2022年11月10日木曜日

カタリイナ永俊③

 ■有馬氏の代官・皆吉氏「東殿」

 島原半島の有馬庄を本貫とする戦国大名有馬氏は、不受公・第十代晴純(仙巌)の時代に彼杵郡・藤津郡・杵島郡を領有し、さらに三根・佐賀・神崎郡をも支配下に入れて最大版図を獲得した。その後、佐賀の龍造寺氏が勢力を巻き返し、11代義貞、12代義純は戦に明け暮れた。そして13代晴信に至っては、味方の領主らの敵方への寝返りもあって、旧来の領地さえも蝕まれていた。窮地に陥った晴信は天正8年(1580)、受洗してイエズス会と連携し、さらに島津氏の支援を請うに至った。龍造寺との最終決戦となったのは天正12年(1584)、沖田畷の戦である。ほとんど勝算はなかったものの、海上から船で攻撃に加わったイエズス会提供の大砲が威力を発揮し、奇跡的勝利を収めた。それでも藤津郡など旧領地の回復が叶わなかったのは、沖田畷戦が島津対龍造寺の戦であって、有馬氏単独の勝利ではなかったこと。そして、島原半島北目が島津氏支配下に置かれたことに拠る。3年後の天正15年(1587)、秀吉の九州討征により島津氏の支配は解けたが、それでも祖父晴純が領有した佐賀の藤津郡の回復ができなかった。秀吉の同地に対する朱印状は、龍造寺本家の家督を継いだ政家の手にあり、晴信側にはまだ相応の力がなかったのだ。藤津郡奪回の試みはこのあとも継続された(註1)

 こうした戦国時代における有馬氏側の事情を見ていくとき、かつて「高来郡東郷と佐賀郡西泉の地頭職」にあった御墓野(のちの皆吉・東)氏が、有馬氏に帰属し、晴信時代には「有馬の最上位の代官」として重用された理由が頷けよう。外山幹夫氏(1932-2013)は著書『肥前有馬一族』(1997・新人物往来社発行)で、「有馬の地には東殿・西殿といわれる二人の代官がいて統治していた。…その地位はフロイスによれば〃身分の高い貴人〃であり、〃有馬の最上位の代官〃であった。」と記している(同書119頁)。二人の代官「東殿・西殿」のうち「東殿」が「皆吉氏」である。名前は「(東)権左衛門」。「皆吉久右衛門續能」の子であり、カタリイナ永俊の兄弟になる人物である。

■晴信の養女として行長に嫁いだカタリイナ

 有馬氏の「最高位の代官」皆吉氏一族の女性であるカタリイナが、キリシタン大名有馬晴信によってどのような扱いを受けたのだろうか。有馬氏の史書『國乗遺聞』には、皆吉續能の女(カタリイナ)が晴信の「養女」として記録されている(註2)。同書「巻之二、公子公室」の「晴信公」の項、「七公子」の記載のあとの次のくだりである。

 「御養女、御系譜記載セズ。/實皆吉久右衛門續能女。晴信公御養女トシテ小西摂津守行長。…

 「皆吉久右衛門續能の女」すなわちカタリイナが、小西行長の夫人であるというのは、「薩藩旧記雑録後編」所収の文書にも藩史局編者の見解として記されていた。有馬家の史料『國乗遺聞・巻之二』はそれが史実であることを証明してくれるものである。

 それだけではない。「皆吉久右衛門續能の女。晴信公の御養女として小西摂津守行長に嫁す」という一文は、カタリイナと小西行長との結婚が、キリシタン大名有馬晴信によってなされたことを意味するものである。つまりは、カタリイナはキリシタン大名小西行長と有馬晴信とを繋ぐ絆としての標(しるし)であったのだ。こうした背景が「1624年度年報」に見るような、弾圧の嵐の中にあって島津の藩主や家老たちの前でも怯(ひる)まない、信仰を敢然と表明する強い女性たらしめたのであろう。(つづく)

有馬氏最大勢力時代の領域図

註1】…晴信の藤津郡奪還の執念はこのあと、イエズス会の意図と重なって展開される。それは、薩摩国川内の京泊教会を経て1606年に佐賀・藤津郡に進出したドミニコ修道会を〈秘かに〉排斥するものであり、具体的には、①長崎港沖での黒船爆沈事件、②幕府の役人岡本大八を介する賄賂による藤津奪回の企て、③そして、大八の密告による晴信らの長崎奉行暗殺計画暴露事件へとつながり、最期、晴信の命取りとなった。拙著『ドン・ジョアン有馬晴信』第二章「一味同心・岡本大八事件」参照。

註2】…『國乗遺聞』は有馬氏研究の必須史料。近年、福井県文書館に「デジタルアーカイブ」としてその複写史料が保管・公開されるようになった。


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