2024年6月20日木曜日

佐伯・天徳寺の大友宗麟墓碑①

 ■はじめに―宗麟墓碑の変遷

 豊後国の国主・フランシスコ大友宗麟(1530-1587)の逝去とその葬儀、墓地等について、彼の聴罪司祭であったフランシスコ・ラグーナ師は詳しい報告書を書いた(註1)。それによると、彼の終焉の地は津久見。1587年6月28日(聖霊降誕後の第6主日)に昇天し(註2)、葬儀ミサが3日後の7月1日(水曜日)、宗麟邸近くの教会(=天徳寺)で営まれ、亡骸は邸宅の庭に拵えられた墓地に埋葬された。

 同墓碑は当初、キリスト教式のものであったが、同年7月24日、秀吉がバテレン追放令を公布したため、息子義統はこれを仏式に改めた。この仏式墓碑は約25年間、1613年まで存在した(註3)。そして1614年1月(慶長13年臘月)、徳川幕府が発布したキリスト教禁止令により破壊された。津久見の『解脱闇寺年代記』に「慶長19年2月2日、宗麟の墓堂が焼失した」とあるのは、禁教令に伴う破却を裏付けるものである。

 その後約190年間、同地に宗麟墓碑はなかった。宗門改めと檀家制度により禁教弾圧政策が徹底されたことに加え、キリシタン本人とその類族については一定期間(5代)、厳しい監視下に置かれたためである。その縛りが解けた頃、すなわち寛政年間(1789-1801)に臼杵城豊なる宗麟家来の子孫が自費で墓碑を新調し、津久見の「天徳寺御林之内」に建立した(註4)。これが今日、津久見市大字津久見字ミウチに確認される再建された宗麟墓碑である。そこに刻まれた墓碑銘―「(正面)瑞峰院殿前羽林次将/兼左金吾休菴宗麟大居士(右側)天正十五丁亥年五月廿三日/春秋五十有八歳(左側)九州二島幷伊豫管領/従四位下兼左近衛少将/大友左衛門督源義鎮」は、破壊される前のその写しと思われる。

もう一つの宗麟墓碑

 ところで津久見の宗麟邸故地から南に約15㌖ほど隔てた佐伯市堅田に天徳寺と称する臨済宗妙心寺派寺院があり、そこに大友宗麟の墓碑なるものが存在する(註5)。それはキリスト教が禁止された藩政時代を通して、明治以降も戦前まで隠されてきたもので、これを最初に紹介したのは津久見在住の増村隆也氏が1954年(昭和29)、大分県地方史研究会の機関誌『大分県地方史』(創刊号、1954年10月25日発行)に発表した稿「大友宗麟の墳墓に関する研究」であったと思われる。

 筆者がこの稿に接したのは、佐伯市宇目にある「るいさ」銘キリシタン墓碑を調査した頃、2018年のことであった。イエズス会が幕府の禁教弾圧に対処するため、豊後国「なんぐん(南郡)」にコングレガチオ信心会を組織して宣教師を匿っていた事実。その女性指導者であった「るいさ」(殉教者加賀山隼人の妹=註6)と、宣教師たちに「イチノカミドノ」と呼ばれ信心会を保護していた佐伯城主・毛利高政とが緊密な関係にあったこと(註7)など、佐伯地方の特殊なキリシタン史を把握していた筆者にとって、高政の領地に禁教時代、大友宗麟の御霊が秘かに祭られていたという史実は、矛盾する話ではなかった。すなわち佐伯の「殿」毛利高政は当時、「かくれのキリシタン大名」とも言える存在であって、「豊後国なんぐん」に秘密の潜伏キリシタン信心会が組織された時、その「保護者」となったのであり(註8)、仮に宗麟のかくれ墓碑が豊後国内に存在するとすれば、彼の領内以外には有り得ないのである。
 増村氏は稿「大友宗麟の墳墓に関する研究」および「大友宗麟と臼杵・津久見・佐伯」(『大分県地方史13-16号』1958年)で、天徳寺の伝・大友宗麟墓碑は津久見から信者が秘かに持ち込んだ宗麟の墓碑であった、と言っているが、その点は頷けない。何故なら、天徳寺の墓碑には寛政年間に再建された仏式墓碑にもあるような宗麟の墓碑銘が刻まれていないからである。大名の墓碑にしては造りが小さく、一見して、潜伏キリシタン墓碑の印象があった(詳細は後述する)。
 この謎を解明するため、筆者は以後数年にわたり佐伯に足を運び、併せて同地域に存在したかくれキリシタンたちの遺物を求め、訪ねた。案の定、この宗麟墓碑に似た小規模の伏せ碑型キリシタン墓碑が周辺に散在していることが判明した。今、一通りの見通しがついたので、その報告書を記してみたい。(つづく)

 註1…ラグーナ師の報告書の原文はローマ・イエズス会文書館に保存されていないが、ルイス・フロイスが『日本史』に転写している。フロイス『日本史』第27章(第二部95章)。

 註2…宗麟の死去日は大友家史料系図によると「天正15年5月23日」とある。西暦では1587年6月28日であり、一致する。

 註3…レオン・パジェス『日本切支丹宗門史』1613年の項に、「彼ら(アウグスチイノ会)は切支丹の数が増加したため、豊後の大名ドン・フランシスコの墓の所在地であり、なかなかに繁華な津組(=津久見)の町に天主堂を建てることにした。」とある。アウグスチイノ修道会の宣教師は1613年時点で、津久見の大友宗麟墓碑を目撃していた。

 註4…文化3年(1806)津久見村組の「改明細帳」に「一、大友家之墓所壱ケ所、但天徳寺御林之内」とある。「天徳寺御林」は天徳寺所有の山林。

 註5…「天徳寺」は宗麟が晩年(1585年?)津久見邸の近くに建てたキリスト教会の名称であった。藩政時代を通じてキリスト教会の名称は「南蛮寺」「切支丹寺」などと呼ばれ、「寺」は「教会」を表す文字としても使用された。また、受洗してキリシタンとなった宗麟自身(の姓)を表すものでもあった。

 註6…本ブログ稿「キリシタン加賀山一族関系図」(2019年10月8日記)参照。イエズス会は「1615年度年報」で、豊後国(「なんぐん」)の「加賀山ディエゴ隼人の姉妹ルイザという名の身分の高い女性」の信心行動を、「コングレガチオ(信心の組)」の一事例として紹介している。

 註7…本ブログ稿「欧文史料で読み解く豊後宇目のるいさ」(2018年6月5日~6月22日記)参照。

 註8…イエズス会が禁教時代に組織した信心会に関する指導書―パアデレ・ジェロニモ・ロドリゲスが作った掟「日本のきりしたんだあでに於ける我等が御上天のさんたまりやの御組」(1944年刊『キリシタン研究第二輯』所載)に、「此の組は…小組、大組および親組」から成り、小組の「親は力を協せて大組並びにその属する親組を導くものなり。然れど親は常に各々の親組が保護者、即ち殿、またはその権威および恩恵を以て此の聖き業を保護し奨励し得る高貴なる人を有するべく心がくべきなり。」とある。佐伯城主毛利高政は「親組」である豊後国「なんぐん」信心会の「保護者」として迎えられた「殿」であった。


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