2022年11月7日月曜日

カタリイナ永俊①

 ■1624年度イエズス会日本年報

 慶長18年臘月23日(西暦1624年2月1日)徳川幕府が発布したキリスト教禁止令「排吉利支丹文」は、元和年間に入って徹底され、同5年(1619)京都の鴨川六条河原で52人が火炙り刑。同8年(1622)には長崎の西坂刑場で55人が火炙りと斬首刑に処せられ、翌元和9年(1623)には江戸品川の札の辻で50人が同じく火刑によって殺された。それは将軍秀忠の大名に対する暗黙の指令であり、これを受けて全国各地でキリシタンの捕縛・処刑が相次いだ。キリシタン信者が公然とその信仰を表白できない時代であった。

 ところが薩摩国鹿児島藩に、それでもキリシタン信仰を敢然と公言して憚らない女性がいた。カタリイナ永俊(1575-1649)である。彼女について多くを語っていないイエズス会文書が、「1624年度日本年報」で、珍しくその状況を詳しく伝えている。家老職であったカタリイナの娘婿(喜入忠政)が度々、使いの者を遣ってカタリイナの信仰を糺してきたので、煩わしく思ったカタリイナは自ら家老たちの前に出向き、「自分はキリシタンである。どんな理由があろうとキリストに対する信仰を決して棄てようとは思わない。」―そのように断言したというのだ。以下に原文を記す。

 「薩摩でキリシタンの中心になっていたのが、その国の君主(島津家久)の姑であるカタリイナという名の女性で、彼女は熱心に説いて回って聖なる信仰を弘めていた。彼女は挑発を受けたことが二度あった。一度目は仏僧たちからで、彼らは様々な迷信や祈祷の札を持ち出して、彼らの戒律に彼女を引き込もうとした。二度目は、江戸で迫害が起こっていた時期に、彼女がキリシタンであるかを知るために、彼女の娘婿によって遣わされた者たちによってである。最初の時は簡単にそれに打ち勝って、彼らを断固として追い返した。二度目には方々から多くの使者に押し掛けられるのが煩わしくて、彼女の娘婿がこの国の高い地位にある多くの者たちと一緒にいることを確かめると、彼を訪ねに出向いて、皆のいる前で臆することなく、自分はキリシタンであり、どのような理由があろうともキリストに対する信仰を決して棄てようとは思わないと言った。すると異教徒である娘婿もそこに居合わせた他のすべての者たちも、女性にそのような大きな勇気のあることに驚嘆し、それ以上彼女を煩わせることは止めてしまった。(註1)

 レオン・パジェスは『日本切支丹宗門史』の「1624年」の項で、「薩摩では、大名の義母カタリイナはあらゆる懇願に耳をかさなかった。聟(むこ=娘婿)は彼女の思うままに任せていた。」と、「日本年報」を要約して記している。ここに出てくる「聟」「娘婿」は、カタリイナの連れ子・妙身(実は前夫・小西行長との間の娘)の夫・喜入忠政(鹿籠の領主=島津藩大家老)である。カタリイナにはもう一人「娘婿」がいる。島津忠清との間に生まれた娘・桂安の夫・島津家久(鹿児島藩初代藩主)その人である。藩主家久から言えばカタリイナは夫人の母(姑)になる。宣教師がこの年報で言うカタリイナを挑発した「娘婿」は、文意から判断して家老職の喜入忠政であるが、彼にその旨を指示したのはもう一人の「娘婿」すなわち藩主・島津家久であったようだ。

 家老はもとより藩主もカタリイナのキリシタン信仰を「思うままに任せ」ざるをえなかったという、その女性(1624年当時46歳)は、たしかに普通の女性ではない。地位・立場からして大名に匹敵するような系譜的背景を持った人物であった、と見なければならない。(つづく)

【写真】崇伝によって起草された「排吉利支丹文」冒頭部分(毛利家文庫)

 【註1】…結城了悟氏は著書『鹿児島のキリシタン』(1975年初版、1987年改訂版)で、イエズス会が鹿児島のカタリイナについて記録したのはただ二つだけであるとして、「1616年、マテウス・デ・コウロスによって書かれた年報書簡」(長崎・1617年2月22日発信、Jap-Sin 58. 437-38)とともに「1624年の年報書簡」を紹介している。後者の「1624年の年報書簡」は、筆者が今回掲げた「1625年3月28日付、マカオ発信、ジョアン・R・ジランのイエズス会総長宛、1624年度日本年報」とは異なる別文「ジョアン・R・ジラム、マカオ・1625年3月18日発信、Jap-Sin 58. 437-38. 344-344v;460v.」である。要約文となっている。


0 件のコメント:

コメントを投稿