2018年6月11日月曜日

欧文史料で読み解く豊後宇目の「るいさ」⑧

ルイサは高政の妾妻
 宣教師たちが遺した史料をもとにルイサの「夫イチノカミ(ドノ)」を捜し求め、辿り着いた人物は、意外にも佐伯藩主初代・毛利伊勢守高政であった。冷静に作業を進めなければならない筆者は、正直、困惑したが、その一方で、いくつか合点することがあった。禁教令下、幕命に反して10年以上も宣教師を匿うことは、一地方役人の婦人にできることではなく、大名の婦人(妾)にして、はじめて可能ではないか。また、地方役人の婦人にしては分不相応な巨大な墓碑の建立にしても、大名夫人であれば、何の矛盾もない。前述したように、あれはキリシタン墓碑ではあるが、大名(またはその夫人)墓碑であった。

 ルイサの夫が「イチノカミドノ」毛利高政であるなら、ルイサは夫人である。正室は「木曽義昌の娘」とされているので、妾妻(めかけ)ということだろうか。
 高政の子供の母親を毛利氏系図で見てみると、高成の母は正室「木曽義昌の娘」。高定の母は「吉田氏」、女子の母は「某氏」とある(註1)。名前を記せない「某氏」を含め、高政には側室・妾が複数存在したことであるので、「ルイサ」がその一人であった可能性は否定できない。十分にあり得ることである。
 
■ルイサと毛利伊勢守高政との接点
 見てきたように、ルイサは摂津国高槻出身の「高貴な」武士の家系・加賀山一族であり、小倉キリシタン集団の指導者的存在であったディエゴ加賀山隼人の「姉妹」であった。従兄弟のバルタザール加賀山半左衛門一家を含め、一族が九州に下って来たのは1601年、細川忠興の豊前・豊後国入封に伴うものであった。
 したがって、ルイサと毛利高政が出会うのは1601年以降となる。仮りに1605年とすると、その時のルイサの年齢は、兄弟隼人(1565年生まれ)のそれから推定して、40歳ぐらいになる。あるいは結婚歴があり、連れ子があったかもしれない。ちなみに高政(1559年生まれ)の年齢は46歳であった。
 ルイサが毛利高政の妾となる機縁を問えば、やはりキリシタン信仰であったと言えるだろう。宣教師の記録は、十分にそれを裏付けている。

■毛利伊勢守高政のキリシタン信仰
 そうした場合、ルイサの信仰にかんしては問題ないであろうが、一方、高政の信仰については検証を要する。『日本切支丹宗門史』にもあるように、彼は一般に「背教者」と言われれていたからである。
 この点について、ディエゴ・パチェコ(日本名・結城了悟)元日本26聖人殉教記念館館長(司祭、キリシタン研究家)の見解は参考になる。高政が佐伯に入封する以前、彼が日田2万石の大名であったとき、日田から2里ほど離れた所に2千石の知行を得ていた元竹田城主ドン・パウロ志賀親次を頻繁に招き、神父をまじえてキリストの教えを深く理解し、「信仰の道を選んだ」というのだ(註2)。
 1606年、アウグスチノ会のエルナンド・デ・サン・ヨゼフ神父が佐伯を訪れて貧弱な修道院を建てたとき、毛利高政は自費で天主堂(教会)と、更に立派な修道院を建て(てあげ)たという、『日本切支丹宗門史』の記事は、彼のキリシタン信仰が中途半端なものでなかったことを証明するものである。

■ドン・パウロ志賀親次の遺志を引き継いだ高政
 このように、佐伯藩主毛利高政がドン・パウロ志賀親次との友誼交流を機に本物のキリシタンに目覚めたとするなら、サムライ高政の生き方について、もう一つ、考慮すべきことがある。「西の(高山)右近」を自称して憚らず燃えるようなキリシタン信仰を持ちながら、あわれな運命を辿らざるを得なかった畏友ドン・パウロ志賀親次の遺志を、高政が引き継いだ、ということだ(註3)。
 その場合、一度は「背教者」と呼ばれた人間と、最初から純粋に意志を貫き通した高山右近、志賀親次、加賀山隼人らの正道を行く人間とでは、おのずから物事への対処の仕方が異なるであろう。
 毛利高政は、右近や親次らの教訓(註4)をもとに、内面ではキリスト教信仰を堅持しながら、外面ではむしろ背教者、迫害者の態度をとり続けることで、裡に秘めた信仰の信念を果たそうとした。つまり、大名の立場でキリシタンを擁護するため、自身は外面上、迫害者・背教者を演じるということである。―それが、佐伯藩初代・毛利高政がとった対キリシタン政策の基本姿勢ではなかっただろうか。
 レオン・パジェス著『日本切支丹宗門史』に、それを思わせる記事がある。1615-16年、「豊後の重要な地クフ(玖珠)で、九人の切支丹が手足を縛られ俵につめられて、寂しい場所に曝され、野獣の餌食に供された。彼らは全く飲食せずに其処におること四日五晩、中には婦人や子供もあって、中一人は僅かに四歳であった。領主は彼らの勇気に感じ、之を殺すことを望まず、遂に釈放した。」というものである。「クフ(玖珠)の大名」とは、同地の代官を兼任した佐伯藩主・毛利高政である。
 キリシタン禁制下にあって、「キリシタンの勇気に感じ…釈放した」という話は聞いたことがない。〃隠れのキリシタン大名・毛利高政〃にしてできることであった、と思われる。
 毛利高政が、そのように篤い信仰を秘めたキリシタンであったとすれば、彼は最後のキリシタン大名であったと言えるだろうし、それだからこそ、宣教師を保護するという目的で、ルイサを妾妻にした、とも考えられる。

 ルイサの背景には、異教徒を装った夫毛利高政がいる、…となると、次第に見えてくるものがある。禁教令下、迫害に抗してキリシタンを守るため、イエズス会とキリシタン為政者、篤信のキリシタンらが協力して組織した秘密の地下洞窟教会の存在である(本稿付記②参照)。
(つづく)
毛利伊勢守高政が築城した佐伯城(鶴屋城)―同城案内板より筆者撮影(2018年5月)

 【註1】…佐伯史談会1994年6月発行『佐伯史談166号』―宮下良明「乱世の武将と善教寺」の鯰江・毛利氏系図。
 【註2】…結城了悟著『キリシタンになった大名』(1999・聖母の騎士社発行)194-195頁。パチェコ・ディエゴ(結城了悟)著『九州の古城とキリシタン』(1978・日本26聖人記念館発行)167-173頁。原史料は『十六・七世紀イエズス会日本報告集』第Ⅰ期第2巻(1987・同朋社出版)所収の「1596年度年報」。同書139-145頁。
 【註3】…ドン・パウロ志賀親次の信仰を表す言葉(一例)として、イエズス会は「1588年度年報」に次の証言を記している。「ドン・パウロは司祭たちを自分の手許から放したり、下(しも=長崎)に送ったりすることを望まなかった。…彼も彼の妻(マダレイナ)も、キリシタン宗団がこのように巨大な苦難のなかにある時こそ、どのような事態に見舞われようと、自分たちは(高山)右近殿の行為に負けぬことをやり遂げずにはおかぬ、という決意を固めていた。」(『十六・七世紀イエズス会日本報告集』第Ⅰ期第1巻、73-74頁)。
 【註4】…たとえば、広島の大名福島正則の場合、「彼は、キリシタンに対して余りに好意を示したために、皇帝(徳川幕府)から所領を没収せられ、追放された。」(レオン・パジェス『日本切支丹宗門史』中巻、86頁)。

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