2020年11月2日月曜日

嶋原三會(みえ)村のロザリオ信心―⑤―

 「免償」の有無が「対立」を生む?/ドミニコ会は「一味大切を専らに仕り候へ」―

=門派対立の実際、何がどのように―=

 ルエダ神父がマニラで印刷した『ロザリオ記録』は、正式名称を『ピルゼン・サンタ・マリアの貴きロザリオの修行と、同じくゼズスの御名のコフラヂアに当たる略の記録』と云う。創設の由来と再興(さいこう)・伝播(でんぱ)の歴史、興行(こうぎよう)・免許の相伝権、マリア信仰の意義とロザリオの祈り、組の規則、免償・免許の記録などについて12章にわたって解説し、付録として「イエズスの御名の組」の規則を載せている。

 「ロザリオの祈り」はドミニコ会だけでなく、カトリックのあらゆる会派で採用され、日本に最初にもたらしたのはイエズス会であった。しかし、イエズス会のそれは「聖イグナチオの心霊修行の精神にあわせて、むしろ個人的な信心に力をいれた」もので、「免償」もなかった(H・チースリク著『キリシタンの心』)。一方、ドミニコ会のそれは「主の祈り」と「天使祝詞(てんししゆくし)」を繰り返し、キリストおよび聖母マリアの生涯を15場面(15のミステリヨ)で辿り讃美する、一般大衆向きの覚え易い形式を採っている。単純で機械的な祈りのようにみえるが、「実は口祷と念祷とを合わせた優れた祈りの方法でもあった」(チースリク著前掲書)。

 ロザリオの祈りと組の普及に尽力したドミニコ会の長年にわたる功績により、ローマ教皇はこれに「インヅルゼンシヤス(免償)」を賦与し、あわせて「この修行の師範とコフラヂアの興行」、運営管理、相伝の権限をドミニコ会に委ねた。ゆえに、ドミニコ会の許可なくしてこの信心会を興行することはできないし、たとえ興行したとしても「コフラヂヤに授けたまふインズルゼンシヤスと御免許等を受くべきこと、かつてもって有るべからず」(『ロザリオ記録』)、と定められていた。

 ―にもかかわらずイエズス会は「長崎その他の多くの場所でロザリオ信心会を創設した」。そこで後日、ドミニコ会が長崎に入り、「ロザリオに関する特権と教皇勅書(ちよくしよ)を彼らに示し、どんな権威でもってそれを創設したのか尋ねたが、イエズス会はこの点について話そうとはせず、はっきりと答えなかった」(ルエダ神父の1621年9月4日付報告書)。また、「ドミニコ会の信心会には免償があるが、イエズス会のにはないので、信者はみな私たち(ドミニコ会)の方に来てしまう」、という現象が起こった。結果、「ドミニコ会がロザリオの信心会を創めようとすると、同宿やイエズス会の信奉者を通じて巧みに妨害を加えてきた」(オルファネール神父「1620年3月日本発信書簡」)。嶋原・三會でも同様の「妨害」が展開された。


 ■「門派対立」背景にイエズス会の危機感―

 日本キリシタン史における「門派対立」は、双方がにらみ合う形のものではなく、イエズス会が托鉢修道会を一方的に排撃する「いじめ」的性格のものであった。その背景には、ドミニコ会のロザリオ信心が有するローマ教皇認可の豊かな特典の前に、これら一切がないイエズス会側の引け目、危機感があったのは事実である。嶋原・三會では次のような事例が報告されている。

 ①「諸秘蹟(ひせき)の禁止」…「こんぱにや(=イエズス会)の住持(=宣教師)なくてハ別のはあてれ(=托鉢修道会士)ニてこんへしよん(=悔い改め)御申し候まじき事、御授(さず)け(=聖体(せいたい)拝領の秘蹟)請(う)け申すまじき事、たち上げ(=改心)することまじきこと、いかに水さづけ(=洗礼の秘蹟)申すまじき事、まちりまうによ(=婚礼の秘蹟)取らるまじき事」(『龍雲老慶証言』)。②縄張りを宣言…「別のはあてれ爰元(ここもと)に入る事ならぬ」(『じよあん彦左衛門証言』)。「ろざりよの組をすてよ。さんととミんこのはあてれを入るな。只こんはにや(=イエズス会)ばかりに付き候へ」(『かうすめ次左衛門証言』)。③集会日を邪魔…ロザリオの組の集会日は「さばと(=土曜日)」―イエズス会「御守りの組」も集会日を「さはと」にした(『しやかうべ新次郎証言』)。④脅迫…「今より後、さんととミんこのはあてれニこんひさん(=告解の秘蹟)などを申すべきと存じおもふなら、科(とが)(=罪)を御ゆるしあるまじき」と―」(『ミける与七郎証言』)。


 ■隣人愛貫くドミニコ会

 島原半島では当時、イエズス会宣教師が「4人」ほど隠れ残り、嶋原・三會・深江地域はジョアン・バウチスタ・ゾラ神父が担当していた。ために、同地域に進出したドミニコ会への妨害・排斥行為は、おもにゾラ神父によって為されたものだが、当事者であったドミニコ会・ルエダ神父は、他に、「原マルチノ」、「中浦ジュリアン」、「セバスチアン木村」ら日本人司祭も介在した、と報告している(「1621年9月4日付」報告書)。

 これに対し、攻撃をうけたドミニコ会・ルエダ神父と三會村・ロザリオの組の信徒たちは、如何なる態度で応じたのだろうか?『元和7年霜月10日付ひせんて平左衛門ら18人の証言文書』は、その辺(あた)りの事情を詳しく物語っている。

 ―ルエダ神父は、「いづれもきり志たん(キリシタン)衆中一味大切(いにみたいせつ=隣人愛)を専(もつぱ)らに仕(つかま)り候へ、諸門派の御出家衆を隔(へだ)てなく信仰申し、相応の御奉公別(べつ)しては逼塞(ひつそく)の間、いずれの御門派のはあてれ(パーデレ)衆へも仕合(しあわせ=出会い)次第、御宿を仕り、ご教化を受け、こんひさん(コンヒサン)等のあにま(アニマ=霊)の御合力を頼み申し候へ」と、身を以てキリシタンとしての基本を諭し、彼らもまたその通り「後生の扶(たすか)りは行儀(ぎようぎ)次第」と弁(わきま)え、「手前よりいづれもきら(嫌)ひ申し、或は隔(へだ)て申す事努々(ゆめゆめ)御座なく候」ことであった、と―。福音に裏打ちされた確かな信仰と、「殊勝千万(しゆしようせんばん)なる行跡(こうぜき)(=生活態度)の御かゞみ(=お手本)」をもって接してくれたルエダ神父への感謝を読み取ることができよう。(つづく)

写真=ローマ字綴りの日本語で記された『ロザリオ記録』(表紙)〕

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