2015年3月30日月曜日

日本人キリシタンと桜の花

 
オラショに「桜花が散るやな~♪」


 キリシタン大名有馬晴信が晩年、黒船グラッサ号撃沈と、それに続く賄賂に絡む岡本大八事件、長崎奉行長谷川左兵衛暗殺計画などに係わり、甲州山梨県の初鹿野(はじかの)で死を遂げた謎は、長年、キリシタン研究家の課題であった。それまでの模範的とも言える前半生の信仰生活に比べ、キリシタンらしからぬ最後の行動との、あまりに激しい落差が理解し難いためである。
 筆者は2011年暮れから翌年1月にかけ、日本人のこころ―武士道精神を重ねることでこの史的問題を解釈し、あわせて島原半島のキリシタンが「花十字」を好んで墓碑に彫刻した心理を、逆説的に読み解いたことがあった。つまり、日本人キリシタンは死に対して「桜の花が散る」イメージを合わせ持っていた、ということである。

 それ以前、「花と散る」死を美化する日本人の生き方は、ごく近い時代の、戦前・戦中に形成されたものであろうとの、漠然とした認識があったので意外であったが、戦国・織豊時代から近世初期にかけて生きた日本人キリシタンの多くが理想的生き方として「桜の花」をイメージしていた事例も、また意外に多くあった。
 細川ガラシャの歌「散りぬべき時知りてこそ世の中の 花は花なれ 人は人なれ」しかり。生月島のかくれキリシタンが殉教者サン・ジュワンを讃えて、「この春は この春はなあ 桜花かや 散るじるやなあ また来る春はな つぼむ(蕾)開くる花であるぞやなあ」と歌オラショに唱えたこと、しかり。原城に結集した島原・天草の「立上り」キリシタンもまた、死ぬ時を「地主の桜の盛りの頃」(矢文)と決めていた。彼らが「花」と散った落城の日は寛永15年2月27~28日、西暦で1638年4月11~12日、桜の花が咲き、散る季節であった。

 きょう(2015年3月30日)、島原は桜の花が満開だ。

 

 

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