2023年4月1日土曜日

カタリイナ永俊〈補遺〉ー皆吉氏系図考㊤

 カタリイナ永俊の出自である皆吉氏は小西行長の臣ではなく、有馬氏の家臣であった。筆者は稿「カタリイナ永俊」で史料『藤原有馬世譜』をもとにこれを明らかにし、概略の系図(下図)を紹介した。

 すなわち、皆吉氏の祖・又次郎重能は鎌倉時代、高来郡東郷御墓野村および佐賀郡西泉の地頭職にあり、「御墓野」姓を称していた。出羽守長能の頃、佐賀城城主となり、同地に進出した有馬氏第10代晴純に帰属した。その子・久右衛門續能(つぐよし)の時代、主君有馬氏から高来(たかき=島原半島)の内「大江」を宛行(あてが)われ、その頃、姓を「皆吉」に改めたらしい。同史料には、佐賀から大江に移った理由は記されていないが、台頭した龍造寺氏に城を「抜かれた」ためである(『国乗遺聞』後述)。續能の子が権左衛門、そしてカタリイナ永俊であった。権左衛門は、一時期「東」氏を称し、後「有馬」氏を賜ったという。

 ところで、キリシタンとして活躍した永俊が寛永11年(1634)、種子島に配流されたとき、「皆吉長右衛門」なる人物が家族とともにカタリイナに仕えた、という記録が島津藩の記録(後述)にある。それは、皆吉一族が依然としてキリシタン宗と係わりながら生き延びたことを証言するものであるが、上記皆吉氏系図上での「長右衛門」の位置は不明である。本稿では、散見される皆吉氏関連史料を拾い集め、皆吉氏系図――とくに、禁教令を前後してキリシタン宗と密に係わった同一族の系譜――の解明を試みたい。

『国乗遺聞』が伝える皆吉氏

 皆吉氏または東氏についての記事は、有馬氏の他の一つの史書である『国乗遺聞』にもいくつか見られる。たとえば第10代有馬晴純公時代の「国老」の一人「佐賀城主御墓野出羽守長能」について、次のようにある。

 「佐賀城主・御墓野出羽守長能。此の御代、初て(有馬晴純)麾下に属し、士将の魁首に列す。子・皆吉久右衛門續能、幼穉(ようち)の時、当城を龍造寺隆信に抜かれ、後、大江に於て食邑を賜ふ。…其の子・有馬大膳亮純政、士将に大夫を兼ね、子孫代々此の職を領す。」

 この中に、皆吉續能の子で「有馬大膳亮純政」とあるのは、『藤原有馬世譜』が「(續能の子)権左衛門」としているのと異なっている。これを解釈するに参考となるのが、次の記事である。

 「東左馬大夫・民部少輔。…実は皆吉久右衛門の二男。東家の養子となり、後、実家を相続して有馬大膳亮と称す。…

 これは、キリシタン大名として知られる有馬氏第13代晴信公時代の国老「東左馬大夫・民部少輔」についての記述であるが、この中に出てくる「有馬大膳亮」が前項に登場した皆吉續能子「有馬大膳亮純政」である。彼は「実は皆吉久右衛門の二男」であって、一旦「東家の養子」となったが、後(ある事情により)「実家」すなわち「皆吉」本家を相続した。その際、「有馬大膳亮と称した」というのである。

 これによって『藤原有馬世譜』にあった、續能の子「権左衛門」皆吉氏が「東姓を冒し、後、有馬姓を賜った」という記述の事情が判明するであろう。と同時に、「権左衛門」と「大膳亮純政」の二人が、いづれも皆吉久右衛門續能の息子であり、兄弟であったことも判明する。問題となるのは、皆吉本家を相続したはずの長男・権左衛門が有馬晴信時代に「二男・大膳亮純政」に取って代わられた家督相続の謎である。

 この謎は、キリシタン宗門を巡る徳川幕府と有馬氏との対立、そして、有馬氏が辿った幕府恭順の道、それを機として家臣団が二分した有馬家の事情を検証することで、解けてくるであろう。

 ■有馬藩のキリシタン事情ー奨励から禁圧へ

 有馬氏は、第13代晴信(1661―1612)が1580年(天正10)に受洗してキリシタンとなったあと、30年余りにわってイエズス会と連携し、領国の支配体制を確立した。その途次、新たに来日した托鉢修道会との確執をめぐるイエズス会の陰謀に巻き込まれ、有馬晴信は1612年5月、甲斐国で生涯を閉じた。危うく改易になるところ、晴信の嗣子直純が幕府に恭順することで領国は維持されたものの、それは同時にキリスト教を遺棄することであり、正妻のマルタ(妙身)を離縁し、代わりに家康の孫娘国姫を妻として迎え入れた。直純は幕府の意向であるキリスト教迫害に着手したが、徹底することができず、幕府に転封を願い出た。こうして有馬氏は1614年7月、日向国縣(あがた=現延岡市)に移った。

 この直純の幕府恭順を巡って、そのほとんどがキリシタンであった家臣団の選択は二分した。棄教して直純に従う者と、信仰を維持して地元に留まる者とにである。

 ■皆吉権左衛門、有馬氏を離れる

 有馬家の史書は後世、再編纂されたものであるから、家臣団はこの時点で直純に従った者を中心として記録され、キリシタンとして有馬家を離れた者は、徳川時代のキリシタン禁圧政策とも絡んで故意に隠され、もしくは切り捨てられた。―これが、皆吉家の長男・権左衛門の家系が姿を消し、次男の大膳亮純政が本家を継いで記録に遺された理由である。次男であるから当初、本家を出て「東」家に養子となったとあり、その「後、実家(皆吉家)相続して有馬大膳亮と称」した、というのは、長男・権左衛門が有馬氏の家臣「国老」の立場を離れたためであった。

 なお、有馬氏家臣としての皆吉家を相続した二男・大膳亮純政の系譜は、その後、大膳純景、そして大膳純忠(養子、実は古賀城主・山田兵部少輔の家系になる有馬長兵衛純親の息子)と続いた(註1)。(つづく)

皆吉氏系図(宮本作図)


 ※註1…『国乗遺聞』巻三の記載で、「直純公・六公子」の一人に「女子・与志子(母皆吉氏)」とあり、彼女は有馬氏の臣(山田家)有馬長兵衛純親に下嫁して、吉兵衛純右、大膳純忠(有馬/皆吉大膳純景養子)および三女子を生み、その一女子が「有馬大膳純景に嫁す」とある。ここに「大膳純忠」と「大膳純景」の二人が登場するが、両者の関係は「純景の養子」が「純忠」であるので、「純景―純忠(養子)」と並べることができる。同じ官途名「大膳」を冠していることから、皆吉家の本家を相続した次男「大膳亮純政」の家系につながるものと考えられる。また、これら三者が同じ「純」の共通字を持っているのは、主君・有馬直純に仕える家臣であり、その偏諱を受けたものであろう。

 養子・大膳純忠が古賀城主・山田氏の家系になる者であることは、彼の母が「与志子」であり、その夫が「有馬長兵衛生純親」であること。そして同じく『国乗遺聞・巻三』の記事に「有馬長兵衛純親」は「古賀城主・山田兵部少輔(の)…三代孫・有馬長兵衛純親」とある。つまり、(古賀城主)山田兵部少輔―…有馬長兵衛純親―大膳純忠、とつながる山田氏系譜の人物であった。なお、山田氏は有馬家から分家した有馬一族である。

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