別(べつ)しては逼塞(ひつそく)の間、いずれの御門派のはあてれ(パーデレ)衆へも仕合(しあわせ=出会い)次第、御宿を仕り、ご教化を受け、こんひさん(コンヒサン)等のあにま(アニマ=霊)の御合力を頼み申し候へ」と、身を以てキリシタンとしての基本を諭し、彼らもまたその通り「後生の扶(たすか)りは行儀(ぎようぎ)次第」と弁(わきま)え、「手前よりいづれもきら(嫌)ひ申し、或は隔(へだ)て申す事努々(ゆめゆめ)御座なく候」ことであった、と―。福音に裏打ちされた確かな信仰と、「殊勝千万(しゆしようせんばん)なる行跡(こうぜき)(=生活態度)の御かゞみ(=お手本)」をもって接してくれたルエダ神父への感謝を読み取ることができよう。(つづく)

写真=ローマ字綴りの日本語で記された『ロザリオ記録』(表紙)〕

2020年11月1日日曜日

嶋原三會(みえ)村のロザリオ信心―④―

 「霊魂の救い」道を得て「立あがり」/「功徳の配分」に預かるロザリオ信心

ドミニコ会ルエダ神父による「立あげ」そのⅢ

 ■功徳の配分に預かる

 ロザリオ信心の最大の特徴は、言うまでもなく「免償(インズルゼンシアス)」を有することにあるが、他に「功徳の配分に預かる」特典がある。「貴きロザリヨの組の御定め・第一」条に、「此の(組員の)内には多くの善人在(ましま)す儀なれば、其の功徳の配分に預りたてまつる事、誠に浅からざる御恩なるべしと弁(わきま)ふべし」。同「第二」条に、「サント・ドミンゴの門派の諸出家(修道士)行はるる御ミイサ、オラショ(祈り)、ゼジュン(断食)、ヂシピリナ(鞭(むち)打ちの苦行)、其の外の善作(ぜんさ)の功力(くりき)を組の衆に、此の門派(もんぱ)のパアデレゼネラル(総長)通用させ給ふなり。これまた数千人の出家と言ひ、善行に募(つの)られたる衆多ければ、其の功徳の配分も莫太(ばくたい)なるべしと心得(こころう)べし」、とあるのがそれだ。

 信仰は個人もしくは先祖の救いを目的とするのが一般的だが、自分が為した善行の功徳が隣人・仲間にも「配分」され、また、組員となることで自分には出来そうにないパーデレたちの清貧のおこない―「捨身行(しやしんぎよう)」等による大きな「功徳の配分」にも預かることができる―というのは、キリスト教が強調する隣人愛「ぽろしもの御大切(おんたいせつ)」の一つのかたちであり、心の世界における相互扶助と見ることができる。

 この点についても三會村信徒たちは理解していた。「さんたまりやの御敬いと申し、人前(にんぜん)の鏡と申し、一入(ひとしお)善の心懸けも肝要に候。此等の趣(おもむ)き、さんととみんこのはてれ衆は申すにおよばず、其の下々(しもじも)の衆(組員)迄も道の御教化にて候」、と証言文書に綴っている。

 ロザリオ信心の「インヅルゼンシアス」と「功徳の配分」とを理解し、「立あがり」に至った1616年(元和2)と1619年(元和5)の、長崎と三會村におけるロザリオ信心に関する二つの出来事は、イエズス会の前に劣勢を強いられ奮闘するドミニコ会にとって、大きな力になったに違いない。オルファネール神父もルエダ神父も、重ねてこの「驚嘆すべき」出来事、「慣習の大改革」、「罪人の改心」にふれ、報告している。

 

 ■後生を助かるべき頼もしきの綱

 ところで、ロザリオ信心が奇蹟的に拡まった長崎と三會村の二つの出来事のうち、三會村の「立あがり」では「ゐんづるぜんしやす(免償)」とは別の、もう一つの要因があった事実を伝えている。「ロザリオの組の設立の目的を語った」こと、「どのようにロザリオの信心が創設され、その由来が異端者や罪人の改心のためであったかを話して聞かせた」こと(ルエダ神父「1619年12月6日付書簡」)、である。

 「ロザリオ信心の由来が異端者や罪人の改心のためであった」、ということが何故、彼らの「心を打ち」、「改心」に至らしめたのだろうか?人生の価値がモノやカネに置き換えられてしまいがちな現代人にとって、「罪人の改心」と言ってもピンと来ないかもしれない。しかし、ひとたびはキリシタンとして救いの道を悟りながら、「転び」という「罪」を犯した我々島原人の先祖たちにとって、立ち直ること、「改心」は宿命的な課題であった。島原のキリシタン史を理解するには、彼らが生きた時代と、彼らの事情・心情に対峙(たいじ)しなければならない、と思われる。

 ルエダ神父が1620年(元和6)暮れ、健康を回復するため一旦マニラに戻り、再来日を期して著した『ロザリオ記録』(ローマ字綴りの日本語版)を開いてみよう。「第一」章「ロザリオのコフラヂアの根元の事」に「ロザリオの由来」が詳しく紹介されている。1216年、聖ドミニコが南フランスのアルビ村で聖霊に燃え、サンタ・マリアに対し「後生(ごしよう)(=死後)を助かるべき頼(たの)もしきの綱(が)切れ果てたる」人々の救いを祈願していたとき、「憐れみの御母サンタ・マリア現はれ給ひ」て、「貴きロザリオのオラショとコフラヂヤの理(ことわり)」を教示された、と―。

 注目したいのは「後生を助かるべき頼もしきの綱、切れ果てたる人々の救い…」である。当時、三會村の信徒たちは、迫害と拷問の恐怖に屈し「転」んでいた。「立ち上がる」にはコンヒサンを執りなす「ご出家(パーデレ)」が必要であったが、「いづれも御出家衆には離れ申し、立あがり申すべきたより御座なく、昼夜かなしみに沈み罷(まか)り居り候」であった。何が悲しいかと言えば、「後生の助かりの望みが切れ果てたこと」―すなわちあの世に逝(い)っても救われないことであった。そのような打ち拉(ひし)がれた彼らの前に、「後生の助かりの頼もしきの綱、切れ果てたる人々の救い」をもたらすという「ロザリオのオラショとロザリオのコフラヂヤ」(=ロザリオ信心)がルエダ神父によって提示されたのだから、その出会いがいかなるものであったか理解されよう。ルエダ神父は「主(なる神)が彼らの理性に霊の力を降し、彼らの心を打ち給うた」、と表現している。

 一方、三會村の信徒たちはと言うと「人の後生の扶かり候事」、「(ロザリオの組の)人数(にんじゆ)一分(いちぶ)に召し加えられ候故、後生の道をいよいよ弁(わきま)え申し候…」と、「後生の扶(たすか)かり」を得た喜びを繰り返している。すなわち「昼夜かなしみに沈み罷(まか)り居り候」三會村の「転(ころ)び」たちは、ドミニコ会神父ルエダ師との出会い、ロザリオ信心との出会いにより「心打たれ」、「立あがり候」ことであった。(つづく)

写真=「元和七年霜月十日、ひせんて平左衛門」ら三會村信徒証言文書の冒頭部分。「ころび申し…立あがり申すべき便り(頼り)も御座なく、昼夜かなしみに沈み罷り居り候」とある。〕