2022年5月7日土曜日

きりしたん作法で解く島原の乱②

 ■ゆるしの秘蹟―その②こんひさん(言葉による告白、懺悔)

 「転び」やその他のモルタル罪科は、司祭に罪を告白し、司祭から指示される償い、もしくは自発的な償いを行為によって果たすことで「ゆるし」に至るとされる。

 原城に籠もった人々は、寿庵の廻文にあったように「きりしたんに成り申」すことを決意した者たちであった。その「立上り」の決意、信仰の強弱は人によって差があり、籠城の過程で落ちた人たちもあったものの、仏教信者や神道信者などが混じっていたという指摘は当たらない。強制された者もいたにはいたが、それを本人が受け入れたという点では、「立上り」キリシタンであった。

 ところで、天草四郎が司祭として、原城に集った37千余人もの「こんひさん」をどのように聞き、請けたのだろうか。原則、密室で秘密裡に進行するこの秘蹟は、他人にもらすことがゆるされないため、四郎自身、本丸のどこか地下室にいて、この秘蹟を執り行なったと考えられる(註1)。これを裏付ける史料は少ないが、以下にいくつか参考となるものを上げてみる。いずれも城内からの落人の証言である。

 「(四郎は)本丸に罷り在り候。此の度、取り詰め候て以後、一度二度、二ノ丸まで出で申し候」(註2)

 「籠り候てより以後、四郎は罷り出でず候。名代島原に之れ有り候絵書右衛門作と、嶋原浪人忠右衛門と申す者両人(に)四郎(の)印持たせ廻り候」(註3)

 「四郎が親甚兵衛一人具足をつけ、馬に乗り…城中に下知申し付け候…四郎は本丸の内に寺(教会)を立て、天守に居り、すすめをなし申し候由…」(註4)

 四郎は城内のキリシタンたちの前にその姿を現すことは、ほとんどなかったらしい。本丸の内にこしらえられた「寺(教会)」にいて「すすめ」をなしていたという、その「すすめ」とは司祭としての「法儀のすすめ」、「信仰のすすめ」、または「ミサ(聖祭)」であった。『オランダ商館日記』(永積洋子訳)に「肥後生まれの16、7歳の若者が日に2回、ミサを行なっていた」とある。

 実際、37千人の「告白」を直接聞くことは物理的に困難であったし、各村ごと、または信人会(コンフラリア)の組ごと代表者をたて、何らかの手続きがおこなわれたものと思われる。その進行の様子は、寛永15年2月1日(西暦1638年3月16日)付けで司祭・天草四郎から出された達書(たっしがき)「四郎法度書」の条文により、ある程度確認することができる。 

「一、今度此の城内に御籠もり候各(おのおの)、誠に此の中、形の如く罪果数をつくし背き奉り候事に候へば、後生のたすかり不定の身に罷り成り候処に各別の御慈悲を以て此の城内の御人数に召し抱えられ候事、如何ほどの御恩と思し召し候哉」(一、ここ原城に集った者たちは、いつも常習的に罪科をくり返し、天主を背信して来たので、死後、ハライソに行く保証がなくなってしまった。ところが、神の慈しみによって〃ゆるしの秘蹟〃の場であるこの原城に導かれたのだ。これがどれほどの神の恩恵であることか、分かっているのだろうか)。

 「四郎法度書」の第一項に出てくる「形の如く罪科数をつくし(天主に)背き奉り候」というのは、「絵踏み」をくり返し、不信仰を重ねたキリシタンたちの「こんひさん(告白)」を聞き、それを踏まえた上でのくだりであると考えられる。

この後に続く条項には、司祭四郎による「ゆるしの秘蹟」の「さしちはさん」(行為による償い)に関する示達およびその指導が綴られている。(つづく)

【写真…「四郎法度書」第一項】

【註1】…原城本丸に「四郎の家」なるものが細川熊本藩の史料『綿考輯録』掲載の絵図に描かれている。これとは別に、本丸には地下室が存在したようで、大雨のたびに陥没したことがある。2021年にも大規模陥没があった。1963年豪雨時の陥没調査によると、「内部は段状になっており、深いところでは(高さ)4,3㍍あった」という。

【写真=原城本丸にあった四郎家(『綿考輯録』掲載)】

【註2】…鶴田倉蔵編『原史料で綴る天草島原の乱』(1994、本渡市)603頁「寛永14年12月25日付落人の証言」

【註3】…前掲史料608頁「寛永14年12月25日付、久留米藩が捕らえた落人の証言」

【註4】…前掲史料621頁「細川立允の家老志方半兵衛の12月29日付記録」

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