2015年7月13日月曜日

桑姫御前は「マダレイナ清田」か⑤

 見てきた通り、殉教者マダレイナ清田を大友宗麟の長女ジュスタの娘であると仮定して、彼女の生年(1570頃)から殉教死(1627)に至る事蹟と、それらを取り巻く客観事象が矛盾なく説明されることがわかった。それは同時に、「桑姫」を重ねての考察でもあった。

 最後に、志賀家の伝承において、史実と一致しない二点について述べたい。「宗麟の孫娘」であるマダレイナ清田を「義統の二女」としてきたことと、命日(殉教日)のこと、である。
 前者については、母ジュスタが大友義統の支配下にあった清田家に嫁いでいるので、清田家の主君であった宗麟の子・義統を取った、と考えられないであろうか。伝承における誤差の許容範囲とみたい。また、キリシタン色をできる限り払拭しなければならなかった江戸時代、キリシタン大名としてその名が知られた父宗麟よりも、政治的失策で失脚した子義統の娘とする方が都合がよい、とする心理も働いたものと思われる。
 
 ◇7と8が東西で交錯?
 後者の没年については、「西暦1627年8月17日」、和暦で「寛永4年7月7日」がマダレイナ清田の殉教日であった。これに対し、志賀家が記念するその日は「寛永4年8月7日」である。1627年(寛永4年)では一致しているものの、日付けが正確ではない。それは、たとえば七夕(たなばた)祭りが陰暦7月7日であるのに、実際は8月7日に実施する習慣があることと似ている、と言えないだろうか。これも、許容される誤差とみたい。
 ちなみに、マダレイナ清田が教皇ピオ9世によって列福されたのは「西暦1867年7月7日」である。和暦の殉教日「7月7日」と重なっているのは偶然であろうか。7と8とが東西で微妙に交錯しあっている。

 「桑姫御前」は、「寛永4年」に殉教した大友宗麟の孫娘「マダレイナ清田」とみて間違いなさそうだ。
天保8年(1837)、大友家遺臣らが長崎淵村尾崎竹の久保に建立した「大友家桑姫御前塚」(「長崎名勝絵図」)。明治33年に建てた記念の石碑に「奉納桑姫君。寛永四年ヨリ尾崎地(に)安座致し、春秋ニ御祭礼致す」とあるので、それ以前、マダレイナ清田(桑姫)を秘かに祭り、殉教の遺徳を偲ぶ行事を「寛永4年(1627)」から春秋、継続していたものと思われる。

 

0 件のコメント:

コメントを投稿