2020年11月5日木曜日

嶋原三會(みえ)村のロザリオ信心―⑧―

 嶋原・三會の町と村で一線/「大手原」平左衛門のことなど…


知らされぬまま今に―

 1620年(元和6)8月、教皇パウロ五世発布の「ジュビレオ」が「日本の信徒に宛てた教皇の慰めの書簡(訓示)」とともに長崎の港にもたらされたとき、イエズス会は「管区長マテウス・デ・コウロスが司教の職を執って教書(ジュビレオ)と訓示(書簡)の伝達をつかさどり、本文を複写するとともに翻訳を付して各地の教徒に伝えた」(姉崎正治著『切支丹迫害史中の人物事蹟』497頁)。「嶋原と三會の二つの町」の信徒に対してはゾラ神父がその配布に尽力した。

 やがて、教皇の恩赦「ジュビレオ」および「慰めの書簡(訓示)」に対する日本信徒からの感謝の「奉答文」が全国から集められ(長崎、有馬、中國、奥州の計5通)、後日、ビエイラ神父の手によってローマに送られることになるが、有馬地方信徒の奉答文はそのうちで最も早い「(1620年)9月23日」の日付けで上げられている。「有馬/嶋原/有家/口(之)津/」の信徒代表(組親)の署名があり、「嶋原村」は「内堀作右衛門はうろ/鹽塚與市しゆあん/西田休巴はうろ」の3人の名前が見える。つまり、このジュビレオおよび書簡は「嶋原町」と「嶋原村」(および三會町)までの南目の範囲にのみもたらされ、「三會村」(当時、五つの小村で構成)とその以北地域には伝えられなかった!三會村で布教・司牧活動に従事したドミニコ会士ルエダ神父、コリャード神父も当然のこと、それを知らなかったわけだが、ルエダ神父は同年(1620年)暮れ、健康を回復するためマニラに戻り、はじめてこれを知らされることになる。その時点「1621年9月4日」で認めたのが同報告書である。

 日本に残ったコリャード神父にもおそらく追って伝達されたに違いない。コリャード神父が著した『日本キリシタン史補遺』「第61章」には、「1621年(元和7)」のこととして「当時公布されていた聖年の全免償(ジュビレオ)の恵みを儲(もう)けるために、この地方のキリシタンの告解と聖体拝領の聖なる秘蹟の授与に助力した。…」とある。

 なお、『ルエダ神父の―伝記・書簡・調査書・報告書』を編集した聖ドミニコ修道会本部(愛媛県松山市)のホセ・デルガド・ガルシア司祭(ドミニコ会資料編纂委員)は、同報告書に記されている「教皇パウロ五世の全免償」を「慰めの書簡」であるとし、「教皇が1619年、その頃まだマニラにいたフランシスコ会員ルイス・ソテロ神父に託したものである」と註記しておられる。それでも構わないが、これは「1617年6月14日」発令の「祝福のジュビレオとともに1620年8月20日(元和6年7月18日)、日本に到着した」(姉崎正治著『切支丹迫害史中の人物事蹟』)ので、ジュビレオと小勅書「慰めの書簡」の双方を指していると見て差し支えない。

 また、コリャード著『日本キリシタン史補遺』(第61章、1621年)に出てくる「聖年の全贖宥(=ジュビレオ)」については、「…1617年6月12日、ローマ教皇パブロ五世から授けられた贖宥(=ジュビレオ)のこと。西洋と東洋との地理的遠隔、航海の困難から日本には1621年(元和7)まで公布されなかった」と同書に註解しておられる。同ジュビレオの日本到着は「1621年」ではなく「1620年8月」であることは、有馬国信徒奉答文の本文にある「尊書今年7月(陰暦)参着仕り…」のくだり、および日付け「(陰暦)9月23日」(=西暦1620年10月18日)からして明らかである。にもかかわらずガルシア司祭が「1621年」とされたのは、ドミニコ会がイエズス会の妨げにより一年遅れたことによる認識と思われる。嶋原・三會および島原半島北目の住民にとってこの問題は、かつてロザリオ信心会にあずかった先祖たちに係わることがらであり、彼らのためにも真実が明らかにされなければならない、と考える。

 

 嶋原と三會を舞台に展開されたイエズス会とドミニコ会の「門派対立」の結末は、結局のところ元和7年(1621)の段階で最終決着を見た。すなわち「嶋原と三會の二つの町に於いては人々がロザリオの組を棄て」イエズス会に帰属し、それより西側山手に位置する「千本木(せんぶき)」「杉山村」「山寺村」辺りも、どちらかと言えばイエズス会の影響下に入ったものと考えられる。それは寛永14年(1637)の島原の乱で、同地域の住民の多くが南目信徒に同調したことからも裏付けられる。

 一方、「三會村」のうち「木崎村」「北道村(中原名、寺中名)」、および「三之澤村」にはドミニコ会のロザリオ信心が存続した。コリャード神父が徴収した10通ほどの証言文書の多くに登場するロザリオの組のリーダー「ひせんて(下田)平左衛門」は「(木崎村)大手原Votebaru」の住民であったらしい。コリャード神父は、「1621年1月31日に三會地方の大手原に於いて、右の記録の証人となったヴィセンテ(ひせんて)平左右衛門、ミゲル弥蔵(二人は兄弟である)、及び数名を召喚した」と、イスパニア文証言書に綴っている。


 三會村はこの後、島原の乱(1637―38)を経て万治元年(1658)、「杉山村」と「山寺村」が「杉谷村」として独立し、「三之澤村」も三會村から分かれた。残った「木崎村」と「北道村」が「三會村」の名称で存続した。

 「立あがり」のロザリオ信心がその過程で、あるいはその後どのような経緯を辿ったかは、わからない。(おわり)

写真=「正保二年肥前國高来郡高力摂津守領分」絵図のうち「嶋原村、三會村」の部分。島原の乱以前の村々とその石高が描かれている。「三會村」は「小村五」―「杉山村」「山寺村」「木崎村」「北道村」「三澤村」で構成されていた。〕


 



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