2022年4月6日水曜日

神代貴茂夫人マリアの墓②

 

 ■神代貴茂夫人マリアのこと

 神代貴茂は、キリシタン大名ドン・ジョアン有馬晴信(15611612)と同時代に生きた有馬氏領の一領主であった。その夫人が嶋原純茂(?~1570?、領主有馬氏の従兄)の娘であったことは、日本側の記録にはないが、イエズス会の複数の記録史料で明らかになる。参考まで次に列挙する。

 ・№①「1563417日付、横瀬浦発イルマン・ジョアン・フェルナンデスより豊後のイルマン等に贈りし書簡」、/・№②「15631117日付、横瀬浦発インドに在るイルマン等に贈りし書簡」(※以上2点は嶋原純茂の娘の受洗のことを記している)。/・№③「1588220日付、有馬発信、ルイス・フロイスのイエズス会総長宛書簡―1587年度日本年報」、/・№④「フロイス『日本史』第70章」(※以上2点は神代城および同城下へのキリスト教布教について述べている)。/・№⑤「1589224日付、日本副管区長ガスパル・コレリュのイエズス会総長宛、1588年度日本年報」(※これには神代貴茂が有馬晴信に誅殺された経緯が記されている)。

 このうち、嶋原純茂が「娘マリアを神代の城主・神代貴茂に嫁がせたこと」を記しているのは、№④である。

 概略は、以下のようである。

島原純茂の娘は156344日(棕櫚の主日)、イエズス会修道士ルイス・デ・アルメイダによって洗礼を受けた。1563年(永禄6)はイエズス会が島原半島にはじめて上陸した年である。マリアは当時23歳(もしくは34歳)の幼女であったが、「高来においてデウスの教えを受け入れた最初の高貴の方」であった。

 父島原純茂は、教会および墓地の敷地を提供するなどキリスト教に理解を示したものの、周囲の仏教勢力の反対により退けられ(註1)、息子の嶋原純豊の時代になると神代氏、西郷氏、安富氏らとともに「キリシタンの敵」龍造寺氏に与した。

 3歳で受洗した島原マリアは、したがって「異教徒たちの間で成長」し、年頃になって神代城主・神代貴茂に嫁いだ。その時期は神代・島原両氏がともに龍造寺氏に降った天正56年のことと思われる。「再び信仰を取り戻した」のはイエズス会が神代城に入った1588年(天正16)。受洗からすでに25年が経過していたが、「祈祷を覚え、ミサ聖祭に与かり、告白する準備をして救いを得られる状態に立ち返った。」と、ルイス・フロイスは『日本史』第70章に記している。

 28歳にしてようやく信仰の春を迎えたマリアではあったが、運命は彼女に味方しなかったようだ。有馬晴信に反抗し続けた夫貴茂は15892月に殺害され、マリアは息女とともに神代城を出て「切通の砦」(神代城の枝城)に隠れ住んだ。江戸時代末期の1844年(天保15)、旧神代氏家臣・辻八郎右衛門が伝承を拾い集めて編纂した『神代古代史』によると、「(夫人は)終に尼となりて貴茂の跡を弔い、かすかに暮らして果てた」という。墓碑「五輪塔」は「切通ノ砦(きりどおしのとりで)」にあって、「苔むし、かつ散乱し…寂々たり」、と伝えている。(つづく)

【写真=文政5年の絵図に見られる神代城跡と神代マリアの墓地があった「切通ノ砦」】

註1】…15669月後半、祇園祭りに乗じて島原の仏教勢力がキリシタンおよび純茂を排斥し、純豊を起用したクーデター事件。逃亡を余儀なくされた島原のキリシタンたちは、口之津を経由して長崎に移住し、「嶋原町」を形成した。

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