2017年11月30日木曜日

「桑姫」再考―その②―

 これまで、桑姫社はキリシタンを祀る神社として、その特異性が強調されてきた。ところが、『志賀家事歴』や『長崎名勝図絵』が伝えるところの長崎奉行竹中采女正重興と「大友家姫君於西御前」との密な係わりは、「大友家に御由緒なられる」という当時の封建的武家社会における価値観に依拠するものであった。
 『志賀家事歴』はまた、長崎に移住した志賀宗頓親成(別名「ゴンサロ林与左衛門」)が、長崎奉行に抜擢された豊後国府内城主・竹中采女正によって淵村庄屋職に指名されたこと。長崎において竹中采女正と懇意になっている志賀宗頓が「大友家の御姫於西御前」を「御介抱申し上げ」たこと、などが記されているが、これらも同じく「大友家の由緒」に基づく行為であった。
 詰まるところ、竹中と桑姫、桑姫と志賀、志賀と竹中の、いずれの関係も〃大友家由緒〃によるものであることが判明する。
 
 ■大友家由緒とは何か?
 それでは「大友家由緒」とは何であるのか。具体的に言えばそれは、かつて九州6カ国の守護大名であり、禅宗とキリスト教の深い精神修養による独自の宗教哲学をもって戦国時代を生き抜いた豊後国国主・大友義鎮宗麟(1530―1587)との「由緒」であるに相違ない。彼は島津との戦(いくさ)の途次、志なかばにして逝ったが、その徳政と時代に果たした功績は歴史の中に浸透し、遺った。
 竹中采女正重興の父・重利が豊後国国東郡高田に1万3千石で大名に取り立てられたのは、宗麟の息子義統が秀吉によって排斥された直後の文禄3年(1594)である。関ヶ原戦では東軍に舵取りした黒田官兵衛如水に附いて所領を安堵され、続いて豊後府内城主(3万5千石)になった。重利・重興父子は、あるいは黒田官兵衛如水を介して大友宗麟の遺徳に預かったことと思われる。―そうでなければ、寛永年間、長崎奉行となった竹中采女正が「大友家の御由緒なられる」として「大友家の御姫於西御前君」の孤寂な晩年を聞こし召され、わざわざ「時服、御酒、御肴、白米30俵」を進上されることなどなかったはずである。

 以上、「大友家由緒」の視点から考察される「桑姫」は、大友宗麟亡き後の主家大友家を代表し、代理するような立場にあった女性でなければならないであろう。(つづく)
「竹中氏、大友家に御由緒なられ(て)御座候由」とある『志賀家事歴』(部分)



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