2021年5月28日金曜日

日田のドン・パウロ志賀親次②

  豊後国宇目の「るいさ」を追跡調査する過程で、筆者は「日田郡大井庄」という地名が何故か心に残った。それは、宣教師文書に出てくる「ルイサの夫イチノカミドノ」が毛利伊勢守高政であることが判明し、彼が日田と玖珠を治めていた時代、隣接する「大井庄」に千石の知行を宛がわれたドン・パウロ志賀親次がいて、両者が親しく交流してキリシタン信仰を温めたという、ゆかりの地であったからである。それはまた、火の如く燃える信仰を有しながらやがてキリシタン史から消えていく謎のドン・パウロ志賀親次と、佐伯藩初代藩主となって「かくれのキリシタン大名」を演じた毛利高政との密談の場所でもあり、その後の禁教時代における豊後国「かくれ」キリシタン時代がイエズス会の地下組織・コングレガチオとともに展開された、その起点ともなった場所であった(註1)。

 「大井庄」は「大肥庄(荘)」であることは、のちに日田の友人から知らされたが、『角川日本地名辞典・44大分県』には、「大肥荘。鎌倉期から見える荘名。豊後国日田郡のうち、筑後川(三隈川)の支流大肥川流域一帯と想定され、現在の日田市大字小野・鶴河内・大肥・夜明のあたりに比定される。」とある。

 日田のキリシタン史を繙くには、いずれ現地を訪ねてみなければならないー募る思いを果たせたのは2021年5月、例年より早く到来した梅雨の時期であった。その大肥庄現地踏査を紹介する前に、先に毛利高政と志賀親次との交流を記録したイエズス会の史料「1596年度日本年報」(註2)にふれなければならない。

 一般には、日田にはキリシタンがいなかった(註3)とされているようだが、それはこの一史料をもって覆えされるであろう。1596年(慶長1)、二人のパードレ(司祭)と二人のイルマン(修道士)が豊後国に入り、野津や府内、志賀(竹田)など各地で信者を牧会指導した中に日田における活動の様子が綴られている。

■1596年度日本年報-日田における毛利高政と志賀親次の友誼

 ーその①毛利高政のこと

  彼(毛利高政)はまだ若い時に大阪でキリシタンになってから、すでに十二年たっていた。彼は武士として出陣していたので、デウスの認識はほとんど留めていなかった。しかし彼は特別な理解力をもっていたので、以前に聞いた教理の講話を非常に心に留めており、それらをあたかも説教者の務めを果たしているかのように繰り返して言っていた。そして私は、十年前に下関で彼がその一部を大いなる権威と熱意をもって話しているのを聞いて非常に驚嘆したことがある。この男は性格が火のようであると思われる。なぜなら彼は一度知識を頭に入れると、それをすべて(そのまま)伝えるからである。彼は二名の司祭が豊後に滞在しているのを知ると、その中の一名を自分の所へ派遣してもらえばデウスのより大いなる光栄になるであろうと使者を遣わして頼んだ。彼は司祭が来ると非常に喜んで歓迎し、自らその栄誉ある小姓たちとともにミサを献げるための祭壇を作り、それからただちに米十二俵と、その他司祭館のために必要なものを送った。

 〈解説〉毛利高政(森勘八)は1584年、大阪で洗礼を受けた。戦陣に明け暮れ、そのため「デウスの認識はほとんど留めていなかった」が、「彼は特別な理解力をもっていた」ため、キリシタンの教理が心から離れることはなかったらしい。あわせて「性格が火のようである」と宣教師は記している。

 「1595年9月」付けで高政は豊後国日田・玖珠二郡の所領の朱印状を受けて日田に赴任し、日隈城を居城とした。翌1596年、同国に二名の司祭が滞在しているのを耳にし、使者を遣わして一名の司祭と一名の修道士を招き入れ、司祭館となる家を提供してキリスト教導入の準備を整えた。その際、「司祭が来ると非常に喜んで歓迎」した、という。高政がこの時、キリシタン大名として立つ下地がすでに固まっていた、と見ることができよう。(つづく)  

毛利高政が居城とした日隈城の城趾(日田市内)


註1…拙著『るいさと毛利高政ー欧文史料で読み解く豊後キリシタン秘史-』(2018、豊後キリシタン研究会刊)の「ドン・パウロ志賀親次の意志を引き継いだ高政」(36ー39頁)参照。

註2…『16-7世紀イエズス会日本報告集』第Ⅰ期第2巻(1987年同朋者刊)「1596年12月13日付、長崎発信、ルイス・フロイスの1596年度年報」中の「豊後の国での二名の司祭と二名の修道士の布教について」。

註3…『大分縣地方史61号』(1971年3月刊)「日田地方のキリシタンについてー高倉芳男」。「イエズス会1596年度年報」にも、「この日田の領地には、フランシスコ王(大友宗麟)はその生存中に決して神の教えを導き入れえなかったし、改宗への扉が堅く閉ざされていたために、キリシタンは一人もいませんでした」とある。ゆえに、日田におけるキリシタン改宗は毛利高政が宣教師を招聘した「1596年」が嚆矢であった。


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