2015年7月12日日曜日

桑姫御前は「マダレイナ清田」か④

 ところで、「大友宗麟の家系に属する子孫」とされるマダレイナ(マグダレナ)清田の系譜上の位置については、一次史料にも記録がない。そこで『16-7世紀イエズス会日本報告集』(第Ⅰ~Ⅲ期15巻・1987―94年・同朋社出版)によって、「マダレイナ清田」の系譜を探ってみたい。
 
 ◇清田一族と殉教者「マダレイナ清田」
 清田氏は、先祖が大友家につながる戸次(へつぎ)氏の分家筋にあたる。豊後国の「国衆(くにしゅう)」と呼ばれる「主要な殿の一人」であった。所領地は当時「清田」(現大分市判田一帯)と称され、臼杵にいた宗麟の隠居領ではなく、息・義統(よしむね)の配下の本領に属していた。
 宗麟と時代をともにしたのは1578年、カブラル師によって受洗した清田鎭忠である。宗麟の娘ジュスタ(元一条兼定室)と結婚し、ために「義統侯御姉婿」とも称された。
 夫妻には「男の子がなかったので、ドン・パウロ(志賀親次)の兄弟を養子にした」、と「1586年度年報」は伝えている。―そうであれば、清田鎮忠の跡を嗣いだ「ドン・ペドロ鎭乗(寿閑)」は志賀家の出身であったことになる。後日、長崎淵村庄屋志賀家と清田家が運命をともにする縁を、ここにも確認することができる。
 清田鎮忠は1585年当時、「盲目で重病を患っていた」(「1585年8月20日づけ、スイス・フロイスの書簡」)。
 1586年12月、豊後国が島津氏から攻められたとき、鎭忠は多くの大友氏配下の家臣・領主と同様、島津方に味方した。その廉により翌1587年、豊臣秀吉から所領を没収され、一時期「ある場所で貧しく暮らしていた」(「1588年度年報」)。このあと、間もなく長崎に避難・移住したと思われる。
 一方、鎭忠本家を嗣いだ養子ドン・ペドロ(志賀)鎭乗の一族は細川家に仕えた。細川忠興の後室に迎えられた「幾知(圓通院)」は、ドン・ペドロ鎭乗の娘である。
 
 清田鎭忠の娘については、宣教師の記録に2人登場する。ひとりは「2歳くらい」で病にかかり夭折した(「1578年10月16日付、ルイス・フロイスによる書簡」)。他のひとりの「長女」は1580年に受洗した(「1580年度年報」)。この「長女」こそが1627年8月17日に長崎で殉教した「マダレイナ清田」であろう。
 マダレイナ清田は、殉教した1627年当時、「58歳」であったから、1570年頃の生まれとなる。だとすれば、マダレイナの父親は清田鎮忠ではなく、母ジュスタの前夫・一条兼定であろう。つまりは母ジュスタ(宗麟の長女)の「連れ子」であった。1580年、10歳で受洗し、その後嫁いだものの「寡婦となり」、おそらく1600年前後、長崎に移住した実母ジュスタを頼ったであろう。

 キリシタン迫害が本格化した1614年以降、ほとんどの信者が「転び」、そしてドミニコ会、フランシスコ会など托鉢修道会所属の信者として「立ち上った」。マダレイナ清田もドミニコ会所属の信者として再改宗した一人である。1620年、親族のシモン清田卜斎(鎭忠の義兄弟)・マグダレナ夫妻が小倉で殉教したことが機縁となったであろうか、彼女は荘厳誓願を立て、修道女の道を選んだ。
 宗麟の血を引く一族には、数えきれないほどのキリシタンがいる。その中で殉教の栄に輝いたのは「マダレイナ清田」のみであろう。ちなみに殉教者・シモン清田卜斎とその妻マグダレナは、宗麟の血を引いていない。
 マダレイナ清田は、宗麟―長女ジュスタ―孫マダレイナ清田とつづく、宗麟直系の「孫娘」であった。それゆえ、大友一族にとっては「―姫」であり、殉教の栄冠を戴いた「天女」であり、後世幾百年も「奉(まつ)り」讃えられるにふさわしい、特別な存在であったと考えられる。(つづく)
長崎淵村庄屋志賀家とその一統・旧大友家遺臣が「桑姫君」すなわち「マダレイナ清田」の遺徳を偲び文政12年(1829)、宝珠山萬福寺(現淵神社)境内に建立した「天女廟碑」


 
 
 
 
  

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