2023年8月9日水曜日

薩摩に咲いた花十字―喜入氏家紋―

  九州の南端に位置する鹿児島県薩摩半島に「花十字」の家紋を有する墓地がある。鹿児島藩主島津氏の家紋「丸に十字」の四隅に花弁があしらわれたもので、それは島津家に絡み付いたキリシタン史を見るようで興味深い。場所は枕崎市桜山本町の旧長善寺跡の裏山にある喜入(きいれ)氏累代墓地。枕崎は藩政時代、「鹿籠(かご)」と称され、島津家につながる喜入氏の領地であった。

写真=左が古い時代(江戸初期)の花十字、右は近年のもの。いずれも喜入家墓地】

 ■喜入氏とキリシタン

 喜入氏がキリシタンと関係を持ったのは第7代忠政(1571-1645)の頃である。彼は幼少の頃、仏門に入り、のち還俗して武将となった経歴の持ち主で、文化人でもあった。藩主・島津義久、義弘、家久(忠恒)、光久の4代に仕え、家久の時代には家老職にあった。忠政の後妻となる妙身は「マルタ」の洗礼名を持つキリシタンであり、肥前国高来(たかき=島原半島)のキリシタン大名・有馬晴信の息・ミゲル直純と婚姻の秘蹟を受けたが、有馬家の政略的事情によって破棄され、長崎近辺に隠れ住んでいた。また、直純との間に生まれた幼子・於満津を連れていた。

 マルタ妙身の母・カタリイナ永俊は有馬家の家臣・皆吉家の出身で、有馬晴信の「養女」としてキリシタン大名・小西行長の側室となり、その後、薩州家島津氏一族の島津清忠に嫁した。マルタ妙身は小西行長との間に生まれた娘であった。肥後国にいた同夫妻が島津本家の要請で鹿児島に移ったのは慶長14年(1609)のことである。

 数年後、カタリイナ永俊は長崎に隠棲していた娘・妙身マルタを鹿児島に呼んだ。元和5年(1619)の頃、母カタリイナ永俊が娘・妙身マルタを喜入忠政に後妻として紹介し、二人は夫婦となった。

 一方、カタリイナ永俊と島津忠清との間に生まれた娘・桂安は、藩主島津家久の側室となり、鹿児島藩第2代藩主となる光久を生んだ。喜入忠政は、カタリイナ永俊を介して藩主家久と義兄弟の間柄となり、時に藩主の代理役を務めるなど活躍した。

 ■鹿児島城の花十字瓦とカタリイナ永俊

 カタリイナ永俊は夫忠清とともに、はじめ鶴丸(鹿児島)城に居住した。近年、鶴丸城跡から長崎の教会で使用されたものと同じ「花十字紋瓦」が出土して話題になったが、これはカタリイナ永俊が鹿児島鶴丸城に住んでいた時、長崎から取り寄せたものであった。長崎の教会に葺かれていた数種の花十字紋瓦(軒丸瓦)のうちの一つが、鹿児島城で出土したものと同一の鋳型で製造されたものであることから確認される。

写真=左が長崎のサント・ドミンゴ教会跡で出土した花十字紋瓦の一つ。右は鹿児島城跡出土のそれ。】

 カタリイナ永俊は夫忠清が亡くなった元和6年(1620)以降、「堅野(たての)の今郷田氏辺」に移り住み、鹿児島に潜入したキリシタン武将らを匿い、保護した。徳川幕府の禁教令施策が厳しくなる中、藩主・家久にとって彼女の存在は悩みの種であった。それでも、10年ほど忍耐したが、終に家久は寛永9年(1632)、カタリイナ永俊の種子島配流を決定した。追って、カタリイナの娘で喜入忠政の夫人となっていた妙身マルタ、および彼女の二人の娘(津留、於満津)も種子島に送られた。

 ■「かくれ」喜入忠政のこと

 ところで、藩主・家久の家老であった喜入忠政がマルタ妙身を後妻に迎えたのは、尋常なことではなかった。何故なら、彼女とその背景にあるキリシタン色があまりにも濃かったからである。彼女はアゴスチイノ小西行長の娘であって、そして、ジョアン有馬晴信の息子・直純ミゲルの元正妻であった。両者の結婚は述べたようにカタリイナ永俊から持ち出されたものであるが、彼女を受け入れたことは、喜入忠政が当時国禁とされたキリスト教を暗に是認したことを意味するものでもあった。彼は表向き、キリシタンではなかったとされる。しかしながら、キリシタン信者と多方面で深く係わっていた。カタリイナ永俊が種子島に配流されたその翌年(寛永12年)、幕府から「鹿籠家中のキリシタン20名を捕え、島送りにせよ」との厳命が薩摩藩に届いたことがあった(註1)。「鹿籠家中のキリシタン」とは、「喜入忠政の家臣」のことであるから、忠政は実際、キリシタンの家臣20余人を抱えていたのであった。

 死後、彼の墓は父・喜入季久の墓地からさらに奥まった場所に、あたかも隠されたように設置され、しかも土盛りしただけの円塚であった。これらのキリシタン的状況を歴史学として如何に説明するのか、ふさわしい言葉は見当たらないが、「かくれのキリシタン武将であった」という以外にないと思われる。ここに紹介する喜入氏墓地の花十字家紋も、それを裏付けるものである。

写真=7代目忠政以降の喜入氏累代墓地(枕崎市)】

註1…枕崎市教育委員会(元)文化課課長・末永俊英氏稿「枕崎の殿様・喜入氏を探る」。