2019年3月1日金曜日

キリシタン墓碑は変遷した―編年史試論―⑧

■まとめ
 見てきたように、キリシタン墓碑は天正年間半ば、先ず畿内摂津地域にキリシタンの印(しるし)をもつ立碑型(註1)が現れ、それより約20年後の慶長年間半ば、ポルトガル様式の伏碑型(註2)が九州の島原半島を中心として出現する。
 この二つの型式は、それぞれに特徴があり、イエズス会の布教方針「先ず彼らの門から入って、然る後に自分自身の門から出る」の、「彼ら(日本人)の門」と「自分自身(イエズス会)の門」をそれぞれ象徴するものであった。また、立碑型は京畿から地方に、伏碑型は肥前島原から肥後、豊後、都へと拡散・伝播した。
 禁教時代に入ると、従前浸透した立碑と伏碑の二つの型式を踏まえながら、「かくれ型」の独自の形式に移行する。その変容の在り方は各地さまざまに見える一方、地域が離れていながら同一型式をもつ「方形石組型」の墓碑などもあり、「かくれ」同志の連絡・連携を示唆する、興味深い情報を提示するものであった。

 ところで、日本にキリスト教が流入した天文年間後期から最初の立碑造形墓碑が出現する天正年間半ばまで約30年間あるが、この期間、まだ信者が少なかったものの、山口や豊後、そして永禄年間に入ると肥前国の島原、五島、そして天草、長崎などにはまとまった信者の集団ができた。したがって、キリシタン信者の墓も当然存在したことであるが、日本の習俗をそのまま借用したため、彼我を区別することができない。
 筆者は、キリシタン墓碑の定義を「キリシタン信者を葬った墓」としたので、はじめの約30年間のそれを「仏塔代用型」墓碑としたい。これは名称のみあって、実物を確認しえない時代である。
 これらのキリシタン墓碑を時代順に並べると、①仏塔代用型墓碑、②立碑造形型墓碑、③ポルトガル様式伏碑型墓碑、④かくれ型墓碑、となる。キリシタン墓碑はこのように変遷したことであった。(おわり)
キリシタン墓碑変遷図(作図・宮本)
 ※1…十字や洗礼名などキリシタン特有の印(標)が彫り込まれ、天頂部が丸屋根もしくは三角屋根の「形」を有するので、便宜的に「立碑造形型墓碑」と名付けた。しるし(標・章)を強調するなら「立碑造標型墓碑」または「立碑造章型墓碑」としてもよい。
 ※2…当時、スペインを母国にフィリピン経由で来日した托鉢修道会があり、イエズス会はこれを認めなかった。イエズス会の墓碑造立には「縄張り」を主張する意図もあったようだ。敢えて「ポルトガル様式―」としたのはその意味も含まれている。    

キリシタン墓碑は変遷した―編年史試論―⑦

■七、禁教令後「かくれ型」墓碑へ移行
 1614年、禁教令が公布され、キリシタンの取り締まり・迫害がはじまると、信者たちは「殉教」もしくは「転び」(かくれ)を余儀なくされた。これに伴い、キリシタン墓碑も殉教(破壊)し、新たに造られる墓碑は「かくれ型」へと変容することになる。
 かくし・変型の在り方は、種々あるように見えるが、おおよそポルトガル様式伏碑型キリシタン墓碑が浸透した地域およびその周辺地域では、原則として伏碑のかたちを踏襲する傾向がある。
 熊本県天草島や豊後(大分)地域の「単一平石型」墓碑、長崎県西彼杵(そのぎ)半島や北松浦郡平戸市、また豊後の一部でみられる「方形石組型」墓碑などである。豊後のトマス(斗枡)墓と称されるもの、島原半島の塚墓なども同様であり、これは別に「伏碑形立碑型」墓碑として分類したい。
かくれ型墓碑の分類図(作成・宮本)


それ以外では、防長地域(山口県)の山間部に分布する「鎮堂(しずめどう)型」墓碑、熊本県菊池の自然石に稚拙な十字を彫り込んだもの、熊本県宇城市小川町でまとまって発見された仏塔型墓碑をそのまま転用して、天頂部に小さく十字架を刻みつけたものなどがある。これらは和風立碑のかたちをとっているので、そこにキリシタンの印(しるし)がなかった場合、たとえ「かくれ」信者のものであったとしても判別ができない。事例は少ないが、墓石そのものではなく花立や水入れの底部や裏面に隠して印が彫られていることもある。
 その他、「天」年号や「ウハキュウ」、「〇」印墓碑などにかんする統計的調査もおこなわれているが、それらの「かくれ」墓碑は、もとより「かくし」のかたちをとっているので、論証物件としては十分であるとは言いがたい。ここに「かくれ」キリシタン研究の難しさがある。
 それゆえ、「かくれ」墓碑の存否を云々する場合、それ以前のキリシタン史を第一次史料(宣教師書簡・報告など)をもとに十分に把握し踏まえた上で、一連の流れの中で捉えることが求められるであろう。
 
 ■方形石組型かくれキリシタン墓碑
 大分県臼杵市野津の下藤キリシタン墓地は、豊後国野津のキリシタン史にかんする宣教師文書を参考にひもとかれ、2018年、国指定史跡に登録された。同墓地の「方形石組型」かくれキリシタン墓碑は、「かくれの里」として知られる長崎県西彼杵半島外海地方、北松浦郡平戸地方、さらに山口県大津郡向津具半島、また、イエズス会のコングレガチオ・マリアナ(精鋭会員の信心会組織)が存在した豊後国南海部郡宇目の木浦にも確認される。それは「かくれ」時代に信者たちが秘かに連絡しあったことであるのか、偶然の現象であるのか、今後、広域連携調査によって明らかにされることを期待したい。(つづく)
九州・山口地方に見られる「方形石組型かくれキリシタン墓碑」