2015年7月8日水曜日

桑姫御前は「マダレイナ清田」か①

 桑姫をマセンシア(大友宗麟の娘テクラの娘)とする片岡氏の仮説に異議を唱える理由は、他にもある。「―御前」(一般には貴人または夫人を意味する)と称された桑姫を、独身のキリシタン修道女とすることに些かの違和感があること。「桑姫」の名の由来とされている養蚕との係わりの伝承が、十代の若い修道女で、かつ病に倒れるほど修道に打ち込んだ少女マセンシアにそぐわないこと。没年「寛永4年」が、明治に至るまで命日の「8月7日」とともに明記して伝承されたこと、などである。
 とくに没年にかんしては明治33年(1900)、淵神社境内の桑姫社の旁らに建立された由来を記した石祠に「寛永四年八月七日没」とあるなど、年月日に固執した様子さえ窺われる。逆に言えば、そこまで明確に記録して後世に伝えられた「桑姫の没年月日」こそが、彼女を特定する有力な証拠資料になる可能性があるのだ。
 回りくどい説明は省略することとしよう。
 筆者が突き止めた桑姫の真の正体は、じつに彼女の「没年月日」が決め手になった。それは、「1627年8月17日(=寛永4年7月7日)」、長崎は西坂の刑場で火炙りにより殉教した「豊後のドン・フランシスコ大友宗麟の子孫たる日本人寡婦マダレイナ清田」(註)である。(つづく)
 
 ※註=同日殺された殉教者は、フランシスコ会とドミニコ会の司祭・修道士、一般信者あわせて18人。「ある者は残忍な猛火で、ある者は鋭い刀で殺された」。マグダレナ清田はドミニコ修道会第三会所属の信者であった。史料『日本の聖ドミニコ―ロザリオの聖母管区の歴史―』(1990/ロザリオ聖母管区本部)によると、ドミニコ会信者の殉教者は、ほかにカヨ治左衛門(高麗人)、筑後のフランシスコ九郎兵衛、レオン(日本名不明)、高麗人寡婦フランシスカ・ピンゾケレの息子アントニオ・メンコソらがいた。なお洗礼名「マダレイナ」は「マグダレナ」と表記されることもある。前掲史料の註に「マダレナ清田」とあることから、筆者はこれを採った。

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