2017年12月1日金曜日

「桑姫」再考―その③―

■大友宗家を代表する「姫」とは誰か
 大友宗麟の一族で、豊後国を逃れ、長崎に避難・移住した女性は複数いる。以下に挙げてみる。

 ◇宗麟の長女ジュスタ
 元土佐国主一条兼定の室。1575年ごろ、清田鎮忠の後室になった。夫鎮忠は1587年、島津の豊後国攻撃のとき(父宗麟が死去し)「敵側に肩入れした」廉で義統により所領を没収され、夫婦ともに豊後を追われ、一時期、「ある場所で暮らしていた。」(1588年度イエズス会年報)。「ある場所」とは、『肥後国細川藩拾遺・新肥後細川藩侍帳』にある「(肥後国)菊池郡源川(深川)」と思われる。この時、娘夫婦(婿は養子=ドン・パウロ志賀親次の兄弟・浄閑(寿閑)清田鎮乗)と、その娘夫婦が介抱していた「女子一人、男子一人」の幼子二人を連れていた。
 鎮忠・ジュスタ夫妻は、間もなく「肥前国長崎」に移り「牢居」。夫・鎮忠は同年「11月23日、58歳で病死」した(「清田総領家伝来系図」)。ジュスタは寡婦となり、寛永4年(1627)8月7日逝去した。長崎で39年、暮らしたことになる。

 ◇マグダレナ(マダレイナ)清田
 イエズス会より半世紀遅れて来日したドミニコ修道会が、殉教者マグダレナ清田について「豊後国主フランシスコ大友宗麟の家系に属する子孫である」と記録している。「宣教師たちを自分の家に泊めた理由で、1627年(寛永4)8月17日。長崎西坂において生きながら火炙りの刑に処せられた」。筆者が先に、彼女の殉教日を根拠に「桑姫」と推定した人である。
 イエズス会の諸記録から見て、宗麟の長女ジュスタ(清田鎮忠夫人)の娘(実は連れ子)と判断される。迎えた夫は志賀家からの養子「ドン・パウロ志賀親次の兄弟」寿閑清田鎮乗である。1587年(天正15)、義父母とともに豊後国を脱出し、菊池郡源川(深川)に避難した。加藤家・細川家に仕え、「切支丹類族」として監視下に置かれた。晩年―消息は不明だが―「夫の死後」、母ジュスタと夫の兄弟である志賀宗頓親成、親勝(親次の子)が里正(庄屋)となっている長崎に移り、「ドミンゴ・カスレット神父によって聖ドミニコ信徒会員として受け入れられた」。1627年8月17日、宣教師を匿(かくま)った廉で死刑に処せられた、と思われる。

 ◇宗麟の正室ジュリアその娘
 イエズス会の1596年度年報に、「ジュリアは(1595年当時)筑後の領域に逃れていた。…14歳になるひとりの娘がともにいた。…その後、母娘は長崎に至った。」とある。
 ジュリアは、大友宗麟が受洗した1578年、前妻イザベルを離縁して正式に婚姻の秘蹟を結んだ宗麟の正室―実は宗麟の次男親家の嫁の母(林姓)―である。1595年「14歳になるひとりの娘」は1581年生まれであるので、宗麟とジュリアとの間の「御姫」であった。

 ◇志賀宗頓親成の室コインタ
 コインタは、宗麟の正室ジュリアの連れ子で、元は「林」姓。ドン・パウロ志賀親次の兄弟・宗頓親成の室となった。夫志賀宗頓は林与左衛門(洗礼名ゴンサロ)とも名乗った。
 志賀宗頓は長崎淵村庄屋となった志賀家の「始祖」とされる。史料『志賀家事歴』によると当初、柳川立花家を頼り、のち肥後八代を経て「長崎に罷り越した」。コインタ夫人は、夫志賀宗頓とともに長崎に至ったものと思われる。

 ◇宗麟の次女テクラの娘マセンシア
 片岡弥吉が「桑姫」として想定した修道女である。イエズス会「1605年日本の諸事」に、「豊後のフランシスコ(大友宗麟)の子孫のうち、一人の孫娘、すなわち娘の娘が長崎の市(まち)に暮らしていた。彼女の父親は公家(久我三休)であった。…彼女は祖母と他の親戚たちとともに追放されてきた。祖母は血縁から言えば祖母ではなかったが、…その愛においては祖母であった。」と紹介している。「血縁から言えば祖母ではなかった」祖母とは、宗麟の後室ジュリアである。純粋なキリシタン信仰をもち、1605年、18歳で病死した。

■「桑姫」は宗麟の長女ジュスタである
 この中で、「大友宗家を代表する御姫」とは誰か。血筋を重視するなら、宗麟の血を直接引く女性(宗麟の娘)がふたりいる。長女ジュスタと、室ジュリアの娘である。このうち、キリシタン信仰という要素を除外して、長崎奉行竹中采女正から「大友家の由緒」である理由によって進物を受けるにふさわしい人物という条件を付すなら、ジュスタをおいてあり得ないだろう。(つづく)

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