2022年5月16日月曜日

きりしたん作法で解く島原の乱④

 ■四郎、復活祭ミサ―聖体の秘蹟で幕…

 翌4月11日(和暦2月27日)は悲しみ節(四旬節)「あがり」の日曜日、復活祭である(註1)。四郎ら「立上り」キリシタンたちはこの日、復活祭ミサを催した。それは「転び」の罪の償いをしてきた四旬節に連続するものであり、また、すべてのカットリック教界における「掟(おきて)」の一つでもあった。当時、公会議または教皇によって定められた「まだめんと(掟)」があり、このうちとくに五ヶ条は全世界の信者に義務づけられていた。その第三項目に「ぱすくは(復活祭)にえうかりすちあのさからめんと(聖体の秘蹟)を授かり奉るべし」とある(註2)。一同にとっては、すでに「立上り」の務めを終え、晴れて元のキリシタンに戻った最初で最期の記念的ミサであった。

 幕府側の諸記録はこの日―西暦4月11日=和暦2月27日―、城内に異常な動きがあったことを伝えている。キリシタンたちが持ち場を離れていたことである(註3)。それは、彼らキリシタンたちが復活祭のミサにあずかるため、本丸と二の丸の間にある蓮池近くの広い窪地に集まったためであった。

 カトリックのミサは、水(葡萄酒)とパンをキリストの血と肉に変え、それを拝領する儀式であるが、ここで思い出されるのが四郎が所持していた「陣中旗」である。二人の天使が中央の聖杯(カリスCalix)に向かって手を合わせている図柄に、ポルトガル語で「いとも尊きご聖体の秘蹟は貴まれ給え」の文字が描かれているもので、聖杯の上には十字入りのパン(聖餅)がある。これが司祭の祈りによってキリストの体に変化するパン、すなわち「ご聖体」である。参加者はこれを拝領し、秘蹟の恵みにあずかるとされている。

 日本のキリシタン時代、聖体となるパンをいかなる材料で、どのようにして拵えたのか、詳細は分からない。おそらくは米や麦、粟を粉に挽き、水を加えて練り合わせたものを千切り、平たく円形に伸ばして調達したであろう。問題は、食糧がほぼ底をついていたことであり…、あるいは最期のこの日のミサのために残しておいた少量の麦または米を臼(うす)で搗き、用意したかもしれないが、それでも量として十分ではなかったと思われる。目の前に広がる有明海の磯に出て、海草を拾い、代用したとも考えられる。その証拠として、現場に臼があり、また海辺で海草を拾ったことが目撃され、幕府軍側の史料に記録されていることを上げておきたい(註4)。時は西暦1638年4月11日(日曜日)、午前から昼過ぎにかけてのことであった。 (つづく)

【写真=(左)嶋原陣絵図にある臼、(右)島原の乱「陣中旗」】

 【註1】…「あがり」は、悲しみ節の入りから46日目。長崎のかくれキリシタンたちはこの日、暗くなってから集まり、「御礼のオラショ」「クレドのオラショ」を上げ、翌日(復活祭)の夜明け前に帰る習わしがあった。片岡弥吉著『かくれキリシタン』(1997NHKブックス56)184頁。

 【註2】…『どちりいな・きりしたん』に、次の「五ヶ条」が示されている。「第一、どみんご・べあと日にみいさを拝み奉るべし。第二、せめて年中に一度、こんひさんを申べし。第三、ぱすくは(復活祭)にえうかりすちあのさからめんと(聖体の秘蹟)を授かり奉るべし。第四、さんた・ゑけれじやより授け給ふ時、ぜじゅんを致し、せすた・さばどに肉食すべからず。第五、ぢずもす(十分の一税)・ぴりみしあす(初穂)を捧ぐべし。」

 【註3】…「廿七日、午の刻、鍋島殿先手、何れも二の郭西枡形へ向い、竹束を附け寄せける…城内一円物音なく靜かなるゆえ、鍋島家の先手の組頭鍋島安芸、城近く進み寄りて狭間より伺いけるに一揆壱人も見えざる故…」(細川熊本藩史料『綿考輯録』、2003年福田八郎編版189頁)。

 【註4】…臼の描写は複数の絵図で確認される。写真は毛利家萩藩の使者が記録した絵図。海草採りについては、たとえば毛利家文庫史料『原権左衛門・寛永討録』に次のようにある。「廿七日の朝、…城内の者は…それより油断仕り、こやごやへ引き取り候由候。其の後、海手へ海草ども取りに罷り出で候者も有之候由候。」


2022年5月14日土曜日

きりしたん作法で解く島原の乱③

 ■ゆるしの秘蹟―その③さしちはさん(所作による償い)

 ゆるしの秘蹟は、犯した罪を悔い改め、それらを司祭に告白したあと、最後に「所作をもって科送りをすること」すなわち行為による償い(さしちはさん)が求められる。これについて司祭・天草四郎が原城に籠もったキリシタンたちに指示したことは、「おらしよ(祈り)、ぜじゅん(断食)、じしぴりいな(鞭打ち)」等の善行に加えて「城の普請」、そして「えれじよ(敵)を防ぐ手立て」としての「成程(なるほど=できるかぎりの)武具の嗜(たしなみ=練習・手入れ)に念を入れる事」であった(註1)

 これらのうち「おらしよ(祈り)・ぜじゅん(断食)・じしぴりいな(鞭打ち)」は、長崎の外海(そとめ)系キリシタンたちが毎年「悲しみ節(四旬節、Quaresma)」におこなうものであることから、原城のキリシタンたちは1638年(寛永15)の四旬節にあわせて「ゆるしの秘蹟」を進行していたことが判明するであろう。

 この悲しみ節(四旬節)の期間は40日―日曜日を含めると46日―あり、その間、肉食を絶ち、食事を省き、また「コンチリサン」の祈りを一定回数唱え、一週間ごと組親(帳方)の家に集まって初穂(供物)を上げ、「御礼のおらしよ」(アベ・マリア)をささげる」という一連の「御後悔(ごこうかい)」をするのが長崎のかくれキリシタンたちの習わしであった(註2)。天草四郎の達書『四郎法度書』の第三項目に、「昼夜おこたりなく前々よりの御後悔(ごこうかい)尤、日々の御礼のおらしよの御祈念専らに存ずべく候」(昼夜怠けることなく以前からの後悔の祈り・コンチリサンと、アベ・マリアの祈りを捧げるべし)とあるのは、これを裏付けるものである(註3)。

原城で四旬節を過ごしたキリシタンたち

 そうであるなら、ここで新たな事実が浮かび上がってくる。すなわち、彼らは寛永15年(1638)のキリシタン暦のうち「悲しみ節(四旬節)」に沿ってその務めをなし、最期に「復活祭(イースター)」の一日を迎える、という明確な目標に向かって行動していたことである。これもまた『四郎法度書』第5項目に「今程(いまほど)くわれすま(四旬節)の内」とあるので、彼らは実際、キリシタン暦の四旬節とゆるしの秘蹟の「さしちはさん」を重ね、その償いの日々を過ごしていことであった。

 これら島原の乱事件の動きを、キリシタンの作法である「ゆるしの秘蹟」およびキリシタン暦の「四旬節」とを重ねて表にしてみると、以下のようになる。


 1638年(寛永15)の四旬節は2月24日(寛永15年1月11日)に始まり、途中、中日の「お告げの祝日」を経て4月4日(和暦2月20日)の「枝の主日(「棕櫚の日曜日」とも言う)」に至る。そしてこの後、最後の週の「聖週間」に入る。枝の主日にはミサを執り行い、一同「デイウス」の大音声を上げて祈ったらしい。細川熊本藩の史料『寛永平塞録』の記事に「昨日(和暦2月21日)より城内一同に大音にデイウスと宗門の唱えをなすこと雷のごとし」とある(註4)。この頃、食糧はすでに尽き果て餓死者が続出していたが、同日、「夜討(やうち)」を決行した。それは「子供・老人」の食料を確保して食わせるためであり、「友のために命を捨てる」死力を尽くした隣人愛であった、と言うことができるであろう(註5)。
 こうして、真冬の原城を舞台にした彼ら「立上りキリシタン」の「さしちはさん」は、1638年の「くわれすま(悲しみ節)」46日間と併せて進行し、初春の4月10日(和暦2月26日)をもって満了した。当初、3万7千人いた人々は、途中1万人ほどが餓死し、2万7千人ほどになっていた。 (つづく)


 【註1】…『四郎法度書』第二項、「おらしよ・ぜじゅん・じしぴりいな等の善行のみに限申間敷候、城内そこそこの普請、扨又ゑれじよふせく手立、成程武具之嗜可被入御念事も皆御奉公に可成事」

 【註2】…片岡弥吉著『かくれキリシタン』(1997NHKブックス56)181頁。

 【註3】…「御礼のおらしよ」について、筆者は当初「さるべ・れじいな」を設定していた。祈りの文言に「御身に御礼をなし奉る」と二回あるからである(本ブログ2016年1月3日付、「四郎法度書」に見る「転び」の償い―島原の乱を解く⑥)。ところが片岡弥吉氏は前掲書で、それは「ガラサ(あべ・まりあ)」であるとしている(同書183頁、134頁)。これを裏付けるものとして五島・外海のかくれキリシタンのオラショに題目「御礼のおらしよ」で「がらさ(あべ・まりあ)」がある。「あべ・まりあ」の祈りは「がらさみちみちたまふまりあに御礼をなし奉る…」ではじまる(『どちりいな・きりしたん』)。以上により、「御礼のおらしよ」は「あべ・まりあ」であることが判明する。

 【註4】…『嶋原記』にも同様の記事がある。「二月廿一日夜討之事…左候て一両日前より城内に数千のもの共でいうすでいうすと同音に高く宗門のとなへ夜々申候」。

 【註5】…『寛永平塞録』によると夜討の記事が二回登場する。(二月)廿一日の軍議およびその実施、同二十六日の評議である。このうち二回目夜討評議のくだりに、「寄せ手の食物奪い取り、城内の老人子供へ今壱度食わせ、その上にて何れも相果つべく候。然れば明廿七日丑の中刻を一生の最期に致すべし、と申渡しける…」とある。夜討は、幕府軍の兵糧攻めに対し同朋の弱者「子供老人」を守るための措置―「友のために(戦い)死ぬ隣人愛」の行動であったと考えられる。


2022年5月7日土曜日

きりしたん作法で解く島原の乱②

 ■ゆるしの秘蹟―その②こんひさん(言葉による告白、懺悔)

 「転び」やその他のモルタル罪科は、司祭に罪を告白し、司祭から指示される償い、もしくは自発的な償いを行為によって果たすことで「ゆるし」に至るとされる。

 原城に籠もった人々は、寿庵の廻文にあったように「きりしたんに成り申」すことを決意した者たちであった。その「立上り」の決意、信仰の強弱は人によって差があり、籠城の過程で落ちた人たちもあったものの、仏教信者や神道信者などが混じっていたという指摘は当たらない。強制された者もいたにはいたが、それを本人が受け入れたという点では、「立上り」キリシタンであった。

 ところで、天草四郎が司祭として、原城に集った37千余人もの「こんひさん」をどのように聞き、請けたのだろうか。原則、密室で秘密裡に進行するこの秘蹟は、他人にもらすことがゆるされないため、四郎自身、本丸のどこか地下室にいて、この秘蹟を執り行なったと考えられる(註1)。これを裏付ける史料は少ないが、以下にいくつか参考となるものを上げてみる。いずれも城内からの落人の証言である。

 「(四郎は)本丸に罷り在り候。此の度、取り詰め候て以後、一度二度、二ノ丸まで出で申し候」(註2)

 「籠り候てより以後、四郎は罷り出でず候。名代島原に之れ有り候絵書右衛門作と、嶋原浪人忠右衛門と申す者両人(に)四郎(の)印持たせ廻り候」(註3)

 「四郎が親甚兵衛一人具足をつけ、馬に乗り…城中に下知申し付け候…四郎は本丸の内に寺(教会)を立て、天守に居り、すすめをなし申し候由…」(註4)

 四郎は城内のキリシタンたちの前にその姿を現すことは、ほとんどなかったらしい。本丸の内にこしらえられた「寺(教会)」にいて「すすめ」をなしていたという、その「すすめ」とは司祭としての「法儀のすすめ」、「信仰のすすめ」、または「ミサ(聖祭)」であった。『オランダ商館日記』(永積洋子訳)に「肥後生まれの16、7歳の若者が日に2回、ミサを行なっていた」とある。

 実際、37千人の「告白」を直接聞くことは物理的に困難であったし、各村ごと、または信人会(コンフラリア)の組ごと代表者をたて、何らかの手続きがおこなわれたものと思われる。その進行の様子は、寛永15年2月1日(西暦1638年3月16日)付けで司祭・天草四郎から出された達書(たっしがき)「四郎法度書」の条文により、ある程度確認することができる。 

「一、今度此の城内に御籠もり候各(おのおの)、誠に此の中、形の如く罪果数をつくし背き奉り候事に候へば、後生のたすかり不定の身に罷り成り候処に各別の御慈悲を以て此の城内の御人数に召し抱えられ候事、如何ほどの御恩と思し召し候哉」(一、ここ原城に集った者たちは、いつも常習的に罪科をくり返し、天主を背信して来たので、死後、ハライソに行く保証がなくなってしまった。ところが、神の慈しみによって〃ゆるしの秘蹟〃の場であるこの原城に導かれたのだ。これがどれほどの神の恩恵であることか、分かっているのだろうか)。

 「四郎法度書」の第一項に出てくる「形の如く罪科数をつくし(天主に)背き奉り候」というのは、「絵踏み」をくり返し、不信仰を重ねたキリシタンたちの「こんひさん(告白)」を聞き、それを踏まえた上でのくだりであると考えられる。

この後に続く条項には、司祭四郎による「ゆるしの秘蹟」の「さしちはさん」(行為による償い)に関する示達およびその指導が綴られている。(つづく)

【写真…「四郎法度書」第一項】

【註1】…原城本丸に「四郎の家」なるものが細川熊本藩の史料『綿考輯録』掲載の絵図に描かれている。これとは別に、本丸には地下室が存在したようで、大雨のたびに陥没したことがある。2021年にも大規模陥没があった。1963年豪雨時の陥没調査によると、「内部は段状になっており、深いところでは(高さ)4,3㍍あった」という。

【写真=原城本丸にあった四郎家(『綿考輯録』掲載)】

【註2】…鶴田倉蔵編『原史料で綴る天草島原の乱』(1994、本渡市)603頁「寛永14年12月25日付落人の証言」

【註3】…前掲史料608頁「寛永14年12月25日付、久留米藩が捕らえた落人の証言」

【註4】…前掲史料621頁「細川立允の家老志方半兵衛の12月29日付記録」