2020年6月3日水曜日

木浦鉱山キリシタン墓地―「女郎墓」調査記②

 「女郎墓」と言い伝えてきた島原の典型的なキリシタン墓碑と、宇目木浦鉱山の自然石を配置した「女郎墓」とは、外見上は何の共通点もみられない。あるとすれば、「墓」と称されながら双方とも平面的な格好―伏碑的構造―をしている、ということであろう。
 筆者が木浦鉱山「女郎墓」に注目したのは、石の配置の仕方であった。インターネットで検索して複数の女郎墓の写真を比較してみると、四角形、または長方形に並べられた様子がうかがえる。それが事実であるとすれば、下藤キリシタン墓地(大分県臼杵市野津)や長崎県外海地方に多く見られる方形石組み型の(かくれ)キリシタン墓碑である可能性があるのだ。
 2020年2月15日(陰暦1月22日)、宇目地区公民館でキリシタン「るいさ」の命日401周年記念祭(豊後キリシタン史研究会主催)が開かれたとき、筆者は「るいさと宇目のキリシタン史」の題で講演し、その中で木浦鉱山「女郎墓」が隠れ時代のキリシタン墓碑「方形石組み型」として分類されることを紹介した。その際、柴川英敏氏(佐伯市文化財保護審議会副会長・宇目切支丹研究会会長)をはじめ地元の郷土史家、そして菅原健児宇目地区公民館長らが関心をもってくださったことが現地調査への後押しとなった。と同時に、地元宇目ではこれを文化財指定から外すような動きがあることもうかがった。

木浦鉱山「女郎墓」の実地踏査
 5月29日正午過ぎ、宇目地区上小野市で柴川氏、菅原館長、そして豊後キリシタン史研究会会員4人と筆者の計7人が合流し、菅原氏の先導で木浦鉱山天神原に向かう。林道・木浦藤河内線の急峻な坂道を上り、現地に着いたのは午後1時過ぎだった。場所は天神原山(995㍍)に続く東側尾根(字名は「大切」)の、小さく突き出した丘の上。菅原氏が地図をもとに現地の状況について、また柴川氏から女郎墓が文化財になったいきさつ、名称の由来、さらに地元旅館経営者によるPR活動などもあっていくらか石の移動があったことなど、説明があった。
木浦鉱山「女郎墓」墓地風景
 
 
筆者はそれらを参考にしながら個々の墓石を確認した。
 遺構は、地元産自然石を任意に並べた格好で配置され、個々の石は半分以上が土中に埋まっている。木の枝で周辺の枯れ葉や土を退けようと試みたが、容易に掘れる状態ではなかった。これは長い歳月をかけて埋没していったものであり、石そのものは造立された時の姿をそのまま伝えていると判断された。造立された時の元の姿―任意に配置されたかたちというのは、すなわち方形または長方形である。
 尾根頂上付近(平面地)のものは四角形の配列をある程度正確に読み取ることができるが、勾配のある斜面に据えられたものは個々の石がかなり埋没していて、目視するかぎりでは原形が見えない。それでも部分的に露出した石は2個3個あるいはそれ以上、ほぼ直線状に並んでいる状況が確認されるので、方形の一部分であろうと思われた。今後、発掘調査が行われ、正確な情報が得られることを期待したい。
 写真撮影とともに、スケッチおよび計測を試みたが、時間に余裕がなかった。(つづく)

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