2021年6月2日水曜日

日田のドン・パウロ志賀親次⑥

 ■日田キリシタン史のその後

 日田は歴史的に仏教が浸透した地域であったのだろうか、元仏僧でキリシタンになったジョアン・ソウタンが日田を訪れ、教会として某古寺を与えられながら「周囲が偶像主義者であったため」他の土地に行ってしまった、という同イエズス会年報の記録。この年(1596年)、毛利高政の招聘で同地に赴いた司祭・修道士が泊まった「異教徒の家の、使用人の多くがパードレたちを侮辱し、嘲笑し」、また「近所の人々もパードレたちに会うと顔をそむけ、唾を吐いた」との記述などからも、ある程度推察される。

 交通の要衝であり、宣教師もたびたび同所を訪れ、あるいは通過したにもかかわらず、ドン・フランシスコ大友宗麟(1530-1587)の時代、玖珠までしかキリスト教が入らなかったのは、そのような背景と要因があったからと思われる。

 そうであるなら何故、1596年になってキリシタン宗の導入が可能になったのかと言えば、第一にはドン・パウロ志賀親次の大肥荘への入封。第二には毛利高政と彼が一致協力したこと、を上げることができる。二人は共に〃戦うキリシタン武将〃であり、教理の理解と信仰的分別力において秀でていた。既述したように、毛利高政は父の怒りに対して忍耐と「熱心、賢明さ」をもってこれを屈服させ、また志賀親次は異教の容認がいかなる結果を招来するかを弁(わきま)えていたので、熱心な仏教崇拝者であった父・志賀親守(道輝)の要求に対しても敢然と対処したことであった(註1)。その点で1596年、志賀親次が家臣らに語った言葉-「我が家臣であるなら、妻は一人以上持ってはならぬ」。「キリストの福音を理解して、しかもキリシタンにならない者は禄盗人である」。「神や仏はみな地獄にいて、そこから自分を救うことができないのであれば、他人を救うことはなおさら(できない)ではないか」ー等々は、異教圏に切り込むキリストの福音の鋭い一面を覗かせていて、興味深い。

 いくつかの結果を収めた1596年の、日田における宣教活動を終えた司祭・修道士はこのあと、「毛利高政が都へ向かって出発した」のと前後して同地を後にし、臼杵に行った。

 高政は翌1597年、慶長の役に出陣したため、その後、日田のキリシタンたちがどうなったか気になるところだが、大肥荘のドン・パウロ志賀親次は5年ほど同地に定着した。また毛利高政も1598年、秀吉の死去に伴って朝鮮役から戻り、1601年には佐伯に転封するものの、日田と玖珠は引き続き彼の統治下に置かれた。日田におけるキリシタン信仰は、静かに浸透したと見られる。(つづく) 


 ※註1…秀吉がバテレン追放令(1587)を出したあと「(秀吉は)豊後の諸侯に(日本の)神々および諸仏への忠誠に関する誓約を求めている」として、大友義統が志賀親次に迫ったことがあった。このとき親次は「死の決意を固め、そのようなことをするくらいなら自らの知行を失った方がましである」と、例のジュスト高山右近と同様な態度を取ってこれを退けた。また同バテレン追放令についても、親次は「大いなる危険を招来したとしても、拙者は伴天連がたを我が領内に匿いたい」と主張し、事実、豊後国に宣教師を匿った。史料=「1589年2月24日付、日本副管区長ガスパル・コエリュのイエズス会総長宛、1588年度年報」。

 志賀親守(道輝)は親次の祖父とされることが多い。「(長崎)志賀家系図」(長崎県立博物館蔵)によると、親守の子に、親孝(道益)、浄閑、宗頓(林小左衛門)、親次、某(左門)がいて、親次は長兄・親孝(親教、親度)の養子となっていることが分かる。ゆえに、親次にとって親守(道輝)は実の父であった。親孝は対島津戦で島津に味方し、天正15年(1587)大友義統によって誅殺された経緯がある。


 

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