2017年12月12日火曜日

「桑姫」再考―あとがき―

 筆者は2015年、「桑姫」を「マセンシア」とする従来の定説に疑問を抱き、代案として「マグダレナ(マダレイナ)清田」説を提示する小論を書いた(本ブログ記事「桑姫御前はマダレイナ清田か?」全7回参照)。それは、「桑姫・御西御前」の死亡年「寛永4年(1627)8月7日」と、「マグダレナ清田」の殉教年「寛永4年(1627)8月17日」とがきわめて近いことを根拠に、イエズス会史料をもとにマグダレナ清田を割り出し、清田鎮忠の後妻となった大友宗麟の長女ジュスタの連れ子とするものであった。
 あれから2年余、この問題をさらに考察・思案するなか、一つの気に掛かる情報を得た。「阿西(於西・御西)御前は大友宗麟の長女ジュスタ」であるとの某記事である。それは清田家研究者が書いたものであったが、清田氏関係文書にそれが存在するとの確証は得られなかった。
 その一方で、『志賀家事歴』(文政4年・志賀親籌筆)の記録を再読しながら、「於西御前」が「大友家の姫」であること。これと同時期(1821年)に記された『長崎名勝図絵』(饒田喩義編著)に「桑姫はもと豊州の太守大友宗麟の女なり、阿西(おにし)御前と称す」の記事があることがわかり、「桑姫・御西御前」を「マグダレナ清田」とした自説は見直しを余儀なくされた。
 また、他の一つの視点―すなわち封建社会的価値観から見て、キリシタンを弾圧した長崎奉行・竹中采女正から「大友家の由緒」をもって丁重な進物を受けるほどの「御西御前・宗麟の娘」は、当時の長崎に「長女ジュスタ」以外にはあり得ない、との結論に至った。
 加えて、これを後押しする出来事があった。すなわち2017年11月、ジュスタのご子孫(長崎市出身、広島市在住)にお会いし、桑姫は宗麟の長女ジュスタであると伝えたところ、霊界からジュスタ本人が現れて「その通りじゃ」と証言したことである(註)。しかし、この種の霊的現象は日本の歴史学においては取り扱わないので、本文ではこれを省いた。

 結論として、「桑姫=大友宗麟の長女ジュスタ」に至ったいま、ジュスタと同年に昇天した「マグダレナ清田」をそれとする前稿は、訂正もしくは廃棄しなければならないが、今振り返ってみるとき、前稿を踏まえなければこの度の結論もなかったことであり、そのまま残すこととした。読者は、その旨をご理解され、原稿の日付けを確認して読まれることをお勧めしたい。2017/12/12 記。

…同家には、キリシタンにまつわる伝承秘話がある。これは史実で確認することも可能であるので、後日、機会があれば紹介したい。
 

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