2015年11月22日日曜日

誤解された島原の乱の「立上り」―島原の乱を解く②

 島原の乱事件(1637―38)は、一般には「圧政に対する反乱」と解釈されている。なかには当時の古文書記録に拠り、「立上り」を言う人もいるが、それでも何故か「反乱・蜂起」と誤解していることが多い。
 日本語の「立上り」は、それだけを取り出すとたしかに「反乱・蜂起」の意味がある。しかし、「島原の乱」事件(1637―38)における「立上り」は、その謂いではなかった。前提として「転び」すなわちキリシタン信仰を表面的・一時的に棄てる行為があり、それに対する「立上り」を言うのであって、元のキリシタン信仰の状態に戻ることを意味する言葉であった。別の言い方をすれば、「きりしたん作法」に基づく、信仰行為に他ならない。
 籠城キリシタンの矢文(「城中より御陣中」宛矢文」)に出てくる「右の仕合(しあわせ=事の次第)、きりしたんの作法に候」と言うのは、それを指している。
 
 同事件を誤解する言語上の問題として、他にも「召し出され候」、「召し抱えられ候」というのがある。いずれも「矢文」に記される言葉である(註)。彼らキリシタン信者からすると、これは「神による召命」を意味する。しかし、異邦人である日本人にとって、その意味を理解することは困難である。
 「神による召命」とは、人間の意志を超えた力、デウスの力によって動かされ、選び出されることである。このような神体験、聖霊体験をすると、往々にして心に火がついたような状態になることがある。原城の籠城キリシタンが射出した矢文に、「かねての思い立ち、少しも御座無く候。不思議の天慮(てんりょ=神の配慮)計り難く、総様この如く燃え立ち候」とあるのが、これに当たる(「正月19日、細川越中様、御陣中衆御中」宛て矢文)。
 「召し出され候」、「召し抱えられ候」転びキリシタンの「立上り」とは、神霊の役事、聖霊の役事を伴う神の御業(みわざ)、「不思議の天慮」なのであった。

 原城に籠城した「立上り」キリシタンは一貫してこのような趣旨を幕府軍に伝えようとしたが、一方、キリスト教の神も聖霊も知らない幕府軍が「きりしたん作法」としての「立上り」を理解することは困難であったと見られる。キリシタンたちは、いくら説明しても分かってくれない幕府に対して、「半理(=半分の理解)の様に承(うけたまわ)り候」(前掲史料)と言っている。
 島原の乱事件の本質を、キリシタンでない日本人が理解し得ないのは、今に始まったことではなかったようだ。

 【註】…史料『四郎法度書』に、「各別(格別)の御慈悲を以て、此の城内の人数に召し抱えられ候」。また『岡山藩聞書』所収の「加津佐寿庵廻文」に、「我等の儀、召し出され候者にて候」とある。
 
 
 
 


 
 
 
 
 

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